「戦争体験継承をめぐる『記憶』と『想像』」について―「トランプのアメリカ」への応答から  

「原稿書けない症候群」に取りつかれながら書いた「トランプのアメリカ」論。まことに言葉足らずで不出来でしたが、思いがけず読んでくださった方から「いいね」をつけてもらいました。ご自分のブログに引用した、と言ってくれた方もいます。勇気を出して12月初めの研究会報告の準備に取り組もう。それを3月までに「60枚の論文」にまとめなくてはならないのです。

テーマは仮題ですが、<戦争体験継承をめぐる「記憶」と「想像」―「被害体験」と「加害責任」の双方向的認識の試み―>というのです。この夏、73年前の「戦争体験」の「記憶」を語る90歳を越えた方たちの証言を聴きました。一方で「戦争を知らない」若い世代の方がたが、「戦争」の事実を掘り起し伝える活動も進んでいます。彼ら彼女らは「想像」することによって「戦争」の真実を理解しようとしているのです。戦争を実際に体験した世代が少数になって行く今、体験者の「記憶」とそれを継承する「想像」の力がともに求められるということを考えてみたかった。同時に、体験者の多くが戦場であれいわゆる「銃後」の生活の場であれ、男性であれ女性であれ、子どもであれ、「悲惨な体験」をした人びとの「記憶」をどう「想像」し、再構築するかが問われるのではないか。わたしは女性史研究者ですが、「女性の戦争体験はしばしば被害体験が先行し、自分たちが戦争加担したという加害認識が欠落している」という批判を受けてきたことにこだわっています。この問題は、繰り返し論争されてきました。

何遍も書いたので繰り返しになりますが、わたしの母は戦時中「何も知らず」、かわいがっていた二番目の息子(わたしの兄)が15歳で少年兵に志願したいと言いだしたとき、「陸軍にだけはやりたくない。あそこは地獄だ」という思いから「男の子はかならず兵隊にとられる。海軍ならまだましかもしれない。小柄でやせっぽちのこの子なら飛行機乗りにしたほうがいいかもしれない」と思案して海軍の少年飛行兵士志願を許した経験を持っています。兄は敗戦の2か月前、特攻隊に指名されてすでに敗色濃い沖縄戦に投入される直前、米軍機の空襲によって「戦死」しました。飛べる飛行機はもうなく、火薬を積んだベニヤ張りのモーターボートで敵艦に体当たりして自爆せよというもので米軍は「スーサイドボート(自殺艇)」と呼んだそうです。その兄は戦後家族の同意なしに靖国神社に合祀され、「英霊」と呼ばれて美化されています。安倍首相の靖国神社参拝を違憲として訴えた裁判は、地裁・高裁ともに敗訴しました。ここでは戦争責任の問題はまったく不問にされたのです。

母は戦後「軍国の母」と言われることにたいし「お国のためにささげるなどとは考えてもいなかった」と思いつつ、「でも戦争に反対できず子どもを死なせたのは母親の自分の責任」と考えて自らを「戦争犯罪人」と呼んで沈黙し、その償いのために戦後を生きました。母に問われるのは「戦争加担」の罪だろうか。わたしは「被害体験」と「加害認識」は双方向的であると思い、戦争中の被害体験を自覚し語りきることによって、日本の戦争責任を、当時無権利で何も知らなかった自分自身が引き受けることが可能になるという仮説を立てて論争しました。母は、「何も知らなかった」ことが戦争犯罪だと書いています。

戦後73年にして「初めて自分の戦争体験を語る」人びとがいるという事実は、まだ「被害体験」が語りつくされていないこと、語らないあるいは語れない人びとの「体験」を聴くことができるようにすること、それは「想像」の力であることを痛感しています。それを書きたいと思って書くことにしたのですが、書ききる力が自分にあるだろうか、と疑っています。ここで逃げることはできないと思いつつ―。今日も「第一次世界大戦終結の日」を記念する集会がフランスで開かれ(トランプ大統領は「雨でヘリが飛べない」と言って欠席したそうです。アメリカ内部からも批判があるとか)、その報道によると「今は1930年代のようだ」という懸念の声が上がったと言います。ファシズムに支配された1930年代から第二次世界大戦へ。その歩みを繰り返させないために、わたしは日本の「戦争責任」を「記憶」し続けなければならないと思い、書こうと思っているのですが…。

なお、先日ふれた「今を生き…」というタイトルのイベントのチラシは下記の通り。私は12月1日に東京にいないかもしれないので、行けない可能性がありますが、お知らせだけします。img586

 

 

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NHKのETV特集「佐藤さんとサンくん~難民と歩む あかつきの村~」を観ました。

11月3日に放送された番組だったので、もう「六日のあやめ」ですが、感想を書きます。じつは3日の夜11時からの放送は寝てしまって見損ない、7日夜(8日午前0時)の再放送を見たのです。このごろ昼寝をしないと夜9時ごろ眠くなり、「ちょっと一休み」と横になるとそのまま午前1時ごろまで寝てしまう癖がつきました。それから目が覚めて夜なべに原稿を書こうと思うのですが、思考力が低下してモノになりません。あれこれ思案しているうちに「草木も眠る丑三つ時」もすぎて明け方になり、それからまた一眠りすると8時近くまで目が覚めない…。その繰り返しに、もう資料を跋渉して論文を書く力がなくなったのではないかというキョーフに襲われています。NHKのドキュメントには力作が多いのですが、なぜか深夜の放送が多いから、これを見るためには夜中まで起きていなくてはならないのですが、それができなくなったなあ、という言い訳をしながら、この番組を観ました。

「サンくん」は牛飼いの少年だったのですが、ベトナム戦争のさなかに多くのベトナム人が祖国を離れた時、「自分の意志ではなく」逃避行の人びとに「巻き込まれて」難民として日本にやってきたのだそうです。その後長い年月が経ち、大人になったけれど心に傷を抱いたまま社会生活になじめず、一度はベトナムに帰国したけれど親族にも受け入れられず、今は同じような境遇の人びととともに赤城山に近い「あかつきの村」で、ただ一人心を許す「佐藤明子さん」たちに支援されて暮らしているというのです。佐藤さんは、OLでしたが心を満たされず、カトリックのシスターとして「あかつきの村」に住みこむようになって「サンくん」(今は大人ですから番組では「サンさん」)たちの世話をしているという方でした。「あかつきの村」は、今は亡き石川神父の呼びかけで始まり、国や民間の「難民定住センター」が次々に「役割終了」ということで閉鎖されるなか、「精神障害を持つ」難民の唯一の受け入れ施設として存続、今は「社会福祉法人フランシスコの町 あかつきの村」として運営されているそうです。寄付やリサイクルバザーなどが支えになっているということは、番組では出てきませんでしたが、あとで知りました。

メモも取らずに観たので正確ではありませんが、わたしが衝撃を受けたのは、あのベトナム戦争で多くのベトナムの人びとが犠牲になったこと、米軍の「枯葉剤」作戦で「ベトちゃんドクちゃん」のような身体に異常をもった子どもが生まれ、今もその後遺症に苦しむ人びとがいること、「ポートピープル」とよばれた「インドシナ難民」が大量に生まれたことなどは知っていましたが、「サンくん」のように難民として日本にやってきてから心を病み、異国の地で暮らしている人びとがいることや彼らを支える「佐藤さん」のような人たちがいることを詳しく知らなかったことです。NHKは20年以上にわたって取材してきたそうですが…。日本政府が難民受け入れに消極的であることについてはわたしも批判してきましたが、まだまだ知らないことがあったのだ、と痛感しました。

「佐藤さん」は、なぜここで「サンくん」たちと一緒に暮らしているのか、自分でもよくわからないと言っていました。そこに「福祉のため」とか「社会正義のため」といった気負った姿勢はありません。「添う」という言葉を発しておられたのが印象的でした。彼女も「出会ってしまった」ひとりなのだ、と思いました。「出会う」ためには知らなければならない。知ろうとする気持ちをどこまで持続して行けるだろうか…。ハムレットではないが「That is the question(それが問題だ)」という気分になりました。

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わたしたちは「トランプのアメリカ」を批判できるだろうか? 

アメリカの中間選挙が終わりました。上院は予想通り共和党が多数でしたが、下院は民主党が過半数になり、「ねじれ」と取りざたされていますが、数もさることながら女性議員が史上最高(113人)となり、先住民族をはじめ「非白人」女性が躍進したこと(その多くは民主党)に、「この国」の希望があるような気がします。各地で共和党の現職を破って民主党の新人が当選したのは、「女性と若者」が投票に参加したからだという評価もありました。トランプ大統領は「自分が応援した候補は勝った」と豪語していますが、それは勝ちそうなところを応援しただけではないか?

そして彼は見せしめのごとく大統領選へのロシア介入疑惑を捜査してきた司法長官を解任、自分と考えの近い人物を代行にあてたというのですから、野党民主党が「司法妨害」と批判するのも当然です。議会運営が難しいとみて民主党に「協調」を呼びかけたと言いますが、要するに「オレの言うことを聞け」というもので、「移民問題」などむしろ「強硬化」するのではないかという予測が多くを占めています。冬迫る季節に祖国で暮らすことが出来なくなった中南米諸国の人々が今も「移民キャラバン」となってアメリカをめざしているというのに。かつて国連の難民高等弁務官だった緒方貞子さんは、一貫して難民の人権保障を推進、国境までたどり着いた人々に門戸を開くよう努力したことで知られていますが、トランプ大統領は彼らを「侵略者」と呼び、国境に軍隊を配置すると言っています。そしてこうしたトランプ大統領の姿勢を、熱狂的に支持するアメリカ国民もいるのです。記者会見で気に入らない質問をした記者を「問答無用」と「出禁」にするトランプを。

しかし、顧みて他を言うなかれ。それでは、安倍首相のもとでのわたしたちの国は、どうなっているか。最近の出来事で許せないことはゴマンとありますが、二つだけ言いたい。一つは韓国の「徴用工裁判判決」をめぐる政府の態度とそれに同調する論調です。日韓協定後も「(人権問題としての)個人の請求権は消滅していない」と言う論点や「三権分立による司法の判断を直ちに政府非難に持ち込むべきでない」といった議論はすでに行われていますからふれませんが、何よりも許し難いのは、戦後73年経って生存者が次々に世を去って行く今、かつて日本が植民地にした朝鮮でどれほど暴力的な差別と抑圧が行われたかをタナに上げ、「彼らは徴用されたのではなく募集に応じただけ」といった議論までが横行していることです(「慰安婦問題」も同じ!)。わたしは1年前に高良留美子さんから引き継いだ女性文化賞を、岩手県釜石市に住む千田ハルさんにさしあげましたが、彼女は戦時中釜石製鉄で働いていました。その釜鉄で徴用工として働かされた朝鮮人労働者とその遺族が、戦後1990年代に謝罪と補償を求めて裁判を起こした時、高齢の千田さんは「戦時中の自分は同じ釜鉄にそういう人たちがいることを知らなかった。これははずかしいこと」と言って証言台に立ち、裁判を支援したのです。「日本の戦争責任」というと「自虐史観」とはねつけたがる論調に流されてはならない。やたらに強硬姿勢を見せる河野外相にはあきれてものが言えない。父親の洋平氏の爪のアカでも煎じて飲んでもらいたい…。

もう一つは、国会で審議がはじまる「出入国管理法改正案」です。日本は難民にも移民にもほとんど門戸を閉ざし手いるのに、現実には「人手不足」で外国人労働者なしには成り立たない企業や農業経営が続出しています。これまで「技能実習」という名目で就労を認めていたけれど、その実態は低賃金の無権利労働だということが周知でした。雇う方も「安い労働力」としてしか見てこなかった。だから日立製作所のように技能実習と言いながら目的とする技能習得につながらない仕事をさせ、それが発覚したら実習生を「解雇」する羽目になってしまったのです。政府はそこを改善するというけれど、内容はあまりにもお粗末で、最低賃金以下で働かせる現在の実習生制度を拡大するだけという批判もあり、新聞では「生煮え」と書き立てられています。一番腹立たしいのは、「来年4月施行」を急ぐ理由が外国人労働者の生活や人間としての尊厳を保障する立場ではなく、「労働力不足」の補完という経済界の要請が先行していることです。日本人労働者も非正規や派遣で低賃金労働をさせられているのですが、外国人にたいしてはさらに差別的な姿勢があると思う。日本は難民認定が最低の国です。同じアジアの中国や韓国に対しても「嫌韓」「嫌中」があおられています。こういう状況をそのままにしておいて「トランプのアメリカ」を批判できるだろうか。

今朝、新聞に1枚の折り込みチラシが入っていました。「今を生き、今を語り、行動は自分らしく」というイベントの案内です。登場者の一人で被爆二世の守屋真実さんのメッセージが載っていました。「ナチズムの台頭を許した思想放棄と自発的従属に酷似する日本社会への強い危機感」をもって行動している、とありました。ファシズムは決して暴力を振りかざしてだけやってくるのではないのです。人は他者の「いたみ」を想像し、共感する力を失ってはならない。それを忘れた時「自発的従属」が始まり、ファシズムを受け入れていくのだと思う。「トランプのアメリカ」を批判するのは、そうした自らの精神を「自立」させるたたかいとしてあるのだ、と。

 

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「アンコール トム」(町田のカンボジアレストラン)に行ってきました。

らいてうの家から帰った翌日、町田駅前のカンボジアレストラン「アンコール トム」を訪ねました。ここは7月にカンボジアでお会いしたペン・セタリンさん(ポンナレットさんのお姉さん)が始めたレストランです。木曜ならポンナレットさんもお手伝いで来るというので、出かけました。駅から1分という地図を印刷しておいたのに忘れ、駅前の交番で教わったのにまっすぐ行くはずの道を斜めに行ってしまい、ぐるぐるまわってまた交番に戻ってきてしまうという失態を演じましたが、早めに出かけたおかげで約束の時間に間に合いました。但しエレベーターなしの3階ゆえ高齢者は要注意。

カンボジアでは世界遺産になっているアンコールワットが有名ですが、これは一連の遺跡群を指し、アンコールトムも同じく大きな遺跡です。その名を付けた小さなレストランですが、始めたセタリンさんは、8人きょうだいの長女で勉強がよくでき、1974年日本の文部省の国費留学生として日本に留学、妹たちも留学させたいと願っていたのに1975年のポルポト政権成立で母国は混乱、音信不通となります。図書館長をしていた父と教師の母は「知識層抹殺」をさけぶポルポト派に連行されて行方不明になり、二度と帰ってきませんでした。きょうだいのうち幼い妹たちは病気で命を落とし、弟たちは強制労働に動員された後消息不明になって4人の弟妹を失ったのです。生き残ったポンナレットさんたちがお姉さんの所在を探し当て、日本に難民としてやってきたのはポルポト政権崩壊直後の1980年春でした。

母親代わりになったセタリンさんは、自分も結婚、子育てをしながら翻訳や通訳の仕事もし、ついにレストランを開いたということでした。その「悪戦苦闘」の物語は自著『私は“水玉のシマウマ”』(1992)にくわしく書かれています。そしてプノンペン訪問の時、ポンナレットさんに紹介されてガイドをお願いしたお兄さんのトラさんから「今姉もこっちにいます」と言われてお会いした時に聴いたお話が、日本とカンボジアのつながりを考えるうえで役に立ちました。留学で身に着けた日本文化をカンボジアに伝えたいと泉鏡花や中島敦などを翻訳し、「カンボジア語辞典」まで編集、プノンペンの大学でも教えているという「日本大好き」人間なのです。このくだりは今年の9月17日付のブログを読んでください。

「アンコール トム」は、天井やテーブルにもカンボジアの布や刺繍が飾られ、遺跡群の写真も所狭しと飾られて、カンボジアにいるような雰囲気のお店です。わたしは伝統的なビーフン料理にピリッとした甘酢っぱいソースをかけていただきましたが、野菜たっぷりで全体に辛すぎず、独特の香草や魚醤もクセがなく、「タイ料理苦手」でもOKという感じでした。じつはプノンペンでも食べた春巻きや牛肉料理、ココナッツのジュースなど美味しそうなメニューがならんでいて、また来たいと思ってしまいました。厨房で忙しくしていたセタリンさんとポンナレットさんにお話しできたのはランチタイムが過ぎてからでしたが、それから話し込み、お店を出たのは5時近くなっていました。何を話したかって?思うことがあって訪ねたのですが、その中身はいずれ書きます。階段を3階まで上れる人はぜひ行ってみたらいいと思います。℡042-726-7662 町田市原町田6-11-14 3F。11.00~15.00 17.30~22.00。定休日水曜。

天井のディスプレイ

テーブルかけも賑やか

高い棚にはホトケサマも鎮座

野菜たっぷりのビーフン。右上のソースが美味。

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「らいてうの家冬季休館」追伸 

「らいてうの家冬季休館」の報告をアップしたら、すぐに読んでくださった方がありました。じつは今年らいてうの家に行く回数が減ったのは、「寄る年波」のせいもありますが、ミズキとシナノキの切り株をみるのがつらかったのも理由の一部でした。その時の思いは1年前にこのブログの「庭の木との別れ」に書きましたので、読んでくだされば幸いです。(2017年11月13日と16日付)。大きな木の切り株の写真が載せてあります。今年、1年経って切り株も朽ちはじめ、めだたなくなってきていました。わたしも樹木葬をえらび、死後は「自然に還してもらおう」と思っています。「いのちあるもの」の「いのちの終わり」を見届けることも「いのちの営み」なのだと思い、涙をこぼさないことにしました。

今年の反省会でわけてもらったザクロの写真を一枚載せます。戦時中住んでいた田舎の家にザクロの木がありました。実が笑み割れて赤い中身が見えるのを待ってかじりついたものです。甘酸っぱいけれど種がやたらに多く、種のまわりは少し渋かったなあ…。ずっとらいてうの家を応援してきてくださった方が、以前はエプロンとひざ当て持参で大掃除に来てくださったのですが、お年を召して今年は来られないので、このザクロをお土産にもって行きました。しばらくお部屋に飾ってくださるそうです。穏やかな秋が過ぎて行きますことを。DSC02036

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らいてうの家を冬季休館に―。

10月30-31日にらいてうの家を大掃除し、翌日は展示物をしまう作業をして、「冬季休館」に入りました。大掃除の当日は晴天で、ストーブは一日中つけましたが昼間は暖かく助かりました。東京にいると「これから紅葉なのにもう閉めるの?」と不審がられますが、ここは標高1500メートル近い高原です。道路は整っているけれどヘアピンカーブの山道で朝晩は凍りつき、11月初めには雪が舞うのです。温暖化の影響で積雪の量は減りましたが、オープン当初は足が完全にもぐるくらい雪が積もった年もありました。

お掃除に2日かける理由は、一日目はアカマツ材の床やカラマツの板壁、椅子やテーブルまで全部石けんをこすりつけ、汚れを落として水拭きし、一晩乾かしてから翌日化学薬品を使わずハチミツ由来の蜜蝋ワックスで磨き上げるという手間をかけるからです。

床みがき。これをやるとひざを痛めるのですが…。

雨ざらしの木製スロープも、ペンキ塗り。

そして2日目の昼過ぎには作業を終えてこの一年の反省会。この時恒例の「持ち寄り大宴会(お酒は出ませんが)」。東京組も一品くらいは持参しますが、主役は地元の会員さんたちです。クリ入りのお赤飯やマツタケご飯、野菜の煮物やキノコ汁からつけもの、サラダ、名物花豆、自慢のおやき、そして「うちで採れた」と山盛りの柿やザクロも登場する賑やかさでした。ふだんなかなか行事に参加できない方も「ひさしぶり」と顔を合わせ、「おたがい年とったけれど、がんばろうね」と挨拶をかわし、誰も「もう辞めた」とは言わないのです。以前来てくださっていたのに、今は体調がおもわしくなくて来られない遠方の方に「寄せ書き」もかきました。

まずはずらりとごちそうが。

いただきまーす

真剣に「今年の反省会」

その雰囲気に癒されただけでなくわたしが和んだのは、去年「もう保たない」と庭の樹木を伐採したのですが、その時伐採した方がやってきて、「この前伐ったシナノキのそばに、来年春になったら新しい苗木を植えるからね」とささやいてくださったことです。彼はわたしが切られた木の切り株に涙をこぼしたことを知りません。でも、そうやって木のいのちをつないで行くことを知っていたのです。あのとき、年老いた木が命をおえるように、わたしのここでの役割も終わった、と思ったのですが、彼は屈託なく「いい苗をみつけてくるからさ」といってくれました。有難うYさん、わたしももう少し生きてみますからね、とつぶやき、これでわたしは「森のやまんば」から都会のコンクリートに囲まれた街を徘徊する「巷のやまんば」になりました。雪見に行きたいけれどもう無理かなあ…。

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わたしが岩手県一関市の「樹木葬」を選択した理由.

10月28日付の毎日新聞「くらしナビ」欄で、「岩手県一関市 樹木葬墓地」をとりあげていました。「1999年に全国で初めて造られた樹木葬墓地」とあります。わたしがこの地を「葬送の地」と思い定めて申し込んだのはたぶん10年ほど前、東日本大震災以前のことでした。その後「3.11」津波の被災地大船渡へ通うようになってから、いつも一ノ関駅で大船渡線に乗り、気仙沼でBRTバスを乗り継いで行くのですが、申し込んだときはそういう縁ができるとは思っていませんでした。「縁もゆかりもない」ここの「樹木葬」に決めたのは、ひとえに運営する知勝院さんの「里山を育てたい」という趣旨に賛同したからです。

記事によると、先代住職の千坂げんぽうさんが、荒れた里山を昔のように地域の人びとが安らぐことのできる場にしたいと考えて立ち上げたのだそうです。わたしたち夫婦が契約したのは半径1メートルほどの区画で、死んだらそこに穴を掘り、遺骨は骨壺に入れずそのまま埋めて土に還す、名前の付いた小さな木札は建てるがそれはいつか朽ちてしまう、それ以外の墓碑や花入れ、線香立てなど一切そなえず、目印に木を一本植えるだけで、それもその里山に自生する低木の中から選び、植生を乱さないようにする、という約束でした。そこが気に入ったのです。じつは、わたしは早春に白い花を咲かせるこぶしの木が好きだったのですが、それは高くなりすぎるのでNG、植えてもいい木のリストのなからぐみの木をえらびました。秋に実が熟したら鳥たちがついばんでくれるかもしれないと思ったのです。「収穫してお酒にしてもいいよ」と言ったら聴いた友人はみんな「ノーサンキュー」でした。やがてお骨は完全に土に還り、いずれどこに埋めたかもわからなくなるだろう、そのときはまた新しい契約者がやってくるのだそうです。それでも「過去帳」ではないが記録だけはお寺に残るそうな。でも、子どもはいても孫のいない我らにとっては、それもあまり意味はないという気がしています。

じつは、「海に散骨」という選択肢もありました。あとかたなく消え去るという意味では魅力的でしたが、東日本大震災を経験してからすこし考えが変わりました。海はたしかに無限抱擁の世界だと思います。でも、原発の汚染水を海にたれ流していいのか?最近の「プラごみ」問題がしめすように、海にまきちらされた人工のごみは魚にまで悪影響を及ぼしています。人間の骨は害毒ではないと思うけれど、わたしだって放射能に汚染されていないという保証はない、それを海の魚たちが摂取したら?などと妄想を抱き、「水に流す」思想に疑いを抱いてしまったことも事実です。土に還したって同じ問題はあると思うけれど、拡散しないだけまだいいかもしれない。せめて里山再生の役に立つなら、と思って年会費を払い続けています。

毎日新聞の記事によると、ここを第一号として全国に樹木葬が広がったのはいいが、その中には営利事業も多く、知勝院のような里山再生をポリシーにしているところはほとんどないそうです。わたしも都内で広告を見ることがありますが、普通の墓地に木をたくさん植えて「樹木葬」と名づけているところもあり、知勝院のように徹底して「人間は自然に還る」「里山は人間が育ててこそ生きる」という信念をもったところはあまりないような気がします。

わたしは信州に「らいてうの家」を建設し、そこは里山ともいえない高原ですが、わずか数百坪の土地を大事にして外来の雑草駆除はするが自生する山野草を守ってきました。それは「無限生成」という言葉を愛したらいてうの「人間と自然は一体」「人間の肉体はいつか滅びるが、いのちは無限に連なって生きていく」という思想の体現でもあったのです。

今年の夏、この里山に自生するホタルを見に行きました。人工的ではなく、あちらにスーッ、こちらにポツリ、と言ったはかないホタルをみながら「今度来るときはお骨になってきますね」と言ったらお寺の方に「いやいや、もうしばらくは(生きて)来てください」となぐさめられました。そうね、まだ生きてすることがあるかもしれない、と思いつつ。

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