「電通に労働局と労基署が立ち入り調査」―「過労自殺」した女性社員に何をもって応答すればいいか 

14日午後、東京労働局と三田労働基準監督署が電通に「労働基準法違反の疑い」で抜き打ち調査に入ったことが報道されました。すでに報道されているように、入社一年目の女性社員が長時間労働を強いられて自殺し、三田労基署は労災認定をしました。自殺直前の一か月の残業時間が105時間(実際はもっと長時間)と認定されたそうです。電通では、1991年にも入社2年目の男性社員がつきに147時間も残業させられ(これって一日何時間働くと思う?)、長時間労働が原因で自殺、遺族が起こした裁判で最高裁判決は会社側の責任を認定しました。しかしその経験は生かされず、25年後に悲劇が繰り返されたのです。今回の立ち入り調査は、若い労働者のいのちを守れなかったという点では遅すぎたかもしれませんが、「刑事責任を問うことになる可能性がある」とも報道され、一歩前進です。東京労働局の「過重労働撲滅対策班」(こういうチームがあるのです。2015年発足)の誠意ある対応をせつに望みます。

今回のできごとについて、二つの感想があります。 一つは、この問題をめぐって現われたとんでもない発言です。朝日新聞デジタル10月11日付によれば以下の通り。

<「残業100時間で過労死は情けない」とするコメントを武蔵野大学(東京)の教授がインターネットのニュースサイトに投稿したことについて、同大学が10日、謝罪した。7日に電通の女性新入社員の過労自殺のニュースが配信された時間帯の投稿で、ネット上では「炎上」していた。

投稿したのは、グローバルビジネス学科の長谷川秀夫教授。東芝で財務畑を歩み、ニトリなどの役員を歴任した後、昨年から同大教授を務める。
武蔵野大などによると、長谷川教授は7日夜、「過労死等防止対策白書」の政府発表を受けてニュースサイトにコメントを投稿。「月当たり残業時間が100時間を越えたくらいで過労死するのは情けない」「自分が請け負った仕事をプロとして完遂するという強い意識があれば、残業時間など関係ない」などと記した。
電通社員の過労自殺のニュースが配信された時間帯に投稿されたもので、コメントがネット上に拡散。「こういう人たちが労災被害者を生み出している」「死者にむち打つ発言だ」などと批判が広がった。長谷川教授は8日に投稿を削除し、「つらい長時間労働を乗り切らないと会社が危なくなる自分の過去の経験のみで判断した」などと釈明する謝罪コメントを改めて投稿した。
武蔵野大は10日、公式ホームページに「誠に遺憾であり、残念」などとする謝罪コメントを西本照真学長名で掲載。「不快感を覚える方がいるのは当然」とし、長谷川教授の処分を検討している。(千葉卓朗)>

こういう手合いがいるから、日本の企業で「過労死」や「過労自殺」がなくならないのだということを、本人が自覚していないだけでなく、そういう人間を教授に採用する大学があること自体「情けない」。批判殺到に出したご本人の釈明が「長時間労働を乗り切らないと会社が危なくなるという自分の経験から書いた」というこれまたとんでもない発言。こんな輩に就職指導された学生は、「会社のために死ぬまで働く」ことを当然と刷り込まれるのでしょうか。武蔵野大学は自らの不明を恥じるべきだと思う。

もう一つ、自殺した女性社員が最後まで書き続けた自己洞察の言葉です。友人の高野哲郎さんは、わたしに宛てたメールで「連日の長時間労働、目標とそれに対する成果とを厳しく追及される毎日。自殺した若い女性社員は、そのなかでおのれを失わなかったのではないか。彼女は「寝たい以外の感情を失った」「こんなストレスフルな毎日を乗り越えた先に何が残るんだろうか」と訴えていたと報じられている。そうした状況に適応させられてしまった、すなわち洗脳されてしまった同僚社員たちは、思考力を失い、感覚も鈍磨してしまったのではないか。それが、この企業に「適応」することなのではなかったか。いやもともとこの苛酷な労働を強いる目的は、人間性の破壊にあるのではないか。人間性を破壊して資本の命ずるままに働き続ける、人間を資本の奴隷にしたてあげることが目的で、意識的に考案設計実行されているのではないか」と書き送ってきました。

ネットの情報によれば、SNSなどに彼女の遺したことばには「生きるために働いているのか、働くために生きているのかわからなくなってからが人生」「仕事は楽しいバイトや遊びと違って一生続く「労働」であり、合わなかった場合は精神や体力が毎日摩耗していく可能性があること」等とありました。彼女はその現実のなかで「洗脳」されることを拒み、それゆえ生き続けることができなかったのではないか。彼女の死は、ただ長時間労働に疲れ果てただけでなく、まさに某教授が口走ったように企業に順応して人間の尊厳を奪いとられることに耐えられなかった結果ではないか、と思わずにはいられませんでした。

高野さんは教育学者で長く高校の教師をされたかたです。彼の文章の一部をご本人の了解を得てを得て再録します。<1992年の「新学力観」なるでたらめな教育破壊を強行した後、国家権力は「生きる力」なるお題目を掲げた。そのとき私が注目したのは15期中教審第一次答申(2006年)の奇怪な文章だった。「生きる力」と言う語がこれでもかこれでもかと繰り返される。ある部分では見開き二頁一五〇〇字ほどの間に「生きる力」がなんと十八回も繰り返されていた。およそ8%が「生きる力」なる語なのである。これは思考を支配する刷り込みという技術の応用である。(なお、通産省は一九九二年、河合隼雄座長の「感性ビジネス研究会」という審議会のような組織を設置し、人間のこころを科学する研究等を始め、九四年には報告書を刊行した)。
昨年からはまた装いを変えて「アクティブ・ラーニング」と言い出している。この強要の実態も並大抵のことではない。純情な教師たちは目の色変えて「アクティブ・ラーニング」なるかけ声に追いまくられているような印象だ。
生きる力にせよ、アクティブ・ラーニングにせよ、おおくの教師たちがとっくの昔からやっていることだ。ただ、自主的に工夫するのと強制されるのとは労働の質においって企業において労働者が毎日12時過ぎまで働かされることと同じように論ずるわけにはいかない。
目標を管理され、具体的な「成果」を堪えず要求され続けるということ。連日長時間、ときに罵声を浴びせられながら要求されるということ、これらの行為はまさしく洗脳テクニックである。99%の国民を1%に隷属させるためのテクニックである。と私は思う>

このような「人間づくり」を推進する国と財界に立ち向かい、せめて洗脳」を拒否して「自分は人間だ」といえる途をひらくことが彼女の遺した叫びへの応答ではないか―。

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