自己紹介

らいてうの家で唯一の着物姿

らいてうの家で唯一の着物姿。2006年撮影

これは公式用。ライトリンク撮影。 これは公式用。ライトリンク撮影。

米田佐代子

1934年東京生まれ。父親が転勤族で、小中高校とも、入ったところと出たところが全部ちがうのが自慢?それゆえ「ふるさと」を持たない「無国籍型」人生で、今も還るべき「くに」はない。死後は住んだことのない岩手県内の里山で土に還る樹木葬をしてもらう予定。「愛国心」に関心がないのはそのせいかもしれない。大学だけは東京都立大学に5年間在学、卒業後同大学助手に。その後山梨県立女子短期大学教授を10年だけつとめ、2000年3月定年退職。専攻は日本近現代女性史。平塚らいてうを中心に近代日本の女性運動と女性思想を研究。

実生活では「夫婦別姓(残念ながら通称)」のハシリ。共働きで二人の子を育て、保育所父母会・学童保育運動・PTA活動・親子読書会などに参加。都立大学では女性最初の教職員組合委員長。今は珍しくないが、1970年代ではたいへんで、赤ん坊を連れて団体交渉に行ったことも。

55歳で短大の教師になってからは「歩く(走る?)歴史学」と称して学生をヒロシマ、沖縄、第5福竜丸、上野動物園(戦時中ゾウはなぜ殺されたか?)、ナヌムの家、アウシュビッツなどに連れて行き,「戦争を知らない世代にとって戦争責任とは何か」という授業をした。

現在、NPO平塚らいてうの会会長兼「らいてうの家」館長(じつは使い走り)として、夏は長野県あずまや高原に建つ「らいてうの家」で、「らいてうの生き方」をはじめ、「女性の権利」「男女共同参画」「女性と平和」「らいてうの母性主義」などを語る活動に専念。

ここを建てるとき「実は長野県内の高校にいた」というと応援してくれる人にたくさん出会い、信州と切れない縁ができて、今は上田市の観光大使を務めている。らいてうの家に通い詰めて「森のやまんば」を自称、但しらいてうの家は11月から翌年4月まで冬季休館するので、1年の半分は「都会のやまんば」。時どき東日本大震災の被災地三陸海岸の大船渡へ、「お茶っこボランティア」に通っている。

現在のテーマは「らいてうの時代からわたしたちの時代へ―今、女性がつくる平和世界」を中心に、「戦争だけが敵」とした平和思想を歴史的に解き明かし、現代の平和構築に寄与したいと考えている。ブログ 米田佐代子の「森のやまんば日記」 を公開中。

上田の写真家(バラの写真で有名)秋山さんのお宅で

バラの庭で 上田の写真家(バラの写真で有名)秋山さん撮影

これもずいぶん昔のわたし

これは3年くらい前。ライトリンク撮影

らいてうの家で これが最近の「やまんば」像です

らいてうの家で これが最近の「やまんば」

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自己紹介 への2件のフィードバック

  1. 保立道久 より:

    先ほど、らいてうの会の7号をいただきました。ありがとうございました。ただ、実は、先日、会の方に御願いして購入していました。
    下記、私のブログに載せましたが、先生の本の紹介です。これを書くのに必要であったのです。
    『基本の30冊』という人文書院からでる読書案内本に載せるのですが、夏までには本になると思っているのですが、最後の方で苦心しています。
    すでに私にとっては、数少ない先生ですので、時々ブログを拝見しています。
    電話で声をお聞きしたのは、2/3年前でしょうか。御元気そうで、以前と変わりないようで励まされます。
    変わりやすい気候の時期ですので、どうぞ、お気をつけて、
                         保立道久

    5米田佐代子『平塚らいてう――近代日本のデモクラシーとジェンダー』(吉川弘文館、2002年)
     平塚らいてうの自伝『元始、女性は太陽であった』は、最近刊行された、らいてうの孫の奥村直史の『平塚らいてうーー孫が語る素顔』と一緒に読むべきものだと思う。大正時代以来の女性運動のなかで、鋭い問題提起と行動の人であったらいてう。しかし、戦争体制のなかで天皇制に帰一するといい、満州の権益は当然などという国家主義者としてのらいてう。思いやりがあり母性を重視するといいながら、子供・嫁・孫に対して一方的で、嫌人症に近いところをみせるらいてう。
     本書は、そのようならいてうについての初めての歴史学的な分析であって、これによって、らいてうは、その思想と生活の矛盾をふくめて微に入り細をうがって知ることができる稀有の個人となった。残念ながら、現在の私たちがらいてうの思想や女性論・母性論それ自体から受け取るべきものは多くはない。しかし、らいてうの輝きと蹉跌を歴史のなかに位置づけることは、日本の社会が、女性の権利にかかわる根深い問題をいまだに抱えている以上、やはりきわめて大事な問題であると思う。
     らいてうの父、平塚定二郎は、ドイツ遊学をへて会計検査院の基礎を作った明治政府の高級官僚である。第一章「『父の近代』との葛藤」は、らいてうが明治「近代」国家の男性原理を体現する父との齟齬に傷つき反抗したことを論じている。それが「近代」に対する反抗であった関係で、なかば「反近代の抵抗」であったというのが米田の視点である。それは女性であることを拒否し、「禅」に帰入して自己に神性を発見したのちに、自分の官能と肉体を発見するというものであった。らいてうは、そのなかで、いわゆる「禅狂」に走って、漱石の弟子であった森田草平と「心中」事件を起こす。らいてうは、これによって社会の注目をつねに集めるようになり、外を歩けば「新しい女」を嫌う無教養な男たちから面罵され、電車のなかでいきなりツバを吐きかけられるという緊張のなかで過ごすことになった。
     第二章「デモクラシーとジェンダーの葛藤」は大正デモクラシーに動いた男たちのなかに、女性からみてうさんくさいといわざるをえない動きがあったことを論ずる。つまり、らいてうの「心中」相手であった森田宗平は漱石の弟子であったが、事件の直後、漱石は平塚家に対して結婚を提案し、森田が事件を素材として小説を書くことの承認を求めた。漱石は小説『三四郎』の女主人公、美弥子のモデルにらいてうを使ったともいう奇態な話である。さらに、著者は、もう一人の漱石の弟子・生田長江が、らいてうに『青鞜』の創刊を勧めたことに注目する。生田の行動の背後に『青鞜』を踏み台として自分の影響力を広げようとする思惑があったのは事実だろう。
     漱石たちは、大正デモクラシーの動きに参加したといってよいが、生田は問題の森田と一緒に評論誌を創刊し、さらにクロポトキンの翻訳者、アナキストとして著名な大杉栄にも近づいていった。そして1911年に創刊された『青鞜』が脚光を浴びるなかで、生田はサークルに介入しようとする。らいてうは、生田にとりあわなかったが、らいてうに代わって『青鞜』の発行人となった伊藤野枝は、生田・大杉の影響の下に入っていったのである。これが伊藤が関東大震災において大杉と共に虐殺される悲劇の機縁となった。
     『青鞜』に対する男たちの視線は熱かったが、それのみでなく、因習的な色彩をもっていたということになる。そのなかで、『青鞜』はらいてうを象徴的中心として女による女の主張という初志をつらぬいた。その意味でらいてうが一方で男性を拒否し、他方で偶然にであった奥村博史を弟のように愛し「若いツバメ」と公言したこと意味は大きかった(この言葉は流行語になった)。米田は、『青鞜』が「性」のタブーをくつがえす様子を「パンドラの箱をひっくり返したような」と述べ、『青鞜』に投稿されたハラスメントに関わる記事・小説などを紹介している。そしてこの時代の女性とその「性」に対する因習的な圧迫の状況を説明し、『青鞜』が女性の社会的な抵抗の共鳴盤となりえた事情を示した。それによって、1920年代の婦人参政権運動が可能になったのである。らいてうが大正デモクラシーにおいて現実に果たした実践的役割が、漱石やその門下などとは到底くらべものにならない位置にあることは明らかである。
     第3章「『生む性』の社会構想と現実」、第4章「『協同自治社会』の実践と挫折」はらいてうの国家観を論ずる。従来、らいてうの国家観は与謝野晶子との「母性保護論争」を中心にして母性主義として議論されてきた。経済的自立の必要を説いた晶子に対して母性と労働は矛盾するという立場から国家による母性保護を説いたらいてうという図式である。米田は、この論争を具体的に検討し、らいてうは、晶子の批判によって自分の国家認識の抽象性を自覚したとする。
     興味深いのは、これがらいてうが婚姻届なしの同居婚のなかで子供を生み、母性を自覚する過程と併行していたことで、ここでらいてうは果敢な政治行動を呼びかけた。女性の集会・結社の自由を禁じた治安警察法第五条の改正を議会に請願する、史上はじめての大規模な女性運動である。この運動生活は激しく一年半ほども続き、らいてうの役割は大きかったが、「若いツバメ」奥村が自宅が運動事務所となるのを嫌がって病気となり、らいてうも因習的な議員への請願に疲れ切って、田舎に静養にでる。らいてう不在のなか運動は成果を上げたものの、らいてうは一方で、帝国議会の限界を明瞭に体得し、他方で動きはじめた「社会主義」と無産政党の動き方を粗暴であるとして嫌うというジレンマにおちいった。
     この経験のなかで、クロポトキンの『相互扶助論』の穏和な主張の影響を強くうけ、今度はクロポトキンをベースとする協同組合運動に向かった。これは婦人参政権運動(婦選運動)を続けた市川房枝などとの大きな相違であったが、著者はらいてうの志向を自然なものと評価している。従来、アナキズムは、いわゆるアナボル論争(「無政府主義者」と「社会主義者」の論争)のレヴェルで議論され、実際の歴史のなかでもった意味は軽く評価されがちである。しかし、協同組合的なコミューンを抜きにした「社会主義」が無意味であることが明瞭になっている現在、たしかにらいてうの志向自体は自然なものだと思う。
     しかし、問題は、それが同時に、らいてうが、「満州事変」後の戦争への翼賛体制に賛同する文章を発表していく過程でもあったことである。それらの文章はそんなに数が多くはなく、曖昧な表現の部分もあるが、「満州」への「権益」は当然のことであるなどという言明は無惨なものである。これをどう考えるかが、第5章「『清算されるべき過去』とその克服」の主題であって、実際上、米田が本書でもっとも力をいれて分析している問題である。
     著者は、その原因を、そもそもらいてうの抵抗が、先述のように反近代の抵抗というべきものであったことに求めている。そしてらいてうのアナキズムへの傾倒を導いた年下の友人、高群逸枝が神話の巫女のようにして皇国史観に没入するような全体の状況のなかで、無産政党への嫌悪のなかで、皇国史観に「からめ取られた」のだという。
     終章「平塚らいてうにおける『自然』と『社会』」は、この問題について、らいてうは「現実の支配体制としての天皇制を批判できなかった」とした上で、らいてうの自然観、社会観に踏み込んで検討をくわえようとしている。著者の結論は、戦時体制のなかで、自宅のあった成城での10年以上、はぐくんできた協同組合を維持できなくなったことが、結局、らいてうを救ったというものである。つまり「理想が破れ、傷つき疲れた精神を自然によっていやす」ほかなくなったらいてうは、ふたたび北関東の田舎の自然のなかに逃避し、筆を断ってはじめて農村労働に従事した。それによって、市川房枝・奥むめお・河崎なつなどと異なって、翼賛体制に最後までついていくことを免れたのだという。結局、戦争に追従したらいてうには「戦争責任」があるが、それは「天皇制を批判する」知識を欠いた「無知の罪」であるというのが著者の判定である。私は、これにアジアへの無知を付け加えたいと思う。
     さて、著者は、現在、NPO法人「平塚らいてうの会」会長、「らいてうの家」館長(長野県上田市)をつとめ、冒頭にふれたらいてうの孫の奥村直史とともに、らいてうの遺品や史料の整理にあたっており、実際に、最近の『平塚らいてうの会紀要』でも新史料が紹介されている。
     それ故に、本書は、その細部において、さらに追加されていく可能性があるだろうが、最後に「元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のような青白い顔の月である」という『青鞜』発刊の辞を問題にしてみたい。
     この「元始、太陽であった女性」とはアマテラスを意味するが、らいてうにはアマテラス信仰というべきものがあった。この発刊の辞を書く前に原型が書かれた「高原の秋」(『著作集』(1))はらいてうの詩人としての資質を示すエッセイで、私には好ましいが、ただそれによれば、らいてうは毎朝、太陽を拝んでいたらしい。そして「水浴し果てた後、東天の太陽と合する私は、この身ながら、六合を貫く主催者ではないか」とあるのは、自身を太陽と観想していたことを示している。戦争中のらいてうは「天照大神に、その生き通しでいられる天皇に絶対帰一し奉る」と述べるところまでいったが(米田117頁)、戦後になっても玄米食について「天照大神以来の天津御食」(著作集7巻)米田243頁)などと述べている。
     らいてうは津田左右吉が日神がアマテラスという女神の形をとったのは、元始ではなく、6世紀ころにアマテラスを皇祖神とする観念が生まれて後のことであるとしたことには興味がなかったのであろう。津田の神話研究は大正デモクラシーの時期の学術文化における最大の成果であった。大正デモクラシーの華というべきらいてうが、それを知らなかったのは、米田の言い方にならえば、やはり詩人の「無知の罪」ということになるのだと思う。
    参考文献
    奥村直史『平塚らいてうーー孫が語る素顔』(平凡社新書、2011年)
    平塚らいてう『元始、女性は太陽であった(1)~(4)』(国民文庫、1992年)
    『平塚らいてう著作集』(全7巻)(大月書店、1983年)
    『平塚らいてう評論集』(岩波文庫、1987年)

  2. 長澤和彦 より:

    突然で失礼いたします。御著書「ある予科練の青春と死」を拝読し、先生同様に、当方の母が、兄を土浦の空襲の際に防空壕にて被弾し失っていますが、未知の事を多く知ることができ、感銘いたしました。叔父は多くの写真類を遺しておりまして、写真裏に戦友たちの記名をいたしているものが多く、可能なら整理するとともに、該当する方(あるいはご遺族)にお渡しできればと考えています。資料収集や情報など全くないところから始めるにあたり、御助力・御助言をいただければと思い、記させていただきました。

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