築添美土さんの「手織りマフラー展」へ行くはずが…

築添美土さんは、らいてうのお孫さんです。亡くなったお兄様の正生さんは祖父奥村博史の血を引いて金工芸術家でしたが、美土さんもアーティスト。お仲間のみなさんと「手織りマフラー」の展覧会を東京赤坂の「ぎゃらりー小川」で開催というお知らせが来たので、「死ぬほど」忙しかったのですが折からの寒さに「さむさの冬あったかく」という文字に誘われ、ハガキを握りしめて飛び出しました。今日行かなくてはもう空いている時間がないと思ったのです。ところがー。

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「手織りマフラー展」の案内

探し当てたギャラリーには、「12月2日まで」別の展示会のお知らせが出ているではありませんか。あわててハガキをよく見たら「12月4日から9日まで」とありました。入り口は手づくりのアクセサリーや焼き物のクラフト店です。お店の方が、立ちすくんでいるわたしを不審そうに見つめるのでついドアを開け、ことのしだいを白状しました。このごろこういうたぐいのへまをしょっちゅうやらかすのです。せめて築添さんに伝言をお願いしようと手製の名刺を出したら、これが裏表の上下がひっくり返って印刷された「できそこない」でした。ほうほうの体で逃げ出そうと思ったのですが、そこが摩訶不思議、ぎっしり並べられた小さなブローチのなかから、真っ黒な子犬と目が合ってしまったのです。

世良恵子作 七宝焼きの「スコティッシュ テリア」

そういえば、来年はイヌ年です。わたしは「8度目の年女」になるわけ。いくらなんでも「9度目」(96歳)はないでしょうから、「最後の年女」かな、と思っていたところでした。思わずつまみあげ、値段も聞かずに包んでもらいました。それは七宝焼きでした。だからピカリとしたわけです。かわいいシャツを着ているところをみると女の子でしょうか。小さなカードに「スコティッシュ・テリア」とありました。作家のプロフィールも同封してあり、どうやらわたしの娘とあまり違わない年代の女性アーティストらしい。福引で当たりくじを引いたような気分になって、「無駄足」どころか収穫あり、とうきうき帰ってきた次第です。築添さんのマフラーは手に入れられなかったけれど、あったかい気分になりました。築添さん、ごめんなさい。次のときは(生きていたら)日を間違えずに行きますからね。

なお、展示会は9日までですからよかったらどうぞ。ぎゃらりー小川(℡03-3584-1765)は赤坂見附から徒歩5分です。

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渋温泉の玉久旅館はステキでした―11月の書き残しから

11月の書き残しでぜひ書いておきたいのは、信州湯田中の渋温泉に行ったことです。「何をのんびり」と叱られそうですが、じつは「結婚記念日」記念ツアーでした。というのは、つれあいドノが学生のみぎり(つまり70年近く昔!)、信州の山登りに行った帰りに渋温泉を通りぬけ、「一度行きたいなあ」と思ってそれきりになったといういわくつき?の温泉だったのです。最近その話を聞いて「このまま行かなかったら恨みが残って成仏できないと困る」と行くことに。湯田中周辺には温泉がたくさんありますが、渋温泉は老舗級。宿も数ある中から、ネットで評判がよかった玉久旅館をえらびましたが、大正解でした。

渋温泉は、それほど大きい温泉場ではありません。湯田中駅からのタクシーが「奥まで入れない」というほど(実際は入れましたが)の小路に沿って何軒もの湯宿が立ち並ぶ一角に玉久旅館はありました。まず気に入ったのは「うちはスリッパをお出ししませんから」といわれたことです。スリッパで階段を上がるとつまずく年寄りもいますからね。廊下は全部カーペット敷きで、素足でも歩けます。部屋には「湯足袋」が用意してありました。お部屋も予約は「バス・トイレなし」のはずでしたが、行ってみるとウォシュレットトイレ付の部屋に案内され、夜中にトイレに起きるわれらには有難い配慮でした。早めの到着でしたが部屋は暖めてあり、お茶と一緒に出てきたお漬物がおいしくて全部食べちゃいました。さすが信州!

渋温泉玉久旅館

こんな小路を通って

じつは、らいてうの家をオープンした時、展示室を兼ねたホールにお茶を用意するというアイディアを出し、はじめ東京から来た理事たちの中には「展示品のある部屋で飲食とはもってのほか」という声もあったのですが、地元会員さんたちから「信州ではお客にはお茶を三杯出すものだ」といわれ、しかも「お茶うけなしでは出せない」とせまられて、さすがに漬物を並べておくわけにいかないので、個包装のキャンデーを菓子鉢に盛って出したのが好評を呼び、昼近く来た方には「運がよければ」地元で手づくりした野沢菜の漬物や採れたてのキュウリなどが振る舞われるおまけも登場して今や名物になりました。

かんじんの温泉ですが、「渋温泉は熱い」と評判の湯です。浴場には「熱かったら水道の水を出してうめてください」という張り紙があり、なかには「熱くて入れずふるえていた」という苦情もあったそうですが、ここでは適温にしてあり、張り紙には「源泉の品質保持のため、出るときはかならず水道を止めて」という但し書きもありました。露天風呂とかジャグジーなどはなく、古びてはいますがなんとも気持ちよく楽しめました。特筆すべきは外湯の「湯めぐり」です。共同の湯は全部で9か所あり、無人で運営されています。宿泊客は宿の名前が入った大きな木札付きのカギを借りて、自分で開けて入るのです。それが全部タダ。連泊して回りましたが、とても9か所は無理でした。でも久しぶりに「湯治」気分になったからこれも満足。他に「足湯」もありました。2日目の朝は昨夜の雪で一面の銀世界、思わぬ雪景色も堪能しました。

湯めぐりの手形

最期に「結願」として入る「大湯」

10センチくらい積もったみたい

そして、宿のお料理がまたステキでした。お刺身はコイの洗い、茶わん蒸しは大きな器にカニがたっぷり、と一味ちがい2日目はもちろん品替わりで、なつかしのおやき(北信流の平べったい焼きおやきとは違い、真田でもつくられるふかしまんじゅう型のふっくらおやき)から、ロシア料理に出てくるようなパイシチューまで登場、よく出されるイワナの塩焼きと思いきや、「女将手づくり」という甘味噌がかかっているという芸の細かさでした。完食しました。最後のご飯はもう入らないと思ったけれど、あったかい五目ずし仕立てとか里いもの炊き込みご飯とか、もちろんお漬物もたっぷりで、つい手を出してしまった…。料理を運んでくれた若い仲居さんがしっかり説明してくれたのにもいい気分を誘われて「志賀高原地ビール」を注文、小瓶を二人で分け合って、酔っぱらってしまったことも「告白」しておこう。

これが地ビール

芸術作品?

せいろに入ったおやき

昔、ロゴスキーというロシア料理店で食べたのに引けを取らない熱々のパイシチュー

足を延ばせばサルの湯とか名所旧跡もあるのですが、「花より団子」を決め込んで、湯めぐりと温泉まんじゅう三昧。湯めぐりの途中で立ち寄ったコーヒー屋さんでは、90歳過ぎていますとなのるおばあちゃまが豆から挽いてコーヒーを出してくれ、「私の母(たぶんらいてうと同じころのお生まれ?)はドイツ語が出来ました」という話を聞かせていただきました。戦前このあたりのスキー客はドイツ人が多かったのだそうな。タイムスリップしたような思い出でした。なんだかつかの間の「いのちの洗濯」をした気分で、ホンワカ東京へ帰ったら、とたん、メールは来るわ原稿は書かねばならぬわで、あわれ一夜の夢物語になりましたが、でも宿のみなさん有難う。今、「太陽光発電問題」をどうたたかうか、思案しています。

朝ごはんも豪華

こんな張り紙も

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「らいてうの家 太陽光発電計画白紙撤回」署名が続々!

わたしに送られてきた署名の一部です。

「自然エネルギーになぜ反対するの?」と聞かれることもあるのが、わたしたちの運動です。「いいえ、太陽光発電そのものに反対しているわけではありません」と答えると、「じゃあ、自分の近くには作るな、よその土地ならいい、というエゴイズムか?」といわれます。昔東京都で「ゴミ戦争」というのがありました。東京都のゴミ焼却施設をつくるのに、「総論賛成」だが自分たちの住まいの近くは「反対」というので、ゴミ処理を引き受けている地域から「それならお宅のごみは運んでくるな」という騒ぎになりました。このときわが恩師(といっても授業を聴いた記憶はないなあ)の都立大学教授柴田徳衛先生が、美濃部都知事に乞われて大学教授から東京都企画調整局長に転身、住民の話し合いや行政の公害対策強化などを粘り強く重ねて、現在の「夢の島」構想が生まれたという次第。柴田先生とは社会人になってから「都市問題」や「環境論」を勉強する中で何回もお目にかかり、ポスト美濃部の知事候補に担ごうかと思ったくらいです。

もちろんわたしたちは「総論賛成。各論反対」などというセコイ考えではありません。現在の太陽光発電事業が、あまりにも営利主義先行で、かつてのゴルフ場乱開発ではありませんが、メガソーラーといわれる大規模開発では、自然の森を丸坊主にし、自然の生態系などお構いなしというのが多い。そうでなくても水害や照り返しで気温上昇などの被害を引き起こしても知らん顔、廃棄パネルの処理もせず、倒産したらパネルは放置という乱暴な「開発」が多いから、反対しているのです。これは国の環境政策が、わたしに言わせれば「なっちゃないからです。国際的にも遅れていることを今回思い知らされました。

一方で「自分たちの電気は自分たちで」という自主的な市民運動による運動としての太陽光発電もあります。そこでも問題はたくさんあることを当事者たちも認めながら、でも原発やCO2排出の化石燃料使用を減らしていこうと「苦闘」しているのです。地域づくり工房をはじめとする「自主簡易アセス」運動は、もともとこうした乱開発に歯止めをかけ、「地域がうるおい、人の暮らしが豊かになる」途を求めて始まった運動でした。「野放しの太陽光発電ではなく、アセスを通じて住民の意見をくみ上げた太陽光発電を」というのが趣旨だったはずです。

その自主簡易アセスの担当者が、「ここは大規模な伐採もなく、開発済みだから」計画にいくらかの修正を加えれば作れるのではないか」という姿勢を見せた(とうけとられるような)アセスの実施経過書を発表したからわたしたちは異議を申し立てたのです。それでは営利目的の事業者と同じ目線ではないですか、と。意見を何回も送り、9月には直接意見交換会を開催(地域づくり工房はその要請にこたえてきてくれました)して、みんなの声を聴いてもらいました。その結果がアセスにあたって「ゼロ提案」を含む複数案の提示だったのです。これは事業者の了解のもとに出された案です。地域づくり工房が「この地の自然だけでなく、歴史的文化的な価値を認めるべきだという声を考慮する」と書いた意味は大きい。

それが、単なる「ガス抜き」や「アリバイづくり」に終わるのか、これまでの太陽光発電設置反対運動の論理に新しい提起をする一歩になりうるか、今後の展開は前回書いたので読んでください。「法的には可能といってやる気の事業者と話し合っても無駄」ともいわれました。しかし、わたしたちは後者の可能性にかけて、アセス担当の地域づくり工房に意見をいっぱい送り、それを「ワークショップ」というかたちで公開討論するという提案にも応じるつもりです。それでも向こうが強行したら?そのときは「辺野古みたい」になるのでしょうか。差し止め請求裁判に訴えるのでしょうか。そうなる前に事業者が白紙撤回するでしょうか。それは運動の力にかかっています。

そこで、やっと本題。運動の力は今署名というかたちで続々集まって来ています。すでに事務局で集約した分以外に、この数日の間にわたし宛に届いた分だけでも写真の通り。特筆すべきは送って下さった方の多彩なことです。らいてうの家を訪ねて知ったという方、苫小牧で講演した時の聴衆の方たち、わたしが以前非常勤講師を務めていた専修大学の教職員の方たち(これを集めてくれたのは都立大学時代の同級生)、山梨の短大時代の教え子、女性の地位向上のため活躍中の友人、ジェンダー平等ゼミナールのみなさん(これも集めてくれたのは高校時代の友人)、そしてこのあいだちゃっかり夕飯を食べさせてもらった「みかづき子ども食堂」を運営するみなさん、岩手県大船渡市議の田中英二さん…。みんなが説明を読んで「らいてうの家に自然をこわす太陽光発電は似合わない」と共感してくださったのです。ほんとうにありがとうございました。

これからわたしは、「ただ反対」ではなく、あずまや高原を「人が自然とともに生き、人のつながりをとおして平和で豊かないこいのひろばにしよう」という提言を組み立てたいと思っています。それで事業者が納得するはずはない?たぶんそんな方向は、今までの運動では出てこなかったと思います。でも「空前」でも「絶後」ではないことをやってみよう。らいてうは「激しく欲求することは、事実を生む最も確実な真原因」といいました(「元始女性は太陽であった」より)。らいてうの家だって不可能といわれたのを、この言葉をお題目のように唱えながら「事実」として「家」を生み出したのです。これもらいてうの「行き着くところまで行ってみよう」という精神をもたざるべからず。友人の一人が「ここの事業者はあんたみたいな人間に食いつかれたのが不運だったね」とからかいました。そうです、「女は執念深い」のですよ。だからといって「取って食おう」というわけじゃないですからね。バックに署名してくださった方々の思いを背負っているからです。トランプ大統領や安倍首相にも「北朝鮮と対話による解決を」と言いたいように、「やる気」の事業者とも対話しよう。ああ、とてもじゃないが「切り株」にはなれない。

 

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ひさしぶりに宮沢和史さんの『島唄』を聴きました。

11月が終わります。なんでいつも「書けなかった」ことばかり残るのでしょう。11月はわたしたちの結婚記念の月だったのです。58年経ちました。あと2年生きていれば60年の「ダイヤモンド婚」なんですってね。50年の「金婚」のときも、子どもたちが金のネックレスなどプレゼントしてくれたわけではなし、60年目がやってきてもダイヤモンドなんて(どうせくれはしないが)こちらから願い下げしたい。で、どうしたかというと小さなケーキを2個買ってきて、それを半分ずつ味見しながらお茶したしだい。そんなことより、11月にはいくつも「大事件」があったのですがまだ公表に至らず、です。

だけど今テレビのニュースを観たあとの歌謡番組で、ひさしぶりに宮沢和史さんの『島唄』を聞いてしまい、胸キュンになりました。それこそ四半世紀昔、彼の出身地甲府で短大の教師をしていたとき発売されたばかりのシングル盤を買い、教室で学生と一緒に聴いた「なつメロ」なんだもん。その思い出を書きます。

もう何時のことか記憶がおぼろなのですが、『島唄』のシングル盤は1992年発売とあります。わたしは、短大の「一般教養」担当でした。専門科の教員ならゼミ合宿や調査旅行で学生と出かける機会がありますが、「パンキョー」の教師は全学生が対象でゼミなど持てず、大教室で講義するものと思われていました。でも、そこが「横紙破り」の性分ゆえ「講義だけではわからない。歴史の現場に立って考えさせるのが歴史教育」とさけび、「歩く歴史学」と称して「希望者だけ」でいいから、とあちこちに連れて行くことに。「第5福竜丸」や「ヒロシマ」は言うに及ばず、韓国ナヌムの家(かつて「慰安婦」とされたハルモニたちの共同生活の住まい)やアウシュビッツまで足を延ばしてしまったのですが、その訪問地の一つが「沖縄戦の現場」でした。

戦争末期に沖縄で何があったか―1970年代終り頃にに生まれた学生たちは、何も知りませんでした。沖縄のビーチって外国みたい、というから「その通り。でも、どうしてそう感じるの?」と聞き返すところから授業は始まりました。学生のなかに宮沢さんと同じ高校から来た子がいて「ブーム」のファンだと言い、わたしの『島唄』のことを教えてくれたのです。その日のうちに甲府駅ビルの中にあるショップへ買いに行きました。そして「沖縄へいこう」と思ったのです。その目標は三つ。①沖縄戦で犠牲になった山梨県出身者の慰霊碑を訪ね、そこで『島唄』を歌う。②(海のない山梨県から行くのだから)沖縄の海で泳ぐ。③ゴーヤーチャンプルーを食べあるく。笑わないでね。これがけっこうたいへんだったのだから。

資料として沖縄戦の記録ビデオを見ようということになったとき、「沖縄戦ってすごく怖いことがあった(集団自決のことを聴いたらしい)から観たくない」と拒んだ学生がいました。「いいよ。無理に見なくても」といったのですが、学生どうし話しあううちに、「だけど、ほんとにあったことなんだね。事実なら知らなくていいとは言えない」と気を変えてくれたのです。「事実なら知らなくてはいけない」と言うのは、その後わたしの授業の共通認識になりました。

そうして、例によって旅行社を値切り倒したら「この日なら安くする」といわれ、それは「台風接近の特異日」で、事実行くときは前夜から本土も大荒れ、わたしは前日甲府で待機するはずが中央線も中央道も不通になり、やむなく新幹線で静岡まで、そこから身延線で甲府へたどり着く羽目に。翌日羽田空港からの飛行機も台風が「後からやってきた」とかでかなり揺れて、わたしは青くなりました。それでも無事に到着し、地元の平和ガイドさんの案内で、まず嘉手納基地を見渡せる「安保の丘」へ行こうと言われたら一同きょとんとして「アンポってなんですか?」。すみません事前学習不足でした、と冷や汗かきかき「行けばわかる」と連れて行ったことを覚えています。翌日は山梨県の慰霊碑に行くのですが、ふつう各県の慰霊碑は南部の激戦地摩文仁の丘周辺にあるのですが、山梨県の「甲斐之塔」はそこからかなり離れた具志頭城址にあるのです。ガイドさんもさがしながら行ってくれました。無事たどり着いて何とか『島唄』合唱と相成りました。「先生、これって沖縄戦の歌なんだって?」と初めて知った学生もいました。「そうだよ。<ウージの森であなたと出会い、ウージの森で千代にさよなら>というのは沖縄戦で引き裂かれた若者の愛をうたったのよ」とにわか仕込みで説明し、「ソンケイ」されてしまいました。

ついでに残りのテーマをどうしたか、報告しておきます。それから学生を連れていろいろなところへ行ったのですが、海なし県の学生のために、必ず「海を見る」日程を入れました。第5福竜丸のときは当然東京湾を一望、「上野動物園のゾウはなぜ戦争中殺されたか」をテーマにした時は上野動物園まで一日がかりで「戦争と動物」の話を聞きに行き、そのかえりにお台場の海を見に行きました。広島訪問の時は被爆した負傷者を船で運んだという似島へフェリーで行き、「まだお骨がうまっている」という島を歩きました。だから、沖縄なら10月でも泳げると思ったのですが、行ってみたらすでに台風シーズン、「猛毒?クラゲが出る」といわれて諦めました。でも「水遊び」程度は愉しんたのですよ。そして3つ目の「ゴーヤチャンプルー」はお店でも食べましたが、最終日の宿が、何と元米軍の住宅(広い!)をコテージ風に作り替えたところに分宿して自炊ということになり、それぞれの「キッチン」でチャンプルーをつくってコンクールということにしたのです。紹介してもらった地元の大学生たちがやってきてしかつめらしく味見、もちろんぜんぶ「OK」で、それから一大交流会をしましたっけ。

ふざけたツアーと思いますか?もちろんガマにも入ったし、平和記念館も見学したし、ひめゆりの方の体験も聞きました。でも、学生たちはたっぷり楽しみ、「現地に立つ」ことで「沖縄で何があったか」を理解したのです。それから20年余り経ち、思いがけず『島唄』を聴きながら「センチメンタルジャーニー」のひと時を過ごしました。

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25年前に買ったシングル盤表紙。宮沢さんも若かったが、わたしも若かった…。

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らいてうの家「太陽光発電問題」の新展開―「ゼロ提案」は実現できるか?

 

10日間もブログを休んでしまいました。昼寝をしていたわけではなく、「目が回るほど」忙しかったのです。その理由は多々ありますが、第一に特筆したいのは、11月2日に事業者のHJアセット・マネージメント社が実施した説明会で、アセスを担当する「地域づくり工房」が、『中間評価書案』を発表、これまでの経過(つまり私たちの反対運動のこと)から見て、ここでのアセスが従来のような自然条件を中心にしたシミュレーションだけでは十分ではないことを認め、地域の人びとがこの土地に寄せる思いも考慮することが必要だという立場から、今後の事業計画について「原案通り」という提案のほかに「道路わきに盛り土をして草木を植え、パネルを見えないようにする(修景)」案、「規模を縮小する(縮小)」案、そして「何もしない(ゼロ提案)」案という3つの代替案を提示したことです。

もちろんそれはアセス案であって、事業者がそれを容認することを意味しているものではありません。むしろ説明会当日は新しい担当者が現われ、「中小企業経営を支援する」コンサルタントなるメンバーが3人も出席して「やる気十分」でした。それでもアセスの担当者は、この『中間案』に対し公開で意見を募り、それを取りまとめてアセスの「評価書案」を作成したうえで、さらに関係者による「ワークショップ」を開催、オープンな議論をしたうえで依頼主である事業者に提出すると言うのです。当日はこの提案をめぐって議論が沸騰し、3時間近く議論、当のHJ社はひたすら沈黙、応答はアセスの担当者がするという異例の展開になりました。

結局11月末までこの「中間案」への意見を受け付けるということになり、「説明会」は終わったのですが、これにどう対応するか、らいてうの会としては正念場を迎えたという気がしています。第一に、アセスの報告は事業への決定権を持つものではなく依頼主に報告するだけですから、幾ら議論しても「丁寧な議論をした」ということで事業の進行に「ゴーサイン」を出してやるような結果になるのではないか、という不信感です。しかし第二に、ここまで事態を追いこんできたのは、わたしたちが諦めず、事業者にも、アセス担当者にも、行政にもなぜ反対するかを強く訴えてきたこと、第二次署名運動は地元自治会を含めて広汎に行われていること、行政も法律的には権限がないとしても「指導要綱」や「ガイドライン」を策定して野放しの事業に歯止めをかけようとしてきたことなどが、たとえ事業者にその気がないとしても一定のインパクトを持つ提言をもたらしたことは事実です。そこでわたしたちの選択は、「やるという相手と幾ら議論をしても相手の手のひらに乗せられるようなものだ」という姿勢をとるか、それともこの「ゼロ提案」を手掛かりに事業者とも地域の人びととも行政とも話し合いを進め、わたしたちの考えを認めさせる努力を試みるか、ということになるだろうと思います。「話し合いで白紙撤回」という道を考えること自体が甘いと言われそうですが、ではどういう道があるか、考えた末にわたしたちは、反対運動が今年の4月着工を止めてきたことに確信を持ち、もう一歩すすめてみようという方向になりました。

そこで11月中にアセスの「中間案」に意見を送ることにしたのです。らいてうの会は、つまりわたしが原案を書くことに。この10日間は、そのために七転八倒していました。みんなに意見を聞いても中々返ってきません。必死になってどうしたかというと、けっきょく下書きだけで6000字も書いちゃった。ひとに書かせておきながら書けば「長すぎる」と論評するのだから、こちらは立つ瀬がない?でもそんなことを言ってはいられません。そこでどんな議論を展開したかは、アセス担当者に提出してからにしますね。わたしは今回の経験で、ただ「反対」というのはある意味でかんたんですが、「では、この地をどうしたいのか」と問われたときどうこたえるかが課題なのだということを痛感しました。「そんなことに責任はもたない」で済むか。そこが「七転八倒」の原因です。まあこれは「やってみなくちゃわからない」。何が出てくるかわからないからね。しかし、「伐られた木」と運命を共にしようと思ったわたしが、「最後の力」を振り絞って「らいてうの家に自然をこわす太陽光発電は似合わない」と叫ぶのですから、大げさに言えば命がけだね、これは。切り株たちよ、後を追うからすこしのあいだ私に力を貸しておくれ、などと取り乱しつつ、原稿を書いています。

 

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らいてうの家の「切り株」余聞 

3日前に、今年も冬籠りに入ったらいてうの家で、伐り倒された木への別れがたい思いを書きました。それを読んでくださった方たちから思いもかけないお便りをいただき、なんだかうるうるしています。宮沢賢治ではないけれど、木が人間の言葉を理解することがあるなら聴いてね、と言いたくなってしまった…。そしてわたし自身も「人は言葉によって殺されもするが、生き続ける力も受け取ることができる」ことを実感しています。少しホメられ過ぎてはずかしいが、一部引用させていただきます。

メールをくださったのは、満蒙開拓団のことを書いたときも感想を送ってくださったSさんです(10月13日付ブログに紹介)。以下引用。

「森のやまんば日記」のブログを紹介していた友人から下記のメールが来ました。彼女は現在78歳。私の高校時代の友人です。  一昨日、メールで「森のやまんば」の感想を送った所、昨夜メールが来ましたので、コピーを添付します。 同じような年齢の者は、あのブログを読んで皆、共感・感動!!

(以下ご友人のメールより引用)

貴女からのメールを読んで、ビックリして、森のやまんばさんを読みました。「らいてうの家」を愛し、ミズキ、シナノキ を護って来た米田さんの、深い 切々たる思いに…。そしてご自分の体調や、老いへの 抗いがたい流れに…充分 ご活躍なさった満足と、一抹の淋しさが伝わって…、あの切り株をみたら、涙を禁じ得ませんでした。😰

……色々と 仕事を 減らして、健康に留意されて、まだまだ ご活躍して頂きたい、大切な 方ですね。 米田さんの 感性の豊かさ、深さ、高い教養は、とても お年には 思えません(引用終り)。 

どうぞお体を大切にされながらのご活躍の継続を大ぜいが望んでおります事、お心にお留めください(Sさんのメール終り)。

本当のことを言うと、わたしはもうらいてうの家の館長もやめて引きこもりたいと思いつめていたのです(森のやまんばをやめて都会のアスファルトの道をさまよう「巷のやまんば」になるか…と)。でも、やっぱりまだ歩かなくてはならない、とガラにもなく涙をふきふき考え、Sさんに「『太陽光発電問題』が新しい展開になり、応答しないと進まないし、こちらの意見を言う機会が出来たので、もの言わねばと思っているので…。でも、取り組もうという気持ちにさせてくださったのはあなたのメールです。ありがとうございました。どうぞご友人の方に感謝していたとお伝えください」とお返事を書きました。とたんに、らいてうの会の事務局から(ケロリとして!)「会のニュースの原稿を書いてください」ですって。見透かされていたのか、と苦笑い。でも彼女もあちこち痛いと言いながら重任を背負っているのですよねえ。今日一日は違う仕事をしましたが、多分書くよ。

もう一つ、やはりブログを読んでくださった会員の方から、「署名を送った」というお知らせと一緒にこんなメールが届きました。以下一部引用。

13日付の「森のやまんば日記」を読ませていただきまして、米田さまが、卓越した行動力に加えて、豊かな心の世界をお持ちでいらっしゃることを、あらためて感得致しました。
私は1952年生まれですが、米田さまの体力・気力には到底及ばない、米田さまは、素晴らしいなぁと、日記を読ませていただく度に思い、励まされております。どうもありがとうございます(引用終り)。

すみません。もちろんわたしはそんなに「立派」ではありません。家族たちは「口先人間」と笑っております。昨夜も上田から地元新聞の記者に電話をもらい、太陽光発電問題を聞かれたので、なんと1時間以上もしゃべりまくって、向こうの携帯の電池が切れてしまうという「事件」がありました。おわったらがっくり。でもねえ、このトシになっても「お前は役に立つ」といわれたらうれしいのだ、と気が付きました。ウソでもいいからホメてほしい、と夢に思ったこともあります。今「愛されたことのない」子どもたちがたくさんいるのですね。心を込めて呼びかけよう、「あなたはすてき。あなたがいるだけで励まされるよ」って。そして「すぐキレる」年寄りもふえているけれど、どうぞ虐待なんかしないで家族や福祉の職員だけに任せないで、みんなで「ホメ殺し」にしちゃおう。すぐ乗せられる老人がたくさんいるよ、わたしみたいに。

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2017年晩秋―らいてうの家「庭の木」たちとの別れ 

らいてうの家閉館の大掃除に行って、じつは複雑な思いで帰ってきました。書くか書かないか思い悩んだのですが、予想を超えた感情にとりつかれて仕事が手に着きません。これは、だれかどこかに苦情や愚痴をこぼすべき問題ではないと思い、書くことでカタルシスにたどり着くかもしれないと思ったのです。でも、そうなりませんでした。わたしの結論は最後に書きます。以上がまえおき。

らいてうの家オープンから11年目が経過しようとしています。雑木林を切りひらいて小さな木造の山荘風の家を建て、「らいてう記念館」とは呼ばず「らいてうの家」と名づけてオープンしました。地元の林業士(つまり木こり)さんが目利きしてのこした樹木のなかにはすでに老木になっていたものもあり、実生で出てきたというヒョロヒョロのシラカバなどもあって、それらが10年の間にあるものは枯れ、あるものは嵐に耐えられず倒れ、やむなく伐採したものも少なくありません。それでもわたしが愛してきた木の一本がベランダのすぐ前に伸びたミズキでした。ふたまたに分かれた木の幹はもうかなり傾き、片方はやがて殆ど枯れた状態になりました。ベランダに近いので屋根に枯葉が積もる、倒れたら建物に被害が及ぶ、というので切り倒す案が出ましたが、わたしはそのたびに反対しました。

最初に目利きをしてくれた林業士さんに鑑定してもらい、「ふたまたの一方だけ伐ればまだ大丈夫」というお墨付きが出たので、そのとおりにしたら春には若葉が広がりました。梅雨時には広がった木の葉群れに落ちる雨の音を聴き、夏には日陰を作るミズキが好きでした。「眺望が悪くなる」という意見が出たときは、「森の中にいる気分になってどこがいけないの」とケンカしてしまったこともあります。しかし、それからまた数年が経ち、木の根元はだんだんえぐれて大風の日にはわさわさと揺れるようになり、「危ないか伐ろう」という提案が何べんも出るようになりました。そのたびにわたしは「もうしばらく木のいのちを全うさせて」と主張してみんなからヒンシュクを買うようになり、だれも賛成してくれなくなったのです。

そして今年、「地震や台風は少ない」といわれてきたこの地域も異常気象のせいで大雨に見舞われ、6月から9月にかけて何遍も道路が陥没するほどの被害が出ました。「これ以上放置できない」と入り口周辺のマツや生育の良くないシラカバなどを含めて伐採の提案が出たとき、私は激しくためらいました。いや、たしかにすでに風が吹くたびに枝がバラバラ落ちてくるようなマツまで残すことはできません。庭を整備するときすでにウロが空いて鳥の巣?になっていた枯れ木をわざと残し、アカゲラがドラミングに来るのも実際に見聞しましたが、それも倒れる危険があるので伐採することになりました。それでもわたしはミズキはもうしばらく残してほしいと言い、最後まで「伐採自体に反対はしないが同意しない」と言い張って、みんなを鼻白ませてしまいました。伐採案は「多数決(といっても同意しないと言ったのはわたし一人)」で決まりました。

閉館の大掃除に行ってまだ新しい切り株に出会ったとき、わたしのなかに予想を超えた反応が起りました。自分自身がらいてうの家を支えてきた思いに終りが来た、という感覚です。「喪失感」といっていいかもしれません。それはある程度予期していたことでしたが、強烈なインパクトでした。この夏から足の痛みに耐え、83歳の誕生日を迎えてそれでもまだ歩き続けようと自分を鼓舞してきたわたしですが、ミズキと同じように自分も十分に老いたのだ、ということを改めて実感したのです。それでも今歩くのをやめるとはできないし、しないだろうと思う。しかし、らいてうの家に関してはわたしはミズキとともに役割を終えた、と思いました。それはわたしにとって打撃であるとか落ち込むという認識ではありません自分自身の現実を受け入れようと思ったのです。それがせめて伐られたミズキへのわたしからの別れの挨拶だ、と。

同じ思いを、らいてうの家の東寄りに立っていたシナノキにも感じたことをつけ加えたいと思います。「信濃の国」の語源にもなったというシナノキを、わたしはかってにらいてうの家のシンボルツリーと呼んでいました。隣接の菅平には樹齢300年というシナノキの大木があり、曲がりくねった幹の風格は並みではありません。うちのシナノキはやたらに背が高くてあまりあいそがいいとは言えませんでしたが、ひそかに愛してきました。もう寿命だと言われ、隣に若い木が芽を出していると言われましたが、老いた木との別れという点ではミズキと同じです。

「いのちあるもののかたちはかならず土に還る」のが現実です。らいてうは「無限生成」という言葉を愛しました。かたちあるものはいつか消えていくが、いのちは無限に受け継がれていくという意味だと思っています。ミズキもシナノキも役割を終えたとみるべきなのでしょう。しかし、老いたわたしにとってそれは自分自身の運命と同じだと思うのです。そういう意味での「喪失感」を受け入れるのに数日かかりました。わたしももう役割を終えたのだ、と。それは理屈では説明がつかない感覚です。みんなは、如何にあの木を伐らなければ危険かを説き、木は伐ることによって他の木に受け継がれていくのだ、と説得しようとしました。それはわかっています。それでもわたしは、伐られる木と自分が同じだといういたみを感じないわけにいかなかったのです。それは「非科学的」で「不条理」かもしれません。では、お前はすでにあの家を建てるときに木を伐ったことをどう思うのか、いのちあるもののいのちを奪うなと言うなら肉や魚をなぜ食するのか、という反論が殺到することもわかっています。しかしわたしは、ここでミズキやシナノキたちに出会ってしまい、10年以上にわたるつきあいを通じて自分自身が老いて行くことを深く認識したのです。だからもう生きている甲斐がないのではなく、その認識からどう生きなおす途を見つけていくか。それが自分自身の責任だと思っています。

以下、上からミズキ、シナノキ、そしてウロが空いていた枯れ木の切り株です。考えてみたら、ミズキトシナノキの生い茂る全景の写真がありませんでした。ずっとあるように思っていたのかしら・・・。

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ミズキがあったころの庭でフルート演奏する大和田葉子さん

ミズキがあったころの庭で野点のお茶会

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