「長崎原爆乙女の会」の『原爆だより』発見のニュースに寄せて―「イギリスに被爆者の代表を送った」のは平塚らいてうです。 

毎日新聞2017年8月10日付に、「これまで散逸したと思われていた長崎原爆乙女の会の『原爆だより』全5号が発見されたというニュースが紹介されました。以下抜粋です。

<「原爆だより」の創刊号は55年7月20日付で、ガリ版刷りのB5判8ページ。「発刊のことば」として「私たち被爆者は、社会の片隅で小さくなりながらも、その日その日の生きづらさに喘(あえ)ぎながらも、十年間と言う永い月日をケロイドと共にたたかってまいりました」とつづった。

米国の水爆実験でマグロ漁船が「死の灰」を浴びた54年3月の第五福竜丸事件を機に、55年9月に原水爆禁止日本協議会が誕生するなど、当時、国内の平和運動は黎明(れいめい)期を迎えていた。創刊号にも実験を実施した米国への怒りや被ばくした船員への連帯を示す文章が散見され、事件が初期の平和運動に及ぼした影響の大きさがうかがえる。

創刊号は、55年春にイギリスなどを訪れ、海外の集会で初めて被爆体験を語った広島、長崎の被爆者の話を聞いたイギリス人からの手紙も紹介。また、著名な社会学者で上智大名誉教授の鶴見和子さん(2006年に88歳で死去)と渡辺さんの往復書簡も掲載され、鶴見さんは「あたしたちは、あなたの苦しんでいらっしゃることを、もっともっと、よくしらなければいけない」と記している。(引用終り。下線は引用者)>

わたしの目が点になったのは、下線部分です。1955年春、イギリスに被爆者の代表を送ったのはだれか。前年の1954年3月、ビキニ環礁でのアメリカの水爆実験によって日本の漁船が被ばくし、第五福竜丸の乗組員久保山愛吉さんが亡くなったのをきっかけに原水爆禁止運動が起り、1955年夏に第一回原水爆禁止世界大会が開かれるのですが、それにさきがけて海外で被爆者が直接訴えた「最初」の試みだったと言われます。日本からの参加者は同行した医師も含めて全員女性でした。それは国際民主婦人連盟のモニカ・フェルトンさんから日本の婦人団体連合会宛てに「被爆者の代表をイギリスへ」という要請が来たからです。

しかし、当時イギリスも核実験を計画中で、「原水爆禁止運動のため」などと言ったらイギリス政府は入国禁止、日本政府だって旅券を出してくれないという時代でした。当時婦団連の会長をしていた平塚らいてうは婦団連と相談のうえ、秘密のうちに「わたくし個人の責任で」人選したことにし、「目的を伏せて送り出すことにした」というのです。広島と長崎から一人ずつ、それに女性医師二人の代表団は、入国審査で「平和集会に出席しない」ことを約束させられたそうですが、入国してしまえばこっちのもの、彼女たちの訴えは各地で大きな反響を呼び、ロンドン北部の女性協同組合のメンバーが話を聞いて「核兵器廃絶地域委員会」を結成したという記録があるそうです。しかし日本の婦団連や平和運動団体の公的記録には残されていません。「秘密」だったのですからね。

じつはこの打ち明け話は、1971年にらいてうが亡くなってから刊行された自伝にちゃんと書かれているのです。でも、なぜかあまり注目されませんでした。わたしが婦団連の機関誌『婦人通信』にらいてうの連載をはじめてから自伝を読み直し、調べなおしたのです。このとき『婦人通信』の前身『婦団連ニュース』に渡英した被爆者の報告が載っていることを探し出してくれたのは編集担当の尾崎栄里子さんでした。連載を『満月の夜の森で』という本にまとめ自費出版した2012年、尾崎さんは病に倒れ不帰の人となりました。忘れ難い記憶です。そこへ『原爆だより』の記事が飛び込んできたのです。いつか読ませてもらえれば、と思っています。

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