沖縄県知事選で玉城デニーさん当選!これが「沖縄の心」だ。

今は真夜中。東京は台風襲来で、一気に雨風が激しくなり、さっき一瞬停電しました。そうなるかと思って昼間のうちに足りなくなっていた電池を買い込んでおいたので、慌てず騒がず懐中電灯をつけ、ポータブルラジオも用意しておいたのですが、すぐに復旧、パソコンはもう原稿を書くどころではなく沖縄県知事選の報道にしがみついていたので未保存の文書もなく、損害はありませんでした。

というわけで夜8時からパソコンでニュース検索に熱中。投票終了とほとんど同時に朝日新聞が「玉城当選」を出したのにはびっくり。半信半疑でしたがやがて各社が追随、あのおカタイNHKも「当確」を出したので(NHKを信用したわけではないが)納得しました。つまりそれほど玉城デニー候補が優勢だったのです。でも票数がなかなか出てこない。NHKが最終結果を出した時はもう日付が変わっていました。玉城396,632票と佐喜真316,458票、その差は約8万票!「無党派層と女性の票が玉城候補に」という解説もありました。

「翁長さんの遺志」は受け継がれたのです。沖縄県民の選択を誰もひっくりかえすことはできない。この3月辺野古に行き、「貧者の一灯」を置いてきたわたしにとっても「わがこと」としての喜びです。9月はわたしの誕生月なのに、自民党総裁選で「安倍三選」の報道に「いいことないじゃん」とクサッていたのですが、9月最後の日に溜飲の下がる思いをしました。沖縄のみなさん有難う。東京もがんばらなくちゃ。

もちろんこれからがたいへんだと思う。翁長知事に会おうともしなかった安倍首相は玉城新知事にも門前払いを食わせるのでしょうか。佐喜真候補は「対立をあおるのはよくない」と言ったそうですが、そのせりふはそっくり政権の側にお返しして「沖縄の心」をまっとうに受け止めてもらいたい。

今は、10月1日午前1時、台風は猛烈な勢いで通り過ぎていくらしい。この勢いで「戦争したい」輩を吹き飛ばしたいものだと思いつつ、やっと寝られる気分になりました。

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「平塚らいてう」と「大坂なおみ」「安室奈美恵「樹木希林」をマクラにお話ししました。

7月8月は猛暑と「介護疲れ」。8月末に姉が退院し、一人では暮らせないので「ショートスティ」のお願いしたところ、ここがとってもよいところで「ずっといたい」といいだすほどになりました。

でも、そうはいかないので、初めはお医者さんとも相談して「介護つき老人ホーム」を捜すことになりましたが、そのうちに元気回復してすこしは歩けるようになり、「自宅に帰りたい」と方向転換、姉の面倒を見てくれる施設(優っくり村)でも「ディサービスとヘルパーと時どきショートスティを組み合わせて自宅で」というケアプランを作ってくれたそうです。「夜はどうするのだろう」と心配はありますが、プロの方が判断されたことを信頼して10月からは在宅の予定になりました。

さて、こちらの10月はてんやわんや。2日には北海道から「茅ヶ崎を訪ね体」というツアーが来るので、なんとわたしが羽田で合流し、バスの車中と茅ヶ崎に着いてからと2度「らいてうの平和思想」と「それを支えた奥村博史との出会い」を講義することになりました。話を聴いたときは「わたし、もう84歳ですが」とひるみましたが、向こう様は北海道平和婦人会を中心にらいいて鵜の家に何回も来てくれた「お得意様」、今回はらいてうの家ではなく変わったコースを、という企画だとか。しかも北海道は地震で参加者激減のなかを決行というのでほだされちゃった。今は2日までに台風24号が通り過ぎることを祈っています。

これを皮切りに、8日は茅野で開かれる「メガソーラー」問題の全国シンポジウム」に参加します。らいてうの家は「メガ」ではないが、「太陽光発電」問題に疑問がたくさんあるので各地の報告を聞こうと、申し込みました。22日には、こんどは「らいてうの家」訪問ツアーがやってきて「米田の話を」と言うご指名です。御当番ではない日に行くので連れて行ってくれる車が確保できない。やむなく前夜ホテルに泊まればホテルは上田駅まで迎えに来てくれる、と覚悟しましたが、ツアーのほう出「それは大変だから、私たちのマイクロバスが上田駅を通る時ひろってあげる」ということになりました。なんだか「流浪の民」か「旅芸人」みたいな気分ですが、そうやって来てくれる方にお話しするのもボランタリーな仕事です。しゃべるだけならまだしゃべれる、と思いつつ、引き受けました。それから1週間後にはもうらいてうの家は冬季休館準備で大掃除をするのでまた行かねばならぬ。というわけで10月は、姉をかまっていられないのです。「優っくり村」さん、どうかよろしくおねがいいたします。

その前触れではないが、9月28日、姉が病院へ行く日なのに付き添いを弟に頼み、青山学院女子短大の「女性・環境・平和」という授業の講義をしに行きました。年に1回だけこのテーマで『平塚らいてうに学ぶ』という講義をするのです。いまどき若い女子学生が「らいてう」なんて聞いてもピンと来ないだろうなあと思いつつ、去年はNHKの朝ドラに出てきたので、けっこう反応があり、「だれも知らないらいてう」を話したのですが、今年はそんな目玉もないし、と思案した末に「平塚らいてうと大坂なおみ、安室奈美恵、樹木希林」をマクラに振って話しました。「らいてうとこの3人の共通点は」というナゾナゾです。レジュメには「人に言われたとおりにしない」「自分で考えて自分の意見を持つ」「思ったことをまっすぐに実行する」「結果を忖度しない」「行き着くところまで行ってみる」「後ろを振り向かない」「人のせいにしない」「でも、自分だけでなく人のことを考える」と書き、「わたしはわたし」という生き方があってこそ「他者を愛する」ことができること、らいてうの平和思想はそういう精神に満ちていたという話をしたわけ。あっという間に時間が過ぎ、「最後の10分は感想を書く時間」と言われていたのに、90分休みなしにしゃべってしまって、謝りました。

来週は、カンボジアのポンナレットさんの講義です。「聴きに行く」と約束してあります。そこで、わたしはある決心をしようと思っているのですが・・・。だから10月は忙しい。

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「補助線を引く」―わたしのブログにコメントをくださった方のブログから.

前回、わたしのブログに沖縄県知事選で「自民・公明派候補」の宣伝と思われるコメントが届いたことを報告しましたが、その一文を一夜のうちに大勢の方が閲覧されたらしいことを知りました(と言ってもせいぜい3ケタに届くかどうかですが、わたしの場合は「大勢」)。関心を持っていただいたのか、「監視」されているのかは不明。どんな反応が来るか、すこしコワイですが見届けたい。

ところで、やはり「やまんば日記」を読んでくださった方からのコメントを通じてその方の発信した文章を読み、共感するところがあったので、許可を得て一部を引用します。ネットの世界は魑魅魍魎といわれるが、まったく未知の方とこういう交流ができるというのもネットの強みだと思う。わたしは、かつて加藤周一がチェコにソ連軍が侵入した時のことを「1968年の夏、小雨に濡れたプラハの街頭に相対していたのは、圧倒的で無力な戦車と、無力で圧倒的な言葉であった」(『加藤周一自選集4』)と書いた文章を引用したことがあります(2016年5月のブログから)。今、この方の文章を読んで、もはや力を失いつつあるとさえいわれる「言葉」と「思想」の持つ重みを、もう一度見つめ直したい。折から『新潮45』の「ヘイト発言」問題がクローズアップされている今だからこそ。以下引用。

            補助線を引く      (前半は省略)

(日本国憲法)9条の危機とは、「戦争をできる国にする」こともさりながら、その前提たる「国際社会において名誉ある地位を占める」ことを見失い、自ら放棄しつつあることではないか。現政権を先頭に私たちはいま、過去の価値への回帰などではなく、価値と言葉、思想そのものの忘却と破壊に向けて転げ落ちている。

市民として、破壊に抗して思想を定着し積み重ねること、多様な価値を紡ぐこと、言葉を醸すこと。知性と情報はその土台であり、強力な補助線である。

今日ここに、世界を言葉で切り取る営みに参加する人々がいること、そのものが現政権を先頭とした潮流に抗する戦略なのではないか。そして、声を上げ続けなければ明日にはこの言葉が奪われる可能性に抗し、すなわち市民的不服従を。magic bulletを問う声を耳にしつつ考えている。(引用終り)

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わたしのブログに沖縄県知事選候補(自民・公明派)応援のコメントを投稿した方が。

沖縄県知事選はあと5日。地元新聞は「競り合い」「互角」と慎重ですが、全国紙の朝日新聞は「玉城リード」という見出しで報道しています。ホントなのか、応援したいのか、それとも逆効果になるのか?「未定」という人が2割から3割いるので、この人たちの動きによって変わるという論調でした。県内市町村長の多くは「自民・公明派」支持だそうですが、その首長さんの間でも「辺野古反対」の声が多いとか。辺野古に基地をつくらせたくないなら、辺野古推進派を支持するのは矛盾だと思うけれど、基地問題を選挙の論争点にしない作戦に乗せられないでね。

しかしおどろいたことに、「辺野古反対」の立場を標榜しているわたしのブログに、「某月某日、(自民・公明派)知事候補の演説会があります」というコメントを投稿した方がありました(「名無し」と書いてあった)。それも沖縄とは関係のない記事に対してです。もともとコメントは一切公開しない原則なのでこれも取り上げませんが、なんだかバカにされたような気がしてしまった…。ブログは公開しているので、コメントを投稿されるのは自由ですが、思うに投稿できるところにはかたっぱしから投稿しているのではないかしら。もしそうだとしたら恐るべき宣伝作戦ですねえ。

ITはヤミ世界といわれますが、もしこんな活動がひろがっているとすれば、こっちもITをつかった「合法的活動」をしなくてはと思うけれど、かなしいことにわたしにはその能力がない。せいぜいブログで叫ぶほかないのですが・・・。「力あるものは力を」どうぞお願いします。

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沖縄読谷村で米兵侵入事件―女子高生は赤ちゃんを抱いて裸足で逃げた。

沖縄県知事選はあと1週間。安倍サンは総裁選で地方党員票が思うほどとれなかったから、沖縄で負けたら大変と「テコ入れ」をしているそうですが、こっちは沖縄で彼をヘコませないといい気になると思っています。

折から、沖縄読谷村で、9月7日夜、またもや「酒に酔った米兵」が上半身裸で民家に侵入という事件が起こりました。当時居合わせたのは高校2年生のお姉さんと生後5か月の赤ちゃんだけで、両親はそれぞれ用事があって出かけていたそうです。女子高生は子守をしながらテレビを見ていましたが、突然の侵入者に「殺される」と思い、妹を抱いて裸足で逃げ出したと言います。近所の家に駆けこんで事なきを得たものの、その後学校を早退するなど不安定な状態がつづいたそうですが、何とか回復したみたい。それでも「心の傷が心配」「ケアしてあげて」という声も。よく逃げ出したよね。それも赤ちゃん抱きかかえて。怖くてすくんでしまったらレイプされていたかもしれない…。ネットでは「赤ちゃんまで連れて逃げたとはエライ」という声があふれています。

それにしても読谷村は沖縄戦のとき米軍が上陸した地点で、チビチリガマの島民集団死(自決)で戦争の爪痕が残る地域です。以前にも米兵が民家に侵入する事件があったはず。読谷にはトリイステーションという基地があり、アメリカの軍事情報基地として重要な役割を担っています。普天間・辺野古も問題だが、ことほどさように沖縄は基地だらけなのです。その基地をさらに強化するのか、戦争の危険のない平和な沖縄をめざすのか、県知事選が女子高生の恐怖をなくす方向に向かうことを祈るばかりです。

 

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わたしも中国残留孤児になったかもしれない―NHKのETV特集「私は誰?―中国残留邦人3世の声」を観ました。

この夏、NHKの戦争関連ドキュメントは秀作が多く、眠い目をこすりながら深夜の再放送までたくさん見ましたが、これは9月の秀作の一つです。ここで「3世」というのは、敗戦後の中国から帰国出来ないまま中国で長く暮した日本人(1世)が、その子たち(2世)とともに日本に帰国、その2世たちから生まれた世代を指しています。彼たち彼女たちが「中國では日本人というので(文革の時などには)迫害され、日本に帰ってきてみれば「日本語も話せないのは日本人じゃない」と差別されてきた父母や祖父母との間に葛藤を抱き、「自分はなにものか?」「自分のルーツを知りたい」という思いにかられて「聞かないでほしい」という祖父母のつらい過去を見据えながら「自分さがし」をする痛切なドキュメントに惹かれ、昼寝して深夜のテレビを終りまで見ました。

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2007年1月31日付新聞から。

わたしの手元に1枚の新聞記事があります。よくとってあったものですが、2007年1月31日付の記事で、東京地裁が「中国残留孤児」たちによる国家賠償請求訴訟判決の記事でした。ここに載せたのは、国の責任を認めない一審判決に、東京地裁前で手をふりあげて抗議する原告や傍聴者の写真ですが、一番前(右)にいるのがわたしです。わたしは、この裁判を応援して何回か傍聴に通いました。それは、国策によって中国大陸(満洲を含む)に送り込まれた日本人を、敗戦後責任をもって早期帰国させる方策をとらず放置、民間の努力で帰国が実現した後も、長く中国で暮して日本語も「忘れてしまった」人々に言葉の再習得や生活保障もろくにしてこなかった日本政府に対する賠償請求に共感したからですが、もうひとつ、「わたしももしかしたら『残留孤児』になっていたかもしれない」という思いがあったからでもありあります。

というのは、わたしは1938年から39年にかけて「満洲国」で暮らした経験があったからです。4歳から5歳でした。父が当時の「役人」で日本のカイライ国家だった「満洲国」に「転勤」したのです。母は5人の子どもを引き連れて夫とともに満洲にわたりましたが、日本人が威張って暮らしているのになじめず、「とても住むところではない」と夫を残して1年で引き揚げてきてしまったというのです。もしそのままずっと中国で暮らしていたら、わたしも残留孤児になっていたかもしれない。敗戦のとき10歳だったわたしと同じ年で日本人であることをひた隠しにして生き、「日本語も父母の名も故郷の地名も」忘れてしまったという方のことを知って、他人ごとと思えなかったのが裁判支援のきっかけでした。

この番組は、そういう祖父母たちからその苦難に満ちた歩みを聞き取る仕事を始めた青年や、一度は中国名を捨てて日本ふうの名前をえらび、日本国籍をとる手続きをしたけれど、もう一度考えて中国姓に変更する決断をした女性たち3世の足取りを追いながら、「我是誰?」と問いかけつづける若い群像を描き、1世たちとは異なる葛藤と模索を追って共感できる内容でした。そこで、わたしの感想です。10年余り前の裁判の時も思ったのですが、「日本人なのに日本語もしゃべれないのか。それなら中国人だ」と差別された体験には二つの問題があったと思う、一つはあれほどやれ単一民族だとか、日本の伝統とかを声高に言い立てる人々がいる半面、苦難の道を経て日本に帰ってきた「日本人」を「よく帰って来たね」と迎える施策を日本政府は取らなかったということです。2007年の裁判時も「母国語を失った(忘れてしまった)ことが重大な損害だとは言えない」と請求棄却したのです。じっさいには帰国後国が用意した日本語習得期間はごくわずか、大部分はほとんど使えないまま放り出され、そのために仕事もみつからず、「日本人のくせに中国語をしゃべる」と差別される原因にもなったのですから、その苦しみを認めない判決であったことを今でも思い出します。裁判敗訴の後、「これでいいのか」という世論に動かされ、一定の法的支援策がとられるようになりました。

もう一つ痛感したのは、番組に登場した3世たちも証言していることですが、日本という国は、少しでも「ふつう」とちがう人間に対してまことに排他的であり、差別やいじめの対象にする人があまりにも多いという事実です。3世の一人がアメリカに留学したら、さまざまな人種や宗教の人びとが何の違和感もなしに付き合っていて「解放された」と発言していましたが(そのアメリカでも人種差別はあり、トランプ大統領になってから深刻になったと報道されています、それでもちがう)、日本はその点人種・言語はもとよりLGBTや障害者差別まで政治家やマスコミまで当然視する「オソロシイ国」です。セクハラだってそうです。日本に戦前戦中「人権」というものが存在しなかったというが、戦後70年以上経って、今もこの国には憲法に保障されているはずの人権認識が欠落している。今や輝かしいヒロインになったテニスの大坂なおみ選手だって、初め両親が結婚するとき、なおみさんのおじいちゃんは「黒人と結婚する」ことに猛反対したそうじゃないですか。今とっても嬉しそうにしているおじいちゃんを責める気はないが、一言発言してくれたら、日本人の人種差別意識改善に少しは役に立つと思うけどなあ。

また脱線しました。日本の侵略戦争に翻弄された祖父母たちの言うとおり「戦争はダメ」と叫び、若い3世たちの未来がひらけていくことを信じたい。

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 「子どもを社会の真ん中に」というみかづき子ども食堂で、わたしもお夕飯をいただきました。

ひさしぶりで、みかづき子ども食堂のお夕飯をいただきました。わたしがカンボジアから帰るのを待って15日につれあいが家出してから5日目、冷蔵庫の残り物もほぼ食べつくし、「そうだ、今日は子ども食堂で食べさせてもらおう」と思いついた次第です。例によってちょっぴりカンパのほかに今日は100円玉3枚を握りしめ、わが家からは5分なので6時ごろ出かけてみると、驚いたことにもう超満員。「えー、じゃあもうないの?」と聞くと「だいじょうぶ。あるけどご飯が足りなくなりそう」とのこと。

遠慮しようかと思ったのですが、いつものメンバーに「いいから上って」と押し込まれるように室内へ。なるほど向こうの居間では押すな押すなの子どもたちがおおさわぎ。こちらの大人用テーブルのほうも子連れママや「子どもに勉強を教えている」という若い方とその生徒たちなど、入れ代わり立ち代わりの賑やかさです。写真を撮りたかったけれど、遠慮してまずは玄関の靴の山でご想像あれ。「100人くらい来るんじゃないかしら」とキッチンは殺気立つほどの忙しさです。それなのに、「カンボジアから帰ってきたのね」と声をかけてくれる方もいて、アップしたばかりのブログを読んでくださったのだと、感激しました。DSC01957

かんじんのカレーも子ども用には甘く、大人用には辛くと使い分けるこまやかさ。おまけにデザートは本物のアイスクリームだったんですよ―。「カレーのときって、いつも子どもがいっぱい来るの」とはスタッフの話でした。向かいの席には小さな男の子とおしゃまなお姉ちゃんがいて、坊やがよく食べること。孫のいないわたしですが思わずお姉ちゃんとおしゃべりしてしまった…。あまり長居しては邪魔になると思い、早々と失礼しましたが、お腹もこころもほっこりしましたね。10月は、なんと3回もやるのだそうです。

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卵もパプリカもポテトチップものっている「辛い」カレー。

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じつは半分食べてからあわてて撮った写真

「子どもを社会の真ん中に」というみかづき子ども食堂がみんなの応援でずっと続きますように。そして時どきご飯をつくるのがいやになった年寄りにもおすそ分けしてね。じつは今日、夏に受けた老人健診の結果を聴きに行ったら「どこも悪くない」と「オールA」の通知表をいただき、「ただし平均値で見るとタンパク質が足りないようですね」ですって。これこれ、高齢者はとかく「あっさりしたものがいい」などと思いこんで肉類を摂りたがらないから、オカネがないわけではないのに「低栄養」状態になると聞いていましたが、そうか、よーし今日はカレーで元気をつけ、つれあいが帰ってきたらおいしいものを食べに行こう。二人とも9月が誕生月なのですからね。10月も行けるといいな、と思いつつ。

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10月は3回もやる、とあります。

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