支援員さんたちの日々を記録に残そう―9回目の大船渡 その4

「大事件」だったヒロミさんは、幸い翌日にはいくらか回復しましたが、大事をとって26,27日の土日はお休みすることに。わたしは26日午前中の「お茶っこ」に参加して、午後気仙沼まで車で送ってもらい、帰京する予定でしたが、早めに盛駅から問題の「BRTバス」で気仙沼まで行くことに。病人を置いて帰るのは気がかりですが、わたしがいると山田ダンナが車でつれて歩かなくてはならないので「足手まとい」になるのです。駅できっぷを買いなおしたら時刻表は「改善」されたらしく、気仙沼で一ノ関行きの列車への接続時間はゆとりがとってありました。JRは、この鉄道の復旧を放棄してしまい、バス路線が固定化することになり、周辺自治体も「仕方がない」とあきらめたそうです。わたしのようにたまに来る人間はいいが、住民の方がたには負担だろうなあ、と思いましたね。

でも、帰る前に前日轆轤石(ろくろいし)の仮設でみなさんとお話したことを書いておきたい。一つは前回紹介したとおり、クロスステッチの作品で全国コンクールに見事入賞されたかたの話題でしたが、それはもう書きました。そのお知らせを持って見えたのは自称「市民ボランティア」を名乗られる水野さんという男性でしたが、「せっかくだからお抹茶はないけれどお菓子をどうぞ」と話の輪に入っていただきました。そこで「5年間も暮らした仮設がなくなるのはほんとはうれしいに違いないけれど、なんだかさみしいね」と言いだしてみたら、みなさんも「そうだそうだ」と相槌を打ち、「新しい家に移っても、ここでお茶っこするってば、きたくなるもんね」と、ひとしきり話に花が咲きました。ここからもう一つの話題が出たのです。

「学校や保育園なら卒業式とか記念文集とかあるけれど、仮設にはそういうのってないのかしら」「昔、タイムカプセルってやらなかった?10年経ったら開けてみようとかさ」「わたしら、10年も待てないよね。そのまえにあの世へいっちゃうかもしれないもん」などと大笑いしていると、聞いていた水野さんがマジメな顔で「いやいや、仮設住宅でどんなことがあったか、大船渡市が支援員を常駐させてきたことがどんな役にたったか、これはちゃんと記録にしておいた方がいいと思いますぞ」とおっしゃってくださったのです。

百万の味方とはこのこと、とわたしも身を乗り出しました。前日ここを訪ねた時支援員さんと話したことだったからです。 その時出た話というのは、

①仮設は間もなく「撤収」され(轆轤石は6月予定)、住民はあちこちへばらばらになって行くこと。

②支援員も最後まで残る仮設と、新しい復興住宅に配置されるけれど、人数は減るだろう。

③支援員の活動記録というのは、公式にはみんなの目に触れるかたちで残ることはないと思う。

③もともと仮設の時も支援員の仕事は入居者の手助けに徹することで、こっちから先に立って事業をするとかみんなを引っ張っていく立場ではなかった。いうなれば「縁の下の力持ち」に徹するよう言われてきた。

④復興住宅になったら、なおのこと支援員は「住民の自立を促す」立場だと言われた。今、国の政策は「自立第一」で、公営の住宅に移転した後は「おんぶにだっこ」みたいな世話をするのではなく、住民が自主的にコミュニティをつくっていく活動をサポートするのが支援員の仕事。支援員をずっと置くつもりはないということだと思う。

といったことだったような気がします。

わたしは「ははあ」と思いました。というのは、歩行不自由になった一人暮らしの姉の「老老介護」をしてみて感じたことと共通する「国の自立政策」を感じてしまったからです。姉も昨年介護保険の「要支援1」に認定されましたが、今年状態が悪化したにもかかわらず認定は据え置き、ケアマネさんの話では4月から制度が変わったこともあって、できれば認定を外して「自立」にしたいというのが行政の意向のようだということでした。さすがに姉もフンガイし、「要支援1」は維持されましたが、今来てくださっているヘルパーさんを「ボランティア」に置き換えたいというのが行政の方針だそうです。しかし、今姉は「生き残り」のわたしと80歳になる弟が駆けつけなければ病院へ通院することもできず、買いものも日用品はヘルパーさんにお願いできますが、姉の好みのパンやときには「お刺身を食べたい」などと言う要望には対応できません。元気な時の姉は時どき築地の場外市場に出かけてさかなやしらす干しなどを買い、帰りにお寿司を食べるのが数少ない楽しみでしたが、今はそれもできないのです。「自立」の名のもとに血縁者や地域の善意による「ボランティア」を奨励するというのは、けっきょく介護保険の経費を倹約し、本人がしたいことを我慢するほかないのでしょうか。だから国の言う「自立」はアヤシイと思っていたのです。支援員さんたちが「自立」をうるさく言われるのも、そういう路線ではないかと思った次第です。

「だって地域コミュニティをつくると言っても、言い出しっぺは誰がするの?結局そういう時女性が先に言い出すと<出しゃばり>という目で見られるじゃん。そうすると昔の町内会みたいに「エライ」人たちがやるのかしら。そうなると地域のこまごました話はすくいあげてもらえるかしらね」―住民が自主的に地域コミュニティをつくり出すことは理想ですが、それをほんとうに男女平等に、くらしの隅々まで目の届く連携にしていくためには、お茶っこしたりおしゃべりしたりという活動がこれからも必要なのではないか、支援員さんたちはそういう日々をずっと見てきたのだから、その記憶をかたちにしてのこしておけば、きっと地域コミュニティのありかたについても示唆が得られると思うけどな―。

すると集まった方のなかから「大船渡で仮設の談話室に支援員さんを配置したことって、とっても大事だったと思うよ。この経験がこれからの災害対策にも生きると思う。残してほしいよね」という声が出ました。支援員さんは、半分嬉しそうに、でも半分は困ったような顔をして「でもねえ、そういうことは自分からは言いにくいんだよね」という返事。「仮設に住んだ方たちから一人でもそういう声が出れば、役所のほうでも考えるかもれしないけれど」と言います。すると、ここを出て移転したけれど、なつかしいからとお茶っこに来てくださっている方が、「じゃあ、手をあげればいいかい。そんなら私が手をあげるよ」ですって。皆で拍手かっさいし、「じゃあ、これで決まりだ」とにぎやかになりました。支援員さんはますます困ったように「でも、文章書くのは苦手だもん」としかめっ面。「じゃあテープにとって書き起こせば」と迫るみなさん。わたしも思わず、「あのー、わたしは耳も遠いし、ことばがわからないのでお話が聞き取れないところもあるのですが、もしテープにとって起こしていただければ、それを文章としてまとめることぐらいならお手伝いできるかもしれませんから」と手をあげてしまいました。水野さんが、「支援員のなかから3人でも5人でも記録を残したいというひとが出たらやれると思うよ。支援員はそれも仕事と思わなくちゃ」とズバリ。これをまとめにして、「支援員の活動記録を」という話は一段落しました。山田さんのお茶がないのは残念でしたが、みなさん賑やかに話しをされ、時間も忘れるほどでした。次に伺うときはここももうなくなっているかもしれないと思うと感無量でしが。

これをどうしたら実現できるでしょうか。帰宅後、わたしは自治体政策に詳しい知人にメールを出して相談しました。そのやりとりで分かったことは、いったいこの「支援員」制度がどういう資格で実施されているかといった初歩的なことも知らなかったという反省です。いま勉強中。6月に轆轤石の仮設が「撤収」されるまえに支援員さんに声をかけてみたいと思っています。

帰りは予定通り、BRTバスで気仙海へ出て、そこから一ノ関―新幹線で東京へ。バスは陸前高田を通ります。「奇跡の一本松」は、林立するクレーン車の陰でなんだか元気なくみえました。5年経った現地はまだごらんのとおり、巨大な防潮堤だけがクローズアップ。車窓からみた春の雲だけが季節を感じさせてくれました。

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これから土盛り工事だと思う。

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巨大な防潮堤が延々と

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気仙沼―一ノ関の車窓から見た春の雲

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