2017福島ツアーの記 その3 なぜ「絶望」ではなく『希望の牧場』なのか?  

前回浪江訪問の時行けなかったので、行きたいと思っていました。『たぁくらたぁ』で「牛飼い」の吉沢さんが放射能に汚染された牛たちの「殺処分」を拒否して、住むなという指示にも同意しないで、原発から14キロの地点に住み、もう売ることもできなくなった牛たちを飼いつづけている手記を読んだから。吉沢さんは、その牛たちを連れて東京までデモに行ったこともあります。

たどり着いた入口でまず目を奪われたのは、「汚染した土」を詰め込んだフレコンバッグの山と、そこに書き込まれた怒りのメッセージでした。「決死救命 原発無念」別のところには「原発14㎞地点」「浪江町無念」とも。足元には「無念の死」を遂げた牛たちの頭の骨(頭蓋骨!)が。そこで吉沢さんの話を聞きました。

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希望の牧場入口で

福島第一原発から14km 地点の「無念」

牛たちは…

その言葉を再現するのは困難です。絵本を買いました。『希望の牧場』という絵本です。「売れない牛を生かしつづける。意味がないかな。バカみたいかな」とここに出てくる「牛飼い」は考え続けます。そして「オレ、牛飼いだからな」というのです。「弱った牛が死ぬたびに、ここには絶望しかないような気もする」と思い、「オレたちに意味はあるのか」と考える…。

吉沢さん

絵本『希望の牧場』

その日は猛烈な強風が吹き荒れ、立っていることもできないくらいでした。でも広々とした牧場に放たれた牛たちは一向に動じない。エサの干し草をひたすら食べ続けています。「この牧草は汚染されているんだよ。もうエサには使えない。それをタダでもらってきて食わせてる。運賃はかかるけどね」とこともなげに言う吉沢さん。そのエサ代も世話をする人手もカンパとボランティアで賄っているのです。いつまで続けられるだろうか。わたしは「ここで子牛は生まれるのですか」と聞いてしまいました。それは聞くべきではなかったかもしれない。吉沢さんは一瞬沈黙し、静かに首を振りました。その意味を説明してもらおうとは思いませんでした。牛が大きくなって肉牛として世に出て行き、子牛が繁殖して次の世代を担う、ということがここではもうできないのです。それはじつは「絶望」の世界ではないのか。絵本の「牛飼い」は、「希望なんてあるのかな」と問い、「一生考えぬいてやる」と言います。

モリモリ餌を食う牛たち

この広い大地で

わたしは、またしても魯迅の言葉を思い出しました。あの「絶望のむなしさは希望と同じだ」という一言です。わたしはほんとうに絶望を知ったものこそ希望を自分のものにできるのだというメッセージとして受け止めています。その希望とは何か。吉沢さんは、お別れするときわたしたちに「なんでこんなことしてるかって、いのちのためだよ」といいました。牛はやがて死に絶えるかもしれない。人間もいつまで生きているかわからない。けれども死んでいくいのちに希望をつなぐことによって、希望はうわべの言葉ではない魂のメッセージになるだろう、そう思える言葉でした。吉沢さん、有難う。

吉沢さん、ありがとう

 

牧場を出て、バスは請戸漁港を通って相馬の松川浦をめざしました。その途中で見たのは―。請戸小学校の津波が来た時間で止まったままの時計、墓石が倒れ散乱したままの共同墓地(新島さんの話ではすでに墓地は高台に移転し、そこに御霊をお迎えする儀式も済ませてあるのですが、共同墓地ということで役所が一挙に片づけるわけにはとてもいかないのだということでした)、そして浪江町民犠牲者の慰霊碑(両脇の黒い球は、太陽と月をかたどったのだそうです)…。海を臨む周りの土地が原野化していることもわかります。

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津波の来た時間で止まった時計。請戸小学校は今は無人。

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海に近い共同墓地は今も

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浪江町民慰霊碑 「何もなくなってしまった」土地の上に立つ

そして目を奪われたのは、延々と続く「汚染土」の仮置き場です。汚染した表土をはぎ取ってフレコンバッグという黒い袋(どうみてもビニル製のごみ袋)に詰め、保管してあるのです。その量が半端ではありません。なかには袋自体が変色し始めたものもあり、さらに覆いをかけてあります。いったいこれで放射能は閉じ込められているのでしょうか?新島さんはさらに「はがした表土の代わりに山を削って土を運んで入れているのですよ。でも山の土は痩せているからすぐに農作物は育たない。養生するのに時間がかかりますね。いつになったら土地が元通りになるか、わからない」と言いました。

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これが「汚染土」を詰めた袋の山

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看板がありました。「保管場所」

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覆いをかけてあるけど…

吉沢さんの牛たちが生きて餌を食っている牧場を「希望」という名で呼ぶことができても、この光景には希望がない。「死」の光景そのものだという気がしました。

最後にNPO野馬土の拠点にも立ち寄り、くたびれて松川浦の旅館にたどり着いたのが夕方6時過ぎ。3人一部屋の相部屋で一緒になった方たちとのおしゃべりは楽しかったのですが、それでもはやばやと寝てしまいました。

 

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