もう一度「想像力」について―川田忠明『それぞれの「戦争論」』にみる「戦争を想像する」こと 

この本は自前で買ったから、あわてて読まなくてもいいのですが、3月に「想像力としての戦争体験」というテーマで話すことになっているので、勉強中です。2004年刊行ですからイラク戦争まではフォローされていますが、この10年間に拡大したシリア空爆やガザ空爆、「IS」によるテロ等々は出てきません。しかしそれは本書の「瑕疵」にはならない。なぜならこの本は、自身も戦後生まれである著者が「はじめに」で述べているように、「私がこの本で試みたのは、とりわけ若い世代の人々に、戦争を議論するための知識ではなく、それを想像するきっかけを提供することである」からです。川田さんは「戦争について語るならば、その当事者になるとはどういうことか」と問い、「『他人の死』を論ずるものは、まず『自らの死』を思い浮かべるべきではないのか」と言っています。「戦争を想像する」とは、そういう視点に立つということなのです。「どんなメディアもこれら(戦争)のすべてを再現することはできない。だが、人間には、それらを想像することができる。「『自分の見ているものは、これがすべてではない』―そのことを知るならば、『見えないもの』へのイマジネーションが働き出す」と川田さんは書いています。

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川田忠明『それぞれの「戦争論」』     唯学書房 2004

ここでは、1937年の南京虐殺、942年以降のホロコースト、1945年の沖縄戦、1945年の広島・長崎、そして第二次大戦後の「イスラエルとパレスチナの紛争」とイラク戦争が取り上げられ、それぞれの「戦争」の実態とともにその時現場にいた人びと―被害者だけでなくジャーナリストや空爆したパイロットなどもふくむ―の証言が付記されています。本書の副題「そこにいた人たち」が示すように、その視点は徹底的に「戦争は人間に対して何をするか」―「戦争で人を殺す」とはどういうことか、ということです。その記述を経て、川田さんは「戦争を体験していない」ものが「決して心地よいものではない」殺戮の現場を想像することの意味を「人間として生きる営みは、この人間の殺戮という行為への嫌悪感や拒否感を忘れたところには存在しないと信じている」(「おわりに」より)とむすんでいます。

わたしは、1990年代に小さな女子短大の教師を10年間だけつとめたことがあります。55歳になって初めて得た仕事でした。学生は1970年代から80年代生まれ、わたしの娘というより孫世代に近い少女たちでした。一般教養(今はもうそういう科目はなくなっています)担当でゼミも卒論指導の機会もなかったわたしが、「専門教育のジャマ」といわれながら「歴史の現場に立つ」ことをめざして学生と広島や沖縄、韓国のナヌムの家、そして「これが最後」と教授会を説き伏せて定年の前年にアウシュビッツを訪ね、「戦争なんて関係ない」と思っていた若い世代に「経験していないけれども忘れてはいけない」ことを考えてもらったことを思い出しました。20年近く前にナヌムの家を訪問した時の学生(今はりっぱな社会人)からこの正月手紙が来て、「慰安婦問題の不可逆的解決」をうたう報道に「あの時のオモニたちは今も元気でいるでしょうか」とありました。残念ながら、その時出会った「元慰安婦」たちの多くは日本政府からの謝罪の言葉も聞くことなく世を去っています。でも彼女のように「忘れない」世代がいることを希望のあかしにしたいと思いました。

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