田中英二さんが大船渡に住み着いたワケ―大船渡へボランティアに その5  

不屈丸の船長さんと田中さん(左)

不屈丸の船長さんと田中さん(左)

画像  田中英二さん、君代さん夫妻は、定年退職後大船渡に住み着いた方です。君代さんは福島出身ですが、英二さんは岐阜県出身の国鉄労働者でした。1987年4月に国鉄が分割民営化され「JR」になったとき、大勢の労働者が解雇されました。「国鉄清算事業団」で就職あっせんするという触れ込みでしたが、実際は民営化に反対した労働組合の活動家たちを排除するものだったことは有名です。田中さんもJR北海道に採用を拒否され、清算事業団に入れられた一人でした。その後、初めから定員割れで発足していたJR東日本で再募集があり、たたかうならどこも同じとJR東日本で働くことに。横浜で21年働き、2008年定年退職しました。そのとき大船渡の吉浜に移住してきたのです。

  小柄で細身の田中さんからは想像し難いのですが、本当は若い時から登山で鍛えた山男でした。国体の山岳競技選手になって岩手で山登りをした時、地元の方たちが暖かく迎えてくれたことが田中さんと岩手を結びつけるきっかけだったそうです。「岩手大好き人間になったのですよ」と笑う田中さん。その後退職後の住まいを探して三陸海岸に惹かれ、縁あって吉浜海岸の民宿に泊まったら、「磯釣りにはまり込んでいたからこんどは海も好きになってしまった」のだそうです。吉浜は地元では「キッピン」と呼ばれ、明治以来何回も津波に遭った土地で、住民がこぞって高台に移住、今回の被害を最小限度に食い止めたところでした。

  海辺を歩いていて土地の漁師さんに出会い、しばらく言葉を交わすうちに「船に乗せてあげよう」と言われ、「ふつう、漁師は素人を乗せたがらないと聞いていたので、びっくり」したと田中さんは書いています。おまけにそこで獲れたてのホタテを食べさせてもらい、その甘さと海水の塩味の程よさに感動、「いっぺんに吉浜が好きになった」そうです。その後何度も訪れ、「地区のひとたちはおおらかで親切」「変化に富んだ海岸と透きとおる海」に魅せられた夫妻は、「幸運にも畑の一部を分けてもらえることになり」、まっしぐらにここに住み着くことにしたといいます。

   田中さんの穏やかで誠実な人柄は、すぐに地域の信頼を得ることになりました。何しろお世話になった漁師さんの船に乗せてもらって漁の体験を重ね、「漁師見習い」を志願した田中さんです。2010年には吉浜の扇洞公民館長を頼まれ、その年の11月に思いがけず大船渡の市議会議員になってしまいました。所属は日本共産党です。「実は補欠選挙だったのですよ。いろいろ事情があって市長選に出る議員が前日まで辞職せず、補欠選挙の枠が2名になったのが立候補締め切りの前日で、すでに立候補準備をしていた2人以外に出る人がなく、それで無投票当選したわけです」と謙遜しますが、議員になってから4か月後「3.11」の大津波に直面したとき、田中さんに迷いはありませんでした。幸い高台に建てた田中さんのお宅は無事でしたが、獅子奮迅の勢いで救援活動をしたことは、その年の秋からボランティア活動に参加した山田さん夫妻が見ています。山田さんが言うには、「毎日救援物資が届くでしょう。なかにはいろいろなものが詰め込まれている段ボール箱もあって、有難いけれどそれを仕分けて被災者の手に渡すまでがたいへん。毎晩へとへとになりました。でも田中さんはそれだけでなく、物資を送ってくれた一人ひとり全部にお礼状を出したのですよ」。その数およそ300通。田中さんに聞くと、被災地の様子も入れて毎日5通6通と書いたそうです。

 わたしも覚えがありますが、救援物資を送るほうは礼状など来るとは思っていないでしょう。それなのに、田中さんは毎晩そうしていたというのです。山田さんは「ぼくは、田中さんにほれ込んでしまった」と力をこめて言いました。

  そういえば、私も知りあって間もなく、「らいてうの家」を運営していると話したことがあります。大船渡から見ればはるかに遠い上田ですが、そのあとすぐに夫妻の名前で「らいてうの家に」とカンパが届きました。「国鉄時代に長野で働いていて、1年間小諸の現場で仕事をしたことがあるので、上田に親近感があります」と書き添えてありました。お金がなくて四苦八苦しているらいてうの家を思いやってくださったことに、わたしも感動してしまいました。

 そして今回の「わんさかワカメ」の物語です。田中さん夫妻がほんとうに三陸の「とれたてワカメ」のおいしさを味わってもらおうと、ただそれだけでワカメを送ってくださったことが、よくわかりました。夫が「どんぶりいっぱい食べた」と報告したら、喜んでくださいました。

   残念なことに2012年4月の市議選では田中さんの再選は成りませんでした。補欠選挙で当選しても、本選挙では難しい。でも、田中さんはあきらめていません。津波で大きな被害を受けた大船渡のまちには、まだ仮設住まいの方たちも大勢います。復興住宅の建設も、消費税増税直前の需要や東京オリンピックを当て込んだ建設ブームのあおりで、資材や手間賃が高騰しています。そのほかの復興事業も、自治体が入札をかけても「その価格では」と不調に終わるケースが続出しているそうです。時間だけがどんどん過ぎて行って、人びとが自分の生活を取り戻せないまま、震災と津波のことは忘れられていくのでしょうか。今回訪問した轆轤石の仮設住宅で、私の隣にいた方が「子どもたちを見ていると、津波のこと、いつまで覚えているかなって思うことがあるのよね」とつぶやいたのを忘れられません。

 田中さんが2013年7月に書いた文章は、「(津波から)2年半、人は営み続け、自然に立ち向かっている。ここは私の理想の地だ。思い入れた地だ。たじろぐことは今後もあるが、誠意と努力をつみ重ね、土地の人と共に歩んでゆくことにかわりはない」と結ばれていました(大船渡老人クラブ発行『おおふなと昔がたり』より。この冊子は毎年発行、この号は津波特集だったそうです)。

 ほんとうの復興とは何か。田中さんがするべきこと、できることが、この地にはたくさんあると思います。政党政派を超えて「人間が人間として生きるために」たたかってくださると思うから。このブログを読んでくださった方の中から、田中さんを応援する方が出ることを期待します。ちなみに大船渡市議選は2016年4月です。

 

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