戦後75年・被爆75年の8月、「核兵器禁止批准国が43か国にー日本政府はそっぽ

 圧巻はNHKのドキュメントでした。策ねんローマ教皇が来日したとき、この写真を掲げて核廃絶を訴えたので有名になった1枚の写真‐アメリカ軍から派遣されて敗戦直後の九州各地の民衆の状況を写真に撮ったジョー・オダネルが、公務としてではなく自分の意志で長崎に赴いて撮った写真です。まだ幼い少年が背に弟か妹かを背負い焼き場の前に立っています。でも背の子は生きていない。少年はその子を焼くために焼き場へ来て順番を待っているのです。はだしでまっすぐ背を伸ばし、涙もこぼさず前を見つめる少年は、どこのだれか今もわかりません。いやこの写真がいつ、どこで撮影されたかもわかっていないのです。NHKは、あらゆる方法でこの写真を分析し、少年の胸の名札の位置から写真が反転しているのではないかと焼きなおして足元に映る石柱のようなものに刻まれた文字を解読、少年の目や鼻に出血した跡があるのではないかと医師の診断を仰ぎ、一見外傷のない被爆者が出血を起こすのは被爆後どれくらい経ってからかを推測、オダネルが公式写真撮影の記録を残していない日付とつき合わせて1945年の10月ごろではないかと、ほとんど推理小説のような探索を重ねます。そして周辺の風景(ほとんど真っ暗)や足元に延びる「電線」のようなものが電車の運行と関係があるのではないかという推測から長崎本線のある駅に近い地点にたどりつき、けっきょく少年の「身元」判明には至らなかったけれど彼の運命を推測させる「原爆孤児寮」の存在まで突き止めていく過程は、一人ひとりの被爆者に「個」としての人生があったことを思い起こさせる貴重な作業であったと思います。日本テレビの2本のドキュメントも、30分という短さが惜しまれますが、80歳、90歳を過ぎて「語り部」として生きる広島と長崎の被爆女性切明千枝子さんと下平作江さんを追った力作でした。

 わたしは広島で被爆の記録を半世紀以上にわたって出し続けてきた『木の葉のように焼かれて』53集に「すいせんのことば」を求められたとき、「被爆体験は語りつくされていない」と思い、あの一瞬の「被爆体験」はもちろん、「その人が生まれて育った人生のどこで、そして広島・長崎の街のどこで何をしていて原爆に遭遇したのか、それからどのように生きてきたか」をトータルに語ることが大事ではないかと書きました。被爆者の平均年齢が83歳を越えたという今、体験の継承とともに、語らずにこの世を去ったひとびとの人生もそのようにして継承しなくてはならないと思うのですが、それは至難の業です。でも歴史学はそのような仕事をしなくてはならない、と思うのですが・・・。

 まだ8月は三分の一過ぎたばかりですが、広広島と長崎の平和式典を観て痛切に感じたことがあります。それは両市の市長が明確に「核兵器禁止条約」への日本の参加を訴えたのに対し、両式典に参加した安倍首相は一言も語らず、ただ「核をめぐる複雑な国際情勢のなかで『橋渡し』をする」としか言わなかったことです。長崎では「首相は口ばかりで何もしない」と抗議する人びともいました。式典後の記者会見はそれぞれ10数分しか行われず、予め用意された質問のみ受け付けて「時間です」と突っぱねたというのですから、「被爆の地」で「不誠実」と言われても仕方がない。国連のグレーテス事務総長はメッセージで「核兵禁止条約」の意義を強調したというのに。このメッセージを代読したのは事務次長の中満泉さんでした。彼女は日本政府がこの条約に関心を持つことを訴えています。

 しかし一方では、ネットなどのコメントで「核兵器廃絶は理想論」とか「中国や北朝鮮が核を保有する以上、日本も核武装すべき」といった意見も頻発しています。「ゲーム感覚ではないか」という分析もあるそうですが、そうだとしたらなおコワイ。しかも現実に核兵器禁止条約に核保有国だけでなく、西欧諸国をはじめ日本や韓国を含めて署名も批准もしていない国がいっぱいあるのです。この条約は50か国の批准で発効しますが、2017年の採択から3年経った今年8月、ようやく43か国になりました。以下、批准した国と署名した国のリストです。いわゆる「大国」はほとんど出てきません。日本政府は「アメリカの核の傘のもとにいるから」とそっぽをむき、「橋渡し」どころじゃない。ここをどう突破していくか。「唯一の戦争被爆国」日本に生きるわれらの見識が問われる夏であることを痛感し、それゆえなお暑い夏です。

2017年7月7日、国連加盟国の3分の2を超える122か国の賛成で採択され、同年9月20日に調印(署名)・批准・参加の受付が始まった核兵器禁止条約。

2020年8月6日、新たにアイルランド、ナイジェリア、ニウエが批准書を国連事務総長に寄託して43か国となりました(ガイアナ、タイ、バチカン、メキシコ、キューバ、パレスチナ、ベネズエラ、パラオ、オーストリア、ベトナム、コスタリカ、ニカラグア、ウルグアイ、ニュージーランド、※クック諸島、ガンビア、サモア、サンマリノ、ヴァヌアツ、セントルシア、エルサルバドル、南アフリカ、パナマ、セントビンセント及びグレナディーン諸島、ボリビア、カザフスタン、エクアドル、バングラデシュ、キリバス、ラオス、モルディブ、トリニダード・トバゴ、ドミニカ、アンティグア・バーブーダ、パラグアイ、ナミビア、ベリーズ、レソト、フィジー、ボツワナ、アイルランド、ナイジェリア、ニウエ)。※クック諸島、ニウエは、同条約に調印せずに加入書を国連に寄託しました。加入は批准と同じ法的効力を持ちます。

核兵器禁止条約は、50か国目の批准書が国連事務総長に寄託されてから90日後に発効します。

核兵器禁止条約に署名した国一覧(2020年8月6日現在、82か国。★は批准した国)

アルジェリア、アンゴラ、★アンティグア・バーブーダ、★オーストリア、★バングラデシュ、★ベリーズ、ベナン、★ボリビア、★ボツワナ、ブラジル、ブルネイ、カーボベルデ、カンボジア、中央アフリカ共和国、チリ、コロンビア、コモロ、コンゴ、★クック諸島(※)、★コスタリカ、コートジボワール、★キューバ、コンゴ民主共和国、★ドミニカ、ドミニカ共和国、★エクアドル、★エルサルバドル、★フィジー、★ガンビア、ガーナ、グレナダ、グアテマラ、ギニアビサウ、★ガイアナ、★バチカン市国、ホンジュラス、インドネシア、★アイルランド、ジャマイカ、★カザフスタン、★キリバス、★ラオス、★レソト、リビア、リヒテンシュタイン、マダガスカル、マラウイ、マレーシア、★モルディブ、★メキシコ、ミャンマー、★ナミビア、ナウル、ネパール、★ニュージーランド、★ニカラグア、★ナイジェリア、★ニウエ(※)、★パラオ、★パレスチナ、★パナマ、★パラグアイ、ペルー、フィリピン、セントクリストファー・ネイビス、★セントルシア、★セントビンセント及びグレナディーン諸島、★サモア、★サンマリノ、サントメ・プリンシペ、セーシェル、★南アフリカ、スーダン、タンザニア、★タイ、東ティモール、トーゴ、★トリニダード・トバゴ、ツバル、★ウルグアイ、★ヴァヌアツ、★ベネズエラ、★ベトナム、ザンビア ※クック諸島、ニウエは、同条約に調印せずに加入書を国連に寄託しました。加入は批准と同じ法的効力を持ちます。

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「monto-bellのTシャツ」追伸

昨夜アップした「mont-bellのTシャツ」に、今朝確認したらワンブロック脱落がありました、あれでは、Tシャツを買ったもう一つの理由がわからないので、以下に再録しておきます。本文は修正しました。夜中に目をしょぼしょぼさせて書くからこういうミスが起こるのです。すみません。以下再録分。

「じつは、そのほかにも理由がありました。それは「モンベル公式ツィッター誤爆事件」というのがあったことです。菅官房長官が沖縄県に対して「コロナ感染者の受け入れ体制が遅れている」と苦言を呈したことに対し、なんと社員が「オレは菅に不快感を示したい。GOTOで多くの観光客を送り込んでおいて。どの口が言うのか!」と書き込んだ‟事件”です。個人的意見を公的なMLやツイッターにおくってしまう「誤爆」はよくあることですが、震えあがったのはモンベル。慌てて謝罪を表明、ツイッターから削除したのだそうですが、一方で「よく言ってくれた。自分も共感」という意見も続々寄せられたというのがオチでした。で、オッチョコチョイのわたしは、ちょうど雷鳥Tシャツも目についたし、菅長官の言い分は国の責任を棚に上げていい気なものだと思っていたので、むしろこのツイッターに共感したことを表明したかったからです。」

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「ツィート誤爆事件」のmont-bellから「雷鳥Tシャツ」を買いました。

mont‐bellというのは、登山をする人にはよく知られているアウトドア用品のメーカーです。テントやザックもありますが、わたしが関心を持つのはせいぜい夏用のTシャツくらい。ユニクロなんかと比べればいいお値段ですが、速乾性があり、絵柄が自然豊かな風情でらいてうの家に泊まり込むのにはもってこいなのでこれまでにも何枚か買ってきました。今年は「コロナのせい」でらいてうの家にも行けなくなっているのですが、ふんぱつして1枚買うことに。胸元に雷鳥とおぼしき鳥が描かれ、「Lagopus muta japonica」という学名が書き込まれています。絶滅の危機にあるニホンライチョウを救うため、売り上げの一部を長野県の「しあわせ信州」プロジェクトに寄付して「日本アルプスに生息するライチョウの保護活動等に役立てる」という趣旨が気に入ったからです。

じつは、そのほかにも理由がありました。それは「モンベル公式ツイッター誤爆事件」というのがあったことです。菅官房長官が沖縄県に対して「コロナ感染者の受け入れ体制が遅れている」と苦言を呈したことに対し、なんと社員が「オレは菅に不快感を示したい。GOTOで多くの観光客を送り込んでおいて。どの口が言うのか!」と書き込んだ‟事件”です。個人的意見を公的なMLやツイッターにおくってしまう「誤爆」はよくあることですが、震えあがったのはモンベル。慌てて謝罪を表明、ツイッターから削除したのだそうですが、一方で「よく言ってくれた。自分も共感」という意見も続々寄せられたというのがオチでした。で、オッチョコチョイのわたしは、ちょうど雷鳥Tシャツも目についたし、菅長官の言い分は国の責任を棚に上げていい気なものだと思っていたので、むしろこのツィッターに共感したことを表明したかったからです。

 すると娘が「じゃあ、わたしは国境なき医師団応援のTシャツを1枚」と言ってきました。こちらは紛争地で難民や内戦で家をを失なった家族のために医療活動をしている国際組織です。母親らしき人が子どもを抱いている絵がついています。わたしは「10万円」の中からここにも寄付をしました。親子そろってオッチョコチョイと言われればそれまでよ。「誤爆」した社員はさぞかし会社から叱られたでしょうが、こんなmont‐bellヒイキもいるのですよ。社長さん、その社員さんは売り上げに貢献したのだから誉めてあげてね。それにしても、これを着てらいてうの家に行ける日はいつ来るだろうか?

親子でTシャツ
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「光の差す方へすすめ」―ドキュメンタリー映画『ヒロシマへの誓い―サーロー節子とともに』を観ました。

 8月6日夜。昨夜も夜中にパソコンを開けてしまい、寝たのは朝の5時半。それでも8時前には起きだして、午前8時15分の広島にテレビのチャンネルを合わせました。松井広島市長は「核兵器禁止条約の署名・批准を」とうったえましたが、安倍首相は一言も触れず、「核廃絶を目指して各国の橋渡しをしたい」というだけ。「アメリカの核の傘のもとにいる」という理由で核禁条約に賛成せず、今も署名も批准も拒んでいる日本がいくら「橋渡しをす」といっても信頼されるでしょうか。その後1か月半ぶりに記者会見があったそうですが、観ませんでした。16分だったそうで、記者の質問もコロナ関係が多く、核禁条約に対する拒否反応はたぶん「わかりきっている」からか、問題にされなかったようです。

 はらいせ?に、WOWOWで放送したドキュメント映画『ヒロシマへの誓い―サーロー節子とともに』を観ました。じつはこれを観るためにWOWOWと契約し、午後7時半からなので野球を観たいつれあいに談判してその時間だけは確保するという手続きを踏んでおいたのです。祖父が広島赤十字病院の院長だったという被爆二世の竹内道さんがアメリカで学び、あるとき「通訳して」と頼まれて13歳で被爆したサーロー節子さんと出会ったのがきっかけだったそうです。今はカナダで暮らす節子さんが、8月6日の広島にいて、同級生のほとんどが被爆死、自分も炎が迫るがれきの中で生き埋め状態になり動けなくなっていたのが、どこかから聴こえてきた「光の差す方へすすめ」という声(「兵隊さんだったかも」とのこと)に導かれるように這っていって助かった経験を語りながら、核廃絶をめざす運動に取り組んでいることに惹かれて共に活動するようになッた竹内さんが撮った映画です。2017年7月7日、国連で核兵器禁止条約が採択され、やがて運動の中心になったICANという団体がノーベル平和賞を受賞するまでを撮ったものですが、サーロー節子さんと竹内道さんの人生が簡潔に語られ、それぞれの家族も登場するヒューマンドキュメントです。

なによりもサーロー節子さんの88歳という年齢にうたれました。カナダ人と結婚して移住、夫の励ましや被爆者というおそれを抱きながら産んだ息子が成長して母を支えてくれたことなども語られ、車椅子でどこへでも出て行って若い世代に語りかける彼女の意思に感動しました。そして思ったのですが、ここに登場する人びとの重要な部分を女性が占めているということです。サーロー節子さんも竹内道さんも、2人の母たちも、カナダ人の夫の母も、そしてICANの活動を支える事務局長も。核禁条約が国連で採択された現場にいた日本平和委員会の川田忠明さんは、採択された会場出席者(各国代表)は、ほかのどの会議よりも女性が多かった、と話してくれました。男性がいなかったわけではありませんが、「平和構築における女性のイニシアティブ」「ジェンダー主流化」の潮流を実感する一コマでした。「女性のいない民主主義」はあり得ない時代になっているのです。

 しかし、日本はどうか。それは後で書きます。まずは、あと1か月で86歳になるわたしも、「光の差す方へすすめ」と言い聞かせよう。しかし、「光」はどこから差してくるのだろうか?わたしは信仰を持たない人間ですが、戦後一時期新制中学の一年間だけミッション系の学校に通い、カナダからやってきた先生に聖書を教わりました。生意気にも「わたしは神を信じません」と反抗するわたしを先生は咎めず、言いたいことを言わせてくださいました。そのときおぼえた賛美歌に、有名なイエスの「山上の祈り」をうたった「山辺に向かいてわれ目を挙ぐ/たすけはいずかたより来たるや」という一節があり、イエスもなやめる一人だったことを知って、そこだけは共感しました。それから70年以上経って今も信仰とは無縁ですが、グリーンバンク先生の温かいまなざしを忘れることはありません。この讃美歌は「たすけはみかみよりわれにきたる」と続くのですが、被爆後に洗礼を受けたというサーロー節子さんは「神とともに」、しかし何よりも「自分ですすむ」道を歩いてきました。わたしも「残り少ない人生」を自力で「光の差す方へ」すすまなくてはならない、と思わせる映画でした。

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広島の被爆記録『木の葉のように焼かれて』54集が刊行されました―「加害」と「被害」を見据えて

 8月になると、いっせいに新聞やテレビで「ヒロシマ」「ナガサキ」がとりあげられます。「8月だけ語る平和」でいいか、という意見もありますが、「8月にも語られなくなる平和」になってはたいへん。せめて8月だけでも「平和」の記憶を語りたい。今年も各地で75年まえの「戦争の記憶」を、90歳過ぎてから語り始めたという方たちの話が紹介されています。「忘れない」ことが大事。

 8月6日は、広島の原爆投下から75年です。直接被爆体験を記憶し、語ることのできるのは80歳から90歳を越えた方々でしょう。ご生存であっても、もう話すのが難しい方もおられるかもしれない。原爆を体験し、戦後を生き延びた父母や祖父母たちが「何も話さずに」亡くなられたことを「聞いておけばよかった」と悔やむ子や孫世代の方もいます。「聞いたけれど、とても話せないと断られた」という方も少なくありません。

 脱線してすみません。被爆者ではないがわたしの母は戦時中15歳だった2番目の息子(わたしの兄)が少年兵に志願するというのを止めることができず、彼は戦争が終わる2か月前の1945年6月、特攻隊に指名されて九州に送られる直前、米軍機の爆撃で「戦死」しました。「B29と交戦中戦死」という「公報」は敗戦後の9月になって届きましたが、彼がどのような状況の中で死んでいったのかは、全くわかりませんでした。母は「もしかしたら特攻隊になって沖縄近くの島かどこかに不時着して生きているのではないか」と思い詰めていたそうです。その母も自分の「戦争体験」をわたしたちにも話したがりませんでした。わたしは自分の息子が15歳になったとき、「こんな子どもが戦争に行って、死んだのだ」と実感し、兄のことを調べ始めました。おどろいたことに、当時の軍隊が記録した兄の戦死の状況は「逃げ込んだ防空壕の上に爆弾が落ちて圧死」とありましたが、そこには兄はいなかったという証言があり、だれも兄の最期を見届けた「戦友」がいなかったのです。わたしは「兄を探す旅」に出て秋田、長野から九州、名古屋、静岡まで当時の生き残りの方たちを訪ねて「兄はどこでどうやって死んだのでしょうか」と聞いて歩きました。最後に「僕が米田君の死に顔を見届けました」という方に出会い、その報告をもって母に自分の体験を書きのこすように説得したのはわたしです。父は戦後早く亡くなり、息子のことを一言も語らずに逝きました。母が書きのこした「体験記」は、「私がおろかであったためにまだ子どもであった息子を戦争で(兵士として)死なせてしまった」という罪の意識に満ちみちていました。「戦争体験」を語ることは「戦争をやめさせることができなかった」という「戦争責任」と避けがたく向き合うことにほかならないことを、わたしは痛感しました。その「いたみ」の感覚を戦後世代は継承できるだろうか。戦時中幼かったわたしに「戦争責任」はあるのだろうか。1980年代を通じて女性史の分野で「女も戦争を担った」という議論が鋭く交わされた時、わたしは「戦争の時代に幼なかったもの、戦争の時代に生まれていなかったものたちにとっての戦争責任」を問い続けてきました。だから「あの日のことを話したくない」という体験者の思いを受け止めなくてはならない、と思い続けてきたのです。

 そこで本題に戻ります。『木の葉のように焼かれて』は、そういうためらいもある中で、1964年から毎年発行し続けてきました。途中で発行できなかった年もありますが、半世紀以上にわたって受け継がれ、発行され続けてきたことの重みが、この54集には詰まっています。戦後75年、すでに直接の被爆者でご生存の方は多くありませんが、この冊子には被爆体験者も編集委員として加わっています。「二世・三世」という方も、直接原爆体験とかかわりのない方もいます。54集には7人の被爆者の方の手記と4人の被爆者の「ききがき」が載せられ、「二世の手記」「家族の手記」も載っています。

 わたしが心を打たれたのは、90歳を越えた被爆者の方が手記を書いておられることでした。その一人切明千枝子さん(当時15歳)は、現在老朽化のため「取り壊す」とされている「被爆建物」陸軍被服支廠の保存運動について書いています。切明さん自身被服支廠の近くで生まれ育ち、原爆投下時には多くの人々が助けを求めて逃げ込んだのがこの建物でした。被爆した祖母も赤レンガの倉庫に担ぎ込まれたのだそうです。その切明さんのインタビュー記事を別の新聞で読みましたが、彼女は「積極的には思いだしたくなかった」体験を、数年前から証言活動として語るようになったというのです。「政治家が憲法を守らないような状況に、背中がぞわっとするような予感」を感じたから、と。ご自身の体験を語るとき、原爆が落とされた1945年8月6日よりずっと前から話すようにしている理由を問われ、切明さんは「広島は軍都として戦争で大きくなった街です」「被服支廠は日本の軍国主義のシンボル。原爆被害を受ける前の広島は加害の地でもあった」「そんな歴史も知らず、『原爆にやられたかわいそうな被爆地』と叫んでも空しいものがある。だから、戦前から話すんです」と言い切っています(朝日新聞2020年8月4日付)。

 じつは、2年前広島を訪ねた時も、案内してくださった地元の方々は「加害と被害が重なり合う地」として広島の戦争遺跡を説明する冊子を用意していました。一方でリニューアルされた広島の平和記念館にそのような「加害」について触れた記述や展示が少ないことを批判する意見も聞きました。特に女性は直接戦場に出て人を殺すことがなかったために「被害体験」だけが強調され、加害認識が弱いという批判があったわけです。わたしは、日本では原爆投下や東京大空襲をはじめとする一般庶民に対する大量殺戮の非人道性があいまいなまま戦争被害者が沈黙を余儀なくされてきたこと、戦争被害を受けた当事者が自らの体験を語ることができるようになることによって、自らの「戦争責任」自覚の可能性がひらけると考えてきました。切明さんは、被爆者としてその道を歩いてきたと思う。そういう方の手記がお元気な間に世に出たことに心から敬意を表したいと思いました。この冊子にはほかにも「旧宇品線をあるいて(加害の歴史)学習会」という取り組みの報告もあり、戦争被害を受けた当事者が「加害の責任」を語ることの重みが詰まっていると思いました。

 54集にはもう一つ、心に残った言葉があります。この冊子の表紙絵には四国五郎さんという画家の作品が多く使われています。四国さんは、2014年に亡くなりましたが、1970年に詩画集『母子像』を刊行、2017年に復刻されています。『木の葉~』54集には息子さんの四国光さんが復刻版に寄せた文章が採録されていますが、「この本の冒頭に父は…『わたしは、抑圧や侵略や、非人間に立ち向かう母と子に象徴される人間の愛と勇気を描きたい』と書きました」と紹介、「父のこのような心のありようが『いのち』の永遠の連鎖である『母子像』というテーマを通じて背骨のようにこの本に凝縮されているように思います」とありました。そこにはたんに母が子に寄せる「母性愛」というだけでなく「いのち」を産む性としての女性が非人間的なものに立ち向かうことの意味が浮き彫りにされているような気がしたのです。

 こうした記録が半世紀の間女性の手によって書き継がれ、残され続けてきたことの意味を、被爆75年に改めて考える1冊でした。

『木の葉のように焼かれて』54集(2020年6月刊)
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『BIG ISSUE』の「3か月購読」を申し込みました。

 ホームレスの方たちの「自立支援」をめざす「ビッグイシュー」日本版が、「コロナのせい」で街頭販売の売れ行きが落ち、販売者たちが困窮しているという報道を読みました(朝日新聞8月3日付)。この雑誌は、売り上げの何割かが販売者の収入になり、1日20冊くらい売れれば、その日の宿代と食費が確保できるというシステムで、これを頼りに仕事探しや住まい確保に取り組み、「自立」していくというものです。わたしはこれが1冊200円か250円くらいの時から駅で見かけた時には買うようにしてきました。

 10数年前まではあまり知られておらず、いつか女性史の研究会か何かの帰りに、みんなでコーヒーでも、と喫茶店に行く途中の駅で販売者さんを見かけたので、「これを買っていくから」と言って説明したのに誰も関心をもってくれず「あら、そう」と言って素通りしてしまったことがあります。「コーヒー1杯分なのに」とひそかに憤慨し(それは料簡が狭かったかもしれないけれど)、それから半分意地で買い続けました。そのうちにだんだん値段が上がり、コーヒー代はコンビニで100円でも買える時代になって、それはさておき一回分のおかず代に匹敵するようになっていささかひるむようになりましたが、そこへ「コロナのせい」で電車にあまり乗らなくなったし、外出しなくなったので買う機会を失いました。

 新聞記事には、3か月単位で購読を申し込むという制度があって、7‐9月分を3300円で6冊送ってくれるとありました。1年分だと13200円です。今でもいろいろな年会費や定期的な寄付などを合わせると年間10万円を下らない額になるので、そろそろ終活を、と思っているところでした。「コロナ」の10万円はとっくにカンパにつかっちゃったし、とても継続はできないけれど,3か月分だけならヨガに行かなくなった分の会費が戻ってくるからそれをつかうか、とケチくさく思案した末に決心、インターネットで申しこみました。「通信欄」があったので、「少し活字を大きくしてください」と書きました。以前対面で買っていた時はいつも販売者さんに「この活字では私にはもう読めないから、もう少し大きくして」と言い、向こうも「いやあ、そういうお声をよく聞きますのでね、言っておきます」と返事してくれて、しばらくしたら少し大きくなったような気がしていたのですが。買っても読まないのは失礼だものね。早く対面で買える日が来ますように。

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WANのミニコミ図書館に「女性史のつどい」報告集全12回分アップを記念して関係者からのエッセイが掲載されました。

 関東地方は「梅雨明け」だそうで、たちまち猛暑。安倍首相もついにアベノマスクをやめて大きいマスクに方針転換したそうですが、街へ出るとマスクしてない人が増えています。昨日バスに乗ろうとしたら後ろのマスクしてない人がぴったりついてくるので少し間隔をあけたのに、動いた分だけ詰めてくるのでハラハラ。おまけにおなじバス停で降りたら横断歩道の信号待ちの時またピッタリ寄ってきて「今日はいい天気ですねえ」と仰る。ずっと口を利かなかったからかしら。せめてマスクして話しかけてよ。こちらは汗だくだくでも少し上等な不織布マスク(といっても去年安く買った)をして歩いているのに。

 閑話休題。1977年から2015年まで40年近く続いた「全国女性史研究交流のつどい」報告全回分をミニコミ図書館にアップしたのを記念して、関係者からエッセイをいただきました。第一弾は、第一回をはじめた名古屋の伊藤康子さん。彼女はわたしと同学年の「国民学校世代」ですが、よく書いてくださいました。そこでじつは女性史を書きたいと思いつつ思うように進まない自分に、「名古屋は日本の真ん中だから、そこで女性史の交流集会を開いたらどうか」と談判に来たのが愛媛松山の歴史家篠崎勝さんと彼が中心になっていた松山の「近代史文庫」に拠りながら愛媛の女性史を勉強していた「女性史サークル」の面々だったという思い出には感慨深いものがありました。

 それから9年後の1986年に松山で第4回の「つどい」をひらいたとき、中心になった女性史サークルの方たちが「ここに住み働き学びたたかいここを変える女性史をめざして」というキャッチフレーズを提起され、それまで「女性史」は差別や貧困にあえぐ女性の生活史をありのままに描くのか、女性解放運動のあゆみを取り上げるのかといった‟女性史論争”があったのですが、それを対立的にとらえるのではなく「地べた」に生きる女性が「地域を変える」という鮮明な方向を提起したことで印象的な集会だったことを記憶しています。

 わたしもいろいろな「論争」に口をはさみ、平塚らいてうは「雲の上のエリート」でそういう人間の言説だけでは女性史とは言えないという批判に対して、彼女が一人の女性として子を産み育てる母親であることにこだわって自己の思想を紡ぎだしたこと、それまでの女性解放論が「社会主義になれば女性は解放される」といった議論になりがちな状況に異論を立て、「生活者としての思想」とは何かを論じてまたまた「論争」になったこともあるのですが、1970⁻80年代にはなかなか受け入れられませんでしたね。その中を生きてきた「地域女性史」の方たちの証言を再検討したい。そのきっかけになるかも、と思っています。

  「つどい」報告集の本体は、下記から検索できます。松山の回は第4回です。

https://wan.or.jp/dwan/dantai/detail/86?title=109#tab

 このエッセイをご覧になりたい方は以下をどうぞ。第2弾3弾も予定しています。

https://wan.or.jp/article/show/9065

追伸 以下をクリックするとすぐに「PICK UP」という項目が出て伊藤さんのエッセイを読むことができます。

https://wan.or.jp/

ミニコミ図書館が、「持ち出しボランティア」で「小さな声」である「女たちの声」を保存公開しようと、文字通り「悪戦苦闘」されたことは特筆大書したいのですが、それも含めて「つどい」の資料がミニコミ図書館にアップされたことの意味は大きいと思っています。もしかすると日本のフェミニズムが「外来思想」だという「誤解」を解き放つ一歩になるかもね。なんちゃって、こういう「おおぼら」をふくから、「おまえは屁理屈をこねる」と言われるのですが、でも「女性の思想って何よ」とおもっているので・・・。まずはぜひミニコミ図書館にきてください。

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「道を歩けばコロナに当たる」? 

 7月30日。東京の「コロナ感染者」はこれまでの最多367人を記録、90歳の方が亡くなりました。世代も若ものだけでなく高齢層にも拡散、感染場所も職場や家庭内に広がっています。「感染経路不明」が多くなり、それは「夜の街(この言い方好かないが)」にいたことを言いたくないのではなく、普通に感染対策をして、普通に通勤していた人が感染して家族に広がる傾向もあるそうです。

 東京都医師会は「PCR検査の拡大」で無症状の陽性感染者をを見つけて隔離することを提言、「国会を開いてほしい」とうったえましたが、国会は休会中のまま安倍首相は雲隠れ状態。東京都も小池知事が「最大の警戒を」とかいうけれど要するに都民に「自粛せよ」というだけで、具体性がない。世田谷区では独自に検査体制を強化するといっているそうですが、都はなんでニューヨークみたいにだれでも無料で検査を受けられるようにして陽性者を発見隔離するという基本政策をとらないのか。NYでコロナが猛威をふるってるとき、セントラルパークにテントハウスが林立している映像を見て「そこまでやるの?」と事態の深刻さを感じましたが、今は公民館でも検査できるシステムができ、感染は抑え込まれているそうです。日本では発熱などの症状があっても「海外渡航歴ナシ」だと検査してくれないとか、いまどきコロナは海外からではなく市中感染だということははっきりしているのに、これでは「検査拒否」みたいなものではないか。

 わたしの街でも、6月ごろまでは市内全域で10数人程度で止まっていましたが、このところなぜか毎日一人か二人くらいずつ増えて、今は50人近くに。コロナウイルスはどこにいるのでしょうか。わたしは、昔安売りで買った不織布マスクのうち一番安いのは「風邪・花粉症用」としか書いてないので使用中止、気休めですがもう一箱少し高かったけれど「ウイルスカット」とあるほうの不織布マスクを使うことにしました(アベノマスクは2世帯分ありますがつかわない)。それでもうつるものはうつるし、移すかもしれない。じゃあ、出かけなければいいか?そしたら体力低下で歩けなくなりますよ。するとどこかの記事に「高齢者は買い物などに積極的に出て行って体を動かしなさい」とありました。「買い物は3日に1回」と言ったのはどこの知事さんでしたっけ。「道を歩けばコロナに当たる」という心配に応えてほしい。

 らいてうの家も、東京からはほとんど行かなくなっています。事務局長が「決死の覚悟?」で自費でPCR検査を受けてから行くというのですが、その金額がハンパじゃない。とても東京からの「お当番」全員に検査を受けてもらう費用はない(検査で陰性だとしてもそれでOKではない)ので、東京からは原則行かないことにしたのですが、それでも「家」に来てくださる方があり、わたしに「居なかったね」と言われることもあるので苦慮しています。せめてオンラインで、とも思いますが、同年代の友人は「もう新しいことに挑戦すること自体がストレス」と言っています。わたしも昔からテレビで映画見るのは苦手でした。2時間じっとしていられないし電話がかかってきたりするからね。散歩も「目的もなく歩く」のを楽しめないタチなのです。せめて今朝はNHKテレビの「みんなの体操」を5分だけ付き合いました。「来年まで生きねばならぬ」と思いつつ。

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「活过今年―今年を生き延びる」を読みました。

 7月の初めに「暗黒の7月が来るのだろうか」と書きました。一か月経ち、7月が終わろうとする今、その予感が予想を超えて「当たって」しまったことを痛感しています。まず予想を超えた大水害。九州から東北に至る河川氾濫のすさまじさは、とても「梅雨」という言葉では表現できない。「自然災害」というが気候変動がもたらした「人災」ではないのでしょうか。どうかみなさんの無事と生活保障を―。

そして「コロナ」は終息するどころか感染は拡大し、ついにわが愛する岩手県の盛岡と宮古で感染者が出ました。どちらも知人の住む街で、去年訪問したばかりです。らいてうの家のある上田では東京からの訪問者が陽性確認され、これではますます行けそうもありません。悪評高い「GO TOトラベル」は「専門家」が「実施延期」を提言したのに、「もう決めたから混乱する」という理由で(実は実施細目も決まっていなかったのに)強行したことがわかりました。わいろをもらったのか利権のあっせんか知りませんが、そのためにはコロナで人が死のうが、医療がひっ迫しようが「問題ない」というのでしょうか。

 今日は毎月一回診察を受けるので診療所に行き、薬局でクスリももらいましたが、汗みずくになって不織布マスクをつけ、バスにも乗らず歩きました。布マスクより不織布のほうがまだいくらか効果があると聞いたので。それなのにウイルス漏れ率100%のアベノマスクをこれから何億円もかけて8000万枚配布するというから正気の沙汰ではない。

 わたしの長ったらしいブログを必ず読んでくださっているらしいMさんの簡潔な時代批評を読みました。以下、一部を引用させていただきます。

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中国語の授業にて。

「2020年の目標は、と聞かれるといろんな答えが返ってきたものですが、今はみな同じことをいいます、「活过今年!」とね」

活过今年(huo2guo1 jin1nian2)――「今年を生き延びる」。今日の不確実性に抗し、明日をなんとしても手繰り寄せること。その切実さに対するに、”After / With CORONA”のいかに儚きことか。

(中略)

漏れ聞こえる、「東京都で500人/日の新規感染者は想定の範囲」、「GoToトラベルで感染者が出ることは問題ない」、etc.。単なる無能さの表れ、戯言であるならばまだしものこと――。

彼彼女らにとって、一人ひとりの感染、発症、あるいは死すら眼中にはない。彼彼女らにとっては数十万、数千万人という「人数」とその結果としての「経済」が唯一の操作変数であり、心悩ませる対象であるならば。戯言は一瞬にして能吏の金言と化する。

「国家は国民を守らないのだ」――然り、少なくともこの国家は私たちを守る存在ではない、そうあろうともしていない。前提をそこに置くとき、「なぜ」は「いかに」へと裏返る。

 今年を生き延びる、今を生き延びること。せめて2021年、「いかに生くべきか」を問えることを祈りつつ。

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 今、いちばんこの言葉を語りたいのは、香港の人びとではないでしょうか(香港は広東語だが、どう表現するのだろう?)。6月30日「香港国家安全維持法」が成立してから1か月、そして直近のニュースでは民主化運動(「雨傘運動」)の提唱者だった香港大学の法学部副教授が解雇され、「大学の自治」が覆されたと報道されています。さらに林鄭長官の諮問機関が9月6日に予定されていた立法会(議会)選挙を「緊急事態」と称して1年間延期することを決定したと報道されています(だから日本でもコロナで「緊急事態」というのはアヤシイと思っていた…)。任期が切れる現議員が残るだけで、民主主義に基づく政治は「真空状態」になるだろうという論評もあります。

 それは「対岸の火事」ではない。安倍首相や菅官房長官の「鉄面皮」ぶりは、日本には議会はあるが与党優勢のため何をやっても「問題なし」になることを見越しているのです。「民意」は到底反映されず、「忖度」だけが横行している日本に、本来の民主主義があるのだろうか。「野党がだめだから」という人がいますが、そもそも小選挙区制導入によって「1強体制」が生まれたことを抜きにして野党のせいにできるか、と思います。

 それでも「今年を生き延びて」2021年に「生きることの意味」を問わねばならぬ。今日は『平塚らいてうの会紀要』13号が遅れに遅れてやっと校了したという連絡が届きました。「コロナ」で編集委員会も開けなかったとという事情もありますが、わたしの原稿が遅れたからでもあり、忸怩たるものがあります。「『コロナの時代』を生きる人間の力―2021年平塚らいてう没後50年を前に考える」というたいそうなタイトルです。自分に生き延びる力が残っているかどうかを自ら問い返しながら書きました。書いてしまった以上来年は生きていたい。本当に?

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今日は、母の命日でした。

 「五月雨をあつめて早し最上川」と詠んだのは松尾芭蕉ですが、昨日今日の最上川は豪雨でそれどころではありません。もう、ほんとうに日本はどうなっちゃうのでしょうか。今はただ現地の無事を祈るばかりです。

 わたしの母は1994年7月28日、90歳で亡くなりました。病院の個室で、最期をみとったのはわたしです。その時はまだ6人の子のうち5人が元気で、交代で泊まりんでいました。わたしはそのころ地方都市の短大で教員をしていて、半分単身赴任していましたが、夏休みに入っていたので泊まり込みをしていたのです。朝早く、だれも間に合いませんでした。母は人工呼吸器をつけ、言葉を発することはできなくなっていましたが、最後まで意識ははっきりしていたと思います。前夜めずらしく目を開けた母にわたしは一方的に話しかけ続けました。そうしないといのちの糸が切れてしまいそうな気がしたからです。母はしずかに涙を流し、それが別れのあいさつになりました。まだ口を利くことができた時、母が少女のようなはにかみを見せながらわたしに「ま・だ・し・に・た・く・ない」とささやいたことがわたしにとっては取り返しのつかないことをしたという思いとなって残りました。あんなに「もういつお迎えが来てもいいよ」と言っていた母がなぜ最後にそういったのか、死にたくない人を死なせてしまったと私は打ちひしがれました。

 そこからわたしがどうやって立ち直っていったかは別に書きましたから繰り返しません。ただ覚えているのは、その年が猛暑だったことと、その後もこのころはいつも暑く、多磨墓地にお参りに行くのも一苦労だったことです。だんだんいかなくなり,そして今年は「コロナ」です。いちばん母の生活を支えた姉は、今はもう一人で歩くこともできません。この異常気象で暑さはそれほどでもありませんが、ともかく出歩かないことが唯一の予防策です。せめてと思い、買いものに出たついでに小さな花束を買いました。「仏花」ではなく、少ししゃれた涼しげな花です。母が亡くなったとき葬儀はせず、ただ自宅に還ってきた母のために「なるべく野の花の風情で」と部屋いっぱいに花を手向け、翌日惜しみなく棺に投げ入れて野辺の送りを済ませました。「菊は要らない」と断ったのは、菊にはかわいそうですが戦時中「菊のご紋章」が天皇家の象徴で、このご紋章をかかげ多くの兵士が戦場に赴いたからです。夏なのでお花をそろえるのに葬儀屋さんは苦労したそうですが、快く協力してくれました。

 そのとき、思わず私の口から出たのは母への挽歌でした。「蛙(かわず)哭けつばくらめ翔べあかときを待たで死にたまふわが母のため/九十歳の死を天寿とは言ふなかれ母は生きて平和な世をみたかったのに」というのだけ今も覚えています。前者は斎藤茂吉の「死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはず天に聞こゆる」「のど赤き玄鳥(つばくらめ)二つ屋梁(はり)にいて足乳根の母は死にたまふなり」の本歌取り、後者は「しにたくない」と言い遺した母の思いを受け止めたかったからです。

 それから26年、何回か年忌もしましたが、17回忌はしませんでした。次は33回忌?それはもうわたしも生きていないだろうからなあ。そこで今年「コロナ」の一句「母の墓に参れずただ買ふ夏の花」。おかあちゃん、ごめんね。

「ドライフラワーになります」と教わりました

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