三鷹事件から70年「無実の竹内景助さんの冤罪を晴らそう」集会に参加しました。

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記念講演は孫崎享さんでした。

11月9日、この日は姉を病院へ連れていく日でした。ところが朝電話がかかってきて「病院の先生が休診で、12月に予約変更になったが、薬だけはとりに行かなくてはならない」というのです。ひとりでは歩けなくなった姉を行かせるわけにいかない。でも診察券と予約票がなければお薬ももらえません。急遽姉のところへ取りに行きました。姉はのんきに「ついでに好きなパンを買ってきて」などと注文。東中野の駅ビルにあるお気に入りのパン屋さんに駆け込み、「今焼きあがったばかり」というパンを包んでもらってタクシーで駆け付け、診察券を受け取ってその足で中野駅近くの病院へ。薬をもらうだけなのに診療科の受付を通し、内科へ回って会計を済ませてから薬局へ行くのに、それぞれ待たされました。今日は土曜日でヘルパーさんも来ないし、お昼の用意もしてないと思い、お昼のお弁当と夜のおかずなども買い込んで戻ったらもう昼過ぎていました。

午後はこの間再審請求が却下されてしまった三鷹事件の集会があるので、気がせいていましたが気になったこともあったので少し話し込み、そこを出たのがもう1時過ぎ。武蔵境のスイングホールについたときは2時半ごろでした。会場は超満員で「消防法違反になるのでこれ以上椅子を入れられません」といわれて立ちっぱなし。いつかも満員の集会に行って立っていたら、見かねて席を譲ってくれた方がいましたが、ここでは年配の方ばかり。さすがにくたびれて話もよく聞き取れなかったなあ。後半は席を立つ人がいたのでなんとかすわれましたけれど。でも大勢集まったことは喜ばしい。

講演と報告が終わり、「交流集会」ということで会場から発言がありました。聞いているうちに発言したくなり、手をあげて「じゃあ最後の一人」と指名してもらったので、今年初めに公開した『平塚らいて戦後日記」の1956年2月の項に「三鷹事件の死刑判決は納得いかない。死刑制度にも反対。子どもを抱えた奥さんがかわいそう。婦人が立って救命運動(当時はそういう言い方だった)をしてほしい」という記述があり、実際に当時婦団連会長だった櫛田ふきさんにあてて書いた手紙も残っていること、3月には朝日新聞にこの件で投稿したと書いていること、しかし朝日新聞の記者に調べてもらったが平塚らいてうでも奥村明でも声欄に載っていないことなどを紹介し、「女性の立場から」という訴えを引き継ぎたいと参加した、と話しました。反響があり、名刺をくださる方もいて、「らいてうのこころざし」を伝えることができたかな、とおもいました。

結局、帰宅したのは夕方6時近く。つれあいが、出来合いですがてんぷらを買ってきて野菜と一緒に卵とじにした夕飯を作ってくれたので、大いに満足していただきました。でもくたびれたなあ。それなのに新しい原稿を引き受けてしまい、その準備もしなくてならぬ。それに「第23回女性文化賞」の発表もしなくてはなりません。去年よりほんの少し早く11月20日ごろには、と思っています。乞うご期待…。ソウルから帰ってきて風邪をひきこんだのがなかなか治りません。インフルエンザの予防注射はしてあるけれど…。それなのに夜中に夜なべをするんだもの、治るわけないじゃん、と自嘲しつつ、今夜も午前様です。

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わたしたちは「南北統一」の意味を理解しているだろうか?―「韓半島分断の現場」を歩いて考えたこと

 ソウルフォーラムのセッションについてまだまだ感想がありますが、時間のある時に書いていおきたいのは、そのあとのフィールドワークのこと。韓国の実行委員会が提案してくれたのは「韓半島分断の現場で描く統一後韓半島」というテーマでした。「それなら板門店見学かしら」と思ったのですが、板門店は今いろいろな機会に行った人も多い。
連れて行ってもらったのは、同じく国境地帯ですが、まずは「烏頭山(オドゥサン)統一展望台」へ。漢江(ハンガン)と臨津江(イムジンガン)の合流点にあり、川を隔てて北側までその距離は最小でわずか460mだそうです。そこから1972年の南北共同声明発表直後の建設された「臨津閣」、1985年に造成された「望拝壇」(毎年ここから「失郷民」の手で北の故郷をしのぶ祭祀も行われる)、さかのぼって朝鮮戦争で捕虜になった兵士たちが1953年の休戦協定による「捕虜交換」で、この橋を渡って帰還、「自由万歳」と叫んだことから「自由の橋」と呼ばれるようになったという橋があり、1998年に南北を結ぶ「統一大橋」ができるまでは使われていました。そのわきには無数のリボンが結び付けられ(日本の千羽鶴みたい)、案内の方によると「祖国統一」や「離散家族へのメッセージ」などが書き込まれているとのことでした。1906年日露戦争直後に建設された鉄道京義線は、朝鮮戦争によって分断されましたが、南北共同宣言後に開通の努力があり、2007年以降南北運行が始まったとあります。

川の向こうは「北」

望拝壇

願いを込めたリボン

朝鮮戦争で銃撃された機関車

見学しながらしみじみ思ったのは、朝鮮戦争はまだ正式には終結していないのだということと、しかし軍事境界線に隔てられた「国境」をなんとかこじ開けて「統一」をはたしたい、という願いが脈々として続いてきたのだということでした。同じ民族が分断され戦争しあうという歴史を、それも日本が植民地支配していた地域を大国の思惑で分断したという意味で日本に責任がある分断の悲劇を、わたしたちはどれだけ自らの痛みとして知っているだろうか。トランプ大統領が選挙目当てに「朝鮮戦争を終わらせる」といい、思うようにならないとたちまち放り出すのとはわけが違う、と。
ここにはあいちトリエンナーレで問題視された「平和の少女像」も置かれていました。あいトリについてはわたしも署名などして意志表示し、再開したら観に行こうと思いましたが時間がなくて行けませんでした。ここで記念撮影をさせてもらった次第です。

少女像

そこからバスに乗って行ったのは、軍事境界線を挟んで南北各2㎞にわたるDMZ=「非武装地帯」(Demilitarized Zone)」でした。ここは「民間人 出入統制線」(Civilian Control Line)になっていて、外国人はパスポートを預け、韓国人も身分証明書が必要だとのことで、出かけるとき何べんも「パスポートを忘れないで」といわれました。中には畑があり「営農」のための出入りは認められているらしい。韓国の実行委員会が作ってくれた説明リーフにはごく簡単な漢字の説明しかなく、日本語通訳が大活躍してくれたので何とか理解できました。入ればレストランもお土産売り場もあり、一見普通の観光地のようですが。

DMZの標識にレストランの広告まで

それから「中国軍と北朝鮮軍の兵士たちの墓地」を訪ねました。これも漢字(中国語)の説明ですが、朝鮮戦争の時、韓国にとっては「敵軍」であった「北韓軍」「中国軍」兵士たちの遺骨が全国に散在したいるのを収集し,墓地として造成したのだということです。遺骨収集は1980年代から始まり、簡素な石づくりの標識のもとに埋葬されたそれは、多くが「無名人」と記載されているように氏名不詳のまま、1か所に数十体の遺骨が埋葬されているものもあるそうです。2013年から14年には中韓合意により中国軍の遺体を送還した、ともありました。死後半世紀以上経ってやっと弔われる兵士たち…。戦争の傷跡はこのように深く、今もつづいていることを痛感しました。

簡素だが手入れされた墓地

「無名人」という墓碑銘

ここからかつて朝鮮労働党に建物があったという地点を見学して現代の在韓米軍基地まで見学するはずでしたが、今日中に帰らねばならないわたしたちは、基地見学をスルーしてタクシーで金浦空港へ。その顛末は最初に書いた通りです。

残骸だけの朝鮮労働党の建物。戦後すぐに建設され、朝鮮戦争時に米軍によって破壊された

こういう見学をセットしてくれた韓国の実行委員会に感謝したいと思います。もう一度言いますが、日本人は自分たちもアメリカに占領されて主権を失い、沖縄は直接軍事統治のもとに置かれて膨大な基地を背負い込まされたのに、その痛みを忘れてしまったようにふるまっている。そういう日本人だから朝鮮を植民地支配したことも忘れてしまったのだろうか?「偏狭なナショナリズム」には決して賛成しませんが、韓国の人々が「終わっていない朝鮮戦争」を終わらせて統一を実現するためにどれほど苦闘し試行錯誤しているか、「日本の戦争責任」の清算は、そのためにも問われているのだということを自覚すべきだと思う。駆け足のフィールドワークからわたしが受け取ったメッセージでした。

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みかづき子ども食堂は4周年を迎えました。

ソウルフォーラム報告はまだ続くのですが、ちょっとだけ寄り道。じつは帰りの飛行機の中で隣席のお客さんが咳をしていたので、ヤバイと思ったのですが、案の定昨夜熱が出ました。昼間ヨガの時は普通だったのですが。第一水曜日はみかづき子ども食堂の日でしたが、なんせ帰国以来10日ぶりに夕飯を共にする相手がいるので、冷凍してあったタンドリーチキンなどを焼いてご飯を用意し、子どもたちに風邪をうつしてはいかんと思ってカンパと金浦空港で買った韓国の絵が付いたお菓子の箱だけもって行きました。
いつも「食べて行って」と誘われるのですが、スタッフの方に「ごめんね。今日はお父ちゃんがいるの」とことわると残念そう。でももらった11月のチラシには「みかづき子ども食堂4周年!」とあります。そうか、もう4年も経つのか、と感心しながら帰ると、追いかけてきたスタッフの方が「今日は記念ディナーですきやきだったのよ。うちで食べて」とご飯とおかずのパックを差し出すではありませんか。先週行ったとき、「大勢きてくれるようになってうれしいけど、実は赤字」と打ち明けられたばかりです。ありがたくいただきましたが、これからが心配。個人のお宅を借りているので、自転車やベビーカーの置き場がなく、それもご近所に気を使いながらやりくりしているらしい。それなのに気配りしてくださるので、ジーンときてしまった・・・。
それから発熱したので、昨夜は寝てしまい、今朝はトーストと薄いコーヒーだけですませて一日蟄居します。「今夜はすきやき食べてね」と“遺言”して寝ることに。ソウルフォーラムの続報を忘れてしまいませんように。

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みかづき子ども食堂11月のチラシ。このごろ大繁盛なので「午後7時までに来てください」というお願いがあります。

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「南北統一」と「東アジア平和共同体」の模索―ソウル平和フォーラムで考えたこと(その2)

ソウルから帰って、今日はヨガと子ども食堂の第一水曜日。朝メールボックスを開けたら旧知のHさんから、「ブログみた」というメールが来ていて思わず返事を書き、あわやヨガに遅刻しそうになって走っていきました。おかげで準備運動をする暇がなく、こちこちの手足を動かすのに一苦労。それでも先生は「できることをすればいいのよ」とやさしく、体だけでなく「ここで口を大きくあけて笑って!」などとおっしゃるときの先生の笑顔がすてきで、おもわずこっちも「アハハハ」。いつかテレビで「老人は誤嚥性肺炎になりやすい。予防法は毎日大きく口を開けてあごを動かすこと」とあったのと一致するなあと思いつつ。

さて、ソウルフォーラムの続きを書きたいが、感想がいっぱいあって時間がたりない。出かける前に短い原稿は書いたのですが、書評原稿が残っています。そこへ1月14日までに」という原稿依頼が飛び込んできて「それは無理」と返事したら、じゃあ2月まで待つから」ですって。12月の白内障手術が終わらないとメガネも合わなくなっているので、どうしよう。お医者様からは「まれにうまくいかなくて後遺症が残ることもある」という注意書きをいただきました。それは事前にリスクを説明しておかないと万一の時に訴えられちゃうからで、実際は心配不要といわれましたが、それは「神のみぞ知る」だものね。明日返事しよう。

ソウルフォーラムのつづきですが、セッションの感想を二つ―。一つは、今年は「3.1運動の現場で東アジアの平和を考えよう」というのがテーマでしたが、雰囲気としては文在寅大統領が北朝鮮(フォーラムでは「朝鮮民主主義人民共和国」という正式名称をきちんとつかっていました)の金正恩委員長と38度線をこえて会談したことが示すように、「南北分断」に終止符を打とうという思いが伝わってくる報告があったことです。同じ民族が殺しあった朝鮮戦争はまだ終わってはいません。そしてこの分断は、朝鮮が日本の植民地であったという事実と深くかかわっているのですから、日本だって「他人事」のような顔をしていてはいけない。それは最後のフィールドワークが「朝鮮戦争でなにがあったか」の現場を歩くツアーであったことともかかわるので、最後に触れたい。第3セッションの「南北和解時代の歴史認識」を問うというテーマで韓国からの報告が「南北和解」をめざすこれまでの「歴史対話」歩みを詳述しながら「平和・人権・脱植民地主義のような人類の普遍的な価値に基づいた東アジア共同の歴史認識にむけた不断の努力」をうったえ、それが日中韓の範囲だけでなく「ベトナム、モンゴル、朝鮮民主主義人民共和国、台湾」を含む歴史記述を考えてみるべきと提起したことにひかれました。
もう一つは、第4セッションのことです。それぞれの国から「平和実践」の授業の取り組みの報告がありました。このフォーラムで授業実践の報告が出るようになったのは日本が早かったと思いますが、このセッションは3国から実践報告が出たこと、日曜日だったので韓国を中心に教師や学生の参加が多く、会場討論でも活発な発言があったことが特徴でした。
注目すべきは韓国の高校での授業実践報告です。「100年前の東アジアの反帝国主義運動を通じて東アジアの「連帯」を考える」というタイトルで、1907年東京で生まれた「亜州和親会」―「日本、中国、韓国(朝鮮)、ベトナム、インドなどのアジア人」が集まって「帝国主義に対抗し、アジアで主権を失った民族の独立を果たす」ことをかかげた団体を取り上げ、「1919年前後の東アジアにおける連帯の活動」を知ることによって「今日の東アジア人たちがおたがいに助け合って連帯することの意味を考えよう」という授業実践報告でした。生徒たの感想が多数引用され、「(過去の)東アジア連帯の事実は、今日の東アジアの深い穴(対立・葛藤)を埋めることができる希望だ」という声も紹介されました。韓国内には「反日」の声ばかりが充ちているような偏見にとらわれている日本人がいたら、読んでもらいたい。会場からは参加した教師たちからの発言があり、高校生からの質問や意見表明もあって、感動的でした。

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「わたしが戦争責任を負う」ときー第18回「歴史認識と東アジアの平和」ソウルフォーラムに参加して。

11月1日から4日までソウルで開かれた第18回「歴史認識と東アジアの平和」ソウルフォーラムに参加してきました。かなり強行軍で、1日は金浦空港から地下鉄でホテルにたどり着くのにてんやわんや。2.3日は9時半から夕方まで開会行事、基調報告に始まって4つのセッションと最終発言、夜は日中韓三国の参加者で夕食、とホテルと会場の間を往復するだけ。その道のりがなんと長い坂を上り下りして20分もかかるのでこれがまた一苦労。
それでもめげずに4日目のフィールドワークでは韓国側が工夫してフツーの観光旅行では絶対行かないだろう朝鮮戦争のあとをたどるツアーにつれていってもらい、途中でチェックインに間に合わないというので、タクシーに乗り替えて空港に駆け付けたら、なんと出発時間が1時間遅延という掲示。そうなると羽田で吉祥寺直通バスに乗ることができず、結局深夜一時近くに帰宅することができました。くたびれ果てて昨夜は寝てしまい、今朝は洗濯やたまったメールの処理に追われ、10日ぶりに顔を合わせるつれあいのために(!)盛大に買いものをしてお刺身やら里芋の煮ころがしやらを用意していたらもう夜になってしまった…。
フォーラムの報告は後にしようと思ったのですが、悲しいことにメモしてなかった討論の中身をあっという間に忘れていくことに気が付きました。殴り書きのメモと記憶が鮮明なうちに、書きたいことは書いておかねばならぬ。全部詳しく書くことはできないので、断片的ですが感想だけでも一言。
まず開会セレモニーで、韓国からはソウル市教育庁教育監曹喜松さんのビデオメッセージ。「中国・日本との間に葛藤があるが、それらの問題を一つずつ解決して平和共同体の夢を実現しよう」という内容で、日本のお役人さんたちはこう言うことは言わないなあ、と思いましたね。中国からは北京の中国社会科学院近代史研究所所長があいさつで、「近代以来韓中は被害国で日本は加害国であったことを前提とし、しかし葛藤の和解は双方向的に行われるべき。すなわち加害者は歴史問題に対する反省と謝罪を心から示し、その前提条件の下で被害者もまた歴史的敵愾心を捨て、未来を見通す努力を」とアピール、日本からはフォーラム実行委員会共同代表の石山久男さんが日本において「植民地支配の歴史について日本国民の認識がとりわけ希薄だった」こと、日本国民の多くが植民地支配の歴史を何も知らないという現実に立ち向かわなければならないと指摘しました。のっけからしんどい提起ですが、これらの問題こそ現在の課題だと痛感しました。それから基調講演も3国から一人ずつ。

今年のフォーラムのテーマは「3・1運動、5・4運動100周年記念―3.1運動の現場で東アジアの平和を考えよう」というのです。4つのセッションがあり、以下の通り。
(1) 世界体制の変化と東アジアの平和体制(第一次大戦後のベルサイユ体制から第二次大戦後の世界体制の変化を見据えて考える)
(2) 戦争・植民地支配の清算を通じて東アジア平和体制を
(3) 南北和解時代の歴史認識と歴史教育
(4) 平和授業実践事例の共有

それぞれに3国から報告と討論発言があるのだから総数24人が発表、司会者が長い補足発言をすセッションあって、それに会場討論もあり、各セッション2時間半という長丁場でした。延べ発言者は50人以上だったのではないだろうか。しかし同時通訳をイヤホンで聞けるので聴力の心配はなし。しかもその通訳が少なくとも日本語担当は実に優秀でわかりやすかった。わたしはひそかに「どうせ会議に出るなら同時通訳のある国際会議のほうがいい」と思っています。その膨大な中身を紹介するのは大変なので、まずは第一セッションの紹介を。中国の報告はアヘン戦争から説き起こして辛亥革命の意義と第一次大戦期の日本の「21か条要求」などを契機にした民族自決の植民地解放運動の高まり」を俯瞰、日本の報告は原水協事務局長の安井正和さんが渾身の努力を払ってきた核兵器禁止条約への東アジア諸国の参加こそが東アジアの平和体制を可能にすると説きました。ちなみにっ核兵器禁止条約に中国は反対、日本も反対、韓国も賛成していません(北朝鮮はもちろん)。このフォーラムでも中國からの参加者が「中国の核は先制攻撃しない。平和を守るために保有している」という公式見解を発言する場面がありました。今はその核抑止力論」を乗り越える時代なのですが、トランプ相手じゃねえ。韓国は戦後アメリカ主導のサンフランシスコ体制が北東アジアに大きな問題をもたらしたが、近年その体制に変化が生じていることを指摘、「ASEAN+3」や「東アジア首脳会議」などを例示しつつ「地域協力」あるいは「多者協力」という表現で「地域の平和と繁栄」を築く方向を提案しました。これは「韓半島」の「南北分断」を乗り越えて「統一」して行く可能性の提示だったのではないでしょうか。

そこで、わたしは「5分間」の条件で「討論発言者」に指名されたわけです。日本以外の報告内容は会場に来て初めて知ったのであらかじめ提出する原稿には反映できず、主に日本の報告を受けての発言でした。わたしは、1919年という年が第一次世界大戦終結によるベルサイユ条約が結ばれた年であり翌年国際連盟が発足、世界的に平和と民主主義を求める声が広がったときであり、日本でも新婦人協会が活動をはじめ、「国家のエゴを越えて軍縮平和を」という意見が出てきた時代であったこと、しかし日本はこれにに逆行して植民地朝鮮を支配し、中国に「21か条要求」を突き付けてアジアに対する敵対的国家への道を歩んだこと、その時、日本国民の多くは戦争に反対だったにもかかわらず南京大虐殺や「従軍慰安婦」などの残虐行為を知らされず、「アジアを白人支配から解放する」という宣伝にとりこまれて戦争協力の道を歩いたこと、その誤った歴史認識は今や安倍政権によって再生産されていることなどに触れ、「アジア諸国に戦争責任を謝罪することさえしないような政権を変えさせることができないままでいるのは私たちの責任」と発言しました。わたしたちは、安倍政権をやめさせるために力を合わせなければならないが、同時に安倍が悪いというだけでは事態は打開されない。わたしたち自身がその責任をはたすためにアジアの人々と対話し、戦争責任の清算と和解の道を作り出さねばならない、わたしはもう年を取ったけれど、その責任があると思ってここへ来た、という意味の発言をしました。

 時間が過ぎていましたが、わたしは一昨年「女性文化賞」を贈呈した釜石在住の千田ハルさんが戦時中釜石製鉄に勤めていたのに、そこに朝鮮人徴用工が働いていて釜石が米軍の艦砲射撃のために壊滅したとき犠牲になったことを知らなかった、戦後遺族が未来賃金の支払いと遺骨の返還をもとめて裁判を起こしたとき、「無念の思いを抱いて死んだ朝鮮の人々のことを知らななかったのは恥ずかしい」と70歳を過ぎて裁判に協力し、裁判所で証言台に立って支援したことを紹介しました。この裁判は日韓両国で犠牲者の慰霊を行い、その費用を会社が負担することで徴用工裁判和解の最初のケースになった裁判です。95歳の今も平和の語り部として生きる千田さんの「つぐない」の精神を日本人の間に広め、その声を持っていまの政府に戦争責任の自覚と謝罪をさせるほかないと思う・・・。まあこんな意味の発言をしたのです。

発言を終えた時、会場からは拍手がありました.セッションが終わったとき、思いがけず言葉の通じない参加者が何人もやってきて身振りでわたしの話に共感したと伝え、握手を求める方もいました。「ありがとう」と日本語で言った方もいました。「カムサハムニダ」と返しながら涙が出そうになりました。日本人参加者も「良かった」と言ってくれました。日本にいただけでは伝えられないわたしたちの思いを受け止めてくれた日中韓の参加者に会えて本当に良かった・・・。その夜わたしは晩餐会でビールと焼酎を一口ずつですが飲んで酔っぱらい、「まだ歩けるよー」と叫びながら「介護人」のFさんに付き添われて下りの坂道を20分歩いてホテルまで帰り、バタンキューと寝た次第です。

 以上最初の報告を書いたら夜中になりました。11月24日にわたしたちは新婦人協会100年記念のつどいをしますが、そこでは新婦人協会が直接取り組んだ治安警察法第5条修正と「花柳病男子結婚制限法」運動に重点を置き、新婦人協会解散後日本の女性たちが戦争動員される過程までは取り上げる余裕がないということになっています。わたしは少しでも踏み込みたいと思い、事前にこのフォーラムに参加しました。ここで感じたことをすこしでも伝えられたら、と思っています。四ツ谷駅前の「主婦会館で午後1時半からですよ。来てくださいね。写真は後で入れますね。おやすみなさい。

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首里城が燃えてしまった―沖縄戦で灰燼に帰し、やっと再建を果たしたのに

首里城が燃えてしまった…。ショックです。パリのノートルダム炎上のときも直前に間近かで見物したばかりだったのでショックでしたが、比較にならない衝撃。ニュースでは、いっせいに「沖縄戦の壊滅から再建したばかり」と報道していますが、なぜあの沖縄戦で首里城が破壊されたのか。日本軍が首里城を陸軍の総司令部として占拠したからです。アメリカ軍は1945年5月、ここに20万発といわれる砲弾を撃ち込んで完全に破壊占領しました。首里城は琉球王朝の中心遺構であり、沖縄の人々のシンボルだったのです。そこを軍の司令部にするというのは、たとえば東京空襲が予想されるときに、皇居を軍の拠点にするのと同じくらい県民にとっては許せなかったに違いない。本土でそういうことはせず、沖縄で首里城を軍が占拠したこと、その結果完全に破壊されたことは、沖縄の歴史・文化を蔑視し差別する「本土」政府・軍部の姿勢をあからさまにするものでした。戦後跡地に国立の琉球大学が作られ、やっと移転してから再建が始まったことは知られている通り。わたしも何回か首里城を訪問しましたが、はじめキラキラした建物に違和感を持ったものの、「これが建設当初の首里城」と聞かされて納得しました。あのおびただしい宝物や展示品も焼け落ちたのでしょうか。沖縄の観光名所であるとともに、そういう歴史を背負った平和と沖縄のアイデンティティのシンボルが焼失したことに、自分が焼かれたような痛みを感じます。首里城よ、もう一度よみがえっておくれ。「戦なき世」を願い続けるシンボルとして。

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「リブは、わたしだ」と言ってみたかった―田中美津ドキュメント映画『この星は、私の星じゃない』(監督吉峰美和)を観て

この映画は、吉峯美和さんの自主制作による田中美津さんのドキュメント映画です。吉峯さんは、2013年にNHKのドキュメント番組で「日本人は何を考えてきたのか」というシリーズを取り上げた時、平塚らいてうと市川房枝を取り上げた回でディレクターだったフリーの方で、番組ができるまでにずいぶん議論を交わしました。その吉峯さんが監督した映画だと知り、11月1日からソウルに行くので、その前に見ておかないと終わってしまうかもしれないと思って、駆け込んで観てきました。
その感想が「リブはわたしだ」と思ったということなのですが、その理由を書くと長くなるなあ…。でも書くよ。リブを懐かしく思う人や関心のある人はもちろん、リブに関心のない方や反発している人こそ見たらいいと思う映画でした。たくさん見てあげてください。「私財をなげうって」4年もかかってこの映画を作った吉峯美和さんのためにも。
田中美津さんといえば、日本のウーマンリブの伝説的存在です。1970年代を通じて「ぐるうぷ闘う女」を立ち上げ、これまでの「男女平等運動」とは全く異質の「女が自分自身であること」を、言説や集会によってだけでなく、その「身体」において表現し問い詰める活動の先頭に立ってきたからです。その田中さんをマスコミは「リブのカリスマ」と呼び、ついでに彼女の「便所」論や「子殺し」論といった「カゲキな」言説を取り上げて「リブは過激」というイメージを作り出してきたような気がします。女が過激な(とみなされる)言説を吐くとどういう扱いを受けるかは、最近の環境問題で発言するグレタさんを見てもわかる通り、半世紀たっても変わっていない。
それは、保守派のオジサマたちだけでなく、わたしが歴史を勉強したとき影響を受けたマルクス主義歴史学の潮流のなかにも「リブは、女性と男性を対立させるものであり、真の女性解放は、男女ともに階級闘争による国家の変革によって実現する」と教えられました。わたしは1971年に、そのころ女性史の教科書のように読まれた井上清の『日本女性史』(1948)が、「働く民衆(男性が先頭の主体)が自らを解放する、したがってまた男女の不平等をなくす」という記述にとどまっていて「婦人解放」の主体が女性自身ではなかったことに疑問を持ち、批判論文を書きましたが、要するに「右も左も」リブに批判的だったわけです。
しかし、わたしが当時リブから距離を置いていたのは、そういう理由からではありません。わたしは、そのころ共働きで、「女性研究者が結婚や子育てをするのは無理」というのが「常識」だった時、「それってヘン」と思って子どもを産んでしまい、「一人っ子では今に留守番させるが心配」という理由で「二人も」産んだために「研究者失格」といわれていました。核家族で産休明け保育なんてなく、私の住んでいた横浜市政は1960年代から「革新市政」といわれていましたが、そこの保育行政は本当に貧困で、「革新」市長さんが市の広報で「乳児を保育園に預けるのはよくない。母親が育児休業を取ればいい」と書く時代でした。そのころ育児休業制度はほとんどなかったのです。私は市役所に「市民の税金で出している市報にこういうことを書くとは市民の権利を侵害するものだ」と抗議し、ついでにその市長さんを革新自治体のモデルとたたえた記事を載せた有力な総合雑誌の出版社に「そういうことを書くなら、横浜市の保育行政がいかに貧困かということも書いてほしい」とねじ込みました。雑誌の編集長からは「革新自治体を長い目で見て育てたい」というお返事をいただきましたが「長い目ってそれまでうちの子はどうしたらいいのですか?押し入れに入れて出勤するのですか?」と思いましたね。
おまけに大学教員には育児休業が制度化され、幼稚園から高校までの教員には適用されたのに外され、大学の教員組合に適用を求める運動を、と言ったら組合幹部が「大学の女の先生が休暇を取るのですか?」ときょとんとされました。そのころ大学の女性教員といったら独身ばかりだったのです。わたしは助手だったから教壇に立たせてもらえず、そもそも「助手」などと言うのはいてもいなくてもいい存在でしたから産前産後の休暇を取ることができましたが。今ならそれこそ「性差別」で裁判ものですね。
そういう時代にわたしはゼロ歳保育をしてくれる無認可保育所を探して引っ越し、それもつれあいの職場に近いところを選んで彼に送り迎えをしてもらいました。当時はベビーカーも抱っこひももなく、赤ん坊はおんぶして「ねんねこはんてん」を着用、手には自分のコートとカバン、替えおむつなど山のように担いでいくのですが、わたしの母がプレゼントしてくれたねんねこは黒の市松模様という地味くさいいガラでした。「もうちょっとかわいいのが欲しかった」と言ったら、母は「だってあんたのところははダンナさんがおんぶするんだろ?花模様なんかじゃ恥ずかしいだろうと思って」という返事にギャフンでしたが。
けれども世上伝わってくるリブのニュースは、子育てに悪戦苦闘している身には遠い世界のように見えたのです。わたしが子どものことで悩んでいると、「リブ派」からも「階級闘争派」からも「女が子育てにきゅうきゅうとしていては解放されない」と批判されました。共働きの子育てで家族を維持していくのは容易ではありません。わたしは「子どもには家族が必要だ」といったクルプスカヤ(この女性はレーニンの奥さんで、教育学者)の言葉を引用して反撃しましたが、今度は「家族に立てこもる保守派」と攻撃されました。わたしの講演会場で「米田佐代子は家族が大事などと言って女たちのたたかいを阻害している」というビラをまかれたこともあります。「四面楚歌」だったのです。そのときわたしは「父親であろうが母親であろうが、保育園だろうが学校だろうが、子どものことならエンヤコラするのが人間だ」と思っていましたから怖くはなかったけれど。
国際婦人年(1975)がやってきたとき、「国際婦人年をきっかけとして立ち上がる女たちの会」が生まれリブも勢い盛んだったのですが、東北の盛岡にいた一条ふみさんという農民詩人が「国際婦人年といっても私たち地方の農村に暮らすものには遠くで鳴っている鐘のようなものだ」と書き、これがまた「遠くの鐘にしない」運動を、という合言葉になるのですが、1070年代初めのわたしにとってリブは「遠くで鳴っている鐘」だったのです。二人目の子どもの産休が明けたとき、わたしはリブの運動に参加する代わりに、職場の教職員組合の委員長に立候補し、あまりの剣幕に恐れをなしてか、対立候補が出なかったので無投票当選しました。なぜ委員長になろうと思ったかというと、そのころの労働組合運動では全国組織はもとより単組でも委員長は男性ばかり、女性は婦人部長かせいぜい副委員長でした。わたしは助手で教授会にも出席できず、大学の運営方針に一言も参加できません。しかし組合は公認された組織で、大学の学長でも事務局長でも「団体交渉拒否」をしたら地方労働委員会に訴えることができます。「どうせやるなら責任者になろう」とおもったのです。幸いその時大学の学長(総長)は労働法の教授でした。「団交!」と叫べば、喜んで受け付けてくれ、事務局長は、なんと長野県出身で、わたしが「信濃の国」の歌を歌えると知って、いつでも団交に応じてくれました。その間にゼロ歳の息子がが水ぼうそうになり、治ってもしばらくは保育園に行けないので、組合事務所に連れてきて会議に出ていきましたっけ。
ですから、わたしは「ゴリゴリの階級闘争派」とおもわれていたし、自分でも「わたしはリブじゃない」という思いがありました。
 しかし、ここからが本題ですが、この映画を観て思ったのです。田中さんが日本を飛び出して妊娠出産を経験、でも結婚せず帰国します。そして一人で子どもを育てた時の葛藤がインタビューに収録されていたのです。それはまぎれもなく「母親」としての田中さんの顔でした。しかし、子どもは親の思うとおりになるわけがない。田中さんが「子どもは母親の自分のためにあるのではなくて子ども自身のためにある」というあたりまえのことを発見するまでに葛藤があったと話すのを聞いて、「よくぞ撮ってくださった」と思いました。田中さんのすごいところは、そこから「いのち」のありようと「自然」とのかかわりを考え、ニライカナイの地沖縄に思いを馳せつつ、そこで生きる人々と米軍の支配する基地の現実につきあたり、米軍にひき殺された幼い少女を見下ろす米兵たちの写真に「この子、は沖縄だ」と感じ、「見下ろしているのは、私たちだ」と気がついて、辺野古の基地反対の波に飛び込んでいくところです。それは少し年かさのわたしが、大学という驚くべき男女差別の世界で壁にぶつかりながら、子どもが病気になってもそばにいてやれない悩みを抱え、それでもデモに出ていった日々と驚くほど重なっていました。そうか、「リブは、わたしだ」と思いました。それがこの映画を観た感想です。
もう一つ、平塚らいてうとの関連があります。それは、田中さんの鍼灸師であることとかかわり、らいてうの「身体論」とつながるような気がしています。これは次回に。
今日はここまで書いて力尽きました。忘れていた原稿の催促が届き、31日までに書かねば韓国へ行けなくなります。ユーロスペースの上映時間はまいにち午前10時半。全席指定ですがネットでも買えます。私が行ったときは空いていたけれどね。11月2日には田中美津さん、4日には吉峯美和さんがアフタートークです。私は韓国に行っているので行けないが。「ユーロスぺース」で検索してみてください。

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この星は、私の星じゃない チラシ

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