「資料を捨てる」―「自分の分身」を生きている間に処分するとは思わなかった

 夫の退院が近づいてきました。昨年秋突然発病、あと少しで完成するはずの原稿を机の上に残して日曜診療の病院に駆け込みそのまま入院、緊急治療を経て医療機関でリハビリ可能な最大限の日程を病院で過ごしてきました。コロナ禍のため面会はすぐにできず、オンラインでようやく言葉を交わすことができた時彼が真っ先に告げた言葉は、本にしてくれる約束だった出版社に「少し遅れると伝えてほしい」ということでした。それからおよそ半年を迎えます。この間彼は驚異的な努力でリハビリに励み、孫世代ではないかと思われる若い療法士さんたちの熱心な指導を受けて、はじめ嚥下機能マヒだったのが経口摂食できるようになり、動かすこともできなかった右手で字を書くことができるようになり、最後の難関だった「立ち上って歩く」こともある程度できるようになりました。階段しかないマンションの3階に住むわたしたちにとって「階段を自力で上って自宅に入れるかどうか」が「うちへかえれるかどうか」の天下分け目だったのです。

 3月はじめのある日、彼ははじめて療法士さんたちと家へやってきて、後ろから支えられながらですが、階段を上ってわが家の玄関に到着しました。それで「医療保険のリハビリは150日」という期限を目前に、「自宅に帰る」方針が確定した次第です。急遽かかりつけの診療所を通じてケアマネさんを依頼、とるものもとりあえず自宅の1室に電動ベッドとパソコン用の机、ひじ掛け付きの椅子を入れて、そこからトイレと洗面所まで歩いて行けるように手すりを設置することになりました。何とか3月中に工事できることになって、今その準備に大わらわです。

 そのためにわたしがしなければならなかったのは、予定の部屋が実はもう20年近くわたしの本や資料の物置場と化していて、足の踏み場もなかったのを片付けることでした。数年前から「断捨離せねば」と思っていたのですが手が付かず、本はいざとなれば図書館にリクエストするという方法もあるが、わたしが論文を書こうと思って集めた資料のコピー類は、二度と集めることはできないものばかりです。一部はなんとか論文や本にしてありますが、完成しないまま資料と一緒に眠っている原稿の下書きが次つぎに出てきて、亡霊のように私にまつわりつくのです。古い研究会や学会報告のレジュメもそのままです。そして思い知ったのは、それ等の論文や調査の記録を、公表できる形で完成させることは、もう今のわたしの状態では不可能にではないかということでした。だから資料のはいった段ボールを開けたくなかった。子どもたちに「この箱は、わたしが死んだらぜんぶ捨てていいからね。運ぶトラック代だけは残しておくから」と申し渡してあったのです。しかし、思いがけないことで、それの始末を自分の手でしなくてはならないことになりました。

 3月15日法政大学大原社会問題研究所に、これまでNPO平塚らいてうの会が保管管理してきた「らいてう資料」とらいてうご遺族の奥村家が所蔵してきた「らいてう資料」を一体化させて「寄贈」することにし、搬入を終えるまでわたしにはじぶんのささやかな資料のことなど考える暇がありませんでした。それからわずか10日余りの間に、わたしは「自分の分身」ともいうべき資料や文献のコピーなどを始末する必要に迫られて「死ぬような」思いをしてきました。すこしでも論文や本にしたことのあるものは、それがまことにふじゅうぶんで、集めた資料の一部しか使っていなくても、ともかく書いたものが残っているからという理由で、捨てることに。まだ使ってない資料のうち、これから完成させられるかもしれないと期待できるものはダンボールに入れなおし、らいてう関係などどうしてもこれから書きたいものに関する資料だけはなんとかわが家に残すことにして、のこりは倉庫に預けることにしました。父親が戦時中インドネシアのカリマンタン島で軍人でもないのに「司政官」と称して日本海軍の占領行政の一端を担ったことを調べにインドネシアまで行ったとき集めた資料も処分しました。当時朝日新聞社が国策協力して現地で出していた新聞のコピーを、築地の本社まで取りに行ったのですが・・・。写真も手紙も処分できないものは「倉庫行き」。しかし、多分もう生きている間にこの箱を開けることはないのではないかと思うと、これは事実上捨てるのと同じです。それでも捨てずに「倉庫代」を払うのは、わたしの「まだ死にたくない」という「未練代」というわけです。その仕分けに10日間、何とか彼をむかえいれる部屋だけはからっぽになりました。

 手元に残したのは、らいてう関連のもののほかは、一つは田中正造の「足尾鉱毒反対運動」についてのわたしの新説(田中正造は、なぜ「乳汁欠乏 小児死亡」をもって帝国議会で政府を「殺人者」と迫ったのか)を書いておきたいことと、もう一つはらいてうがなぜ戦時中傀儡政権である汪兆銘政権を支持したのはなぜかという問いを立て、パートナーの奥村博史が1936年上海に行って内山書店とつながり、内山完造の手引きで魯迅臨終の図を描いたことと、上海の洋画家陳抱一との親交、その一人娘陳緑妮と母親(日本人)との戦中戦後の交友、昭和研究会メンバー林広吉(陳緑妮は林の息子と結婚した)との接点等々のいきさつをしらべた資料だけはまだ書いていないし書きたいと取り置きにしました。どちらもらいてうにかかわりがあります。それを書きおおせてから死ねるだろうか。今日は、退院したら老健などの施設にいかず、自宅に帰りたいという彼の最大の望みである、彼の書きかけの本の原稿完成を応援するため、退院後に図書館で借りる本のリストを検索しました。地元の図書館にあるのは一部で、後は都立中央図書館か遠く岩手県立図書館で借りなくてはならないものもあります。「いつでもスタンバイするから」と言いながら一方で「介護用品」もそろえねばならず、じぶんのことでくよくよしている暇はない、まして当分「彼より先には死なない」つもりになったのですからね。寝不足だけが心配ですが。

カテゴリー: Uncategorized パーマリンク

コメントを残す