広島 被爆体験集『木の葉のように焼かれて』50年の重み―「3つの地域女性史の記録」を追って その3 17.7.19

まもなく8月。なぜか8月は「戦争を語る」季節です。広島、長崎、そして「8.15」と続くから。もちろん「戦争の記憶」が「8月の風物詩」になってしまってはいけない。けれども戦争体験者が高齢化し、もはや語り部にもなれなくなりつつある今、せめて8月だけでも戦争を知るものはその体験を語り合い、「戦争を知らない」世代は耳を傾け、語ることもなく逝ってしまった人びとに代わって思うことを口に出す時間を持ってほしい、と思います。そこで、「地域女性史」その3は、広島で50年以上続いてきた被爆者の体験集『木の葉のように焼かれて』のことです。

この冊子のために広島に行こうと思い、今年「核兵器禁止条約」の国連採択という記念すべき年の原水爆禁止世界大会にも行きたかったけれど、この暑さと「踵骨棘」などに取りつかれた今は、お医者様から「あんた、やり過ぎだよ」と言われるので、セーブせざるを得ない(じつはセーブなどしていませんが)。それで昨年第50集を出したこの冊子のうち第1集(復刻版)と最近の第49集50集を送っていただきました。発行者は新日本婦人の会広島県本部。1964年創刊だそうです。わたしも子育て最中に何回かこの冊子に出会いました。タイトルは、広島で女学校4年の時に被爆した名越操さんが、結婚して生まれた息子さんを「被爆二世」として白血病で亡くし、自身も1986年に「早すぎる」死を迎えてしまわれるのですが、彼女が1964年の創刊第1集に書いた手記が「木の葉のように焼かれて」というタイトルだったことを受けたものです。

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『木の葉のように焼かれて』創刊第1集(復刻版)

ですから『木の葉』のなまえは昔から知っていました。それが毎年1回発行。50集を数えるまでになったのは、「すごい」の一言に尽きます。この間「編集委員」も交代を重ね、今では「戦争を知らない」世代が編集を受け持つようになりました。「組織」だから決めたことはみんなで責任を持つのだと思いますが、それにしても50年以上続けるというのは並大抵のことではないと思う。

2015年刊行の第49集には、当初の編集委員から現在の編集委員の方がたによる座談会「『木の葉のように焼かれて』のこれまでとこれから」が載っていますが、まず「書き手が自分の名前を出せなかった」ことが語られています。「被爆者とわかったら差別される」という心配から大半が「仮名」で書かざるを得なかったのです。「ほんとうの気持ちを言えない、というのもあった」。編集する立場から、聞き書きをするときは子連れで行った、という経験や書くのが苦手だったという思い出も登場しています。

そして、出来上がっても売れるかどうかわからないという心配もありました。「初めは出す(出版する)つもりはなかったんよ」「この薄っぺらなのを原水禁大会に担いで行って300円で全部売ってきた」「一人50冊ずつもって行って売った」「2集が出るかどうかも分からなかったけれど、全国の反響が大きかったので出そうということになった」「毎年毎年おなじようなものを出している、と言われて出せなかった時期もあった」。1964年創刊なのに、50集が2016年に出たのはそういう事情もあったのでした。

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第49集(2015年6月刊)。表紙絵は四国五郎「鳩笛」より

そうした苦労や壁を乗り越えて50集までたどり着いたのです。その原動力の一つは、『木の葉』のネーミングを生んだ名越操さんの、8歳の幼い息子を白血病で失った痛切な思いがみんなに共有されたことがあったように思われます。「被爆二世という言葉もまだなかった」「みんなわが子のことを心配した」という声もあります。原爆で子どもを亡くし、戦後もそれが繰り返されるという親の悲しみ、怒りがこの活動の原点だったのではないでしょうか。わたしは以前「女性と平和」をテーマに小論を書き、中学2年生の息子を原爆で死なせた父親が、「みんな死んだのだ。これも運命だ」と慰めるのを、母親が「(誰が死んでもよい)うちの息子が死ななければいいのに」と泣いたエピソードをとりあげて、わが子の死を「あきらめられない」母親の痛覚が、戦後日本の平和運動の原点の一つであると考えたことがありますが(『ジェンダー視点から戦後史を読む』より)、『木の葉』もまた名越さんの「私のこの腕から史樹が逝ってしまうなら,史樹を抱いて化石になりたい」という悲痛な思いを共有したところから始まり、続いたのではないかという気がしています。記録されているのは女性だけでなく男性も含まれていますが(創刊号は全員女性でした)、この冊子全体に貫かれているのは「いのちの平和」という発想であり、それは女性たちが取り組んでこそ生まれた平和思想の土台だと思っています。だからこの運動もチェルノブイリや「3.11の福島原発事故に話が広がり、「戦争はいや」という意思形成に広がって行くのだと思う。でも、それを確かめるためには、『木の葉』を全部読まなくては…。

わたしはお礼に自分の本を送り、「『木の葉』を全部読みたい」と添え書きしました。するとお返事があって、「(広島)県本部にはぜんぶそろっています。来てください」ですって。これはいよいよ広島まで行かねばなるまいか、と思案しています。そのためには歩かなければならぬ。新しい靴がなじんでくれますように…。

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飯田女性史研究会との出会い―「三つの地域女性史の記録」を追って その2 

6月28日に福島へ日帰りし、翌29日長野県伊那の阿智村の「満蒙開拓平和記念館」めざして、中央線に乗りました。飯田まで新宿から高速バスに乗るのが一般的ですが、バスだけで4時間ほどかかり、そこからまた路線バスに乗り継がないと行けません。1泊しなくてはならないので、いちばん近い昼神温泉の宿を予約しました。ここは昔、母と泊まりに来たことがあるので「供養のため」とばかり、同じ宿に泊まることに。温泉に泊まる客は、上諏訪駅まで温泉専用バスで迎えに来るというのです。有料ですが特急の時間に合わせてくれるし、送迎確実なので頼みました。でも、当日行ってみたら乗客はわたし一人。楽ちんドライブをさせてもらって1時間半、ゆっくり寝て行きました。

母と泊まった温泉宿

何しろ20数年前のことゆえ、宿の様子もすっかり変わっていましたが、母となぜここへ旅する気になったかははっきり覚えています。「木曾の寝覚めの床を見物したい」という母の望みがきっかけでした。どうして?と聞くと「子どものとき、うちに寝覚めの床の写真が飾ってあってね、どんなところだろうと思ったのよ」と言います。明治生まれの母が数十年もの間「一度観たい」と思っていたというのだから「じゃあ行こう」となったわけ。その夏、母は八ヶ岳山麓の清里高原で夏を過ごしていましたから、小海線で小淵沢へ出て塩尻経由中央西線で木曽福島へ、上松駅で拾ったタクシーの運転手さんが親切で、「ここから眺めなさい」と案内してくれ、車中で木曾節まで歌ってくれました。ついでに木曾ヒノキで有名な「赤沢美林」まで連れて行ってくれ、そこで撮ったスナップ写真が、もう背中も丸くなり小さくなってしまった母の笑顔がかわいいいから、と「遺影写真」にしましたっけ。

その運転手さんと母の会話の中で、母が「一度恐山に行ってイタコさんに戦争で死んだ息子を呼んでほしいと思ってるの」と言い、運転手さんが「自分も行ったことがありますよ。ホントに亡くなった方が出てくるからね」と応答、けっきょく母は行けませんでしたが、亡くなったあとわたしが恐山まで行き、地元のイタコさんに母と兄を呼び出してもらったことがあります。さてその夜は妻籠に泊り、翌日昼神温泉へ。母は「昼神って日本武尊が蒜を噛んで悪い山の神を追い払った伝説があるところだね?」と気にしていたのです。母はこの温泉が大変気に入り、自分の歌日記にもいくつか書きとめています。つまりわたしにとっては、亡き母との思い出の地なのです。

話が脱線しました。ここは「星の美しい村」として知られ、また「平成の大合併」の時も近隣の市町村と合併せず「小さくてもキラリと光る」地域づくりを宣言したことでも有名です。そこに2013年「満蒙開拓平和記念館」が出来て、今は「戦争の記憶を語り継ぐ」場として全国から見学者が来る村になりました。ここの特徴は、単に満蒙開拓団のつらい経験だけでなく、当時の国策によっていわば日本の中国侵略戦争の一端を担わされることになった開拓団の歴史もキチンととりあげ、「戦争の記憶」の「被害と加害」の重層的な仕組みとして提起していることです。そして当時の体験者の膨大な聞き書きを刊行していることでも知られています。長野県は、満蒙開拓民を最も多く送り出したという苦い経験があり、伊那地方では一村挙げて移住した村もありました。「10町歩の地主になれる」という夢を信じて渡った地は、現地住民の土地を取り上げるようにして入手したため、住民の恨みを買ったなどとは想像もしなかったのです。そして8月9日ソ連の対日参戦とともに、守ってくれるはずの関東軍はいち早く逃走、ソ連兵の略奪や強姦にさらされ、逃避行の末にわが子を手にかけたり、やむなく中国人に預けたりしてきた母親たちがたくさんいました。日本人であることも知らされず育った「中国残留孤児」たちが「私は誰?」と問い、「日本に帰りたい」と訴えても政府は取り上げない。このとき、自らも教員として開拓団を引率した阿智村の山本慈照さんが贖罪の思いを込めて残留孤児たちの帰国を助けたいきさつは、映画『望郷の鐘』にもなっています。

昼神温泉で一夜を過ごした翌日、雨もよいのなかをタクシーで記念館に行き、見学と資料の閲覧をさせてもらいました。1992年に発足した「満蒙開拓を語りつぐ会」が10年にわたって取り組んできた『下伊那のなかの満洲 聞き書き報告集』全10冊が並んでいます。その厚みに感慨を覚えながら、最後にあった『下伊那のなかの満洲 別冊記録集』(2112年刊)を手に取って、そこに日本近代史家で、一昨年岩手県で開かれた「全国女性史研究交流のつどい」でも講演された大門正克さんの名があることを発見、大門さんが、「聞き書き」の仕事のなかで、ひとつの社会的条件のなかで一人の人間が困難に出会いながら目覚めていく過程を、聞き手が思い描く人生の「苦労克服物語」にして聞いてしまったのではないか、という「聞き取りの失敗」の経験を率直に述べ、「語り手と聞き手の往還」という命題を提出しておられることに惹かれました。それは「オーラルヒストリー」の方法論をめぐる重要なテーマだからです。思わず受付へ行って「この冊子を買いたい」と申しましたが「品切れ」とのこと。でも、わたしがこれから飯田女性史研究会の方たちと会うといったら「会の方なら持っているかもしれないから聞いてごらんなさい」といわれました。

『下伊那のなかの満洲』」別冊記録集(2012年刊)

ずっと以前、イギリスからオーラルヒストリーの大家ポール・トンプソン氏が来日されたとき、講演会を聴きに行きました。質疑になったときわたしは「相手に寄り添うことがオーラルヒストリーの基本だと思うけれど、話を聞く相手と自分が、人生観や社会観、人間観などにおいて全く相反する立場であった場合、<寄り添う>とはどういうことを意味するだろうか?」という質問をしました。トンプソン先生の答えをわたしは覚えていません。彼は率直にそれは難しい質問だと言い、しかし他者とつながりのなかで「全く相反する」と言えるだろうか?(そのこと自体が聞き取りにあたって聞き手の価値観を前提にしているのではないか?)ということと、「聞き手を交代することもある」と言われたようなな気がします。

そしてそれは、「聞き取り」という分野だけではないと思います。昨年「平塚らいてうの会」が招いたノーマ・フィールドさんも平和の輪をひろげるための「他者との対話」の必要性を説き、会場から「でも、全然受け付けてくれない相手とどうやって対話することができるだろうか?」という声が出たとき、「そうですね。それはとても難しい。正面からでは会話が成り立たないかもしれないし、怒っているときはうまくいかないから、クッションをおいて少し穏やかになったときとか、おいしいものを食べたり飲んだりしているときにやってみたら?」と話されたのが印象に残っています。

じつは、これからお会いする飯田女性史研究会についても、わたしにはいささかの思い込みがありました。飯田―阿智村―満蒙開拓平和記念館をひとつながりで考え、会員の中に「語りつぐ会」の方もおられるので、その聞き書きの活動に取り組んでいるという認識があったのです。でも、仲立ちをしてくださった関口さんから、「飯田女性史研究会は、満蒙開拓の聞き書きをなさる方もいますが、全員がそうではありません。それぞれが飯田という地域に生きた女性たちの記録を調べて書きとめようと思って集まったのです」と説明されて「目からうろこ」が落ちました。福島=松川事件というのが思い込みであったように、飯田=満蒙開拓とだけ見たのでは地域に息づく歴史はわからない。むしろ無数の人びとの生活史のなかでとらえなおしてはじめて満蒙開拓の歴史を語りつぐ意味が生まれるのではないか、と思ったのです。

会員のみなさんは、記念館近くの「地元野菜のお弁当」を出すお店(ごか食堂)を借り切って待っていてくださいました。会員の方とも親しく、満蒙開拓の聞き書きのことも詳しい中繁彦先生も駆けつけてきて、話の輪に加わってくださり、わたしの母の戦争体験記『雲よ還れ』の一節を朗読されて、「女性と戦争体験」をめぐる視点を話してくださいました。。お弁当は美味しく、皆さんご持参のお漬物やクリの渋皮煮なども並んで、「ああ、らいてうの家みたい」と思いました。らいてうの家でも地元の方たちがとれたてのトマトやキュウリを持ち寄り、秋にはキノコ汁まで出てくることがあるからです。

出席者の自己紹介を聴きながら、わたしは飯田女性史研究会が刊行した『私の女学生の頃』という冊子をもう一度広げました。戦時中の旧制女学校で「学徒動員」も経験した方、戦後新制高校に切り替わった時の高校に行った思い出、好きな科目、印象に残る先生たちのこと、なかには高校時代ずっと書いてきた日記をもとに、「青春の彷徨」に揺れる自分をみつめなおしている方もあり、中学校卒業後就職して、働きながら定時制高校へ通った方もいます。同時代を生きた人びとの、しかし「マス」=「一つのかたまり」ではなく、「一人ひとりのかけがえのない人生」が書き込まれたこの冊子にわたしは「地域女性史」の原点を見たような気がしました。そしてお会いしてみると、満蒙開拓の聞き取り活動をはじめ、飯田の遊郭の歴史を調べた方もあり「自分史から社会史へ」と歩んで行かれたことがわかりました。わたしにとって前日の福島での出会いと併せて「松川事件」「満蒙開拓」という二つの歴史を理解するためにも大きな視野が開けた思いでした。「自分」を語ることによって、「他者」を理解し、「他者」を聴くことによって「自分」もを理解できる―「聞き手と語り手の往還」という意味をあらためて考えてみようと思いました。

そして「以心伝心」とはこのことでしょうか。わたしが大門さんの文章を読んだというと、会長さんが「じつはその本を差し上げようと思って持ってきたのです」とおっしゃるではありませんか。欣喜して抱きしめてしまった。

お弁当

中繁彦さんのお話

飯田女性史研究会『私の女学生の頃』

帰りのバスの時間が迫って慌ただしくお別れし、またまた「貸し切りバス」に一人乗って上諏訪駅へ。特急までに時間があったので、上諏訪駅の名物「駅構内の足湯」で疲れを癒し、例によって熟睡して三鷹駅までたどり着きました。

上諏訪駅構内の足湯

 

 

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『福島県女性のあゆみ』全286冊(1972-2003)のこと―「三つの地域女性史の記録」を追って その1 

6月末に福島大学と長野県は伊那の阿智村に行くという予告編を書いたきりその顛末を書く暇がなく、それなのに書かねばならぬ思いに取りつかれて「共謀罪」やら「劉暁波」の事など書いてしまいました。7月も半ばを過ぎてしまったので、決心して今夜は徹夜してでも書くゾ、と思い決めました。「福島」「伊那」そしてここはまだ訪問していませんが「広島」と三つの地域の「女性史」にかかかわる記録の「物語」です。

「その1」は「松川資料室」のある福島大学で見せていただいた『福島県女性のあゆみ』という手書きコピー製版による月刊雑誌のことです。1972年から24年間になんと286冊も刊行されたというおどろくべき歴史を持っています。

それがなぜ、「松川資料室」に全巻そろって保存されているのか?この冊子があることは地域女性史を研究している友人から聞いて知っていましたが、見たことはなく、ただそこに、あの「松川事件」で被告とされた方たちの父母や配偶者、きょうだいたち家族がどんなに苦しい思いをしながら「無罪」を訴えて全国を馳せめぐり、ついに「全員無罪」を勝ちとったか、という「聞き書き」の記録があることに関心を持っていました。たまたま友人でその一部を持っている方がわたしに実物を見せてくれ、「福島大学の松川資料室にある」と教えてくれたのがふんぎりになりました。福島大学の教授だった伊部正之先生が退職後資料室で研究されているからと紹介されて電話すると、こちらの都合に合わせてくださるとのこと。そのうえ「半日来ただけではとても目を通しきれないだろうから」と「松川の妻たち(のち「家族たち」)の部分だけコピーして事前にお送りくださるという破格のご厚意に預かりました。電話した時「お宅の郵便受けは大きいですか」と聞かれるので、コピーを入れた大封筒ぐらいは入ると思ったのですが、届いたのはなんと「松川の家族たち」の部分だけで430枚分のコピーを綴じた6センチもある分厚いファイルでした。そのほとんどは手書きのまま印刷されています。書いたのは吉田千代子さん(故人)。彼女がこのミニコミ誌の創刊を呼びかけ、「会員はざっと150人」、もちろん「松川事件」だけでなく「それぞれが自由にテーマをえらんで書いてもらうよう呼びかけ」たそうです(河北新報1984年8月21日付)。

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『福島県 女性のあゆみ』表紙(1981年10月)

わたしは仰天し、ともかくお訪ねするまでに目を通さなくては、と必死になって読みました。それは期せずして、戦後最大のフレームアップと言われる松川事件が死刑判決の「地獄」からどうやって国民的な運動によって無罪判決に至ったかを知る貴重な資料でもありますが、その感想は後で書きます。さらに伊部先生は、吉田千代子さんとともに「会員」として原稿を書いた方たちに声をかけ、当日集まっていただく手配までしてくださいました。おまけに、1月に白河のアウシュヴィッツ平和博物館を訪問した時知り合った後藤昌代さんからお便りをいただいたので、松川資料室を訪問すると申し上げたら「福島駅で降りてください。そこから連れて行ってあげます」というご連絡。福島大学は福島から在来線で金谷川という駅まで行き(そこが「事件」の現場)、歩くつもりでしたが、当日はおつれあい様ともどもお迎えに来てくださり、「福島名物ソースかつ丼を食べて行きましょう」と誘われて完食してしまいました。おいしかったよー。

閑話休題。「松川資料室」は、福島大学図書館の一角にあります。伊部先生は、すでに雑誌を全部机の上に並べ、雑誌づくりに参加して執筆した方たちも待っていました。雑誌を見せていただき(ここではパラパラめくってページを追うのがやっとでしたが)、みなさんのお話を聴いて、納得したことがありました。わたしは、『福島県女性のあゆみ』の「松川の家族たち」の記録に関心を持ったのですが、雑誌の発刊をよびかけた吉田千代子さんは、それだけでなく参加した方に「何でも好きなことを書きましょう」と誘い、自分の体験や関心のあることは何でも書くようにすすめたということでした。

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「松川資料室」の『女性のあゆみ』全巻

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同資料室の展示ケース

「私は1949年8月生まれで、ちょうど松川事件が起こった時に生まれたのですよ。松川事件のことはもちろん知っていましたが、自分が直接松川運動をやったわけではありません」という二本松出身のFさんは、病院の労働組合書記として働き、吉田さんに出会って書き始めたそうです。定年後有機農業を目指しますが、2011年3月東日本大震災、福島第一原子力発電所事故にあい、野菜づくりを断念せざるを得なかった、その思いを込めて今年『ふくしまで、オレは農業をやる』(文:藤倉紀美子/画:菅野伝授 文芸社)を出版したばかりとのこと。<2011年3月11日午後2時46分、大きな地震が起きた。つなみが起こり、何万人もの人が流された。それだけではなかった。海岸近くにあった原子力発電所が爆発した。オレの村にも放射線がふりそそぎ、畑が汚染され、途方に暮れていた……。「どうやって生きていくべきか」に真摯に向き合った青年を描いたこの絵本には、今でも原発事故は終わっていないという思いがつまっている>と紹介されています。

新潟出身で1955年生まれのAさんは福島大学卒業後学童保育の仕事をし、吉田さんに誘われたそうです。「女性が自分の書きたいことを書く、というテーマに惹かれました。自分の仕事を探りながら教育問題について書きました」。そして、秋田横手市出身のEさんは、東京で保育士(当時は保母)になり、墨田区で組合活動に参加しました。「共産党の不破さんに出会ったこともある」そうです。「自宅で働いていたお手伝いさんが秋田のわらび座に入ったりしたものだから、うちで松川事件のことを聴く機会はありました。夫の母は元士族の出でしたが松川事件のことを悪く言うことはありませんでしたね。千代子さんに「ヨメ」の立場について書いたらとすすめられましたが、私はあれこれ言われて書きたくないと言い、「では好きなことを書いて」と言われました。ケンカもしたけれどかわいがってもらったという記憶です」。

お話を聴いて感じたことを三つだけ書きます。一つはこの『福島県女性のあゆみ』は、最初わたしが関心を持った「松川(事件)の家族たち」の記録は重要だと思いますが、それだけではないということです。創刊号には<女性がどんな未来を描き、どんな姿で歩んできたかを語り合い、苦しみを乗り越え、「精いっぱい生きました」と誇りを持って喜べる人間女性の姿…。「名もなく、優しく、たくましい」こんな存在に焦点をあてながら、この「あゆみ」の前進をはかりたいと思います>と記されています。2003年に「吉田千代子さんごくろうさまでした」の会が開かれた席で、『女性のあゆみ』誌のはたした役割について<普通の女性が仕事を持っていたり、主婦であったり、様々ですが、そういう女性たちに「書くこと、記録すること」の機会、場を与えてくれたことではないでしょうか」という発言がありましたが、それが20年以上、全286冊にわたって続けられたということは、そのこと自体が歴史に残される「大事業」ではなかったか。「松川の家族たち」の記録もその大海の中に位置づけることでより深い意味を持ってくるのではないか、と痛感しました。

もう一つは、この仕事を引っ張ってきた吉田千代さんという方の力です。ご自分でも欠かさず日記を書き、取材執筆し、「松川」だけでなく「高村智恵子」「吉野せい」「渋谷黎子」など福島ゆかりの女性たちの足取りも探索、みんなに「自分のこと、好きなことを書いて」と声をかけ、原稿をそろえて印刷所にわたし、みんな「毎月届くのが当たりまえ」と思っていたというそのエネルギーはどこから出てきたのでしょうか。

自ら作家宮本百合子を「師」と呼び、夫吉田寛氏が治安維持法で弾圧された憤りを受けついできたという「時代の荒波にひざまづかない」精神がその土台にあったことは遺された文章からうかがうことが出来ます。女が自分で考え、書き、行動する力を持たなければ、戦前のような理不尽な時代を阻止することはできない。そういう思いが吉田さんにはあったのだと思います。

信州で女性たちに「読むこと、書くこと、おこなうこと」を呼びかけた丸岡秀子もそうでした。わたしの母は明治生まれでしたが、戦時中「戦争反対」と言えなかったことを悔い、「女が学問しなかったらまた戦争でだまされる」と母子家庭になってから下に二人も弟がいたのに女の子のわたしを大学まで進学させ、自身も「通信教育」で哲学まで勉強していました。「戦争法」や「共謀罪」などが飛び出してきた今、「女が学び、自分の言葉で声を出す」ことの意味はこの上なく大きい。わたしはもう一度福島へ行って全巻を読んで来ようと思っています。

そしてそれは、三つ目の感想につながります。「松川事件」を理解し学ぶとき、わたしたちは「事件」のことだけではなく、地域全体の人びとの暮しと社会状況をトータルにみるところから始めなくてはならないのではないか、ということです。この冊子群と出会ったことで、わたしの視野が少し広がったような気がしました。この仕事をもっと多くの人に知ってほしい。折からこの松川資料室に保存されている膨大な資料をユネスコの「世界記憶遺産」に登録しようという運動が始まりました。わたしも「貧者の一灯」ですが、カンパを送りました。

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福島大学で[3.11]以後つくられた施設

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続「踵骨棘」騒動―靴を買いに行きました  

目や耳の「老化」は、じわじわ来るのでだんだん納得して受け入れる用意が出来ましたが、「足痛」ばかりはいささか「不意打ち」でした。「踵骨棘(しょうこつきょく)」らしいとわかって、お医者様は「加齢と歩き過ぎが原因だから、足の柔軟体操をやって緩和させるのと、クッションの利いた靴を」とおっしゃるので、今日靴を買いに行きました。新聞やネットで「足の相談もする」とあったので電話したら「OK」と言われ、電車に乗って行った次第。

わたしは、2010年にニューヨークの「NPT再検討会議」に行くとき買った「メディカルシューズ」というのを愛用してきたのですが、今日の靴屋さんはまず念入りに足の計測をしてくれ、履いて行った靴を「クッションはあるけど、靴の幅が広すぎるから足の指が泳いでしまって、それが炎症を起こす原因」とズバリ。思い当たることがあました。わたしのサイズは23ですが、足の甲は高くなく、靴の幅は「2E」くらいだと思うのに、[コンフォートシューズ]というのはほとんど「3E」か「4E」だったからです。靴屋さんは、計測結果を「JIS」規格で調べ、「あなたはEどころか、その下のDくらい」というのです。出してくれた靴を履いてみると、なんだかクッションの部分も固く、「きつい」という感じです。そういうと「クッションが柔らかすぎても効かないのです。歩いてみてください。痛いですか」と言います。なるほど歩いても痛くはない(外反母趾はない)。いくつか試しました。スポーツシューズふうの紐靴を「少しカジュアルすぎるかと思いますが、これが一番合うと思う」と言われました。

勿論お値段はハンパじゃありません。お店の中に「うちの靴はなぜ高いのでしょう」という張り紙がしてあるくらいですからね。でも、バーゲンで安い靴を買っても「安物買い」に終わる経験を何度もして以来「靴はいのち」と思い決めて来たので、驚きませんでした。でも、ほんとはウォーキング用と改まった席に行くときと2足欲しいが、いきなり2足は買えない。まずはふだん歩く方を優先し、その靴を買うことに。「問題があったら来てください。調整します。かならず足に合うようにします」とおっしゃるので信頼し。その場で履き替えて帰りました。歩くと固めのクッションに慣れないせいか足が落ち着かない感じでしたが、10分ほど歩いたら慣れてきました。痛くはないです。明日からこれで歩いてみよう。

そこで、わたしの「腰折れ」を二つ三つ―。

「踵骨棘」とういかにも痛そうな病名を抱きしめて歩く生きるあかしゆえ

「歩き過ぎ」と「加齢」が原因という「踵骨棘」わたしの人生の勲章かもしれぬ

クッションの利かぬ靴すべて「断捨離」せん「踵骨棘」の足で歩き続けるため

この成り行き如何に。実験結果がよかったら靴を公開しますね。大竹しのぶさんのお母様、「泣き言を言わず」に頑張りましょう。

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「劉暁波氏の遺灰を海に散骨」の報道に思うこと 

中国で民主化運動をしてきたノーベル平和賞受賞者劉暁波氏が仮釈放され病院に移されてからわずか半月で亡くなったこと、遺体は火葬されて遺灰は「遺族の同意」のもとに海に散骨されたという報道に、涙がこぼれました。彼は海外にとどまって「民主化」を訴える途もあったのにそれをえらばず、アメリカから帰国して逮捕され、「獄死」したのです。「非暴力の運動」を呼びかけ、最後まで「国家を敵とはしない」という姿勢を貫いた彼の思いに「国家」はこたえたのでしょうか。

わたしは、野呂栄太郎を思い出しました。戦時中マルクス経済学者だった野呂は、義足をつけた身体障害者(そのために公立中学校に入学できなかった)でかつ結核を病む身ながら、弾圧され続けて壊滅寸前の日本共産党(非合法)の地下指導者をつとめ、逮捕拷問されて病状悪化、1934年2月「仮釈放」されたその日(1934年2月19日)死去しました享年34。辞典を引くと「獄死」とあります。前年の小林多喜二の「拷問死」のことはそれでも「蟹工船」などで知られていますが、野呂についてはもう知らない人が多いのではないか…。

わたしが忘れがたく思っているのは、ひとつは彼が1934年、私の生まれた年に「殺された」からです。生まれてから1945年8月に10歳で「8・15」を迎える日まで、わたしは「アタマのてっぺんからつま先まで」軍国主義の時代に育ちました。戦争がもう少し続いていたら、わたしも「お国のために」死ぬ道を歩いていたかもしれない。「わたしは野呂が殺された年に生まれた」ことを忘れないのは、その記憶のためです。今またそういう時代が来るのではないか?「秘密保護法」や「共謀罪」の時代に生きてそう思い、「おまえは抵抗できるか?」と自分に問うています。

もう一つは、彼の名著とされる『日本資本主義発達史』を1950年代の学生の時よんだことです。「講座派」「労農派」の論争があることは知っていましたが、わたしが惹かれたのは、彼がこの学術書を「日本社会の変革のために」書いたという解説でした。学問研究が現実からかけ離れた「空論」ではなく、現実の社会にあって差別や貧困に苦しむ人々の未来を切ひらくためになされなければならない、とそのときわたしは「思い込んで」しまったのです。ええ、今も。

そしてもう一つ。劉暁波氏の遺灰が海に散骨されたことがほんとうに妻を含む遺族の総意であったのかという疑問が出ています。その真実を今は問いません。しかしもし中國政府が「墓を作れば民主化運動のシンボルになることを警戒した」という説明に根拠があるとすれば、それは本来「散骨したい」と望む多くの人びとのねがいをも傷つけることになるのではないか。「散骨」も樹木葬も、個人の尊厳を抹殺するためにするものではなく、個人の意思による選択であってこそ意味があるのだから。ちなみにわたしは自分の意思で墓をつくらず、「里山の土に還す」ことを望んで「樹木葬」を選択してあります。いっさいの墓標や献花をせず、「自然に還る」のが希望です。「墓」があってもなくても、「劉暁波」を忘れない。

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「加齢」と「歩き過ぎ」で「踵骨棘」になったらしい…? 

7月も半ばになりました。6月の記憶を残したいのに、まだ書けない「三題噺」があります。「福島大学松川資料室所蔵『福島県女性のあゆみ』全286冊」と「満蒙開拓平和記念館と飯田女性史研究会訪問記」、それに広島から送っていただいた「50年以上続いている被爆者の体験集『木の葉のように焼かれて』」の話です。どれも「地域の女性たちが手づくりした女性の体験記録」という点で共通しているのですが、これをひとくくりにはできないから、ひとつずつ書こうと思うとその時間がない。この報告がアップされるのを待っておられる方もいるので、忘れないうちに、と思うのですが、次々に難問が出てきて立ち往生状態です。待っててね、必ず書くから。

難問は内憂外患たくさんありますが、予期しなかった「不意打ち」に今少々へこたれています。思えば6月ごろから左足のかかとが朝起きると痛い、ということが何回かあったのですが、歩いているうちに余り感じなくなるので忘れて、翌朝また思い出すという程度でした。それがだんだんおさまらなくなり、無意識にかばって歩くので膝やモモまで痛くなり出してがく然、まずかかりつけの「総合内科医」の先生に相「駆け込み訴え」。この先生はわたしの行く診療所唯一の常勤医師で、内科全般はもちろんわたしのやけども直してくれたし、「ウツじゃないかと思うのですが」という相談にも乗ってくれる「名医」です。今回もわたしのかかとを持ち上げてしげしげ眺め、「かかとの骨が飛び出しているかもしれないから整形外科で診てもらいなさい」とのご指示。さっそく近くの病院に行きました。

そこでレントゲンを撮ってもらったら、ホントにかかとの骨から小さなトゲみたいなものが飛び出ているのが見えるじゃないですか。診察の先生は病名をおっしゃらなかったけれど、あとでネットで調べてたぶん「踵骨棘(しょうこつきょく)」というのではないかとわかりました。「加齢」と「足の酷使(歩き過ぎ)」が原因になることが多いらしい。先生に「これって治りますか?」と聞いたら「まあ無理ですね」とツレないお返事です。そりゃそうだ。「加齢」が原因と言われたら「お医者様でも草津の湯でも」治らないと言われるのと同じだもん。

で、「つける薬はないけれど」と先生に教わったのが、かかとのストレッチ体操。ひざを伸ばして足の指先を動かすとか、テーブルに寄りかかってふくらはぎに力を入れるとか。なんじゃこれは、ふだん姉に「もっと筋力をつけて歩けるように」とはっぱをかけている体操とよく似ています。

人にいうだけではアカンと思い、さっそく今日は姉の病院の付き添いでしたが、合間を見てはストレッチ。「加齢」はいかんともし難く、しかし「歩く」のをやめるのは「人間をやめる」くらいできない話です。後は「クッションの利いた靴」とか、「かかとを保護するサポーター」などを手配せねばならぬ。今まで「まだはける」と捨てずにとっておいた靴どもを、このさい「断捨離」せざるべからず、と決心した次第です。

ここまで書いて新聞を見たら、大竹しのぶさんのエッセイが目に入りました。ご高齢のお母さまが食欲をなくし、大竹さんが帰宅するまでベッドの上で「しんどい、しんどい」と言っておられたのに、しばらくじっと考えた後「さあ、泣き言ばかり言っていられませぬ。頑張らなくては」と立ち上がられたのだそうです(朝日新聞7月14日付夕刊)。うーん、わたしも「立ち上がらざるべからず」だなあ。かくてどちらも「加齢」が原因ゆえ、治る見込みはない甲状せん腫瘍の「ビー玉がつかえているような感じ」と踵骨棘の「痛み」を抱えて、それでも人間は「泣き言を言わず」生きていくのです。今月は、甲状腺の定期検査にも行かねばならず、姉の付き添いを含めて7回も病院通いです。立派な「高齢者」ですねえ。それにしても猛暑にはまいっていますが。

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「群れず、狎れず、頼らず」はラクじゃないけれど

「時代の行列」にならないぞ、と思ってもこの暑さにさすがにがっくり。そこへ素敵な手書きの絵はがきが届きました。「秩父札所巡り結願」とあります。以前もすてきなスケッチの葉書をくださった、かの「1万人のゴールドシアター」で出会ったロミオの画伯Fさんです。去年の今頃は、参加を申しこんで「最初のけいこ」に出て行ったなあ…。

ところで、画伯曰く「群れない、慣れない、頼らない―米田さんにピッタリの堀さんの言葉、如何ですか?」ですって。これには大いに励まされました。 堀文子さんは、来年100歳になられるのではないかと思いますが現役の第一線画家です。現在の画も大好きですが、わたしにとっては女性史の上でも忘れられない方です。そのことを、わがロミオのFさんにお返事しました。

「堀さんの言葉、身にしみました。そうありたいと思っているのですが<群れず なれず(こっちは「狎れず」と称しているのですが)、頼らず>と豪語して周りからは煙たがられています。堀文子さんは好きな画家です。60年以上昔、平塚らいてうがよびかけた「母親大会」を開くとき、オカネがないので堀さんがデザインした絵を手拭いに印刷し「1本10円で」で売って、スイスでひらかれた「世界母親大会」へ代表を送る資金にしたというエピソードがあります。1955年ですから円をドルにすると360円だったのではないでしょうか。その手拭いを、らいてうの息子さんのオヨメサンが縫い合わせて暖簾にして自宅にかけていたというゆかりの品もらいてうの家にあります。ありがとうございました」。

というわけで、しんどいけれど「群れず」に「自分」を生きたい。いつまで続くだろうかと思いつつ―。

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「群れない、慣れない、頼らない」

 

 

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