岩手県大船渡「ちょっぴりボランティア」記(2)

三陸鉄道南リアス線吉浜駅

三陸鉄道南リアス線吉浜駅

明治29年の津波による遭難者慰霊碑

明治29年の津波による遭難者慰霊碑

越喜来海岸の施設資料館「潮目」

越喜来海岸の施設資料館「潮目」

綱もに来た時間で止まっている時計

綱もに来た時間で止まっている時計

みつかったグランドピアノの一部

みつかったグランドピアノの一部

談話室でお茶のみ話

談話室でお茶のみ話

越喜来の“ど根性ポプラ”

越喜来の“ど根性ポプラ”

7月22日、「もっとみてほしいところがあります」
 曇りがちで、上着が要るくらいの陽気でした。今日は午後から仮設住宅内の「談話室」で「お茶っこ」をするのですが、山田さんは「午前中被災跡を見て回りましょう」と提案、「釜石まで行ければいいが」と時間を計っているようす。どこへでも、と車に乗せていただきました。
  ここから私の記憶はアヤシクなってきます。トンネルをいくつも抜け、「ここまで津波」という標識をみながら行きついた先はもう釜石市でした。「ここで見ておいてほしいのはこわれた堤防です」と山田さん。唐丹(とうに)町の海岸でした。長く続く巨大な堤防があっという間に津波に乗り越えられた跡です。皮肉にも堤防ができたときつくられた「波を砕き 郷を護る」と刻んだ石碑(当時の知事の名入り)だけが高台にあって無傷でした。
 引き返して大船渡に。ここで元市議会議員だった田中さんのお宅を訪問、地域の様子を伺いました。「この先の吉浜地区は1896(明治29)年と1933(昭和8)年の2回大津波に会っています。その教訓から全地区あげて高台に移転、今回の津波では直接一人の犠牲も出なかったところです」とのこと、明治29年の津波の犠牲者を悼む石碑が立っている神社を訪ねました。
その途中田中さんから「三陸鉄道の吉浜駅が今ピンクに染まっていますよ」と聞かされた三陸鉄道南リアス線の吉浜駅に寄りました。この春ようやく一部開通した吉浜駅は、東北地方の震災復興を支援する「キット、ずっとプロジェクト」の肝いりで、壁一面桜の花びらが描かれ、線路にまたがる跨線橋も桜の花だらけ?でした。「きっぴん」という愛称を持つ地域の駅舎に寄せる復興の思いが「ピンクの駅舎」だったのです。駅舎の中には被災の様子も展示してありました。

「越喜来(おきらい)」「唐丹(とうに)」「花露辺(けろべ)」…
 そこから、今度は大船渡市三陸町越喜来の海岸です。車中で山田夫妻が「あれ、まだあるかね」「春に来たときはあったけど」と問答、わたしに「あれ」を見せようと思っておられるらしい。
行ってみてわかりました。海岸は今、かなりきれいになっています(ということは何もなくなっているということ)。当時海のすぐ近くにあった越喜来小学校も被災、しばらくがらんどうの校舎が残されていたそうですが、今は撤去されています。しかし山田さんたちの言う「あれ」とは、被災した学校から出た「ガレキ」(と言っては申し訳ない「遺品」の一部)を、海端に建てたバラックに保存してある「私設資料館」でした。地域の建築屋さんがガレキの中から木材を集めて建て、展示したのだそうです。津波の来た時間で止まっている掛け時計、グランドピアノの一部、横倒しになった小学校の門柱・・・。そのわきにぐにゃりと曲がった階段の一部も展示してあります。

 山田さんの説明によると、これは校舎の2階から直接その道路に出られる外階段だったそうです。「あの時、子どもたちははじめ上の階に逃げたけれど、すぐに危ないというので、この階段で外へ飛び出し、一目散に坂の上の三陸駅のホームまで逃げました。津波は駅のホームのすぐ下まで来たそうですが、子どもたちも学校に避難していた住民も全員無事だったそうです。この外階段がなかったら、逃げおおせていたかどうか、というくらい間一髪だったようですよ」。
 そしてそこから見える海岸に一本の木がそびえていました。陸前高田の「奇跡の一本松」は、元の松原が美しかっただけに多くの人に知られるようになりましたが、これはなんと越喜来の「ど根性ポプラ」と呼ばれているそうです。こっちは生きいきと葉を茂らせていました。
 それにしても「唐丹」「越喜来」と、不思議な地名が続きます。「花露辺」という美しい地名もありました。アイヌ語を思わせる地名です。そういえば7月初めに訪ねた宮城県の涌谷(わくたに)という町の名も、史料館には出ていませんでしたが駅には、「アイヌ語のワッカ=水が涌くという意味から」と由来の説明がありました。

やっと仮設の「お茶っこ」に
市内に戻って「3人で2人前」を食べるのがやっと、という大盛りのラーメンでお昼をすませ、午後仮設住宅に行きました。
ここも山田夫妻はすでに何回も来ているのです。場所は大船渡市猪川町轆轤石(ろくろいし)の猪川小学校校庭に建設された仮設住宅約50戸の一角にある談話室というプレハブの建物です。大船渡市は仮設住宅ごとにこういった「集会所」を設置、そこに行政として「支援員」を配置して誰でも訪ねてこられるようにしてあるのだそうです。「どの自治体でもやっているというのではないと思いますよ」とは山田さんの説明でした。なるほど集会所をつくるのも大変ですが、そこが無人では利用しようという気にならない。ここの支援員さんは2人いて、誰にでも明るくふるまう気持ちのいい方でした。ニュースなども発行しているようでした

校舎は少し高くなったところにあり、子どもたちがお掃除したり、歌ったりしているのが見えました。校庭が使えなくなって子どもたちも不便しているでしょうが、時間が来て仮設のわきをランドセルを背負って帰る子どもたちは屈託なく、そんな声が聞こえるのも、もしかすると暮らしている実感になるかも、と思いました。
さて小雨がぱらつく中を、人がだんだん集まってきます。女性が多く、杖をついたり車で送られたりしてくるのです。「若い方がなかなか寄ってくる余裕がないのでね」と支援員さん。「それと男性の方がなかなか出ていらっしゃらないのが気がかりで」とも。でもみなさん知り合いでおしゃべりに花が咲き、山田さんのお点前に雰囲気が和みました。お湯を沸かしたりお茶配りでもしようとついてきたのに、支援員さんが全部やってくださるので“失業”。でもそのうちになんとなく話の輪に入り、相手の話に感心したり笑ったり、あっというまに時間が過ぎました。だれもわたしに「何者?」と詮索がましい目を向ける人はいません。「東京から来ました」とあいさつしただけでした。
つまり今日の「仕事」はこれでおしまい。でも不思議なほど違和感がなく、わたしもこの仮設にいて挨拶してもおかしくないような気がしました。

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