7月も「強行軍」の予感?―「大槌・釜石・遠野・一関ツアー」へ

梅雨の最中に猛暑到来、いっぺんにバテました。朝起きたらのぼせたみたいで足元がふらつきます。「血圧が上がったのかしら」と計ってみたら高いほうが「112」ですって。こりゃ低血圧じゃん。6月は忙しかったからね。しんどい原稿を2つも書いたのだもの。「2万字」のピンチヒッター原稿は、遅れ遅れながらなんとか校了めざして奮闘中。編集担当のIさんが慌てず騒がずがんばってくれたおかげです。ところがその2万字の原稿を書いた後、7月初めまでに1300字でそのエッセンスを新聞原稿に書く約束があって、そっちの方が難関。それなのに、6月29日から7月2日まで、上記のとおり「岩手県ツアー」を刊行します。なぜならJR東日本が1万5千円で「東日本鉄道乗り放題切符」を出しているから。

主な理由は、昨年女性文化賞をさしあげた千田ハルさんが、戦後すぐから仲間と出し続けてこられた手づくり雑誌『花貌』の実物がご自宅にも全部そろっていないことを嘆いておられたので、「どこに保存されているか調べて一覧表を作りましょう」と約束したのを果たすためです。釜石の郷土資料館や市立図書館、岩手県立図書館などに所蔵されているものは調べたので、千田さんのご自宅にあるものを確認してリストを作るのが目的です。千田さんもお元気で、会って下さるというので馳せ参じるわけ。

それだけじゃもったいないので、わがつれあいドノに話したら「オレも盛岡の県立図書館に行きたい」というのです。おまけに新聞で、東日本大震災で被災した大槌町の庁舎が解体されることになり、6月中にも工事が始まることを知ったのですが、カレは「一度見届けておきたかった」そうで(わたしは何回か現場訪問しています)、じゃあ釜石からバスで行こう、と(なお、庁舎はすでに解体が始まったのですが、そこで亡くなった方の遺族から「解体ストップ」の仮処分申請があったそうです。6月末にはどうなっているでしょうか)。釜石で一泊した後カレは盛岡へ直行、わたしは釜石に残るという計画です。ところがカレ曰く、「オレは時間がないが帰りに遠野を通るなら遠野の博物館で資料を入手してきてくれ」だって。はいはい、じゃあ遠野で途中下車しましょう、「内助の功」ですねえ、と自画自賛して、最終日には一関で合流することに。一関には二人で予約した「樹木葬」の山があって、そこで「ホタル観賞の会をする」というお知らせがあり、ずっと現地に行ってないのでこの機会に二人で訪ねることにしたのです。大船渡へも行きたかったけれど、今回は「婦唱夫随」?の二人同行ゆえ割愛しました。

ホタルのうたと言えば和泉式部の「もの思へば沢の蛍も我が身よりあくがれいづる魂(たま)かとぞみる」という名歌があります。恋のうたなのだそうですが、樹木葬の地で見るホタルは、なにやら死者から抜け出して水辺に舞う「魂」なのではないかという気がします。「うちらももうすぐ行くからね」とご挨拶して来ようとおもいついたわけ。そんなことをしていたら原稿書けないよ、などと味気ないことを言うまじく、「行き着くところまで行ってみる」ほかないと思っています。

その後7月中旬には「らいてうの家」森のめぐみ講座があります。これも、らいてうの家の自然を守ろうと「太陽光発電計画」反対運動をしているのですから意地でも行かねばならぬ。それなのに本人はふらふらして、今日も電車で2回も席を譲られてしまった。大丈夫かなあ…。

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「沖縄慰霊の日」に朗読された詩「生きる」を読みました。

6月23日は「沖縄慰霊の日」でした。1945年春にはすでに日本の敗戦はあきらかだったのに、日本政府は沖縄を「本土防衛」の「捨て石」として県民全体を巻き込んだ戦闘を止めようとしなかったのです。沖縄はかつて「琉球処分」され、沖縄戦で「捨て石」にされ、戦後はアメリカの占領下におかれて講和発効後もそのままにされ、やっと「祖国復帰」したと思ったら、それは膨大な米軍基地を温存する結果をもたらしました。その沖縄が辺野古に新基地を作らせない」と言っているのに、「本土」の安倍政権は耳を貸さない。その理不尽が、辺野古の海の貴重なサンゴやジュゴンをけちらして埋め立て強行を生んでいることを、歯ぎしりしながらみている自分の無力に、絶望したくなります。でも、せめて訴えたい。「沖縄のいたみをわがものとして」と。

23日の県主催の追悼式典で朗読された中学3年生の少女の詩は、感動的でした。昨夜の報道では「コピペ不可」の記事ばかりだったので、今朝コピーできる画面を見つけてここにアップ。これって「海賊版」かしら。でも許してね。今朝の朝日新聞には全文出ていなかったので。14歳の少女が祖母たちの体験談を通じて体得した沖縄戦を「想像」し、自分の言葉で語った文章の誠実でリアルなこと、繰り返される「生きる」という言葉の深さに感動。「言葉の力」を信じよう。

6月10日は16歳で少年兵として「戦死」した兄の命日です。どんなにか「生きたい」と思いながら死んでいったであろう彼を思うとき、73年経った今も涙がこぼれます。相良さん、わたしはもう年を取って、そんなに長く生きないと思うけれど、それでも死者たちの思いを胸に「死ぬまでは生きていくのだ」と思いましたよ。ありがとう。

以下毎日新聞デジタル版6月23日付より引用です。

生きる

沖縄県浦添市立港川中学校 3年 相良倫子

私は、生きている。

マントルの熱を伝える大地を踏みしめ、

心地よい湿気を孕んだ風を全身に受け、

草の匂いを鼻孔に感じ、

遠くから聞こえてくる潮騒に耳を傾けて。

 

私は今、生きている。

 

私の生きるこの島は、

何と美しい島だろう。

青く輝く海、

岩に打ち寄せしぶきを上げて光る波、

山羊の嘶き、

小川のせせらぎ、

畑に続く小道、

萌え出づる山の緑、

優しい三線の響き、

照りつける太陽の光。

 

私はなんと美しい島に、

生まれ育ったのだろう。

 

ありったけの私の感覚器で、感受性で、

島を感じる。心がじわりと熱くなる。

 

私はこの瞬間を、生きている。

 

この瞬間の素晴らしさが

この瞬間の愛おしさが

今と言う安らぎとなり

私の中に広がりゆく。

 

たまらなく込み上げるこの気持ちを

どう表現しよう。

大切な今よ

かけがえのない今よ

私の生きる、この今よ。

 

七十三年前、

私の愛する島が、死の島と化したあの日。

小鳥のさえずりは、恐怖の悲鳴と変わった。

優しく響く三線は、爆撃の轟に消えた。

青く広がる大空は、鉄の雨に見えなくなった。

草の匂いは死臭で濁り、

光り輝いていた海の水面は、

戦艦で埋め尽くされた。

火炎放射器から吹き出す炎、幼子の泣き声、

燃えつくされた民家、火薬の匂い。

着弾に揺れる大地。血に染まった海。

魑魅魍魎の如く、姿を変えた人々。

阿鼻叫喚の壮絶な戦の記憶。

 

みんな、生きていたのだ。

私と何も変わらない、

懸命に生きる命だったのだ。

彼らの人生を、それぞれの未来を.

疑うことなく、思い描いていたんだ。

家族がいて、仲間がいて、恋人がいた。

仕事があった。生きがいがあった。

日々の小さな幸せを喜んだ。手をとり合って生きてきた、私と同じ、人間だった。

それなのに。

壊されて、奪われた。

生きた時代が違う。ただ、それだけで。

無辜の命を。あたり前に生きていた、あの日々を。

 

摩文仁の丘。眼下に広がる穏やかな海。

悲しくて、忘れることのできない、この島の全て。

私は手を強く握り、誓う。

奪われた命に想いを馳せて、

心から、誓う。

 

私が生きている限り、

こんなにもたくさんの命を犠牲にした戦争を、絶対に許さないことを。

もう二度と過去を未来にしないこと。

全ての人間が、国境を越え、人種を越え、宗教を越え、あらゆる利害を越えて、平和である世界を目指すこと。

生きる事、命を大切にできることを、

誰からも侵されない世界を創ること。

平和を創造する努力を、厭わないことを。

 

あなたも、感じるだろう。

この島の美しさを。

あなたも、知っているだろう。

この島の悲しみを。

そして、あなたも、

私と同じこの瞬間(とき)を

一緒に生きているのだ。

 

今を一緒に、生きているのだ。

 

だから、きっとわかるはずなんだ。

戦争の無意味さを。本当の平和を。

頭じゃなくて、その心で。

戦力という愚かな力を持つことで、

得られる平和など、本当は無いことを。

平和とは、あたり前に生きること。

その命を精一杯輝かせて生きることだということを。

 

私は、今を生きている。

みんなと一緒に。

そして、これからも生きていく。

一日一日を大切に。

平和を想って。平和を祈って。

なぜなら、未来は、

この瞬間の延長線上にあるからだ。

つまり、未来は、今なんだ。

 

大好きな、私の島。

誇り高き、みんなの島。

そして、この島に生きる、すべての命。

私と共に今を生きる、私の友。私の家族。

 

これからも、共に生きてゆこう。

この青に囲まれた美しい故郷から。

真の平和を発進しよう。

一人一人が立ち上がって、

みんなで未来を歩んでいこう。

 

摩文仁の丘の風に吹かれ、

私の命が鳴っている。

過去と現在、未来の共鳴。

鎮魂歌よ届け。悲しみの過去に。

命よ響け。生きゆく未来に。

私は今を、生きていく。

 

 

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NHKラジオ深夜便「明日へのことば」に出演します!―7月12日深夜(13日午前4時予定)。

不思議な縁があって、NHKラジオ深夜便に出演することになりました。この番組は知る人ぞ知る長寿人気番組で、なんせ午後11時15分から翌朝の午前5時までという長丁場を、ミッドナイトトークあり、世界の天気から「深夜便のうた」、ロック、ポップス、ミュージカルなんでもござれのロマンチックコンサートから有名無名を問わず多彩な方が登場して人生を語る「明日へのことば」と、リスナーをひきつけてやまないらしい。うちにはラジオがないのと、お目当ての「明日へのことば」が始まる午前4時ごろやっと寝るありさまなので、あまり聴いていなかったのですが、2011年「『青鞜』創刊100年」の時に一度出演して平塚らいてうの話をしたら、何人もの知人から「聴いた聴いた」と電話やメールが届き、その「威力」に感じ入ったものです。早起きの高齢者、夜中に仕事がある方たち、育児や介護で眠れない人も含めて、ファンが大勢いるのだということがよくわかりました。

それからもう7年余り経ち、ある日突然前回とは違うディレクターの坂口憲一郎さんから電話をいただきました。そのきっかけは、彼が昨年7月千田ハルさんにインタビューして釜石艦砲射撃の戦争体験を語っていただいたことがあり、その後わたしが千田さんに女性文化賞をさしあげることになったという経過もあってわたしを知ってくださったようですが、電話口で開口一番「あなたのブログを読みました」と言われ、「どうして<やまんば>を名乗られたのですか?」とお聞きになったのにはおどろきました。

よくぞ聞いてくださったと思い、「やまんばというのは、よく人を取って食うおそろしい女と思われていますが、それは<年取った女性>への偏見だと思ったからです」と申し上げると大変興味を示され、「それとあなたのらいてう研究とはつながっていますか?」とおっしゃるのです。「はい、その通りです」とお答えするうちに、わたしはまだお会いしてもいない坂口さんに親近感を感じてしまいました。そしてそれからしばらく経って深夜便の企画にわたしへのインタビューを加えたいというお申し出があったのです。

わたしは、らいてうについて語るならいいが、自分のことを語るのは面はゆく、リスナーの関心を引くような話題でもないから遠慮したいと思いましたが、坂口さんは実によくわたしの書いたものを読んでおられ、話は「やまんば」談義からやはりわたしがブログで触れた「16歳で戦死した兄」のことになりました。手塩にかけて育てた息子を戦争で死なせてしまった母親の悲しみと「自分は戦争に反対できなかった」という悔悟の思いをつづった母の手記『雲よ還れ』(1986)はもう絶版になって久しく、手元にいくらも残っていなかったのですが、「参考までに」とさしあげたら熟読してくださり、「あなたが平塚らいてうの平和への志を伝えようとしているのは、お母さんの戦争体験とかさなるからですか」とこれまたわたしの考えてきたことをズバリとお尋ねになるではありませんか。その時わたしは、坂口さんが千田ハルさんの戦争体験を丁寧にインタビューされたことを思い出し、この方は戦争というものがどんなに多くの人びとのいのちを奪い、癒え難い傷を残すかということを、いのちを産む立場である女性の視点から伝えようとされていると思い、深く共感しました。

しかも坂口さんは、わたしの父親が戦時中軍人ではなかったけれど、公務員として日本軍の占領地域の一つインドネシアに派遣されていたことをとりあげ、そこで起こった日本軍による現地住民虐殺事件のことにも関心を持って、わたしが「もしかすると父もこの虐殺に手を貸したのではないか?」と悩んで現地まで真相を確かめに行ったことも話題にしてくださったのです。わたしはずっと日本が東南アジアの国ぐにを支配しようとして占領、そこで強制労働や「慰安婦」の動員、そして住民虐殺などを行った責任を忘れてはいけないと思ってきました。なんだか坂口さんはわたしの気持ちを全部わかっていてくれたみたい。

放送は7月13日午前4時の予定です。7月12日の深夜ですからね。わたしもラジオを入手しておこう。起きている人がいたら聴いてね。

追伸 NHKへ行ったとき、初めてお会いした坂口さんから雑誌(『NHK ラジオ深夜便』)の最新号をいただき、表紙にもある「泣き笑い介護40年」(女性講談師田辺鶴瑛さん)のインタビューも坂口さんの担当だったことを知りました。そこにさりげなく「母の介護を4年ほど経験した身」として鶴瑛さんの「介護講談」に関心を持ったとあり、その生活感覚にも惹かれました。「出会い」ってフシギ。

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『ラジオ深夜便』2018年7月号。高村薫さんも登場して阪神・東日本の二度の大地震の経験から「命の言葉」を語ったそうな。

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誠実な女性史研究者だった小和田美智子さんの遺品(書籍)をいただいて

6月16日、わたしより一回り以上も若かったのに、昨年7月急逝された小和田美智子さんをしのぶ会に出席しました。自分より若い方を見送るのはつらく、自分は長生きし過ぎたのだろうか、と忸怩たるものがありました。

梅雨時の暗い空に気が重く、でも昔自分も代表を務めた総合女性史学会(わたしの時代には「研究会」でした)主催で、彼女はそこで事務局長を務め、静岡から会議のたびに出てきてくれたのです。お母さんにそっくりの娘さんと、お父さんにそっくりの息子さんが出席してくださり、こじんまりとした会でしたがしみじみと話し合いました。

わたしも少し話すことになり、会場で配られた冊子にも引用されている著書『地域と女性の社会史―駿東地方を中心として』のあとがきに「私の研究の視点は、これまで歩んできた生活体験の中から生まれてきたといえる」とあるのは、女性史研究の原点ではないかという感想を述べました。わたし自身、日本国憲法で「男女平等」を学んで育ったのに、社会の現実はあまりにも女性に対する差別に満ちていること、そのことに異議申し立てをすればますます「女のくせに」と叩かれることを実感して女性史研究に関心を持った経験があるからです。小和田さんも「なぜ女に学問はいらないのか」「仕事と子育ての両立」「『嫁』の立場」等々の実感があったと書いています。

昔わたしも大学で働いていた時、高名な男性研究者が書いた「たそがれどきに赤提灯ののれんをくぐって一杯酌み交わすとき、ほんとうの学問が生まれる」というエッセイを読み、「おとなげない」と言われるのを承知で「では、夕方息せき切って保育園に駆けこむ女たちには、<ほんとうの学問>談義に加わる機会はないのですか」と異議を唱えてヒンシュクされたことがありました。子育ての苦労は学問と無縁だと言われ、「じゃあ、子育てから生まれる課題こそ歴史研究のテーマだということを証明しよう」と思ったのが女性史研究の始まりでした。産休明けに書いた『近代日本女性史』という新書は、史料の引用の仕方も知らない不出来な本でしたが、「子ども子どもばかりでてくる」という酷評に「子どもがいない歴史のほうがヘン」と言い張った記憶もあります。

でも、小和田さんのえらいところは、ただ「女たちの実感」を語るだけではなかったことです。彼女が静岡を中心に書いた多くの論文や著書は史料をきちんと読み込み、地域の政治や経済全体のなかで女性の位置をとらえなおそうとしているところです。今回改めてそのことを感じたのは、ご遺族が小和田さんの手元にあった書籍を「本人が愛用したものと思うからもらってくだされば」と持参されたからです。彼女自身の書いたものもありましたが、わたしは戦時中に刊行された『農村共同炊事と育児と栄養』(西沢巌 1944)と『戦時下の食糧と体位』(井上兼雄 1943)の2冊を「形見分け」のつもりでいただきました。彼女がみかんで名高い静岡県三ケ日町に生まれ、『三ヶ日みかん農家の三代―天保から戦後の130年』などを書かれたことは知っていましたが、そうした農村の女性たちの暮しをつかみなおすのに、こうした戦時下の記録も克明に読んでおられたのだということに感慨があったからです。「事実と向き合う」という意味で誠実な歴史家の一人だったとあらためて思いました。img548

戦時中、こうした書物の多くは「女性の国策動員」のために出版されました。そうでなければ出版など簡単にできません。しかし、おそらく栄養学の研究者や農業指導者であった著者たちは、マクラに「決戦体制を乗り切ろう」といった文言を使っていますが、中身は、農村の子どもたちとその親に如何に衛生や栄養知識を普及し、病気を防ぎ、体位の向上を図るべきかをこまごまと説き、農村の共同保育に無理解な地域を変えようと実践の経験を集めています。それは「健民健兵」政策の一環だと言えばその通りですが、そこに書きこまれた事実は日本の農村の抱えた貧困や政治の矛盾の反映にほかなりません。小和田さんの資料に対する実証的な姿勢がわかるような気がしました。

なお、わたしは平塚らいてうが戦時中から玄米食を愛好し、「国策協力」したと言われることにも疑問があり、その意味からもこの書籍を読みなおしてみようと思っています。小和田さん、ありがとう。「また本が増えた」と言われるのはわかっていますが、大事にしようと思います。

 

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6月のみかづき子ども食堂は成蹊大学で「カツカレー」でした。

1カ月も前に「6月19日は成蹊大学でカツカレー」と教えてもらい、「行く行く」と約束していたのですが、当日の19日、うちにはつれあいドノが鎮座。「いっしょに食べに行こう」と誘ってみたけれど「はずかしい」らしくて腰をあげません。あるいて10分もかからないところなのに。しかたないのでご飯だけ炊き、タッパーをもって「テイクアウト」しに一人で出かけました。そんなことゆるしてくれるかしら。

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「みかづき子ども食堂 at 成蹊大学」の案内

成蹊大学の入口にはちゃんと案内の方がいて、「国際交流会館はこちら」と手を取らんばかりに連れて行ってくれました。時間が早いのでお客さんの姿はまだなく、じつは子どもたちは学生たちと一緒に、ボールゲームの真っ最中らしい。でも明るいホールの奥には立派なキッチンがあり、みなさんカレー作りに奮闘中。わけを話して「カレーだけでいいから」とタッパーを差し出し、いつものカンパ箱を捜したのに見当たりません。「あのね、今日は大学のほうで予算を出してくれたの。だから今日は全部無料よ」と食事代の一人300円もナシだそうです。それじゃ「食い逃げ」だと問答して無理やりカンパだけエプロン姿のスタッフのポケットに押し込んでいるうちに、会場にはだんだん子どもたちの姿が。後ろのほうに大学の先生と思しき男性が立っていたので、思わず「成蹊の先生ですか」と声をかけ、「大学がこうやって地域貢献されるのは素晴らしいですね」と挨拶してしまいました。昔わたしが大学に勤めていたころは「大学の教師は研究していればいいので、地域サービスなどというのはカルチャーセンターに任せておけばいい」というのが「あたりまえ」で、わたしはこれに反発して東京でも山梨でも「地域住民と協同の学習を」と叫んで走り回ったものですが、その時には「子ども食堂」までは思いつかなかったなあ。「少子化時代」に大学はどう生き残るかといわれますが、こういう地域貢献に協力する大学ってすてきじゃん。「わたしは一利用者ですが、ぜひこれからもよろしく」と頭を下げてしまった。

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だんだん集まってきた子どもたち。そのうちに留学生の方たちも来るはずだそうですが…。

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忙しく働くみなさん

そして「テイクアウト」はタッパーいっぱいのカレーのほかに、揚げたてのカツがどっさり。「キャベツのピクルス」も持たせてくれ、「デザートも」と言われましたがさすがに持ち運びできないので遠慮しました。そうこうしているうちに子どもたちも集まりはじめ、成蹊大学の学生さんが「今日はお手伝いします」と飛び込んできて、会場はいっぺんに賑やかに。「今度はダンナさんを連れて来てね」といわれながら、ほかほかのバッグを抱えて我が家に戻り、せめてつくった手づくりのかぼちゃサラダとスープを添えたら、いやいや超豪華な夕食となりました。例によって写真を撮り忘れたので、これは残ったご飯とカレーにカツとピクルスを載せた「ミニチュアサイズ」です。でも雰囲気はあるでしょ?これは明日のお昼ごはんだね。

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カレーとカツとピクルスがどっさり。ミニチュアサイズには見えないでしょ?

というわけで、子ども食堂は今や子どもたちの幸せに生きる権利保障であると同時に、大人たちの暮しも支え、何よりも心が温かくなる活動だと思う。大学や企業や地域の施設(春休みにはお寺を開放してくれたものね)がもっと協力する道が開けるといいね、と思いました。みかづき子ども食堂がこれからも続きますように。

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<もうひとつの「#Mee Too」または「#With You」の問い>―茶園敏美『もうひとつの占領』を読みました。 

もう一人「人使いの荒い」ヒトというのは、じつはWANの前ミニコミ図書館長のMさん。じつはずっと以前に彼女がいた出版社から共著の単行本を出してもらったことがあり、その後20年も経ってからWANで再会したのですが、その恩義忘れ難く、彼女に言われると「イヤ」とは言えなくなるのです。昨年11月、WANのブックトークをした時も、宣伝のためコメンテーターになった小林エリカさんや川上未映子さん、福田和香子さんたちの書いたものを読みまくって紹介文など書いた(書かされた)記憶があるのですが、今回は、表題に掲げた茶園敏美さんの本の書評を書きなさいとのご通達。しかも著者から「献本する」というお知らせまで飛び込み、若い方から著書をいただくとは畏れ多い、とまだ本が届かないうちに「いいです」と返事してしまったしだいです。

但し5月中は例のピンチヒッターの原稿を書いているので、6月になったらね、とことわったのにその5月末から6月早々いろいろ追いまくられて手がつかず(姉の介護にも行ったし、静岡まで行っちゃったし)、ほんとのことを言うと書き始めたのは6月12日。それで13日深夜WANに送ったのにその夜のうちにもうWANのサイトにアップされてしまうというスタッフの方がたの離れ業に、普通なら推敲して出すべきところをしなかったはずかしさでしばらく読む気になれませんでした。でも「天下の公器」にアップされたのだからもう逃げ隠れできない。下記のサイトから検索して読んでください。

https://wan.or.jp/article/show/7939

そういうわけで「書評」とは言い難いですが、この小文に<もうひとつの「#Mee Too」または「#With You」の問い>とつけました。つまり茶園さんがこの本で、日本がアメリカに占領されていた時代、「パンパンと呼ばれた女性たち」がいて、彼女たちに対するまなざしが差別的な烙印(スティグマ)に満ちていたこと、にもかかわらず彼女たちはそこで「圧倒的な権力の非対称」のもとでみずからの主体性をかけて生き延びるために占領軍兵士と渡り合い、生き延びていった事実を、限られた資料(行政資料などは多くの場合それ自体が彼女たちを「街娼」扱いしている)を別の視点から読みなおすことで描き出したことを、未だに「セクハラ」を認めない日本の政治家たちと向き合っている現代の自分がどう受け止めるか、という意味です。そう思った部分だけここに再録します。後はWANで読んでください。

「わたしは1952年に講和条約が発効した時、高校生だった。講和後も米軍は撤退せず軍事基地はそのままである。「独立」とは名ばかりだと怒ったわたしたちは高校の文化祭に東京の基地問題をとりあげることにして米軍立川基地を探検に行った。有刺鉄線の向こうに銃を構えたMPがいて、「写真を撮ったら殺す(in the death―追記 under the deathだったかも)と英語で書いてある標識をこっそり撮影してきたことを覚えている。

  夕方になって立川駅まで帰る時、案内してくれた地元高校の男子生徒が「これから先は気をつけて」という。よくみると薄暗くなった軒先に間をおいて何人もの女性が立っていた。地味な服装だったが、説明されなくても意味は分かった。誓っていうがその時の彼女たちを侮蔑的に見た記憶はない。「アメリカが悪い」と思った。けれども「自分とは違う世界」の女性たちという思いで足早やに通り過ぎたことが、この本を読むときよみがえってきた。わたしは茶園さんが告発した「現場」にいたのだ、と」

幸い著者の茶園さんはこのタイトルを気に入ってくれ、WANのみなさんからも「実感があっていい」と言われたのでわたしの意は通じたと思うのですが、そこで一言。

この本の帯には上野千鶴子さんの「推薦の辞」が載っているのですが、「上野千鶴子」という文字が著者の何倍も大きいのです。「宣伝戦略」かと思いましたが、わたしは「はあ、この本が世に出るまでに上野さんがおおいに指導鞭撻したからだな」と思いましたね。読んだらわかるもの。そしたら茶園さん自身が告白してきました。「上野先生はほんとに先生です。社会学の方法論を叩き込んでくれ、私の書いたものを<100%ボツ>と言って、それから原稿ぜんぶに赤字を入れてくれました。私は50回も書き直したのですよ」と。

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茶園さんの本。下は帯。著者はどっち?などと言わないでね。付箋がいっぱいついているのは、わたしの悪戦苦闘のあかし。

なるほど、そのときわたしは、論客として知られる上野さんが、「教師」としてもすぐれた力量と熱意を持っていることを理解しました。日本の大学教育、特に研究者養成については、半世紀前の経験ではよく言えば自由だがそれはしばしばほったらかしになる恐れもあり、あるいは教師の言うとおりのテーマでないと認めてくれないことがままありました。今は大学院生に対し研究指導を名目にセクハラに及ぶ「トンデモ教授」もいるらしい。娘はアメリカで博士論文を書きましたが、そのときの指導教授は実に熱心で厳しく、彼女の書いたもの(もちろん英語で書いた)を日本語で言うと「てにをは」に至るまでチェックしてくださったそうです。わたしは帯の超デカ文字に、上野さんの「教育力」(失礼!今ごろ気がついて)を感じてしまった。もっともご本人は「そんなのあたりまえ」という顔をしておいでですが。

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「夜更かし高齢者は認知症リスクが2倍」ってホント?

平塚らいてうの会は「人使いが荒い!」のですヨ。この2か月ほどの間、次々と降りかかる難問に、パソコン画面が見えなくなるくらい目をしょぼしょぼさせながらしがみついていました。

最初は今年度刊行予定の『らいてうの会紀要』11号の原稿に穴があきそうだというので急きょピンチヒッターの原稿書き。「らいてうの『戦後日記』と公開された湯川秀樹の『1945年日記』」をテーマに、1万字のはずが2万字も書いたのは「こちらの勝手」ですが、毎晩夜なべをして5月いっぱいかかりました。

ところがそれが終らないうちに「らいてうの会ニュースに載せる太陽光発電問題の原稿が字数オーバーなので削って」という連絡。「そんなの書いた人にやってもらってよ」と返信したら「書いた本人はギブアップ」なのだそうです。やむなくすでに編集済みの版下を送ってもらい、はみ出た分をページ内に納めて返送。そしたら次は同じく『紀要』の太陽光発電問題の学習会記事が「半ページ分余ったので、穴埋めを」ですって。もっともこれも太陽光発電問題なので、なぜあずまや高原の太陽光発電に反対している私たちが「地域風土に見合った自然エネルギー」というテーマの学習会を開いたかという説明が必要、と申し入れたのは自分だから「身から出たサビ」というものですが。それも指定字数で書いたのに「半ページを超えた」というのでまた書き直し。

それが済まないうちに7月に出す『らいてうの家通信』に「この夏らいてうの家でやるらいてう講座『らいてう日記と湯川日記』の原稿を」という注文が。これもわたしが講師で、それを準備するために上記の『紀要』原稿を書いたのだから宣伝しなくては意味がない。即書きました。

というわけで毎晩2時3時に寝る始末。そしたら新聞に「夜11時以降に寝る夜更かし型の高齢者は認知症のリスクが通常の倍」というオソロシイ記事が出て、ヘンに納得してしまった。

以下朝日新聞デジタル2018年6月14日付より。  夜更かしする75歳以上は認知症のリスクが高まるとする調査結果を、国立長寿医療研究センター(愛知県大府市)などの研究チームがまとめた。14日から京都市で始まる日本老年医学会で発表する。2011年度に、有志で参加した大府市の65歳以上のうち、認知症認知症になるリスクの高い脳卒中などの疾患のある人を除いた4268人の起床や就寝時刻などを調べた。このうち、約4年後までに認知症を発症した人は、75歳未満で73人(2・3%)、75歳以上で113人(10%)いた。認知症の発症リスクと就寝時刻の関係をみたところ、75歳未満では差がなかったが、75歳以上では、午後9~11時に寝る人に比べて、午後11時以降に寝る人は認知症の発症リスクが1・83倍高かった。  (引用終り)。

わたしみたいなのを「高プロ」とはいわないが、「働き方改革」で過労死必至と言われる今、とっくに現役をリタイヤしたわたしにとっても他人ごとではない?でも、雇われてるわけじゃなし、こんなに骨身を削って書きまくってもパソコンの紙代やインク代に至るまでぜんぶ持ち出しの「無償労働」だから「年収1000万円」には遠く及ばないからカンケイないよね、わたしが認知症になっても過労死しても「自己責任」。ひとを恨んではいけません、と言い聞かせつつ、それじゃ裁判もできないから浮かばれない、死んだらどこかに化けて出たい心境であります。

しかし、話はこれで終りませんでした。「らいてうの会」の悪夢が一段落した後、じつは数日間で本を1冊読み「書評」を書くという仕事を、わたしに言いつけた人がいるのです。続きは次回に。

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