「補助線を引く」―わたしのブログにコメントをくださった方のブログから.

前回、わたしのブログに沖縄県知事選で「自民・公明派候補」の宣伝と思われるコメントが届いたことを報告しましたが、その一文を一夜のうちに大勢の方が閲覧されたらしいことを知りました(と言ってもせいぜい3ケタに届くかどうかですが、わたしの場合は「大勢」)。関心を持っていただいたのか、「監視」されているのかは不明。どんな反応が来るか、すこしコワイですが見届けたい。

ところで、やはり「やまんば日記」を読んでくださった方からのコメントを通じてその方の発信した文章を読み、共感するところがあったので、許可を得て一部を引用します。ネットの世界は魑魅魍魎といわれるが、まったく未知の方とこういう交流ができるというのもネットの強みだと思う。わたしは、かつて加藤周一がチェコにソ連軍が侵入した時のことを「1968年の夏、小雨に濡れたプラハの街頭に相対していたのは、圧倒的で無力な戦車と、無力で圧倒的な言葉であった」(『加藤周一自選集4』)と書いた文章を引用したことがあります(2016年5月のブログから)。今、この方の文章を読んで、もはや力を失いつつあるとさえいわれる「言葉」と「思想」の持つ重みを、もう一度見つめ直したい。折から『新潮45』の「ヘイト発言」問題がクローズアップされている今だからこそ。以下引用。

            補助線を引く      (前半は省略)

(日本国憲法)9条の危機とは、「戦争をできる国にする」こともさりながら、その前提たる「国際社会において名誉ある地位を占める」ことを見失い、自ら放棄しつつあることではないか。現政権を先頭に私たちはいま、過去の価値への回帰などではなく、価値と言葉、思想そのものの忘却と破壊に向けて転げ落ちている。

市民として、破壊に抗して思想を定着し積み重ねること、多様な価値を紡ぐこと、言葉を醸すこと。知性と情報はその土台であり、強力な補助線である。

今日ここに、世界を言葉で切り取る営みに参加する人々がいること、そのものが現政権を先頭とした潮流に抗する戦略なのではないか。そして、声を上げ続けなければ明日にはこの言葉が奪われる可能性に抗し、すなわち市民的不服従を。magic bulletを問う声を耳にしつつ考えている。(引用終り)

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