映画『ニューヨーク公共図書館』を観ました―3時間半の「異文化体験」!

ウワサの映画を観てきました。岩波ホールも久し振り。めずらしくつれあいドノが「行こう」というので、それこそ10年ぶりくらいに「シニアチケット2枚」買い、3時間半の長丁場に挑戦しました。昼間は混んでいるというので、夜6時15分からの回に行ったのです。窓口で「終わるのが9時50分ですが、よろしいですか」と言われてしまった。「ハイ、覚悟のうえで」と応答し、5時過ぎには神保町で早や夕飯をすませてスタンバイ。それでも「シニアばかりで夜は空いている」というのが定評の岩波ホールにけっこう人が入ったから、昼間は混んでいたのだろうなあ。一番の心配は途中で寝てしまうこと。なぜなら、このごろわたしは夕飯がすむと寝てしまい、夜中に目が覚めてそれからパソコンにしがみつくのが日課になっているからです(今もそうです)。おたがい「寝てしまったらつついて起こそうね」と約束したのですが―。

『ニューヨーク公共図書館ーエクス・リブリス』のチラシ

いやいや、すごい映画でした。わたしはニューヨークに何度か行ったことがあり、この図書館にもひとりで入ったことがあります。建物の荘厳さもさることながら、だれでも入れるオープンさに惹かれたのですが、この映画を観たらそんなことは序の口だということがわかりました。とはいうものの、映画はいきなり何の説明もなく、著名な講師による講演会のシーンと、電話でありとあらゆる質問に答える司書たちの「鉄砲玉のような」応答からはじまるのです。ストーリーはなく、ひたすら本館を含めて92もある施設で何が行われているか、そしてそれらを運営するための会議がどんな議論をしているかを、次々に映し出していきます。「公共(PUBLIC)」というのは「公立」ではなく(独立行政法人が運営)、「公民協同」の意味でした。ニューヨーク市もおカネを出していますが、民間からの寄付が財政の支えです。職員も司書はもちろん学芸員も配置され、専門館があって大学の研究者顔負けの学識豊かな職員がうんちくを傾けてしゃべりまくるシーンもありました。黒人文化研究図書館、舞台芸術図書館、点字・録音本図書館…。

わたしが瞠目したのは、その活動を支える実務職員やボランティアの数の多さと、各分館で開かれる多彩なイベントでした。「就職フェア」があって「消防士はすてきだよ」と語りかける「ファイアパーソン(昔はファイアマンといいましたがいまはちがう)」から看護師たちまでが熱弁をふるうかとおもうと、「パソコン弱者」のための講習会(こういうのがあればわたしも参加したのに)、点字本の読み方指導もあり、子どもたちが自分で動くミニロボットを作る教室やIT機器の貸し出しもあります。合間に開かれる会議では、図書館を地域に開放するための方策が次々に提案されていました。「ホームレス対策」というのもあり、難問は「図書館で寝てはいけないという決まりをつくるべきかどうか」だそうです。もちろん居眠りのことではありません。日本では公園や駅の地下道でさえ「ホームレス」は追い出されるというのに。もう一つ「ベストセラー本をそろえるべきか、学術的な研究書を備えるべきか」という議論には「身につまされる」思いでした。最近の公立図書館は、ベストセラー本は何冊も買うが値段ばかり高くて借り手が少ない学術書は敬遠されるのです。1冊1万円もする本は個人じゃ買えないから図書館に備えてほしいのだけれど・・・。「利用者拡大」を取るか「資料の殿堂」たるべきか、思わず共感しちゃった。

そしてもう一つ、無数の講演会やコンサート、朗読会などが開かれているのですが、その多彩さと内容の質の高さ、それを少なくない聴衆がじっと聞き入り、時に共感してうなづき合う姿も衝撃的でした。ジャン・ジュネの「泥棒日記」に共感するアーティストの自作の詩の朗読や、奴隷制と労働問題についてマルクスを引用してのレクチャー等々…。日本でも講演や映画上映などの文化行事に取り組む図書館はありますが、「一般向け」にわかりやすく「生きがい」や「癒し」をテーマにしたものが多いような気がします。それも大事ですが、このレベルの高さと、それを受けいれている人びとこそが図書館を支えているという気がしましたね。

というわけで居眠りするどころではありませんでした。全編字幕だったことも、目を開けてないとついて行けなかったからね。おかげで「難聴」のわたしにもよく分かりました。うーん、図書館って本を借りるところとしか思ってなかった人にとっては、頭がどうかなりそうな内容だったと思う。かくいうわたしも図書館には資料を借りることしか期待してなかったという気がします。最近はその「本を借りる」のもいくらか進歩して「よその図書館からの借り出し」が比較的簡単にできるようになりましたが、以前はその手続きがたいへんで、隣りの区にある大学図書館に資料探しに行くのに、退職後のわたしは地元の図書館から紹介状を持って行かねばならず、それを書いてもらうのにこっちが説明しないと「OK」してくれなかったものです。

『未来をつくる図書館』表紙

帰宅後、2003年に出た時は買わなかった岩波新書の『未来をつくる図書館―ニューヨークからの報告』(菅谷明子』)を買いました。アマゾンではなんと中古本が定価より高く出ていてびっくり。別の通販で定価の新本を買いましたが、それがまた衝撃的。「9.11」のテロ事件のときどう対応したか、とあるのでページを開けてみたら、家族や友人の安否を始め「即座に役立つ情報」を発信するウエブサイトを開設して、市民のあらゆる質問にこたえられるようにしたのだそうな。その中には「緊急電話番号リスト」もあれば「イスラム」や「異文化理解」「カウンセリング情報」などもあり、「9.11」以後図書館の利用が急増したというのです。わたしが「骨折」して介護保険や老人ホームのことをしらべようと思ったとき、地域包括支援センターとか自分のパソコンでの検索は思いついたけれど、図書館とは思わなかったなあ。ここではパソコンを持っていない(使えない)人々のために検索の仕方を教え、必要な機器の貸し出しまでしています。「図書館は地域文化(生活)の中心」という思想は、日本に定着するだろうか。わたしは「女性の領域」とされてきた「日常生活」を「性役割」と批判するだけでなく、「生活こそ人間の文化であり平等と人権保障の場であり、他者理解と交流の平和世界構築の場である」という主義なのですが、図書館を指定管理者制度や民間委託にしてしまって、良心的な団体がやるならいいが、どこかの営利会社が引き受けて図書を廃棄してしまったり「ハウツーもの」しか買わなくなったり、という事態も起こっている日本に住む自分にとっては、これはもう「異文化体験」でありました。岩波ホールはがんばって6月中は一日3回の上映をするそうです。

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「なぜ銃で人を撃つの」―天安門事件30年に思うこと 

6月が始まりました。手帳は見つかりません。日曜日は休みとわかっていたから慌てませんでしたが、3日からの予定が思い出せないのです。5日(水)に子ども食堂、7日(金)に人と会う約束、とこれだけは覚えているのですが、それ以外に何もないとは思えない。ヨガは今お休みしているし、姉の病院の付き添いは7月初めだし…と思案しているうちに、なんだか自分という存在が希薄になり、空中に漂っているような気分になりました。仕方がない。いまから手帳を買うわけにもいかないし、覚えているだけの予定で済ませよう。認知症になるってこういう気持ちかしら。「予備学習」ですねえ、これは。

それでも原稿は書かねばならず、16日の入間市母親大会のレジュメの準備もせねばならず、釜石へ行くと決めたからにはその用意もしなくてはならぬ。昨日は岩手県立図書館に電話して、1950年代のガリ版刷りの雑誌『花貌』のコピーをとらせてくれるか相談しました。「郷土資料担当」の方はとっても親切で、「コピーの申し込み書をファクスで送って下さればコピーして郵送します」とのこと。1日余分に日程を取って盛岡に泊り,コピーを取ろうと思っていたのに。結局今日は『花貌』の所在一覧を調べ直し、書き間違いを見つけたりしてあたふたしていました。出かける予定が分からなくなってもすることはあるゾと言い聞かせながら。

ところで明日6月4日は「天安門事件」から30年です。あのときわたしはまだ若く、ニュースに衝撃を受けたことをよく覚えています。そのとき朝日歌壇に載った短歌を30年後の今もわすれません。

なぜ銃で兵士が人を撃つのかと子が問う何が起こるのか見よ」(中川佐和子)

それから30年経ち、今の中国情勢は複雑です。わたしは2002年以来日中韓三国の歴史研究者や教師、市民活動家など「市民」レベルの交流と討論の場「歴史認識と東アジアの平和フォーラム」に参加してきました。国としてはさまざまな意見があるとしても、わたしたちは東アジアに戦争の火種を持ち込ませないための連帯と協同を築きたい、という思いで10数年かかわってきたのです。その経験はこのブログに何遍も書きました。続けてきてよかったと思っています。中国・韓国に対する日本政府の姿勢が最悪の状況になっている今、このフォーラムでは日中韓3国が互いに理解し合い、「平和共同体」への道を拓こうという点で一致する議論ができるようになってきたからです。

けれども、一方で痛感させられたのは、わたしたちの属する国日本の政府が中国と韓国(朝鮮)に対する「加害責任」を明確に認めようとしていない現実への「責任」でした。「慰安婦問題」といい「徴用工問題」といい、「南京大虐殺」をはじめとする「歴史認識」問題といい、最近の日本政府(安倍首相!)は、「過去の日本の戦争責任」を「なかったことのようにしてやたらに「未来志向」を強調しているからです。1985年に当時のワイツゼッカー西ドイツ大統領がドイツの戦争犯罪について「過去に目を閉ざす者は現在も見えなくなる」と演説したことは有名ですが、日本ではまさに「過去に目を閉ざす」教育と言説が蔓延しているのではないか。そしてそのことは、日本の一般庶民がこうむった悲惨な戦争体験」をも「忘れさせる」ことにつながっているのではないか。そういう思いがあって、わたしは「戦争体験の継承について―「被害」と「加害」の双方向的認識の試み」という不消化な論文を書いたわけです。間もなく活字になります。

では、「天安門事件」をどう語るのか。中国政府はこれを公然と論じることを認めていません。フォーラムで出会った中国の研究者たちとも、このことを公開の席で話しあうことは多分できないと思います。しかし、忘れてはいけない。おそらく中国の方たちもそう思っているでしょう。せめてあのとき心に刻んだ中川さんの歌を忘れていない自分がいることを、事件から30年経った今、書いておきたいと思います。

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「女性の視線」で描く「もうひとつの『こころ』」―源川瑠々子さんの『静』を観ました。

5月に書きのこしたことがいくつもあります。その一つが三越劇場で観た源川瑠々子さんの『静』。2003年初演のポスターではあどけないような表情だった瑠々子さんが、すっかり大人になったという感じがしました。そしてそれは年月のせいだけではないと思うのは、この間に『三毛子』や『乙姫』を演じてこられた経験の重みもあるような気がします。

教科書にも出てくるという有名な夏目漱石の『こころ』。「先生」が友人をうらぎって自分の妻にしてしまった「静」についてはゴマンと論じられ、「彼女は悪妻だったのか?」「嫉妬深かったのか?」「男を手玉に取ったのか?」などという論評がひしめいています。しかし瑠々子さんの「静」はそうではありません。それはひとえにスミダガワミドリという覆面作家の力量と見識によるところが大きいと思うのですが、この方が手がけた『三毛子』(『吾輩は猫である』に出てくる夭折の三毛猫)も島崎藤村の詩にヒントを得た『乙姫』も世上流布されているイメージとは全く違うからです。

そのことについてはすでに書いたことがあるので繰り返しませんが、「三毛子」は「元始 メスネコは太陽であった」とさけぶし、『乙姫』は約束をたがえて玉手箱を開ける浦島に罰をあたえるのではなく、自身がわだつみの海の宮殿を出て浦島のもとにはせ参じるという途方もない「自己決定」をえらぶ女性です。「静」もまた先生とその友人の間を揺れ動く主体性のない女性ではなく、「先生」が自死するまでの一部始終を見守ってきた「私」にすがりつくようなはかない女性でもなく、夫の一周忌を迎えてひとりお酒を飲みながら自分の思いを語り、そして「旅に出る」のです。小説にはほとんど出てこない夫亡き後、どう生きようとしたかを「旅に出る」というかたちで締めくくる女性として、「静」の舞台は展開しています。

わたしはこの春、東京の田端文士村記念館で開催された「恋からはじまる物語―作家たちの恋愛事情」という展示を観ました。ここは芥川龍之介の書簡を所蔵していることで知られていますが、注目されたのは1927年に芥川が「ぼんやりとした不安」のために自死したあとの夫人文子さんの足跡でした。芥川だけに焦点をあてるのではなく、愛し合って結婚した妻が若くして夫の突然の自死に直面、それから戦後までの長い人生を「芥川の妻」という十字架を背負って生きた、その途を丁寧に追っていることに感慨がありました。この企画を担当した学芸員の種井さんは、「田端ゆかりの女性+芥川」という形の展示だが「自立した女性」を裏テーマにした、と語っています(5月3日付ブログ参照)。

『こころ』という小説での静は、「先生」の自死の後どうしたか、まったく触れられていません。だからさまざまな推量が起るのですが、ここでは女性が自ら「旅に出る」というかたちで「もうひとつの、『こころ』」を語っているのではないか。「男の目から見た女性」ではなく「女性自身の視線」で描く女性像―それを演じるのにふさわしい瑠々子さんを再発見したような気がしました。

終わってからの楽屋で恒例の記念写真。彼女が手にしているのは、わたしのささやかな「パリ土産」のお菓子です…。

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『静』の楽屋で瑠々子さんと

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手帳をなくしたら不思議な喪失感 

5月が終わってしまいます。「骨折」事件から1か月半、サポーターをしていれば歩けるので、6月下旬に釜石へ行ってくることにしました。予定を変更して最小限の行動にとどめ、2018年に「女性文化賞」をさしあげた千田ハルさんとの約束を果たしに行きます。約束というのは、千田さんが戦後まもなく釜石製鉄で働いていた時仲間の青年たちと手づくり出版した『花貌』という雑誌(今は見かけないガリ版刷り!)の現物を探しに行くのです。1947年創刊から半世紀近くにわたって出し続けた雑誌は2004年までに73冊にも上るのですが、千田さんの手元にも全部そろっていません。当時のお仲間も亡くなられた方が多く、釜石は東日本大震災で津波の被害で家を流された方もたくさんおられます。手掛かりがありません。釜石市の図書館、釜石市郷土資料館、」盛岡にある岩手県立図書館、そしてなんと旧釜石鉱山事務所にも何部かあることまでは確かめたのですが、それでも50年代の初期のものがないのです。所蔵先をしらべ、欠本リストをつくりました。その結果見つかっていないものは全部で14冊というところまでわかったのです。その結果を持って釜石へ行き、市の広報担当や地元新聞などに「欠号を持っている方はいませんか」と呼びかけを載せてもらおうというのが訪問の理由です。3月か4月に、と思っているうちに「骨折」事件となり、果たせませんでした。やっと歩けるようになったので、おそるおそる千田さんに電話したら、お元気な声が返って来てほっとしました。つづいて郷土資料館でお世話になった川畑さんにも電話したら、なんと「今年ウチで『花貌』の展示をする予定です」とのこと。それはもっけの幸い、二人で千田さんを訪問しようという相談が出来てしまいました。さっそく女性文化賞のとき取材してくれた新聞社に連絡しよう…。

ここまではよかったのですが、そう決めた直後に自分の予定がぎっしり書きこんである手帳が見当たらなくなりました。普段使っている肩掛けバッグが杖をついていると不安定なので、旅行用にと買ったタウン用リュックサックを使うことにし、そこに手帳を入れたはずなのに出てこない。ともかく今持ち歩くものといえばお決まりの財布やシルバーパスとスイカ、カギ、携帯、メガネは言うに及ばず、補聴器、ハンカチ、ティッシュペーパー、唯一の身分証明になる後期高齢者保険証(マイナンバーカードはもっていない)、JRの割引切符を買うのに必携の「ジパング倶楽部会員手帳」そして新しいもちものとなった折り畳み式の杖等々でいっぱいです。そのうえに大型の手帳にスケジュール書き込みから出納メモまで全部書いてあります。その手帳が見当たらなくなって途方にくれました。思い出せるだけは思い出して自宅のカレンダーに書き込みましたが、ほかにも忘れているのではないか・・・。

不安とともに、不思議な喪失感に襲われました。自分が何だか頼りなく、自分ではなくなったような気分になったのです。手帳に管理されてるわけじゃあるまいし、「わたしはわたし」のはずでしょ、と言い聞かせましたが、「明日わたしは何処へ行ったらいいのかしら」と手も足も出ない。約束を忘れたらどうしよう。ま、そのときは「もう認知症です」と言って謝るか…。らいてうの会には連絡してとりあえず6月の役員会の日程は確認しましたが、 らいてうの家にはいつ行くんだっけ?太陽光発電問題の現地学習会には行かねばならないが、これも6月。入間市の母親大会も6月(レジュメを作らねば)、女性史の大先輩永原和子さんの偲ぶ会も6月、めずらしくつれあいが「行きたい」というので買った武蔵野文化会館のオルガンコンサートも6月、そして釜石へ行くのも6月…。おまけに6月は整形外科と眼科と骨粗しょう症の内科と3回は医者にも行かねばならぬ。これくらいは思い出しましたが、未だ忘れているのもあるような気がします。そして姉とOさんのところへも行かねばならず、子ども食堂の日も忘れるなよ…。

それでわかった。手帳がわたしを監視しているのではなくてわたしが忙しすぎるからだということが。「時間泥棒」の『モモ』を思い出してしまった。これじゃ介護認定申請しても駄目かなあ。その前に仕事は自分で覚えていられる範囲にすべきだと痛感しました。おかげでまたまた気力喪失。梅雨どきの6月を乗り切れるだろうか?

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「強制不妊手術」裁判判決の怪―裁判官は被害者の「いたみ」を「想像」できなかったのですか。 

この3日間は、テレビを全く見ませんでした。スポーツ番組をよく見るつれあいも、千秋楽の大相撲は見なかったみたい。だって、トランプ大統領の傍若無人ぶりを見たくなかったから。新聞も「おもてなし」のことばかりで、わたしは「象徴」たる天皇を政治利用した現政権を「憲法違反」で訴えたくなりました。

けれども、ニュースは知らなければならない。まだ新聞には出ていないので、好きではないがネットのニュースを検索しました。旧優生保護法により「強制不妊手術」を受けさせられた被害者による損害賠償請求訴訟で、仙台地裁は、旧優生保護法が憲法違反であることを認めながら、賠償請求については「民法の規定により20年を越える損害賠償請求は無効(除斥期間)」を適用して「却下」したというのです。詳しいことはわからないが、そんなバカなことがあるでしょうか。憲法違反の法律を楯に国という公権力が本人の同意もなく強制的に不妊手術をおこない、そのために結婚生活も持続できなかった原告に、何の補償もされないなんて。長年にわたって声をあげられなかったという事情を考えれば「除斥」期間は当然停止されたとみるのではないか。それ以前に、被害者たちのこうむった苦痛を、「時間が経ち過ぎたから無効」とはよく言うよ。長い時間我慢させられたのだからそのこと自体「損害賠償」に値するのではないか。

わたしは[戦争体験]の継承をめぐって、原爆投下や東京大空襲、沖縄戦など日本の「非戦闘員」であった女性たちの「被害体験」の事実を掘り起して「記憶」すること、そこから他者の経験を「想像」することと、その思想的営為を通じて日本が他国に与えた「加害」を自分自身の問題として認識していくという「被害と加害の双方向的認識」について書こうと悪戦苦闘し、それは半年後の今、やっと校正が出たところなのですが、そこで憲法学者奥平康弘さんを引用したことを思い出しました。以下、その部分を再録します。

<『憲法の想像力』で知られる憲法学者奥平康弘も、レイモンド・ウィリアムズの言葉を引用して「この語(想像力)は、imaginative arts(想像力の芸術)とかcreative arts(創造芸術)と呼ばれる特定の実践とは必ずしもつながりをもたずに、夢想(dreaming)・空想(fantasy)をさすこともあれば、一方ではいくつかの創造的な活動や作品において、実際に影響や効果をもつだけでなく具体的な形としてとらえられるような、拡大(extension)・革新(innovation)・先見(foresight)をさすこともある」と指摘、「このウィリアムズの二種類のうち、僕が意味するのは後者」であるとして、「想像力」が「なにか新しいものを作ってゆく」「創造力」の源泉であることを示唆した。彼は、かつてハンセン病患者の強制隔離政策を長きにわたって実施、廃止しなかった「立法不作為」を違憲とした熊本地裁の2001年判決が「「立法不作為」に対する国家賠償は不可能とみられていたのに対し、裁判官が「いわれなく強制隔離されてきた患者の人権に思い(想像)を働かせることによって「不可能」をひっくり返した」判例を「創造力の源泉」としての「想像」という視点から評価している>(拙稿「女性の戦争体験をめぐる「記憶」と「想像」―「被害体験」と「戦争責任」の双方向的認識の試み―」より抜粋)。

「三権分立」というが、今や裁判所も政権に「忖度」することが当然になってきているでしょうか。わたしが原告の一員になっている「安倍首相の靖国神社参拝違憲訴訟」は1審2審も敗訴。今最高裁に上告していますが、その判決は「安倍首相の靖国参拝は日本を再び戦争する国にする恐れがある」というわたしたちの主張を、「安倍首相は平和を守ると言っているのだからその心配はない」と退けたのです。口で「平和」と言いさえすればそれが事実になるのですか。わたしたちは「安倍忖度判決」と名づけて最高裁まで追いかけているのですが、今回の「強制不妊手術」裁判も、国の責任を免罪するという点では「政権忖度判決」ではないのか。いやいや「忖度」とはもともと他人の思いを推し量り理解することを指したはずです。裁判官は半世紀近くにわたって声もあげられず悩み苦しんできた被害者の思いこそを「忖度」すべきではなかったのか。足が動かない分だけ「怒っていいるうちがハナなのよ」でありました。

追伸 「骨折」のほうは、一日ごとに歩ける距離が増えてきました。6月には釜石へ行けるかもしれないと思っています。けれども体力低下は否みがたく、ひとはこうやって「The End」の道を歩いて行くのだということがよくわかりました。それでも歩く?

 

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カッコいいスニーカーを履きたい 

骨折一カ月を過ぎ、整形外科に行きました。「名医」の評判高い医院ゆえ超満員で1時間半待ち、やっとレントゲンを撮ってもらって診察へ。足首の「ひび」の入ったところはもやもやとしてふさがりつつありますが、まだ完全にくっついていません。「だいぶ良くなっていますが、まだもう少し」という説明に納得。「骨折には日にち薬」と教えてくれた友人がいましたが、もう痛み止めの薬も要らなくなり、あとはひたすら回復を待つのみ。でも、「サポーターを外して、足首の曲げ伸ばしをしっかりやってください」とのことでした。これをやっておかないと足首が思うように動かなくなって歩けなくなる?からです。「リハビリに来てもいいですよ」と言われましたが、あまりの「混雑」におそれをなし、「少し自分でやってみます」と言ったら先生も「ようすを見て心配だったらくればいい」と言って下さいました。ついでに「6月下旬に岩手県方面まで行きたいのですが」と聞いたら「それまでにはだいじょうぶ」とおゆるしが。杖持参でリュック背負っていきますから、と言い訳するまでもありませんでした。

でももうしばらくはサポーターをしておいた方が安全。「サポーターしたまま履ける靴も買おうと思うのですが」とお伺いを立てたら、「介護用ではなくて普通のスニーカーでよろしい」とのことでした。しめた、一度カッコいいスポーティなスニーカーを履いてみたかった。サポーターしなくてよくなったら厚手のソックスで調節すればいい、と帰る道々歩いている人の足元ばかり見て歩き、ブランド名を覚えました。以前「踵骨棘」になった時買った上等な革製のスニーカーは、足幅を計測してもらって買ったのでふだんの履き心地はいいのですが、今は足が腫れていて入らない。「腫れが引くのは最後です」とのことゆえ、当分は「アヒル」みたいに大きな靴で「闊歩」しよう。これで「骨折騒ぎ」の記はオワリになりますことを。

岩手県というのは、一昨年女性文化賞の縁でお会いした千田さんに会いに行きたいのです。ついでに全線開通した三陸鉄道を始発の盛駅(大船渡)から終点の久慈駅まで乗ってみたい(これは先生にはナイショ)。そしたら大船渡にも行けるもの、とひそかに思っているのですが、それまでに原稿が書けるかどうか・・・。今年の女性文化賞も探索を始めなくてはならないし。ここ数日、「永原和子さん追悼文」「平塚らいてう『戦後日記』」書き起こしの紀要収録によせる解説」、懸案の「全国女性史研究交流のつどい」のWANミニコミ図書館収蔵の手続き、「骨折」直前にすったもんだしながら書いた「女性の戦争体験論」の校正(書き直しを含む)、そして5月26日の新婦人協会100年連続らいてう講座「100年前の女の元気」のレジュメつくりと目が回るような仕事にに追われ、ほとんど徹夜を繰り返しています。本業の『らいてうブックレット』が全然書けない。スニーカーなどにうつつを抜かしている暇はないのですが・・・。

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「杖をついて歩く」の巻―「骨折初経験」の記(つづき) 

足首の骨折(ひびが入ったていどですが)から1か月たちました。「これで最初の最後」にしたい(こんど転んだら「寝たきり」になる?)ので、生まれて初めての経験を観察しつづけています。「個人的なこと」ですが「だれでもどこでもやること」だと思いつつ。

まず、ギブスは先週外してもらい、サポーターになりました。夜はしないで寝てもOKです。これも最初はしめつけ方の加減がわからず、きつく締めすぎてかえって痛くなりましたが、数回練習してちょうど良い締め方を会得しました。ギブスのときは靴が履けず、捨てるはずだったおんぼろスリッポンシューズを踏み潰してつっかけていたので歩くのが困難でしたが、なんとか履けるようになり足元が安定、階段の下りはまだ片足ずつですが上りはぎこちないですが普通にのぼれるようになりました。それでも駅などではエスカレーターかエレベーターをさがすようにしています。

それで分かったのですが、駅の乗り降りは大変だということです。駅のエスカレーターは階段の一方にしかついていないところが多く、吉祥寺駅で上りエスカレーターを使うと東京駅で新幹線の自由席に近い改札口から離れた乗車口の改札に着いてしまいます。どっちにしてもホームをかなり歩かなくてはならない。エレベーターに至ってはなぜか自由席車両から離れたところにあるのがふつうです。ケッサクなのはわたしがいつもらいてうの会事務所に行くために新宿駅で地下鉄都営大江戸線新宿西口駅に乗り換えるときです。行きは中央線ホームから西口改札に出るエスカレーターがありますがそこを出ると階段があります。そこを下りると地下鉄の改札まではエスカレーターがあり、春日駅でもエレベーターとエスカレーターでバス停まで出られますが、問題は帰りです。新宿西口駅までは歩かなくて済みますが、そこを出てJRの西口改札へ行く通路には階段しかない吐露があります。おまけにそこから改札を入ると中央線のホームへ上がるのに階段しかないのです。10年位ここを利用していて階段を上っていたのですが、今回駅員さんに聴きました。「西口改札から入ると中央線のホームに上るエスカレーターはないのですか」。すると「イエス」という返事です。「回り道をしても階段を歩かずに行く方法はありませんか」と聞いたら「どうしてもそうしたかったら5番線まで行ってそこからエスカレーターで南口に上り、そこから11・12番線へエスカレーターで下りられます」ですって。西口改札は16番線が目の前なのですよ。そこから奥に引っ込んだ5番線まで歩いてまた引返すのですか?とうんざり。昨日は階段を使って事務所まで往復したらくたびれ果て、夜うたた寝してしまった…。

それでも昨日は高齢者センターから借りた杖をついていたから階段を上り下りすることが出来ました。こうなるとカートはかえって荷物になるのです。持ち物はリュックにして背負い、杖を持って歩いていると、まあみなさんが親切にしてくださること。シルバーシートでなくても席をゆずって下さる方に次つぎ出会い、階段もはじっこの手すりをつかんでしずしずと降りるのを、だれも追い越す人はいません。まあ、杖を持っていなくても「やまんば」であることは一目瞭然ですからね。帰りのバス停でも、たどり着く前にバスが来てしまい、あと1メートルのところでむなしく発車してしまったのですが、なんとその直後に停まって乗せてくれたのです。停留所以外のところで客を乗せるのはご法度のはずですが、きっと「停留所の範囲」と判断してくれたのですね。

ところが今日も出かけたのですが、なんと杖を忘れて出たのです。玄関から3階分階段を下りたところで気がつきましたが、また階段を上がる気がせず、「もう大丈夫だろう」と持たないまま出たのですが、これは判断ミスでした。おまけに中央線快速が遅れ、いくらかいそいだせいもあったかもしれませんが、「独立独歩」で数千歩も歩いたらくたびれました。ほんとは帰りにひもで調節できるスニーカーを買おうと思って靴屋に寄ったのですが、歩き過ぎたせいかお目当ての軽そうなスニーカーにサポーターを巻いた足が入らず、店員さんに相談したら、「これはおしゃれ用ですから細身です。もっとゆったりしたもののほうがいい」とにべもなく却下、この日買えば「55歳以上は10%引き」とあったので買いたかったのですが気がなえてあきらめました。当分今のオンボロ靴で我慢しよう。帰る途中で携帯に電話が入り、注文した杖が届いたとのこと。やはり杖を忘れまいぞ、と言い聞かせて本日は一件落着しました。これで6月までに治るだろうか…。

 

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