『チェルノブイリの祈り』を読みました。 

4月26日は、チェルノブイリの原発事故から30年でした。その日のために、遅ればせながらスベトラーナ・アレクシェービッチ(2015年ノーベル文学賞受賞)の『チェルノブイリの祈り―未来の物語』(2011年 岩波現代文庫)を読みました。26日中に感想を書こうと思ったのですが、昨日は校正に出かけた後姉のところに寄り、買いものをして帰っただけなのにくたびれて夜9時ごろうたた寝してしまいました(つれあいが夜中に心臓発作を起こす心配がなくなったので安心したらしい)。今は明け方の午前5時です。これもおくればせながら、一言だけ書きます。

本の帯に「原発事故に遭遇した人々の悲しみと衝撃を伝える―『ドキュメンタリー文学の最高の傑作』(広河隆一)」とあります。冒頭の消防士ワシーリイ・イグナチェンコ(彼は事故のとき「シャツ一枚のまま出勤」して原発の消火に当たり、あっというまに放射能に侵されて亡くなってしまった)の妻リュドミ-ラ・イグナチェンコによる「孤独な人間の声」からして、その言葉がおざなりなものではないことがわかります。広河さんは巻末の「解説」でリュドミーラの語りについて、放射能が「もっとも悲惨な形で人間を死に向かわせる」ことを余すところなく語っていると同時に「驚いたことに、この過程で、リュドミーラの話す言葉、アレクシェービッチの書き記した言葉は光を放つ。もっとも非人間的な時間の描写で見えてくるのが驚くべきことに人間の尊厳なのだ」と述べています。自分もリュドミーラに会ったことがあるけれど自分は事実を書きとめたにすぎなかった、「アレクシェービッチだからなし得た」のだと率直に述べています。「言葉とはこうしたことをなしとげるために存在しているのか、と思うばかりだ」と。

わたしも、それ以上のことをつけ加える「言葉」を知りません。チェルノブイリについて、事故の実態や記録、無数の証言やルポ、映像などをわたしたちは見てきました。それらは「悲惨な事故」の事実を伝え、かつ当時のソ連政府が如何に真実を隠ぺいしたかを明らかにする資料の数々でした。わたしはそのほんの一部しか見たり読んだりしていない。もっと事実を知るべきだ、と思います。しかし、「悲惨な事実」が語られるときそこから立ちのぼってくる「人間の尊厳」の輝きを、わたしたちはほんとうに読み取ってきただろうか、アレクシェービッチのようなまなざしと言葉で見つめて来ただろうか、と思わせられる1冊でした。現場にいないものが「言葉の力」で現実を追体験し、共感し、人間が生きることへの希望と勇気を獲得していく、そのような「言葉」を自分はもっているだろうか?今年平塚らいてう生誕130年にあたってわたしたち平塚らいてうの会は、11月19日に東京でノーマ・フィールドさんと青井未帆さんをお招きし、「それぞれの言葉で語る平和」をテーマにシンポジウムを開きますが、そこに込めた思いも、じつは「ボケてる」とか「手あかがついた」などと揶揄される「ヘイワ」ではなく、自分の魂の内奥から「平和」を考えたいと思ったからです。そのヒントになったのがノーマ・フィールドさんの「言葉」だったのですが、それは今度紹介します。

もう一つ、このチェルノブイリ事故は1986年旧ソ連時代に起こり、その後ソ連邦は解体しました。アレクシェービッチはその過程を踏まえて多くの兵士たちや政府機関にいた人びと、原子力関係の研究所にいた研究者や技術者などにもインタビューしています。彼ら彼女らが何も知らされず、知ったことについてはかん口令が敷かれてきたことも、したがって一般庶民には全く情報が提供されなかったことも語られています。それを旧ソ連のせいにするだけでいいのか?「3,11」の福島第一原発事故から後も、わたしたちは同じような状況に置かれてきたのではないか?という疑問です。汚染水がとめどもなく流れだし、汚染土は黒い袋に入れられたまま野積みされているというのに。今も「帰還できない」放射能汚染地があるのに。甲状腺ガンの子どもが増えているというのに。わたしたちはどれだけの真実を知らされているというのでしょうか。熊本地震で真っ先に心配したのは、活断層が延びた先には鹿児島の川内原発と愛媛の伊方原発が稼働中だということです。しかも地震は頻発し、当分どこで激震が起こるかは予知できないと関係者は認めているのです。「原発止めて」という住民の声に耳を貸さない電力会社と政府は、事故が起こったら福島と同じように「想定外」で済ませるのでしょうか。「フクシマ」が提起した課題は何だったのか。よく考えると自分でさえ何も知らないのではないかとがく然とします。それはこの本を読むまでもないことではありますが、しかしこの本はあらためてそのことを考えさせるうえで大きなショックでした。日本は報道の自由度がとみに低下した国と指摘されています。NHK会長が「報道は公式発表にもとづくべき」と戦時中の「大本営発表」みたいなことをいうのですからね。今は「疑う精神」こそ必要なのだ、と痛感しました。

アレクシェービッチに敬意を表し、今日は彼女の『戦場は女の顔をしていない』(岩波現代文庫)を買いました。いつ読み終われるかわかりませんが―。

『チェルノブイリの祈り』

『チェルノブイリの祈り』

 

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