「らいてうとアニミズム?」―苫小牧講演のレジュメから

これは、10月15日苫小牧市立図書館での講演レジュメです。じつは数千字もあり、これは今年中に書くことになっている「らいてう紹介ブックレット」の原稿に盛り込むはずの内容の概要みたいなものです。「会の公式見解(そういうものはないのですが)ではなくお前のらいてう論でいいから」と説き伏せられて引き受けたのですが、生誕130年記念事業だったはずが「太陽光発電問題」のおかげで書くことが出来ず、何とか「死ぬまでに」書かねばならぬと勝手に今年中に書くと決めて目下悪戦苦闘中。

というわけで、当日「本邦初公開」と宣伝したとおり、らいてうの家オープンから10年間に考えたこと、新しく発見された資料の読み解き、そして今、らいてうが「守り抜く覚悟がありますか?」と言い残して1971年に逝った、その守るべき「憲法九条」をジェンダーの視点からどうとらえるか、といった問題意識だけは「だれも知らない」らいてう論なのです。その一端は、「『青鞜』創刊100年」のときに『満月の夜の森で』という本にして自費出版しましたがもう絶版。らいてうの家オープンのときに出した『金いろの自画像―平塚らいてう ことばの花束』ももう品切れです。後は『平塚らいてうの会紀要』に書き続けていますが、それはほとんど読まれていない。その「積もる思い」を吐きだしたので、当日は時間が足りなくなり、でもするどい質疑が出てお話しした甲斐があったと自己満足している次第です。苫小牧のみなさんには失礼いたしました。呆れた方は飛ばしてください。以下引用。

 

いのち・母性・自然―平塚らいてうのメッセージを聴く―  2017年10月15日於苫小牧市立図書館米田佐代子 (女性史研究者・らいてうの家館長)

 はじめに―「ゴマじるこ」と「平和がいちばん」をつなぐもの

昨年のNHK朝ドラ「とと姉ちゃん」に登場する戦後のらいてうが「平和がいちばん」と発言したのはなぜでしょうか?しかも、『美しい暮しの手帖』に書いた文章は「陰陽の調和」という食べものの話でした。そこに出てくるゴマじるこがおいしそうだというので、次に書いたのが「ゴマじるこ」のつくり方の話です。NHK「グレーテルのかまど」(Eテレ)11月6日(月)午後10時~10時24分)が取り上げ、らいてうの家も紹介されますが、そのナゾを解くところから、「現在(いま)なぜ『らいてうか」について考えてみたいと思います。

1 らいてうは「過去の人」でしょうか?

昨年は「らいてう生誕130年」、2011年は『青鞜』創刊100年でしたが、「そんな昔の人を、なぜ今とりあげるのか?」という声が少なくありませんでした。そこには100年前のメディアがおもしろおかしく取り上げた「新しい女」のイメージが先行していたと思われます。戦後は平和運動の先頭に立ち、国際的に「母親大会」を呼びかけたことで知られていますが、「戦時中の産めよ殖やせよ政策に利用された」「戦争反対も言えなかったのに、戦後にわかに平和を唱えた」「女性の役割を<母親>に特化するのは性役割」などと批判されたこともあります。同時にらいてうを女性解放のリーダーとして「神格化」する見方も一面的です。らいてうは「無謬の人」ではありませんでした。むしろ間違いもおかしながら自己弁護せず、学習し、だれにも寄りかからないで自分の考えを紡ぎ出し、戦後「平和がいちばん」をつらぬいたのだと思います。

わたしの属する「NPO平塚らいてうの会」は、日本が再び「戦争する国」への道を歩こうとしている今こそ「らいてうさんの出番」だと考え「らいてうの家」をよりどころに活動しています。そこにはらいてうだけでなく、これまで刷り込まれた「女性像」から女性を解放するという視点があります。「まだ知らない」らいてうを知っていただければ幸いです。

2 挫折し、迷いつつ「わたしはわたし」を生きた生涯

「青春の彷徨」とも言われる若き日のらいてうは、何度も挫折し、「天女が地べたに叩き落されたような」絶望に直面します。しかし、その時支えになったのは「私の主人は私自身」という自覚でした。『青鞜』発刊から50年後の1961年に当時を振り返って、「新しい女」の非難攻撃のなかで「頼るものは自分ひとりの力と信念だけ、ただそれだけ、他にはなにもありません」と語っています。女性が夫や父親に頼るのではなく「自分で考え、自分の意志で行動する」こと、思ったことをどんどん出して行けば、きっと本物の自分が出てくる―「元始女性は太陽であった」の宣言は、制度や法律によるのではなく、女性自身のこうした「自己発見」へのよびかけだったのです。

「自分の目で現実と未来を見つめ」「思ったことはかならず実行」したらいてうの誤りや不十分さを指摘することは簡単です。しかし彼女は間違いを恐れず自分の途を歩き、しかも間違いや不十分さを知ったとき、それを取り返すために「古いキモノ」と決別することをためらいませんでした。今、わたしたちは「わたしはわたし」という選択をためらわずに選ぶことができるでしょうか。らいてうのメッセージを聴いてみたいと思います。

3 「いのちの自然」という発見

禅によって見性したらいてうは、「無限につづくいのち」を信じます。それは人間が海や山や川、草木に至るすべての自然を「いのちあるもの」として敬意を払い、「自然と人間の一体化」を本来の人間のあり方とみる精神につながっていました。これを「アニミズム」と呼ぶ人もいます。「迷信」とか「原始宗教」などといわれますが、そうではないと思います。

遠く江戸時代に男と女という字を並べて「ひと」と読ませた安藤昌益や、「神社の森伐採」を阻止した南方熊楠、足尾の鉱毒とたたかった田中正造、「遠野物語」を世に出した柳田國男、自然の生き物と対話した宮沢賢治なども、人間を自然の中に生きる存在としてみていました。それをらいてうは、「いのちを産む性」である「女性」として発見したのです。それは、現代の戦争(内戦や民族紛争も含めて)やフクシマ原発事故をはじめ「いのちの危機」に直面しているわたしたちへのメッセージではないでしょうか。

4 「自愛」から[他愛]への発展―「母性」と「いのちの平和」の発見

それは、奥村博史との恋にめざめ、法律によらない結婚を実行してからのらいてうにも受け継がれて行きました。望まない妊娠に迷い、しかし自分の意志で生む決意をしたらいてうは、出産の経験を経て、「自愛」から[他愛]へという発展を遂げます。第一次世界大戦の時代でした。らいてうの「母性主義」は、エレン・ケイの影響と言われますが、この時代の平和思想と国際連盟成立の流れのなかで「ジュネーブ宣言」と呼ばれた「子どもには人類の最善のものを」という「子どもの権利」思想の影響も受けています(1918年に『婦人と子供の権利』出版)。戦争や貧困で無数の子どものいのちが失われる現実を、らいてうは「いのちを産む性」である女性が、わが子だけでなくすべての子どもを守るために立ち上がることを訴え、そのために市川房枝たちとともに新婦人協会を結成して女性に政治参加の権利と学習の場を保障せよと訴えました。「女性の文化としての平和」と言っています。

1979年に国連で採択された「女性差別撤廃条約」に、あらゆる分野への男女平等の参加とともに「あらゆる場合に、子の利益は至上である」と書き込まれていることをご存じでしょうか。1989年に国連で採択された「児童の権利に関する条約(子どもの権利条約)」でも<子の最善の利益>が書き込まれています。らいてうにとって「母性」とは「女性の権利」であるとともに「子どもの権利保障」に不可欠な権利だったのです。今、「女性の社会進出は家庭崩壊を招く」などという論調がありますが、100年も前に「子どもの権利」と「母性の権利」をこのように女性の社会的責任と結びつけた考えが生まれていたのです。

ここかららいてうは「国家」が「自国の利益」のために強大な軍備を持つことを「国家のエゴ」と呼び、個別国家の利害を越えた「世界民」という「平和思想」にたどり着きます。

5 「相互扶助」による「協同自治社会」を「女性がつくる」という発見

1923年9月、関東大震災を東京千駄ヶ谷で経験したらいてうは、廃墟と化した被災の現場から、これまで意見が違うと対立していた女性団体が連帯して被災者救援に取り組んだことを高く評価して、これこそ女性の選ぶ道であると実感します。そこから1930年代に初めて自分たちで設計した家に住んだ東京の成城で、「消費組合 我等の家」を結成、「この仕事は家庭の台所を預かる女性が、個々の家庭に閉じこもるのではなく協力し合ってよい社会をつくる一歩になる」と自ら組合長を引き受け、1938年まで持ちこたえます(『青鞜』よりも「新婦人協会」よりも長く!)。「クロポトキンの『相互扶助論』を愛読し、「相互扶助による協同自治社会を女性の手で」と考えたのです。当時多くの家庭に住み込みのお手伝いさんがいましたが、その少女たちに「夜学」を提唱し「有産階級の趣味」と批判されましたが、らいてうは引っ込みませんでした。

6 女性の戦争動員とらいてうの「選択」―「戦時体験」と「戦争体験」

しかし、戦争体制とともに、1938年「国家総動員法ができて、消費組合は解散に追い込まれます。女性の権利は実現せず、一方で戦争に女性を動員する仕組みだけが強まって行きました。盟友市川房枝は「戦争にも軍部にも反対」でしたが、「女性の権利を認めさせるために」と、国策協力の道を選び(その理由は複雑でした)、らいてうにも国策団体への参加をすすめます。そのときらいてうを引きつけたのは、日本が先頭に立つ「東アジア共同体」を、という政策でした。それが日本の侵略を是認するものだという認識を持ちえなかったらいてうたち知識人が「中國との戦争をやめる」という幻想に引き寄せられたことはあきらかな誤りです。「戦争をやめるための戦争」などと言うものはないことを、戦後らいてうは思い知ることになるのです。

国民が「国家総動員体制」にひきこまれて行く中で、「自分で考え行動する」らいてうに迷い・動揺が生まれます(この経過も複雑)。やがて「もう自分には戦争に抵抗する力がない」と悟って、原稿を書くという生活の道が途絶えることを承知で東京を脱出、畑を耕し山羊を飼って自給自足の生活を始めます。のんびりした農村生活と思われたのもつかの間、住宅難や食糧難に見舞われ、戦争末期に結婚した子どもたちも息子は兵役召集、娘は出産して間もない赤ん坊を抱いて空襲で逃げまどうという経験をします。らいてうが育った東京本郷の実家は空襲で跡形もなく焼け落ちました。

こうした戦争体験を経て、らいてうは「平和がいちばん」という信条にたどりつくのです。

7 生活に根ざした「いのちの平和」という思想

戦時下のらいてうには「政治に参加して女性の地位向上を」という「戦時活動」と、食糧難や空襲などの「戦争体験」の二つの体験がありました。らいてうの戦後のあゆみには、平和を望みながら現実の侵略戦争を阻止できなかった痛恨の思いと同時に、自ら体験した生活の場での「戦争体験」が反映しています。前者は多くの政治家たちも経験しますが、後者は生活の担い手である日本の女性たちが、はじめて体験する「戦争体験」でした。これが日本国憲法を支える女性の平和意識を生み出したといえます。らいてうもそうした生活体験から自分の平和思想をつくり出したのでした。

戦後間もない「ゴマじるこ」の話には、①「玄米食」「ごま」「こぶ」など「自然食」に寄せるらいてうの思いと、②戦時中の「自給自足生活」と「食糧難」の記憶(戦後すぐ東京に帰らなかった理由の一つは「食糧難」だった)が込められていると思います。つまり日常生活の現実を見つめるところから生まれた「平和」なのです。

8 「ただ戦争だけが敵」という思想

らいてうは戦後日本国憲法九条の「非武装・非交戦」に出会って「自分の理想」と共感、国家の壁を越える「世界連邦」に惹かれます。冷戦体制のもとで米ソ対立や日中間の対立などが起っても、「どの国も敵ではない。敵はただ戦争だけ」という姿勢を貫きました。それを女性が言わねばならぬ」というのがらいてうの精神でした。「生きるとは行動すること」というルソーの言葉をノートに書き留めていたそうです。有名な1950年の「再軍備・軍事基地を認める単独講和反対」の訴えも、もって生まれた「はにかみやで人の先頭に立つことは苦手」だったのに、「男性の発言はあっても女性の声が出てこない。やむなく自分で案文を考え、自分で野上弥生子らを訪ねて公表した」と言っています。

むすび―「いのちを産む性」としての女たちがつくる「平和世界」の構想は21世紀の課題

2000年の国連安保理決議1325号は、「さまざまな武力紛争の解決にあたって、女性が男性と同等に参加すること」を求めた決議です。あらゆる戦争が「性暴力」を本質としていることが見えてきた今、女性は「すべての暴力を廃絶し」、「取引や単なる約束ではなく、だれでもが日常の生活を安全に営むことができる」「人権としての平和」を実現できる「性」なのです。今年のノーベル平和賞の受賞団体『ICan』が大きな力になった国連の核兵器禁止条約は、そのことを暗示しています。本当に「女性が活躍する社会」をつくるために、女性は「自分で考え」「思ったことを実行し」「意見の違う人とも対話と応答」をしよう。それが「いのちの無限生成」を信じ、「野の花、野の鳥』とともに生きたらいてうの「現在(いま)を生きる」ものへのメッセージだと思います。

信州上田市郊外の山林に2006年オープンした『らいてうの家』は、らいてうの仕事を展示するだけでなく、森に木を植え、草を刈り、「森のめぐみ講座」で自然探訪を試み、小さな家でコンサートや勉強会をひらきます。「ジェンダーの視点から読む源氏物語」「夫婦別姓って何?」「らいてうの平和思想とは?」「女性差別撤廃条約の意義」、そして地域の歴史を聴く「昔語りの会」等々。そして地元の野菜やきのこを持ちよってはみんなで楽しむ盛大なお食事会も。そこではみんなが「らいてうさんになる」のです。今年は北海道から飛行機とバスを乗り継いでツアーが来てくれました。いつかおいでをお待ちします。らいてうの会ホームページと、わたしのブログを読んでくだされば幸いです。

<参考文献>

平塚らいてう自伝『元始、女性は太陽であった』全4巻/米田佐代子『女たちが戦争に向き合うとき―わたし・記憶・平和の選択』(2006)/米田「今、らいてうを受け継ぐ」ほか 『平塚らいてうの会紀要9号(2016)/「らいてう生誕130年記念シンポの記録(ノーマ・フィールド、上野千鶴子ほか)『同会紀要10号』(2017)/米田「新資料が語る『戦争の時代』とらいてう」(同会紀要7号(2014)/米田編『金いろの自画像―平塚らいてう ことばの花束』(2006)/米田佐代子『満月の夜の森で―まだ知らないらいてうに出会う旅』(2012)

ブログ 米田佐代子の「森のやまんば日記」 https://yonedasayoko.wordpress.com/

 NPO法人平塚らいてうの会 ホームページ http://raichou.c.ooco.jp/

 

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