「らいてうと博史をむすぶ平和のねがい」―北海道「戦争と平和を訪ねる旅」につきあって茅ヶ崎へ 

10月の最初の仕事は、北海道から「戦争と平和を訪ねる東京の旅」というツアーが、メインは小林多喜二ゆかりの七沢温泉に泊り、東京でWAM(女たちの戦争と平和資料館)や東京大空襲・戦災資料センターなどを訪ねるのですが、その前にぜひ茅ヶ崎の平塚らいてうの記念碑(全国でここ1か所にしかない!)を訪ねたいので、説明要員で付き合ってほしいと頼まれたことでした。羽田空港で御一行様をお迎えし、そのままバスに乗って車中で「新発見のらいてう戦後日記にみる平和への思い」を講演、茅ヶ崎ではらいてうと博史の出会いの場所「南胡院」を見学、それから「なぜ茅ヶ崎にらいてうの碑があるのか」をまたまたひとくさり、最後にらいてうの碑を訪ねて、七沢温泉へ、というコースだそうです。勿論わたしは茅ヶ崎でお別れ、一人で東京へ帰ったのですが、どうしてこういうツアーになったかというと、もともとの企画が北海道平和婦人会が中心になり、旅行社も「らいてうの家ツアー」を企画してくれたことがあるので、「東京へ行く前にらいてうゆかりの茅ヶ崎へ」ということになったらしい。で、初日だけわたしが「添乗」した次第です。依頼してきた旅行社の方は「頼んでから1934年生まれと聞いて、えーっと思いました」というから、トシをかえりみず引受けたほうがオッチョコチョイというものです。でも、はるばる北海道から、それも例の大地震で旅行どころではなくなった人も続出、「マイクロバスでも」と決行を決めたら9月下旬の台風24号のあおりで飛行機が飛ぶかどうかが危ぶまれる騒ぎ、それでも「地震ニモマケズ 台風ニモマケズ」くる方たちの心意気に感じてしまってひきうけた次第です。

当日は好天に恵まれ、渋滞もなく、無事空港で出会うことができてまずは茅ヶ崎までの車中で「パートⅠ」として、らいてうの平和思想の出発点は、奥村博史と恋に落ちたらいてうが法律婚を拒否して事実婚をえらび、初め産まないつもりだったのに妊娠、それを自分の意志で受け入れて二児の母となり、第一次世界大戦に直面して「いのちを産む女に断りなく戦争を始めていのちを抹殺するのは許せない」と考えて女性の政治参加による平和世界の建設を主張したいきさつをお話しし、「茅ヶ崎での出会いこそらいてうの平和思想の原点」と締めくくりました。道路が空いていて予定より早く茅ヶ崎についてしまったので、けっきょくバスの車中で話しまくったこおtになりました。寝たい人もいたでしょうに、メイワク?

お昼を地元のシラス料理でいただき(生シラスは残念ながら漁が出来ず出ませんでしたがおいしかったよ)、南胡院へ。明治から昭和にかけて「東洋一のサナトリウム」(結核療養所)として有名になった南胡院は、創設者高田畊安(こうあん)が1945年2月に死去のあと5月に海軍に接収され、海軍病院になったのかと思いきや、米軍上陸にそなえた基地になり、敗戦後は1957年まで米軍に接収されていたという悲運の歴史をたどります。返還後畊安のお孫さんが、祖父の思いを受け継いで有料老人ホーム「太陽の郷」を開設、2015年には茅ヶ崎市に創設時の姿をとどめる「第一病舎」を寄付、市は「将来は公開したい」と言っているそうです。今年3月には国の登録有形文化財に登録され、その保存活用が望まれるところです。以上の説明は「太陽の郷」の方がわざわざ資料を用意して説明してくださいました。じつはわたしがしなくてはならないかとひそかに準備していたのですが、詳しいお話はよくわかり、ほっとしました。わたしは老後ひとりになったら「太陽の郷」で暮らしてみようかと思ったこともあるのですが、その入居金にと思ってためておいたお金はあえなく?「女性文化賞」につぎ込むことにしてしまったので…。

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当時のままの「第一病舎」入口国の登録有形文化財

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全景

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説明を聞く

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庭園の藤棚も昔のままだそうです。

閑話休題。それから茅ヶ崎に来たら誰でも行ってみたい「茅ヶ崎館」(小津安二郎など著名な文人が愛好した旅館)の一室を借りて「パートⅡ」です。ここで博史とらいてうが出会い「一目で恋に落ちた」話、らいてうに表紙絵を頼まれた博史が「2,3日で描きあげたこと、らいてうを慕っていた尾竹一枝(紅吉)が嫉妬した話などは有名ですが、それだけで茅ヶ崎を語ってほしくないというのがわたしの論旨でした。

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『青鞜』1周年記念号。1912年9月。初対面の博史にらいてうが「1周年記念号の表紙を描いて」と頼み、2,3日後に早くも描き上げて茅ヶ崎へ持参したという作品。博史は『青鞜』の表紙絵を最も多く描いた画家である。

事実婚をはじめた二人の悲運は1915年9月博史が結核になって南胡院に入院したこと。オカネのない無名画家奥村の入院費を高田院長は「絵を買い取って」入院費にしてくれたそうです。このときらいてうはすでに妊娠していました。博史を案じながら12月に第一子出産、翌年2月には南胡院の近くに間借りして博史の退院を待ち、8月退院後は市内の「人参湯」の離れで親子3人の生活に入るのです。このときらいてうが生まれたいのちの素晴らしさを実感、エレン・ケイを読んで母性主義にめざめたことも有名ですが、その母性主義は「母親は子供を育てるだけが仕事」というせまいものではなく「いのちを産む」女性の文化としての平和にめざめたことが重要だとわたしは考えています。そのためには女性が自ら学び、自分で考える力をもち、政治参加の権利を持つことが必要だと考えたらいてうは、1917年に第二子を産んだ後、母性保護論争を経て猛然と社会運動に乗り出すのです。新婦人協会はたんに女性参政権運動だったのではなく、らいてうにとっては女性の学びの場であり、女性がつくる平和世界をめざすものだったというのがわたしの意見です。そしてその土台は茅ヶ崎で培われたということも付け加え、さらに奥村博史がどんなに自立した自由人としてらいてうを支えたか、その根底には彼が亡くなる少し前に書いたという詩「妻よ 何としてももう10年を一層よりよく生きやうよ そのころには世界にほんたうの平和がもたらされるだらうか」という平和への願いがあったというところまで一気にしゃべりました。博史は「新しい女を愛した新しい男」だったのです、と。

新婦人協会機関誌創刊号。1920年9月。表紙デザイン奥村博史

そこで予定の1時間はもうオーバー。みんないそいでバスに乗り、最後のお目当て「らいてうの碑」へ。公園の一角はきれいに草とりもされ、やや古びて風格の出た記念碑の前で記念撮影。それからみなさんは北海道出身の小林多喜二がひそかに過ごしたという七沢温泉に向けて出発です。茅ヶ崎駅前でお別れしましたが、茅ヶ崎は「前座」どころではない「戦争と平和」を考える舞台でもあったのだ、と自分でも考え直すいい機会になりました。

それにしても、くたびれたなあ、もうー。お昼をたくさんいただいたので夜は冷蔵庫の残り物で済ませ、お風呂にも入らずバタンキュー。翌3日朝「これはイカン」と思いなおして熱いシャワーを浴び、食欲もなかったのに「食べないとダメ」と言い聞かせて野菜にトマトジュースとパンとコーヒーだけはちゃんととり、洗濯も済ませ、あっという間に昼近くなったのでヨガにも行き、その足で武蔵野市の「敬老福祉のつどい」にも行きました。日赤奉仕団の方が熱心に「お弁当も出ますし、今年はボニージャックスのうたですから」とすすめてくださるのにほだされて申し込んでおいたのです。それでまたくたびれてしまった。3日は子ども食堂の日ですが、今日は「敬老弁当」があるのでカンパだけと決めて届けに行ったら、皆さん残念そうな顔をして「じゃあ代わりに」と「水を全く使わないでつくった」とあるトマトケチャップのびんをくださいました。チキンライスやトマトパスタ大好き人間なのでありがたく頂戴。全く「情けは人のためならず」だ。こうやって人は生きていくのですねえ。まだのこり話があるのですが、もうタイムアウト。今夜こそお風呂に入って寝よう。明日はゴミも出さねばならぬゆえ、ねなくては。おやすみなさい。

 

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