1カ月の電気代が2万円超―高齢者がエアコンを使えないわけを実感。

電気代の請求がきました。7月15日から8月14日までの電気代が夜間温水器料金を除いても22,000円超。猛暑対策にエアコンを解禁してきたから覚悟していましたが、さすがにショック(我がマンションはガスを入れず電気コンロ方式なのでガス代分は引くのですが)。なんでこんなに高いかというと我が家では結局つれあいが仕事をするリビングとわたしのパソコンがある部屋がべつだからです。それは必要経費だと思うが、去年はリビングだけで我慢し、わたしは時々「涼みに」リビングに駆けこんで済ませていたのが今年は猛暑と自分の体力低下で保ちませんでしたからね。

新聞には「生活保護世帯の女性が電気代をとめられて熱中症になり死亡」という痛ましい記事が出ていました。いくら「命あってのモノダネ」といわれてもそのいのちを守るすべがうばわれていたのです。気安く「高齢者はエアコンを」などと言わないでもらいたい。だから図書館が大繁盛して新聞閲覧席は高齢者で満杯。ウチの近くの喫茶店ではコーヒーの「エコ回数券」を発行して「暑いときは喫茶店で涼んでください」といううがった宣伝も見かけましたが、出かけることもおぼつかない人は行けやしない。電気代が払えないのにコーヒーを飲みに行く余裕がありますか?クヤシイ!

さらに口惜しいのは、はねあがった電気代を東電にはらっていること。再生エネ電力に乗りかえようかと思うけれど、そこだって既存電力も使ってるし、「太陽光発電」に疑問を抱いているものとしては簡単に「ウン」といえない。怒り心頭に発して昨日は耳鳴りと鼻血に悩まされました。でも血圧は最高112だからだいじょうぶと思うけれど。

17日、今朝の東京はやっと涼しい風が吹き込み、朝からエアコンをつけなくて済みました。天気も良く、姉の病院から持ち帰った汚れ物を早朝から洗濯しています。たった1カ月の入院で、わたしが「介護うつ」になりそうだというお話は後で。

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9月3日WANで柳原恵『<化外>のフェミニズム』書評会 

9月はもうすぐ。ということはわたしの誕生日が近いのでほんとうに84歳になるのです。その誕生日当日、ケーキもワインもなしでマジメな書評会に出席します。WANのミニコミ図書館を手伝っているご縁で、そこと「上野ゼミ」共催だそうで、著者はわたしの娘世代より若い新進気鋭のフェミニズム研究者柳原恵さん。今は何とチリ大学の研究員をしておられるそうで、WANのお便りにはそれこそチリワインのお話も通信として寄せてくださっています。

その柳原さんが書いたのがこの本。うわさによると「化外ってなあに?」と聞く人や「お化けの話?」とはいわないまでも「なんかコワイ」としりごみするひともいるとか。これはイカン、とおせっかいな解説をいたします。この本の副題は「岩手・麗ら舎の“おなご”たち」です。つまり「化外(けがい)」とは文明の及ばぬ野蛮という意味で、日本の歴史ではかつて東北地方をそのように呼んで差別したのです。そこでさらに女性なるがゆえに差別され、いわば「化外の地」の「化外の民」である岩手の“おなご”たちが、どのように自らを見つめ直し、地域と生活に根ざしたフェミニズムにめざめて行ったかを、同じく岩手出身の新進気鋭のフェミニズム研究者柳原恵さんが、ご自身もこの活動に参加しながらまとめあげたのが今回とりあげる『<化外>のフェミニズム』です。柳原さんは現在チリ大学の研究員で、今回のために地球の反対側から一時帰国されます。チリの女たちの話も聞けるかも。

おまけに、コメンテーターとして登場するのは、これもやはり岩手出身の芥川賞作家若竹千佐子さん。あの『おらおらでひとりいぐも』の深い人間観と重ねてどう論評してくださるかが注目されます。そういえば昨年わたしが女性文化賞をさしあげた千田ハルさんも岩手県釜石で生まれ育った方です。高良さんが女性文化賞を主宰していた時には同じく岩手で「農民詩人」として知られた一条ふみさんをえらばれたこともあります。さかのぼれば、戦後の1955年に世界母親大会がスイスローザンヌで開かれたとき、代表に選ばれたひとりが岩手の土川マツエさん。「ずうずう弁じゃはずかしい」という声も出る時代でしたが、「どうせ日本語が通じるわけない」とばかりモンペ姿で押し出した「岩手のおなご」の見本みたいな人もいます。どうぞ「化外の地」は女たちの地べたからの立ち上がりを育てた歴史をはらんでいることをお忘れなく。

もう一人のコメンテーターは、ブログでも紹介しましたが、ご自身が生まれてもいなかった敗戦直後の京都で「パンパン」と呼ばれ蔑視されてきた女性たちの等身大の実像を描き出した『もう一つの占領』で話題を投げかけたジェンダー研究者茶園敏美さんです。こうした異色の組み合わせ可能なところがこのセッションの魅力です。どうぞどなたでもご自由にお申しこみください。いか、案内は下記をご覧あれ。

https://wan.or.jp/calendar/detail/5178

 

◆日時: 9月3日(月) 18時30分~20時30分

◆場所: 武蔵野市 かたらいの道・市民スペース

東京都武蔵野市中町1丁目11番16号(武蔵野タワーズ スカイクロスタワー内)

▼アクセス地図 http://www.musashino-culture.or.jp/sisetu/katarai/access.html

※JR三鷹駅北口より徒歩3分

 

申込みは下記へ。 https://wan.or.jp/ueno/apply 

「9月3日書評セッション参加」と明記してください。

 

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銀座の観世能楽堂で観た源川瑠々子さん『乙姫(おとひめさま)』のこと 

8月ももう半ば。「8.15」が目の前です。この半月の間にあったことをいっぱい書き残しているのであせっていますが、8月1日にみた「ひとり文芸ミュージカル」のことも書いておきたい。2016年三越劇場で初演の源川瑠々子さん『乙姫(おとひめさま)』の再演ですが、このたびはなんと銀座に新しくできた「観世能楽堂」でやるというのです。

5月に、これは能楽堂ではなく白河の文化会館で「新作アウシュヴィッツ能」と題する『鎮魂』をみて、能舞台ではないところで演じられる「現代能」の不思議な雰囲気に魅力を感じたばかりですが、これは反対に本格的な能舞台で演じられる源川瑠々子の「ミュージカル」です。どんな雰囲気になるだろうと半分野次馬根性で再演を観に行きました。

ビルの中に立ち並ぶファッションやフードショップをかき分けて地下に降りる能楽堂というのも不思議ですが、たどり着いてみれば静寂そのものの一角。何と正面の最前列という「招待席」に案内され、緊張しました。公演中は撮影禁止故、お許しをもらって無人の能舞台をパチリ。白河のときはなかった橋掛かりもちゃんとあり(あたりまえ!)しんとして開幕を待ちました。さすがに囃子方や地謡は登場しませんが、場をつなぐ女性役者が二人登場、これが効果的でしたねえ。瑠々子さんはわずか2年半前のときとおおちがい、すっかり「オトナ」になって衣装も「十二ひとえ」のように裾を引き、しみじみうたいあげるあたり、これは能舞台に負けないというか「使いこなした」というか、まことにアッパレと言いたい雰囲気でありました。

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銀座観世能楽堂

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これは、瑠々子さんの精進のたまものだと思いますが、脚本(スミダガワ ミドリ)の改訂版の成果も大きいと思いましたね。前回も主題はハッキリしていたのですが、今回はそれが能舞台で演じられることによってきわめて明確に提示された、という気がします。ではその「主題」とは何か?これは、作者の解説文を読んでもらった方が早いと思うので、写真をご覧ください。つまり「浦島伝説」を万葉集の高橋虫麻呂以来、竜宮城の乙姫の言いつけを守らず玉手箱を開けてしまった浦島太郎が罰を受けるという「因果応報物語」とされてきたことに異議を申立て、島崎藤村の『落梅集』にでてくる「浦島」によって「壮大な古代のロマン」をうたいあげた作品に仕立てたというのです。藤村の詩によれば、乙姫は浦島に向かってみずから「わだつみの神のむすめの/乙姫とわれはいふなり」と名乗りを上げ「龍(たつ)の宮荒れなば荒れね/捨てて来し海へは入らじ/あ々君の胸にのみこそ/けふよりは住むべかりけれ」と宣言するのです。不老不死の常世の国である竜宮を捨て、限りあるいのちを浦島への愛にささげるという恋の歌です。

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『乙姫』解説より。右あいさつ文、左島崎藤村「浦島』(『落梅集』)

今回、能舞台にふさわしい所作や衣装、そして解説も含めて、人間のいのちが「限りあるもの」であることを「永遠の生命を授かったはず」の浦島が約束を破ってその「特権」を失った」悲劇としてではなく、限りあるいのちだからこそ自らの意志で生きようとする乙姫を通じて作者の主題が明確に打ち出された、とわたしは思いました。これが、おりから辺野古問題で「命をかけた」翁長元沖縄県知事の死の1週間前に語られたと言うことを想起するのは、いささか政治主義的でしょうか。舞台で瑠々子さんは琉球舞踊を取りれたという踊りも披露しました。「常世の国」ニライカナイ伝説の沖縄を意識していたことは間違いありません。解説では「争いごとをやめて平和に生きる」ことを願う思いも盛り込んだとありました。

いのちは限りあるからこそ、いま生きるいのちを大切にしなければならぬ。そしていのちは、らいてうが愛した言葉の通り「無限生成」してつながって行く―そんなことまで連想してしまったのは、やはり本物の能舞台で見せてもらったおかげかしら。猛暑の東京で、不思議な静けさと清涼の気分を味わいました。瑠々子さん、スミダガワミドリさん、ありがとう。

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8月10日、東京医大女性差別入試抗議集会にも行きました。

今朝がた書いた「8.11」のブログなのに、8月12日朝早くも遠方の友人から「酷暑真っ盛りでも行かずにはいられない思い」をホメてくださるメールが届きました。ありがとう。ほんとうは、公園でみんな地べたに座り込んでいたのですが、わたしは座ってしまったら近くにつかまるものがないと立ち上がれないのではないかと心配で、ずっと立っていたのです。昔、野外の集会場に杖をついてやっと歩いてきたご高齢の方を見かけ、「無理してこなくても、我ら若い世代に任せて」と思ったこともありますが、今はその方のキモチがよくわかる。娘からは「タクシーでも何でも使ってぶっ倒れないように」という「助言」ももらいましたが、あいにくこの日は祭日で通りは歩行者天国。タクシーさがすのも大変なので歩いたわけ。

集会案内「下駄を脱がせる」とあります。

じつはその前日も、迷った挙句「東京医大入試女性差別」に抗議する緊急集会にも行ったのです。計画したメンバーから「参議院議員会館」が満杯になるように来てください」というメールが届き、そりゃそうだ、ここで「女たちは怒っているゾ」というところを見せなければ、と思ったのです。ところがこの日も、姉とは別の入院中のおひとり暮らしの方をお見舞いにいき、介護保険の認定を受けていないと聞いて、「じゃあ、ご自宅エリアの地域包括支援センターに相談してみましょうか」などと話し込んでしまって、遅刻しました。飯田橋から永田町に行けばすぐだと思ったのに、病院のある西口から地下鉄有楽町線に乗り換えるのにこれまた延々と歩き、この日も1万歩近く歩く羽目に。

それで話は大分進んでしまっていたのですが、どうも文科省の職員の方が見えていて、司会者が質問攻め?にしているところでした。一つだけ分かったのは「東京医大は女性受験者のみに点数カットをしたので明らかに女性差別だが、大学が前もって男女別定員を設けて明記しておけば、違法にはならないこともある」という答弁をしたので会場がブーイングの渦に。現役の女医さんが立ち上がって、そんな問題じゃないと一喝、ご自身が如何に受験当時も医師になってからも「女はいらない」という差別を受けてきたかを披露され、「この体質を変えない限り医学の世界だけではなく学問の府での女性差別は終わらない」と喝破、拍手喝さいを浴びていました。

時間があったらわたしも発言したかったなあ。わたしは文系ですが、大学の研究室に就職するとき、肩書は教授と同じ「教育職」(事務職ではない)だが、実質は雑務担当の事務助手=「お茶くみ助手」と呼ばれ、昇任を前提とせず(したがって結婚退職が暗黙の約束)「女子のみ採用」(そんな法律はどこにもない)という枠でした。前任者がそうだったので、大学院修了の秀才がひしめいているなかで学部卒のわたしにご指名があったわけ。わたしは図々しくも「事務助手ならごめんです。研究助手ならいく」と啖呵を切ってそれは形式上はそうですから先生方をウンと言わせましたがだれも信用してくれず、その後25年間助手のまま最長不倒記録」を保持しました。おまけに「研究者をめざすなら結婚はご法度」と聞いて「そんなのヘン」とある日突然結婚宣言、結婚届を出すと「改姓」届を出さねばならないから大学には届を出さず、旧姓のままでいたら「公文書偽造」になると言われました。今は通称呼称も論文発表時などは認められますが、当時は文部省に科学研究費を旧姓で申請したら通ってから書類を全部書き直させられたこともありました。

極め付けは1975年「国際婦人年」の時です。女性研究者が結束して「大学研究機関で女性の地位向上を」という運動を起こし、「女性は能力がない」「結婚出産で研究が中断し業績が少ない」という偏見を打破しようと、女性研究者が発表したり引用された学術論文の数は男性研究者にくらべて遜色がないことを立証した論文まで出て、それを根拠に日本学術会議に「陳情」に行きました。そのこと学術会議は選挙制でしたが女性会員はゼロ、したがって応対するのは全員男性会員でした。今でも覚えているのは、女性研究者に正当なポストをという要望に対して、年配のおだやかな老教授?がため息をついて、「ですがねえ、女性の教授が医局のリーダーになると、そこに配属を希望しない男性医局員が続出するので困っているのですよ。これ以上女性が増えると医局の運営が出来なくなる」とおっしゃったのにはびっくり仰天。わたしは当時「人材確保法」と言われた小中高の教員には産休のとき「代替教員」を確保するという制度が出来たのに、大学の教員には適用されないので、「大学にも適用を」と要望したら、隣に座っていた「陳情側」の女性に「あなた、私たちは学問と結婚する覚悟で研究者になったのですからね、子どもをつくるなんて論外ですよ」とたしなめられてこれまたガクゼン。じつは、日教組大学部にも訴えに行ったのですが、そこでも「大学の先生が産休を取るなどとは信じがたい」と言われてフンガイしたことも。わたしの勤務先にもそういう風潮があり、出産した女性の助手は多く退職するか「事務助手」だから産休を取ってもいいという感じでした。そのくせ独身でがんばっている女性研究者には「オールドミス」「ヒステリー」と陰口を叩くおまけもありました。いまなら「セクハラ」「パワハラ」ですが、わたしはこれにもコチンときて「じゃあ産んでみよう」と出産、すると「一人ならまだいいが、二人目は無理よ」と言われて「それなら」と二人目も出産、かくて共働き夫婦ともども「研究者失格」のそしりを受けながら子育てした次第であります。

ただ、わが恩師たちのために一言弁明すると、じつはわたしは大学に就職しても「業績を稼いで」教授のポストにつきたいという願望をハナから持っていなかったことです。点数稼ぎできゅうきゅうとする男たちにやりきれず、そういう願望から「降りて」組合活動などに熱中していました。「業績がない」と言われればそれまでと自覚していたのです。それは日本の大学の持つ閉鎖性や権威主義、ジェンダー差別思想の世界で生き延びようと思わなかったからですが、今思うとそれは間違っていたと思う。へそまがりのわたしを本気で応援してくださった教授たちもいたのです。わたしの卒業論文を歴史学の雑誌に載せるべく推薦してくださったのは、西洋史の教授でした。「研究室の掃除をしてない」と叱った東洋史の先生とはケンカしましたが、じつは「君には学生の声を研究室に反映させてほしい」としみじみおっしゃり、大学を学生とともに運営しようとお考えでした。肝心の日本史の指導教授は、わたしを早く卒業させないと何をするかわからないと思っておられたようですが、そのせいだけでなく卒業論文を各大学から選んで発表する大会に、わたしをひとりだけ推薦してくださったのです。まことに師の恩は海よりも深く、山よりも高い。そのお心持にこたえようと決意したのはずっと後になって、じつは子どもを産んでからです。先生ごめんなさい。今はもう鬼籍に入られた先生方に思いを馳せつつ、このセクハラ社会にかつてのわたしよりひどい状態で「門前払い」されている女性たちにエールを送ろうと思いました。

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会場は満杯の盛況でした。

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8月11日「翁長さんの遺志を継ぐ」首都圏集会に参加しました。

他に書かねばならないことがいっぱいあるのですが、これだけは今日のうちに書かねばならぬ。猛暑の戻った東京で、今日辺野古基地反対の「沖縄県民大集会」に呼応する「首都圏集会」がひらかれ、行くかどうか迷ったのですが、行ってきました。

会場は池袋サンシャインシティ隣接の公園。池袋から地下鉄有楽町線に乗って東池袋まで行けば近いと聞いたのですが、池袋でJRから有楽町線に乗り換えるのに一駅分くらい歩き、そこからどう行くのかうろうろしていたら「僕らも公園へ行きます」という方に出会い、喜んでついて行ったら行き過ぎてしまうおまけもあって、ついた時点でペットボトルの水をほとんど飲み干してしまった・・・。

それでも会場は組合や「九条の会」などののぼりが林立。思い思いにポスターなど掲げた人たちもいて、「顔を撮らないから」と断ってせっせとカメラに納めました。途中で「沖縄の県民集会は7万人を超えた」という知らせや、副知事があいさつに立って埋立て撤回の方向をアピールしたという知らせも入り、こちらでは三線の演奏や琉球舞踊も披露されて、「心は一つ」と盛り上がりました。木陰にひっそりとのぼりが立っていて「平和を求める日本女子大学有志の会」とあるのを発見、思わず声をかけて「平塚らいてうの平和のこころざしを伝えたいと活動しています」と連帯の挨拶をしてしまいました。

集会終了後はデモ(今はパレードというらしい)の予定でしたが、わたしは姉の病院へ行くので失礼して、それから中野の病院まで。帰りは池袋駅まで歩きましたよ。おかげで今日の万歩計は8000歩を越えました。さすがにくたびれ、買い物して帰る予定をやめて我が家に一直線。ともかく「翁長知事の遺志を受け継ぐ意思表示だけはした」というのが実感でした。

大きくない公園はもういっぱいの人とのぼり

演壇正面

若い女性が挨拶

三線で連帯

琉球舞踊も

これはジュゴン風船?

掲出ポスターその1

掲出ポスターその2

在りし日の翁長さん

辺野古新基地NO!の翁長さん

うまくとれなくてごめん。最期の翁長さん。裏返っているが「平和を求める日本女子大学有志の会」ののぼりも。

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安室奈美恵さん、翁長知事を追悼―「ご遺志が受け継がれることを」

沖縄出身の歌手安室奈美恵さんが、翁長知事への追悼メッセージを発表しました。彼女は5月に翁長知事から「県民栄誉賞」を受けたばかりでした。その時すでに闘病中で「お痩せになっていた」にもかかわらず「優しい言葉をかけてくださった」ことを思い起こし、「沖縄のことを考え、沖縄の為に尽くしてこられた翁長知事のご遺志がこの先も受け継がれ/これからも多くの人に愛される沖縄であることを願っております/心から/ご冥福をお祈りいたします」とむすんでおられます。

安室さん、よく語ってくださいました。おりから県は、翁長知事が「自分の手でやりたかった」ともらしたという「辺野古埋立て撤回」をめぐる「聴聞」を、職務代理の副知事らの手で開催したそうです。県民投票条例請求署名も法定数を突破したと報道されました。

8月11日は県民大集会、東京でもこれに呼応した集会が開かれます。東京は台風一過で暑さも復活、わたしは姉ともう一人のご高齢の方の病院お見舞いでいそがしく、くたびれているので(今日も姉のところに新しいパジャマなど買い求めて届けに行き、夜うたた寝してしまったので、夜中の3時の今ごろブログを書いています)とても行けないと思っていましたが、「翁長知事のご遺志」を受け継ぐために行くべきか、今思案中です。

その集会は、東京東池袋中央公園、8月11日午前11時半から(地下鉄有楽町線東池袋下車5分。サンシャインシティ60となり)です。トシと体力をはかってみよう。

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8月8日、翁長知事逝く  

8月も忙しく始まりました。ギリギリまで病院見舞いを重ねて、らいてうの家へ。3日は上田市長訪問と弔問の後山へ上って夜「満天の星を観る会」を。4日は「らいてう日記と湯川日記」をめぐる「らいてう講座」。5日は朝から夕方まで「ラジオ深夜便を聴いたので」という訪問客がみえ、1時間半も質問攻めする方もいて張り合いがありました。合間に別荘自治会懇親会へ。6日は月曜日で何時も余りお客さんは見えないのですが、この日は午後になってからやはり熱心なお客さんで時間をかけ、ギリギリに飛び出して東京の自宅に帰ったのは夜9時過ぎでした。そこへ、入院中の姉が高熱を発し酸素吸入を受けているという知らせが。翌朝とるものもとりあえず駆けつけてみたら、酸素マスクは外されて熱もいくらか下がったということで、少しほっとしました。たまっていた洗濯物などを引き取って翌日運ぼうと思ったら台風襲来の予報で行けず、洗濯物も乾燥機に入れてもからりと乾かないので、行くのは9日に。当分退院できないと思い、ケアマネさんへの連絡や産直野菜の係りへの連絡に追われて一日が過ぎました。

そこへさらに追い打ちがかかったのは「翁長沖縄県知事死去」のニュースです。7月のブログで「翁長さん、生きて辺野古の基地建設を止めさせましょう。あの『慰霊の日』に読み上げられた詩『生きる』のように」と書きましたが、願いはかないませんでした。あの時わたしは翁長知事に「鬼気迫るもの」を感じ、彼はいのちをかけて基地反対をつらぬこうとしていると感じたのです。それがほんとうになってしまった。「満身創痍」の身でたたかい続けた姿に、悼む言葉さえ見つかりません。

ただ言えることは、彼は「思うことをまっすぐに」貫いた人だったということです。この言葉は、わたしが平塚らいてうに贈るオマージュの意味があるのですが、翁長知事にもささげたい。そして今思い出すのは、フランスの詩人ジャン・タルジューの「死んだ人々は還ってこない以上、生き残ったものは何が判ればいい?」という詩の一節です。『きけ わだつみのこえ』で紹介され、戦争で死んだ者たちがもはや語ることができない思いを引き受ける呼びかけになっているのですが、翁長知事がおそらく混濁する意識のなかでつたえようとしたことは明瞭であったと思う。その意志を、生きているものは受けつがなければならない。基地のない沖縄を、そして「戦争のない一つの世界」を。合掌。

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