「安倍靖国参拝違憲訴訟(東京)」の控訴審敗訴―「平和的生存権は抽象的主観的で具体性はない」ですって!? 

わたしも原告のひとりになっている「安倍靖国参拝違憲訴訟(東京)」は一審敗訴し、東京高裁に控訴しました。一審判決があまりにもひどく、憲法判断もせず、安倍首相は「恒久平和のために」参拝したと言っているのだから「戦争する気はない」と解釈、思想信仰の自由侵害についても「別に特定宗教を押し付けるものではない」と全く「安倍忖度判決」だったので東京高裁に控訴しました。控訴審でわたしたちは一審の誤りを正すべく控訴人尋問や憲法学者などの証人尋問も準備していたのにたった2回で突然審理打ち切りを宣告、10月25日判決に至ったものです。

その過程が一方的なだけでなく、判決当日の法廷も異常な雰囲気でした。わたしは原告ということで弁護士と同じ「柵内」に入れてもらいましたが、傍聴席はほぼいっぱい。ところが裁判官が入廷した直後、傍聴席の一人が裁判官席に向かって抗議のヤジを放ったのです。まあ、法廷でそういうことをすればとがめられるのは仕方ありませんが、その時裁判長が敵意に満ちた表情で発言者を指さし、大声で叫んだのです。どう見てもケンカ腰でした。法廷には職員がいてたちまちわらわらと駆けより、押し問答の末に退廷させられましたが、それは裁判長が怒鳴らなくたってそうなったでしょう。その時の裁判長は「権力」そのものという感じでした。「裁判官は敵だ」とさえ思いましたね。それはショックな場面でした。

そして判決はたった1分、いや30秒かな。補聴器をしていても聞こえませんでしたが「控訴棄却」だということはわかっていました。立ち去る裁判官にそれこそ抗議のヤジが飛びましたが、閉廷後だったからみんな出るほかなく、憤懣やるかたない思いを抱いて法廷を後にしました。

それから「報告集会」に出て判決文を読ませてもらい意見交換をしました。わたしも発言を求められ、「自分は教師だったが、学生がこの判決文のように、安倍首相が恒久平和のために参拝したというから戦争する気はない、などというレポートを書いたら、一方的な資料をうのみしてはいけない、必ずその発言がどういう脈絡のなかから出てきたか事実を突き合せるべき、と指導したと思う」と判決の浅はかさを批判しました。

それはともかく、ショックだったのは、「ジャストピース」の思想を提起してわたしも惹かれた池住義憲さんが発言され、「二審判決は、一審判決が平和的生存権について『平和とは理念あるいは目的等を示す抽象的概念であって、憲法前文にいう平和のうちに生存する権利もこれを主張する者の主観によってその内容、範囲が異なり得るものであり、未だ具体的なものではないから、平和的生存権を被侵害利益と認めることは困難である』とした部分を支持ししているが、これは平和的生存権理解の大きな後退である。これが最高裁でも容認されれば、2008年の自衛隊イラク派遣訴訟における名古屋高裁判決『平和的生存権の具体的権利性』を認めたことが有効性を失う恐れがある」と指摘されたことです。

名古屋高裁の青山判決は、「平和的生存権」に大きな光をあてた判決として歓迎されました。わたしも2010年にニューヨークの国連に「NPT(核不拡散)条約に基づき核廃絶推進を」求める集会に出ましたが、その時各国から集まった人びとが「平和とはホームレスに家が保障されること、子どもが飢えないで学校に行けること、病人が医者にかかれること」と訴えたことを覚えています。以来わたしにとって「平和的生存権」とはまことに具体的権利だと考えるようになりました。(太陽光発電問題も、もし事業者が工事強行したら「差し止め裁判」を起こすつもりです。その場合の論拠に景観や環境悪化はもちろんですが『平和的生存権』を根拠にしたいと考えています。もっともこれは弁護士さんに話したら首を傾げられてしまいましたが、十分成り立つと思っているのです)。もし上告してこの部分が改められなかったら、どうなるか?わたしは思わず池住先生に「その危険を回避するために上告しないという選択肢があり得るでしょうか?」と尋ねてしまいました。彼は冷静で、「こんな判決をそのままにしておくことはできないから上告はしなくては。そこでどういう論理をたてるか、考えたほうがいい」と言われました。

じつはすでに今日の判決を予期して「上告委任状」をかばんにしのばせてきたのです。口惜しいから、らいてうのように「行き着くところまで行ってみよう」と。然し責任重大ということにがく然。今や世界の動向は「平和的生存権」が抽象的な観念に過ぎないなどという主張を乗り越えつつあるのに、この時代錯誤的判決をそのままにしておくことはできない。精神的にも肉体的にもヒローコンパイした1日でした。

帰宅したらメールが来ていてらいてうの会が東京で来年2月に開く「らいてう講座」では「らいてうの平和思想」をテーマにわたしが受け持つという相談でした。らいてうの平和思想こそ「日常の具体的な生活のなかの平和」であり、2000年の国連安保理決議1325号も、昨年国連で採択された「核兵器禁止条約」もその方向を示しています。その流れにさおさす今回の判決をそのままにしておいたら、「らいてうさんに叱られてしまう」。うーん、やっぱりもう少し生きて「いどまなければならない」のでしょうか・・・。

高裁の門前で

無念の掲示

抗議集会

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