「子どもが修羅になるとき」―「捨てる資料」のなかから「10万字の手書き原稿」を発見してしまった   

 3月も、満開の桜と主ともに「去って」行きます。前半は、ずっと公開されなかったらいてう資料の保全公開を法政大学大原社研に委ねる準備と搬入手続きに追われ、後半はじぶん自身の手書きのメモや新聞雑誌などに書いてきた文章、おびただしい来信書簡など大量の紙資料を処分する作業に追われました。らいてう資料のほうは、紙切れ1枚のメモも捨てないで残してあったために、いま公的に発表された著作集や自伝でしか理解されてこなかったらいてう像とその時代を新しい視点からとらえなおす貴重な資料となっていますが、不肖わたしごとき一介の研究者の「思想と行動」について後世の研究者が論じてくれることなどあるわけがない。せめた書いたもののリストだけでも残したいが、200字300字の短文を含めるとはてしがなく、大部分は単行本にもならなかったので、消え失せるほかはない。それでも何冊かは本になっているのだからあきらめようと、出典になっている雑誌や新聞は片っ端から捨てるほうに。市役所のゴミ担当課に電話して毎週紙ごみを出す日に「少し多めに出します」と断わりながら、ベランダには山積みの紙の束が。

 そして29日にはとりあえず倉庫に入れる箱を送り出し、電動ベッドを入れた部屋からトイレや洗面所にいけるように片っ端から手すりを付ける作業も終わりました。最後に残ったホコリだらけの箱をもう開けずにまるごと捨てようと思ったのですが、「虫の知らせ」であけてみてびっくり仰天、書きかけたままだった田中正造論文の資料の原典がぜんぶ入っていたのです。そしてもう一つの箱からはなにやら分厚い原稿用紙の束が。あけてみたら、200字詰めの原稿用紙にまぎれもなくわたしの筆跡で、それも鉛筆書きで書いた原稿でした。ページが打ってあり、最後のページ番号は477。およそ500枚分です。ということは約10万字じゃないですか。しかもところどころにちぎれかけた付箋が貼ってあり、「ここはなぜひとりぼっちになった」のか?など添削した後まで残っているのです。

 記憶は全くありません。認知症というのは現在のことはすぐ忘れるが、過去のことは覚えているものだと聞いたことがありますが、これでは認知症以前だ。原稿はいくつかに分けてクリップで止めてあり、全部で9章?分、全体のタイトルはありませんが、各章ごとのタイトルはついています。「1 さくらの花嫁さん」「4 もうひとりのおれ」「6 風のむこうの世界で」「8 死ねと教えたちちははの」「9 さよなら阿修羅くん」などと書き込んであります。とても全部読む余裕がないので、ぱらぱらとめくってみて、やっとかすかな記憶がよみがえってきました。というより、「こういうことを書きたいと思ったことがあったっけ」という程度なのですが。そして付箋を貼ってくれたのは、今は亡き編集者の楠さんに違いない、という気がしてきました。どうやら、これは論文ではもちろんなく、子ども向けの「童話」でもないが「少年少女小説」みたいなものの下書きだったらしい。タイトルから察するに、保育園時代から周囲になじめない男の子が、「ひとりぼっち」で現実と向き合い、いつの間にか時空を超えて戦争中中学3年で少年兵を志願して戦死した「吉兄ちゃん」のもとへと旅に出て、彼が特攻隊出撃のため九州へ送られる直前、茨城県土浦の海軍航空隊基地で米軍機に爆撃され「戦死」したときに居合わせてその死を見届けるという筋だてらしい。その「吉兄ちゃん」はわたしの兄です。そして「一人ぼっち」の男の子にわたしの子育て体験が反映しているらしいこともわかってきました。

 そうするとこれは1980年代のはじめ、今は亡き母が「自分が死んだらあの子のことを覚えているものはだれもいなくなってしまう」ともらしたのをきっかけに、彼女が「あの子」と呼ぶ2番目の息子(わたしの兄)の記憶を書くように勧めた時期と重なっている。現実の世界で友だちに受け入れられず、時になぐり合いのけんかをする男の子が奈良興福寺の阿修羅像を見て「おれも阿修羅だ」と思うくだりはわたしの思い入れで、それは宮沢賢治の『春と修羅』にでてくる「おれはひとりの修羅なのだ」という言葉に惹かれたからだということも思い出しました。そして戦死した少年兵が「なぜ少年兵を志願したの?」と聞かれて「戦争中は、それしか道がなかったのさ。死ぬために生きるしか」とこたえるシーンもわたしの創作です。

 どうしよう。とりあえず捨てるのはやめて、わたしの机の下に寝かせました。たぶん二度と日の目を見ることのない10万字の鉛筆書きの原稿を。これから退院間近かの彼に面会に行きます。昨日もケアマネさんがやってきて、「無理しないで」と念をおしてくださいました。しかし、「在宅」を選択した以上、わたしに負担がかかることはわかっています。それでもまもなく「米寿」になるわたしが「修羅」になるほかないような気がしています。「修羅」か「やまんば」か、ともかく行き着くところまで行ってみよう。折からウクライナでは、混沌の中で「停戦交渉」が進行中。その間にも「死ぬために生きてきた」子どもたちが殺されている。40年前の色褪せたこの原稿を、「紙くずにする」決断に迫られています。

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「資料を捨てる」―「自分の分身」を生きている間に処分するとは思わなかった

 夫の退院が近づいてきました。昨年秋突然発病、あと少しで完成するはずの原稿を机の上に残して日曜診療の病院に駆け込みそのまま入院、緊急治療を経て医療機関でリハビリ可能な最大限の日程を病院で過ごしてきました。コロナ禍のため面会はすぐにできず、オンラインでようやく言葉を交わすことができた時彼が真っ先に告げた言葉は、本にしてくれる約束だった出版社に「少し遅れると伝えてほしい」ということでした。それからおよそ半年を迎えます。この間彼は驚異的な努力でリハビリに励み、孫世代ではないかと思われる若い療法士さんたちの熱心な指導を受けて、はじめ嚥下機能マヒだったのが経口摂食できるようになり、動かすこともできなかった右手で字を書くことができるようになり、最後の難関だった「立ち上って歩く」こともある程度できるようになりました。階段しかないマンションの3階に住むわたしたちにとって「階段を自力で上って自宅に入れるかどうか」が「うちへかえれるかどうか」の天下分け目だったのです。

 3月はじめのある日、彼ははじめて療法士さんたちと家へやってきて、後ろから支えられながらですが、階段を上ってわが家の玄関に到着しました。それで「医療保険のリハビリは150日」という期限を目前に、「自宅に帰る」方針が確定した次第です。急遽かかりつけの診療所を通じてケアマネさんを依頼、とるものもとりあえず自宅の1室に電動ベッドとパソコン用の机、ひじ掛け付きの椅子を入れて、そこからトイレと洗面所まで歩いて行けるように手すりを設置することになりました。何とか3月中に工事できることになって、今その準備に大わらわです。

 そのためにわたしがしなければならなかったのは、予定の部屋が実はもう20年近くわたしの本や資料の物置場と化していて、足の踏み場もなかったのを片付けることでした。数年前から「断捨離せねば」と思っていたのですが手が付かず、本はいざとなれば図書館にリクエストするという方法もあるが、わたしが論文を書こうと思って集めた資料のコピー類は、二度と集めることはできないものばかりです。一部はなんとか論文や本にしてありますが、完成しないまま資料と一緒に眠っている原稿の下書きが次つぎに出てきて、亡霊のように私にまつわりつくのです。古い研究会や学会報告のレジュメもそのままです。そして思い知ったのは、それ等の論文や調査の記録を、公表できる形で完成させることは、もう今のわたしの状態では不可能にではないかということでした。だから資料のはいった段ボールを開けたくなかった。子どもたちに「この箱は、わたしが死んだらぜんぶ捨てていいからね。運ぶトラック代だけは残しておくから」と申し渡してあったのです。しかし、思いがけないことで、それの始末を自分の手でしなくてはならないことになりました。

 3月15日法政大学大原社会問題研究所に、これまでNPO平塚らいてうの会が保管管理してきた「らいてう資料」とらいてうご遺族の奥村家が所蔵してきた「らいてう資料」を一体化させて「寄贈」することにし、搬入を終えるまでわたしにはじぶんのささやかな資料のことなど考える暇がありませんでした。それからわずか10日余りの間に、わたしは「自分の分身」ともいうべき資料や文献のコピーなどを始末する必要に迫られて「死ぬような」思いをしてきました。すこしでも論文や本にしたことのあるものは、それがまことにふじゅうぶんで、集めた資料の一部しか使っていなくても、ともかく書いたものが残っているからという理由で、捨てることに。まだ使ってない資料のうち、これから完成させられるかもしれないと期待できるものはダンボールに入れなおし、らいてう関係などどうしてもこれから書きたいものに関する資料だけはなんとかわが家に残すことにして、のこりは倉庫に預けることにしました。父親が戦時中インドネシアのカリマンタン島で軍人でもないのに「司政官」と称して日本海軍の占領行政の一端を担ったことを調べにインドネシアまで行ったとき集めた資料も処分しました。当時朝日新聞社が国策協力して現地で出していた新聞のコピーを、築地の本社まで取りに行ったのですが・・・。写真も手紙も処分できないものは「倉庫行き」。しかし、多分もう生きている間にこの箱を開けることはないのではないかと思うと、これは事実上捨てるのと同じです。それでも捨てずに「倉庫代」を払うのは、わたしの「まだ死にたくない」という「未練代」というわけです。その仕分けに10日間、何とか彼をむかえいれる部屋だけはからっぽになりました。

 手元に残したのは、らいてう関連のもののほかは、一つは田中正造の「足尾鉱毒反対運動」についてのわたしの新説(田中正造は、なぜ「乳汁欠乏 小児死亡」をもって帝国議会で政府を「殺人者」と迫ったのか)を書いておきたいことと、もう一つはらいてうがなぜ戦時中傀儡政権である汪兆銘政権を支持したのはなぜかという問いを立て、パートナーの奥村博史が1936年上海に行って内山書店とつながり、内山完造の手引きで魯迅臨終の図を描いたことと、上海の洋画家陳抱一との親交、その一人娘陳緑妮と母親(日本人)との戦中戦後の交友、昭和研究会メンバー林広吉(陳緑妮は林の息子と結婚した)との接点等々のいきさつをしらべた資料だけはまだ書いていないし書きたいと取り置きにしました。どちらもらいてうにかかわりがあります。それを書きおおせてから死ねるだろうか。今日は、退院したら老健などの施設にいかず、自宅に帰りたいという彼の最大の望みである、彼の書きかけの本の原稿完成を応援するため、退院後に図書館で借りる本のリストを検索しました。地元の図書館にあるのは一部で、後は都立中央図書館か遠く岩手県立図書館で借りなくてはならないものもあります。「いつでもスタンバイするから」と言いながら一方で「介護用品」もそろえねばならず、じぶんのことでくよくよしている暇はない、まして当分「彼より先には死なない」つもりになったのですからね。寝不足だけが心配ですが。

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「ロシア侵攻」報道や「街頭カンパ」に惑わされるな、というコメントが届きました。

 昨日わたしが書いたブログにコメントが届きました。わたしは原則としてコメントに直接返信はしません。しかし、今回届いたコメントは、わたしの「真摯な態度」を認めつつ、一つは「受け取っている情報が偏り過ぎているのではと思うのです。ロ(シア)が侵攻した理由、それ以前のウ(クライナ)の状況、欧米、NATOとの関係について、ぜひ、お伝えください」というご批判と、「街頭募金についてですが、多くが詐欺であることをご存じですか」と問い、「カンパをすすめるのは詐欺グループを利することになる」というご忠告でした。私の意見を書きます。

 メディアの報道が「偏っている」ことはわたしも十分意識しています。戦時中の「大本営発表」でウソを信じ込まされた世代ですからね。軍事同盟としてのNATOの役割も少しは知っています。ただ、わたしが言いたかったのは、どんな歴史過程や政治状況があろうとも戦争という暴力によって「子どもをころすな」という一点だけは、どこに向かっても言いまくっていいのではないかということです。カンパもそうですが、わたしが寄付の送り先をウクライナ大使館ではなく「人道支援」に徹している国際NGOを選んだのは、どんな場合でも軍事力行使ではなく「国際世論」を土台に「平和交渉」によって「戦争」をやめさせなくてはならないと思っているからです(それが今はむなしい気がするという声もありますが、けっしてあきらめてはいけない)。チラシを配っていた「市民有志の会」は直接カンパをもとめず、「カンパする方は、こういうところがあります」とユニセフや国境なき医師団などを紹介してありました。募金をしていた日赤奉仕団は、毎年「敬老の日」に市内の高齢者(わが家も該当)に市が配る「お祝」(お茶とかクッキーとか)を持ってきてくれるので知っています。詐欺グループではありません。一般論として「街頭カンパ」のなかにはアヤシイものもあるという意味で、ご意見を紹介しておきますね。

 今はただ「戦争をやめて交渉による平和への道を」という世論と、それに支えられる各国の平和への一致した行動が、「核兵器」使用という恫喝や「極超音速ミサイル」使用などで戦争を繰り広げているロシアを立ち止まらせる道であることを信じて訴えるほかないのではないでしょうか。

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何べんでも「戦争でウクライナのこどもをころすな」と言う―「武力によらない平和を」は無力か    

 19日の土曜日、吉祥寺の駅前で「ロシアのウクライナ侵攻に抗議しよう」というアピールをしている人たちに会いました。ちいさなチラシを配っていたので「ご苦労様」と挨拶して、もらいました。ロシア大使館の住所やメールアドレスが記されていて、「ここへ意思表示を」とあります。意見をつたえようと思いながら、もう一人の自分が「今のロシアは、何を言っても聞く耳を持たないよ」とささやいています。ウクライナのニュースを見るたびに絶望的な気分になるのは、「一人でも多くの人間が声を挙げなければならない」と思いながら、「子どもたち」と地面に書いてあった避難施設の劇場まで爆撃され、子どもたちが殺されたと報道されることにいたたまれない気分になるからです.

 数日前には同じ駅前で「ウクライナに人道支援を」と募金していた日赤奉仕団の方たちがいました。バス待ちしながら見ていたのですが、みていた数分の間にカンパをする人が誰もいなかったのに心がいたみました。しない人を責めているわけではありません。他でカンパしているかもしれないし。わたしも日赤ではなく「現地に直接出て行って支援活動している」という団体に「ウクライナの子どもたちのために」と添え書きしていささかの寄付を送ったばかりです。でも、通り過ぎていく人があまりにも多いので気が気ではなくなり、「ちょっぴりでごめん」といいながら今夜のおかずを買おうと思っていた分を募金箱に入れてしまった。帰りに、スーパーには珍しく一切れだけパックになっていた魚の切り身(割引で200円)を買って夕飯を済ませた次第です

 国内で「ウクライナは核放棄したから攻撃されている」と日本の核武装論や「核共有論」まで取りざたされています。岸田首相は「憲法改正」を主張しました。「火事場泥棒」みたい。しかし、以前から「憲法九条は守りたいけれど、北朝鮮が怖い」という友人もいて、今は現実に戦争を始めたプーチン大統領が核攻撃をちらつかせるのですから、こんなに怖いことはない。ウクライナではロシアが「極超音速ミサイル」なるものを初めて発射したのではないかと伝えられ、これは時速1万キロを超える超音速で飛ぶため「迎撃困難」でしかも核弾頭搭載可能だそうな。こんな「最新兵器」に、日本の自衛隊がどうやって対抗できるのか。「日本国憲法九条」はもはや無力になったのだろうか。

 しかし、前広島市長の秋葉忠利さんが呼び掛けた「プーチン大統領は核兵器を使用しないと約束せよ」という署名は、1週間たたないうちに10万近く集まりました。著書『市民とジェンダーの核軍縮』以来ファンになった川田忠明さんは、ヨーロッパではNATOという軍事同盟が大きな位置を占めているが、東南アジアではASEAN(東南アジア諸国連合)を中心にした「平和の枠組み」があると指摘、中国の南シナ海進出で緊張が高まって1988年に中国とベトナムの海戦が起こったが、それ以後この地域で戦争は起きていない(この間ヨーロッパでは戦争が繰り返された)と言っています。武力行使を禁じ、紛争の平和解決を原則とした「東南アジア友好協力条約」(1976)があるからだ、と(全国商工新聞2022年3月21日付)。

 なるほど。わたしたちも日中韓三国の歴史研究者や市民活動家たちと協同してまったく自主的な民間の「歴史認識と東アジアの平和」フォーラムという集会を毎年持ち回りで開いてきました。「東北アジア」と言っていいかもしれませんが,この地域は、核保有国中国や、北朝鮮を含むから「平和構築」構想は複雑です。それでもコロナで対面集会が困難になった昨年もオンラインを活用して三国の参加者と交流してきました。わたしもずっと参加してきましたが、コロナ以降は参加していません。実行委員会も降りることにしました。しかし、世界が核戦争で破滅するかもしれない危機をはらんでいる今、たとえ中国からの参加者が核兵器禁止条約にきっぱり「賛成」と言えない事情があるにしても、毎年会う参加者とあいさつをかわし、話しあい、リアル集会の時は最後に肩を組んで歌い、つないできた親近感は何物にも代えがたかった。今年は日本で開会しますが、やはり海外からの参加は難しいそうです。オンラインの普及は、わたしのようなITオンチでも遠地の会議に参加できる利点をもたらしたが、やはり顔を見合って話せる機会も必要だと思う。ロシアの侵略と核恫喝は批判しなくてはならないが、「だから日本も核武装を」といった発想を乗り越えるために。「武力に拠らない平和」は今無力に見えるかもしれないが「武力による平和」はそもそもあり得ないと思うから、ころされたたくさんの子どもたちがウクライナから訴えていると思う。あの原爆をうたい続けた詩人峠三吉の詩「墓標」にある済美国民学校の子どもたちのように。原爆で殺された子どもたちに呼びかける1節を。

 君たちよ

もういい だまっているのはいい

戦争をおこそうとするおとなたちと

世界中でたたかうために

そのつぶらな瞳を輝かせ

その澄みとおる声で

ワッ! と叫んでとび出してこい

そして その

誰の胸へも抱きつかれる腕をひろげ

たれの心へも正しい涙を呼び返す頬をおしつけ

ぼくたちはひろしまの

ひろしまの子だ と

みんなのからだへ

とびついて来い!

(峠三吉『原爆詩集』より)

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東日本大震災から11年―「忘れず、記憶し続ける」ことが生きているものの責任

 3月はまだまだ駆け足で過ぎていきます。10日は東京大空襲から77年、そして11日は東日本大震災から11年でした。わたしは、末っ子だったのに兄や姉を「さしおいて」先に逝ってしまった弟に背中を押されるようにして津波の被災地大船渡へボランティアに行き、わずかな時間でしたが仮設住宅で「お茶っこ」して回った経験があります。そこで知り合ったかたにお花を送り、「3月11日にどうぞ海に投げ入れて」と頼んだこともありました。じつは海に物を勝手に投げ込んではいけないということを知らないまま、あさはかにも「気楽に」頼んでしまったのです。うけとった知り人は地元にできた慰霊塔にそなえたり、被災した方のお宅の仏壇に供えてもらったり、苦労して「こころざし」を生かしてくださいました。申し訳なく、しかし感謝しています。

 ことしはそれもご遠慮しました。わたしのほうも昨年姉を見送り、半年後には夫が倒れて長期入院という出来事に直面、「3,11から10年」という節目もおちおち考える暇がありませんでした。「生きてるもの」のことを考えなくてはならなかったのです。

 つい3日ほど前に、かれは療法士さんと一緒に病院を出て、エレベーターのない階段を上がって3階にある我が家まで帰る実験に挑戦しました。幸いなことにわがマンションの階段には手すりがついています。10年以上前に2階でやはり歩行困難になった方が「2階までだけ、自費で手すりを付けたい」と申し出た方がいて管理組合で大議論になり、「階段が狭くなる」「美観を損なう」という反対意見も出るのを、「つけるなら全階段にすればいい」「エレベ-ターがない代わりに手すりがあれば資産価値も上る」と説得して管理組合の予算で全階段につけることになったものです。そして彼は療法士さんが後ろから支えながらですが、そろそろと階段を上がり、半年ぶりの我が家に入ることができました。わたしは彼の退院に合わせてエレベーターのあるマンションを探して引っ越そうかと思ったのですが、かかり付けの診療所(名医の先生がひとりだけ常勤)でリハビリも訪問医療もやってくれるというから、ここを離れたくない。その悩みで夜も寝られなかった(というのは事実ではなく、すとんと寝てしまうのがわたしの特技)のが明るい希望が出てきました。それで「3.11」のことをブログに書くヒマもなかったわけ。

 でも、そうやって忘れてしまっていいだろうか。いやいや、忘れてたまるものか。わたしが大船渡に通ったのはわずかな期間ですが、それでもわたしにとって津波の記憶を共有した経験です。それを書き残しておかないと記憶はいつか薄れてしまう。ブログに報告を書き、小学校の校庭にできた仮設住宅を撤去すると決まったとき、「津波で何もかもなくし、やっと仮設住宅の生活になじんだのに、更地にして子どもたちにかえせば、自分たちの住んだあかしは何も残らないよね」と嘆く方の声を聴き、じゃあせめて仮設住宅に住んだ思い出を残しませんかと提案してささやかな記録ですが文集づくりをお手伝いしました。母の戦争体験を印刷し、亡くなった後遺歌集を出してやったのも、それから弟ががんでこの世に別れを告げた後、ささやかな記録を本にしたのも、わたしが言い出しっぺでした。そして今、何も残さず逝ってしまった姉の断片的な記憶をそれでもまとめてやろうと思いつつ、まだ手が付かない。

 どうしてわたしは「生きたあかし」を遺してやりたいと思うのだろう。それは、なによりも今生きているものが「なぜ生きているのか」と問い、死者と気持ちを共有し、じぶんの遺された時間を生きていく支えにするからではないか。  わたしは、最近公開する予定の平塚らいてうの日記を読んで、彼女が1950年に有名な「非武装国日本女性の講和問題についての希望要項」を野上弥生子や上代たのたちとともに発表し、単独講和反対、軍事基地反対、再軍備反対の意志表示をしたのと同じ時期に、霊媒に依頼して博史の祖先の霊を探しあて、自宅にまつったという記述があることに注目してしまった一人です。あわてて「コロナの時代」を念頭に「3.11」体験を含めて「死者と霊性」を問う文献を読みました(末木文美士編『死者と霊性』を読みました。まだ頭に入ったとは言えないので保留しますが、少なくともらいてうにこういう側面があってそれが一面では戦時下の天皇(神)との一体感も引き起こし、しかし他方では「ただ戦争だけが敵」という平和思想の原点にもなったのではないか、と痛感しました。わたしに残された時間はもうわずかしかないが、わたしにとって「3.11」を忘れないということは、「死者と呼び合う」精神が現実とどうつながるかということだという意味で、「生きているもの」の生き方を問うことだと思っています。『3.11』を忘れない。ウクライナを記憶する。今、生きているものを忘れない。

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「女には戦争を止めさせる責任がある」―ロシアよ、ウクライナで子どもをころすな!―らいてうの会が声明

 2022年の3月は、駆け足で「去って」いきます。3日のひな祭りも8日の国際女性デーも、ロシアのウクライナ侵略の嵐の中で過ぎていきました。昨日、私が会長を務める平塚らいてうの会も理事会を開き、ロシアにたいして「ウクライナから即時撤退を」と要求する声明を出すことにしました。わたしは原案に賛成し、タイトルに、らいてうの言葉「(私たちは)主権者として戦争を止めさせる責任がある」という一言を付け加えることを提案しました。

 らいてうはかつて日本の女性たちが参政権もなく、「ただ泣くことしかできなかった」ために戦争を阻止できなかった苦い体験を踏まえ、戦後新憲法によって女性は主権者になった、「今度戦争が起こったらそれは女性にも責任があるということだ」と決意、自らの意思で「戦争反対、再軍備反対」を訴え、「憲法九条をまもりぬく覚悟」を「遺言」にして1971年5月24日、85歳の生涯を終えました。その間に日本も関わりをもったベトナム戦争に反対しアメリカ軍が北爆で病院を爆撃し新生児の保育器までが失われたことを知って「ベトナムの母と子を助けよう」と「一円募金」を提唱、ベトナム人形をかたどった貯金箱を自分の机の上に置いてカンパを入れ、その運動で破壊された病院に保育器を贈りました。

 今、ロシアがウクライナでやっていることはあの時とそっくりだ。アメリカはベトナム戦争で多くのアメリカ兵を正邪の判断もなく見知らぬ地に送り込んで戦死させたのに、その反省もなくイラク戦争を仕掛けたそれこそ「苦い」歴史がある。本気で反省してウクライナの子どもたちのいのちを守ってほしい。そのためにも日本の女性が「主権者として責任をとらねばならない」と言ったらいてうの発言を胸に刻んで行動しよう。わたしのブログ読者からも「寒い駅前でスタンディング」といったお便りが届きます。らいてうの会も「ごまめ」でもなんでも意思表示するゾ。以下声明文。

〈声明〉

 「私たちには主権者として戦争を止めさせる責任がある」

ロシアはウクライナから即時撤退を

国内外の反戦の輪をひろげ、戦争をやめさせよう

                                                                                                  2022年3月10日

                                                                           NPO法人平塚らいてうの会

 当会は、平和・協同・自然を愛し女性の自立を願って行動した平塚らいてうのこころざしを現代に生かそうと日々活動しています。

らいてうは、日本国憲法9条に共鳴し、「非武装・非交戦」の立場から原水爆禁止、軍事基地反対、母親運動などをすすめ、「核兵器も戦争もない世界を」「ただ戦争だけが敵」「他者を受け入れ、意見が違っても一致点で共同を」と訴え続けました。

昨年は「らいてう没後50年」にあたり、私たちは同年1月に核兵器禁止条約が発効したことを喜び合うとともに、「今こそらいてうのこころざしを生かすとき」と、決意を新たにしたところです。

今回のロシアによるウクライナ軍事侵攻は、戦後国際社会が築き上げてきた平和構築秩序に真っ向から反するものであり、当会は強く抗議し、ロシア軍の即時撤退を求めます。

いかなる理由をあげようとも、他国の主権を侵し、武力で子どもも含む市民を殺傷し、無数の避難民を生み出し、地球規模の壊滅的な被害をもたらす原発攻撃まで行い、核兵器使用の威嚇で世界を脅かすなど、断じて許されません。国連特別総会がロシア非難決議をあげ、ロシア市民を含む人々の抗議の声が世界中に広がっていることはまことに心強い思いです。

一方で、この事態を受けて、国連無力論、非武装の憲法9条で国は守れない、いわんや「核共有」論までが自民党や日本維新の会の政治家から流されていることはきわめて重大です。私たちは、この動きを決して許してはなりません。武力行使の禁止、紛争の平和解決、核兵器廃絶は、戦後政治の原点です。

「私たちには主権者として戦争を止めさせる責任がある」―らいてうのこころざしを生かすことが、今まさに問われています。当会は、ロシア政府を包囲する国内外の反戦の輪に加わり、その連帯の輪を広げていくことを決意するものです。

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ウクライナ侵攻に対する「世界連邦運動協会」声明が脱落していました。再掲。

 読者の方に送られたブログに、上記声明文が脱落していました。再掲します。

もう一つは、世界連邦運動協会です。らいてうは、戦後世界連邦思想に共鳴し、1949年に入会、後乞われて一時期理事も務めます。らいてうが1950年に「単独講和反対」「基地も軍隊も要らない」という声明を著名な女性文化人とともに発表、「再軍備反対」運動を起こしますが、それは世界連邦建設同盟に入会した直後、その思想を実践するために自ら行動しようと考え、世連からの指示ではなく、自分で考えて行動したものだということが、昨春明らかになった、一九五〇年を中心とした日記の公開によって明らかになりました。但し、日本のこの運動は、その後らいてうのねがう方向に向かわず、彼女は理事を辞退しますが、世界連邦への共鳴という点は「変わらない」と自伝に書いています。今回の声明は、らいてうの願いにつながるのではないかという気がします。世連のあいさつには「ロシア軍によるウクライナへの軍事侵攻を強く非難する声明を発表しました。私たちは1948年8月6日、広島被爆3周年を機に発足して以来、国内外の関係諸団体と協力し、一貫して核 兵器の廃絶を訴えてきました。創生期において核物理学の最先端の学者たちも活動の中心にいた ことが当団体の特色です。貴媒体で取り上げてくださいますよう、よろしくお願い申し上げます」とあります。以下、声明全文。

ロシアによるウクライナ侵攻を非難する声明   2022年2月28日 世界連邦運動協会

 私たち世界連邦運動協会は、武力によらない平和的解決を求める国際社会からの再三の呼びか けにもかかわらず、ロシアが応じず、ウクライナへの侵攻を開始したことを非難します。いかな る理由を掲げたとしても、武力による現状変更は、国連憲章第2条に定められている「国際紛争の平和的解決」をはじめとする国際法に明白に違反しています。 また、プーチン大統領が「ロシアに介入しようとする者たちに、ロシアは即時に対応し、それは歴史上かつてないほどの帰結をもたらすだろう」と述べ、核兵器使用をほのめかし、威嚇を行なっていることにも怒りを禁じえません。 私たちは1948年8月6日、広島被爆3周年を機に発足して以来、国内外の関係諸団体と協力し、一貫して核兵器の廃絶を訴えてきました。物理学者アインシュタイン博士は、日本初のノ ーベル賞受賞者となる湯川秀樹博士と会い、「私の理論のためにあなたの国に原爆が落とされて申し訳なかった」と言って涙を流し、その後ともに世界連邦実現のために力を注ぎました。創生期において核物理学の最先端の学者たちも活動の中心にいたことが当団体の特色です。世界規模・地球規模の安全保障体制を創設し、核なき世界を実現することが私たちの目標です。 私たちは核兵器のない世界、核の必要のない世界を目指しておりますが、たとえ核保有国がただちに核を廃絶できないにしても、徐々に核の保有数と役割を減少させ、核のない世界に向かうことが保有国の責任です。核拡散防止条約(NPT)の第6条においても「全面的かつ完全な軍縮 に関する条約交渉を行うことを約束する」との誓約を確保しています。今回のプーチン大統領のように、核兵器による威嚇をもって自国の主張を通そうとするならば、核非保有国も核を保有し て国際紛争において自国に有利に進めようと考えかねません。核兵器保有国が核をなくす努力をせず、ましてや核による威嚇さえ行うならば、非保有国の核開発を止めようとする主張は説得力を持ちません。私たちはロシアに対して、ウクライナ領土から早急に軍を撤退させるとともに、ウクライナの 領土と主権を尊重するように強く求めます。また、市民を殺傷し、生活環境を破壊する事態の回避を強く求めます。 国際社会は、世界の平和と安全を脅かす暴挙を断固許さず、国連憲章・国際人道法・国際人権法を遵守し、対話と交渉による解決が図られるように一致協力するべきです。

(註 世界連邦運動協会は、1948年発足当時、「世界連邦建設同盟」(初代会長 尾崎行雄)と称 していました―世連による注記)。

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世界平和アピール七人委員会と世界連邦運動協会がロシアのウクライナ侵攻に反対声明

 3月にしなくてはならないことが、山のようにあります。山梨県の短大を定年退職した2000年に自宅に持ち帰ったまま20年以上積み上げておいた段ボール箱をはじめ、その後増えた厖大な書籍と資料や文献のコピーの山を断捨離する必要に迫られ、今悪戦苦闘中。いくら眺めても捨てられないので、もうこのままにして置き、わたしが死んだらトラックのチャーター代を残しておくから全部捨ててもらおうと思っていましたが、事情あって物置と化していたその部屋を空ける必要に迫られたのです。捨てるものは捨てて、残りは自分の部屋に置けば、と思うのですが、わが部屋はすでに床から山のように本が積んであり、それが崩れて足の踏み場もない。地震のとき本にうもれて死んじゃった人がいましたが、わたしも本棚は倒れないように対策してあるけれど飛び出してきた本にやられちゃうかもね。そこへさらに本を積み上げることは物理的にも不可能です。

 途方に暮れて「断捨離」を始めました。捨てるに捨てられないものを涙を呑んで捨てるのですが、埃だらけの包みを開けてみると貴重な資料文献のコピーなどがが出てきたりするから、一応ぜんぶ点検しなければならぬ。年賀状、手紙、手帳類を処分用の箱に放り込むときは、自分がもう死んだみたいな気分になりました。それでも、これから論文を書くのに集めたままになっている資料や本は捨てられない。おまけに体調不良で疲労感が強く、座りこんだら足が動かない。でも、らいてうを書かなければ死んでも死にきれないから、資料は残しておきたいし、時間はないし。誰に訴えても「自業自得」と冷たいのですよ。まあ、この顛末はあとで。

 そんなことを書いてる場合じゃない。国連でロシア非難(文面には「非難」ということばは使われなかったそうですが)決議が141か国という国の賛同を得て採択されましたが、ロシアのプーチン大統領はまったく反省せず、原発まで攻撃する騒ぎです。「唯一の戦争被爆国」日本でも続々反対声明や決議が出されていますが、その中かららいてうゆかりの団体二つが声明を出したことをお知らせしたい。

  一つは世界平和アピール七人委員会です。1955年下中弥三郎が中心になり、湯川秀樹や川端康成らとともに平塚らいてう、植村環、上代たのの女性3人が参加して発足した平和を訴える7人の会です。その後井上ひさしさんや池田香代子さん等も参加、やがて70年の歴史を刻もうとしています。現在に委員には大石芳野、高村薫のお2人です。ここでいうのもなんですが、今欠員の一名にぜひ女性を任命してほしい。以下、声明全文。

アピール WP7 No.151J
2022年2月28日
世界平和アピール七人委員会
大石芳野 小沼通二 池内了 池辺晋一郎 髙村薫 島薗進

私たちは、ロシアがウクライナに対する軍事侵攻を直ちに中止し、ウクライナ全土から撤退することを求める。武力によって一方的に秩序の変更を求めるのでなく、立場と見解の違いは、多様性と人権を尊重する関係者間の平和的な話し合いによって解決しなければならない。
私たちは、ロシア国内での軍事侵攻反対の人たちを含めて、世界各地からの軍事侵攻反対の声に連帯する。

 もう一つは、世界連邦運動協会です。らいてうは、戦後世界連邦思想に共鳴し、1949年に入会、後乞われて一時期理事も務めます。らいてうが1950年に「単独講和反対」「基地も軍隊も要らない」という声明を著名な女性文化人とともに発表、「再軍備反対」運動を起こしますが、それは世界連邦建設同盟に入会した直後、その思想を実践するために自ら行動しようと考え、世連からの指示ではなく、自分で考えて行動したものだということが、昨春明らかになった、一九五〇年を中心とした日記の公開によって明らかになりました。但し、日本のこの運動は、その後らいてうのねがう方向に向かわず、彼女は理事を辞退しますが、世界連邦への共鳴という点は「変わらない」と自伝に書いています。今回の声明は、らいてうの願いにつながるのではないかという気がします。世連のあいさつには「ロシア軍によるウクライナへの軍事侵攻を強く非難する声明を発表しました。私たちは1948年8月6日、広島被爆3周年を機に発足して以来、国内外の関係諸団体と協力し、一貫して核 兵器の廃絶を訴えてきました。創生期において核物理学の最先端の学者たちも活動の中心にいた ことが当団体の特色です。貴媒体で取り上げてくださいますよう、よろしくお願い申し上げます」とあります。以下、声明全文。

ロシアによるウクライナ侵攻を非難する声明   2022年2月28日 世界連邦運動協会

 私たち世界連邦運動協会は、武力によらない平和的解決を求める国際社会からの再三の呼びか けにもかかわらず、ロシアが応じず、ウクライナへの侵攻を開始したことを非難します。いかな る理由を掲げたとしても、武力による現状変更は、国連憲章第2条に定められている「国際紛争の平和的解決」をはじめとする国際法に明白に違反しています。 また、プーチン大統領が「ロシアに介入しようとする者たちに、ロシアは即時に対応し、それは歴史上かつてないほどの帰結をもたらすだろう」と述べ、核兵器使用をほのめかし、威嚇を行なっていることにも怒りを禁じえません。 私たちは1948年8月6日、広島被爆3周年を機に発足して以来、国内外の関係諸団体と協力し、一貫して核兵器の廃絶を訴えてきました。物理学者アインシュタイン博士は、日本初のノ ーベル賞受賞者となる湯川秀樹博士と会い、「私の理論のためにあなたの国に原爆が落とされて申し訳なかった」と言って涙を流し、その後ともに世界連邦実現のために力を注ぎました。創生期において核物理学の最先端の学者たちも活動の中心にいたことが当団体の特色です。世界規模・地球規模の安全保障体制を創設し、核なき世界を実現することが私たちの目標です。 私たちは核兵器のない世界、核の必要のない世界を目指しておりますが、たとえ核保有国がただちに核を廃絶できないにしても、徐々に核の保有数と役割を減少させ、核のない世界に向かうことが保有国の責任です。核拡散防止条約(NPT)の第6条においても「全面的かつ完全な軍縮 に関する条約交渉を行うことを約束する」との誓約を確保しています。今回のプーチン大統領のように、核兵器による威嚇をもって自国の主張を通そうとするならば、核非保有国も核を保有し て国際紛争において自国に有利に進めようと考えかねません。核兵器保有国が核をなくす努力をせず、ましてや核による威嚇さえ行うならば、非保有国の核開発を止めようとする主張は説得力を持ちません。私たちはロシアに対して、ウクライナ領土から早急に軍を撤退させるとともに、ウクライナの 領土と主権を尊重するように強く求めます。また、市民を殺傷し、生活環境を破壊する事態の回避を強く求めます。 国際社会は、世界の平和と安全を脅かす暴挙を断固許さず、国連憲章・国際人道法・国際人権法を遵守し、対話と交渉による解決が図られるように一致協力するべきです。

(註 世界連邦運動協会は、1948年発足当時、「世界連邦建設同盟」(初代会長 尾崎行雄)と称 していました―世連による注記)。

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ウクライナの人道支援に寄付します。ロシアに言いたい二つのこと―「核威嚇するな」「こどもをころすな」

わたしの「ごまめの歯ぎしり」は、何人もの方から「いいね」やコメントをいただき、「リベラル21」というウエブミニコミ(ジャーナリストや研究者が立ち上げた「幅広く意見を」というメディア)から「転載」の申し入れも来ました。慌てて誤字や間違いなどを直し、余計な前説を削ってOKに。たどたどしくても「モノは言うものだ」と実感しました。読んでくださった皆さん、ありがとう。

 おかげで国連も40年ぶりに「国連総会特別会合」を開催、ロシアの暴挙非難決議を採択する見込みです。許せないのはプーチンがウクライナと停戦協議をすると言いながら核兵器使用をちらつかせ、市内の民間住宅にミサイル攻撃を繰り返していることです。瀕死の少女を前に「プーチンに見せたい」と怒りをこめて訴える医療者の映像も観ました。核兵器禁止条約にそっぽを向く岸田首相も、今回ばかりは「唯一の戦争被爆国日本の首相として、広島出身の政治家として」ロシアに抗議すると発言しています。そのとおり、だから日本も核禁条約に参加してください。せめて国際会議(延期になっています)にオブザーバー参加を約束してもらいたい。

 そして、「だれのこどももころさせない」を合言葉にしたのは「安保関連法に反対するママの会」の母親たちでした。プーチンよ、愧じてもらいたい。

 キエフではもうパンもミルクも底をついたそうです。子どもを死の恐怖から救い、せめて飢えずに済むように、人道支援の団体にカンパしようと思いました。実は1年前に姉が亡くなったとき、「おひとりさま」だったのでいくらかの預金が法定相続人に配分されました。教師だった姉は子どもや障害のある人たちのために寄付をしたいと言っていたのに、遺言書がなかったために実現せず、わたしは自分に手渡された分からあちこちに寄付をしましたが、そのリストを思い出し、「すぐ現地に人を送って現地の支援団体と連絡、攻撃にさらされている市民たちに何が必要か確認して援助する」という支援団体にそれこそ「雀の涙」ですが、寄付することにしました。ネットでクレジットカードによる寄付をすれば簡単ですが、そうすると寄付者は戸籍名(カード名義がそうだから)になります。そんなことどーでもいい、と言われそうですが、米田佐代子の名前で寄付したい。手間をとらせて悪いが振込用紙を送ってくださいとお願いしました。わたしのカンパが届くまでウクライナの子どもたちよ、無事でいておくれと祈りつつ―。

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「90年前の3月1日に何があったか」―「ごまめのはぎしり」でも「カマキリの斧」でも、モノ言わねばならぬ  

 

 最近「メル友」になった札幌の友人からメールが来て「オミクロンが心配だから外出しないようにしていたが、今日は駅前の戦争反対スタンディングに行きます」とのこと。コロナも心配だが札幌は大雪で雪かきにくたびれたというメールをいただいています。どうぞ滑ったりなさいませんように。渋谷駅前でもSNSの呼びかけに2000人もの人が集まったという報道がありました。在日ウクライナ人は勿論、日本人もそして在日ロシア人の方々も、だそうです。私は、と言えば入院中の彼の今週の面会回数はもうオーバーなので洗濯物だけ取りに行き手紙を添えて帰宅、参加する余裕がありませんでした。しかし、できることはしなければならぬ。中断中のブログですが、たとえ「ごまめのはぎしり」でも「カマキリの斧」でも、プーチン大統領に何をいっても「蛙の面にションベン」「馬の耳に念仏」であろうとも、モノ言わねばならぬ、と書くことにしました。

 ともかく、ロシアのウクライナ侵攻は言語道断です。衆人環視のもとで、堂々と強盗殺人をやってのけ、しかも「オレは核兵器を持っているゾ。早く降参しろ」と公言するのですから、「殿、ご乱心」などと言っている場合ではない。ウクライナは1994年に核放棄を宣言した国です。ウクライナ人のだれかが「日本国憲法九条のような道を選択したのです」と言っていましたが、そのウクライナに核威嚇をするとはたとえ参加していないとはいえ、国連で採択発効した核兵器禁止条約への明白な挑戦です。そのプーチンを「天才」とほめそやすトランプ前アメリカ大統領(悪評だったとみえて、「即修正」した)や、彼を支持する習近平中国主席がいるのだから、あなたたちの頭の中はどうなっているの?と聞きたい。

 これは20世紀の遺物であったはずの第二次世界大戦への道の再版ではないか、という思いがよぎります。あのとき日本は当事国でした。明後日の3月1日が何の日かご存じですか。90年前のこの日、今の中国東北部で1931年9月の満州事変から半年余りで「満洲国」の「建国宣言」が出されました。日本が日満議定書によってこれを承認したのは9月15日です。国際連盟は1931年に満州事変調査のためリットン調査団を派遣し、満州事変における日本の軍事行動は侵略であったことを認める報告書を提出、1933年3月24日国際連盟総会で採択します。実はこの報告書は、「満洲」が中國の主権地であることを認めながら一方で日本の権益も認めるというきわめて妥協的なものでしたが、賛成42、反対1(日本のみ)で採択されました。日本は国際連盟を脱退、やがて1936年日独防共協定、1937年日独伊防共協定、1940年日独伊三国同盟によってナチスドイツとファッショイタリアと結び1941年アメリカ・イギリスに宣戦布告、世界を相手に「破滅的戦争」への道を走るのです。このとき「敵」としたソ連が今形を変えて「プーチンのロシア」になり、ウクライナ侵攻を「人目もはばからず」展開していることを「歴史の皮肉」などと論評しても始まらない。

 こんな「わかりきった」歴史のおさらいをした理由は二つあります。一つは、満州事変から日本が「満洲国」を「承認」する過程で、日本の国民の多くが(もちろん女性も)熱狂的に「満蒙は日本の生命線」という宣伝を支持し、「日満支三国友好」を唱える論調に引き込まれて行ったことです。もちろんこれを「帝国主義戦争」として反対する人たちもいました。女性団体の中でも「ファシズム反対」を訴える人たちがいました。政党では非合法だった共産党が「戦争反対」のビラを撒いています。しかしその後共産党はボコボコに弾圧され、作家の小林多喜二は共産党でしたが築地警察署で拷問され虐殺されたことはよく知られています。そして多くの女性作家や評論家たちも「自国の権益」という殺し文句に抵抗できず、沈黙あるいは国策協力に流されて行きます。平塚らいてうが「動揺し、もがき、迷い始めた」のは、満州事変以後でした。戦後らいてうは、「満州事変以前までは女性たちの運動もある程度進んできたが、これ以後戦争への抜き差しならない歩みに組み込まれて行った」と書いています。それは戦後気が付いただけではないと思います。

 わたしは何処の著作目録にもないらいてうの文章が載った単行本を1冊もっていますが、それは1942年1月に発行された『女性新道』という本です。東京日日新聞社と大阪毎日新聞社の編集で、どうやら新聞の投書を集め、そこにらいてうや市川房枝らをはじめとする女性リーダーたちの寄稿が収録されているのではないかと思うのですが、すでに「大東亜戦争」が勃発し、らいてうが(自伝によれば)「自分にはもう戦争に反対する力がない」として茨城県戸田井に「早すぎる疎開」をする直前です。寄稿の中には戦争謳歌の言説もありますが、じつは驚くほど冷静な論調も多く、作家宮本百合子の発言などは、時局に流されて行く女性作家たちへの鋭い警告が含まれています。そしてらいてうも、明治・大正・昭和の女性の社会的進出について自身の体験を交えて書き、最後に唐突に「そこへ満洲事変が突発しました―それが昭和6年です」という一言で終わっています。もしこれが1942年に書かれたものだとしたら、「満洲事変」の衝撃を語っているのではないかという気がする書き方です。その直前まで彼女は『輝ク』誌に「紀元二千六百年」を讃える文章や、日中全面戦争開始とともに中国で結成された国共合作による「抗日民族統一戦線」に反対し、日本のかいらい政権とされた汪兆銘政権支持の文章を書いていたのです。この言説をもってらいてうは「戦争加担」の批判を受けるのですが、1941年と42年のこの「落差」は何か、これから日記等を解読して書きたい。

 今ロシアでもウクライナ侵略の実態は報道されず、プーチンを支持する人々が多数います。かつてと違うのは、それでも危険を冒して戦争に反対する人びとがいることだ。日本でもウクライナ侵攻に抗議する人々は確実にいる。しかし、まだおおきなうねりにはなっていない。気になるのは、「ウクライナが核を放棄したから攻撃された」といった論評があることです。日本は核保有しないまでも憲法九条を「改正」して対外武力行使を可能にせよ」、「日本も核保有を」という声まで出ています。これについて書きたいのが二つめの理由です。

 ロシアはウクライナが核をもっていてもいなくても今回のようにこの国を支配下に置く策動を着々すすめてきたと思う。では、国家がある限り軍備を強化して互いににらみ合うほかないのか。河北新報2月16日付のコラムで「世界連邦」に触れた記事があるのを見つけました。以下に引用します。

 <物理学者のアインシュタインは1932年、国際連盟からこんな依頼を受けた。人類の最も重要な問題を取り上げ、適任の人物と書簡を交わしてもらいたい-。そこで選んだテーマが「戦争」▼なぜ人は戦争をするのか。彼は精神医学者のフロイトに手紙を書いた。フロイトの返信の概要は「文化の発展が知性を高め、人の攻撃欲望を抑制し、心と体の奥底から戦争への憤りを覚える平和主義者を生み出す」というものだった▼アインシュタインは「強い権限のある国際機関を創設し、全国家が主権の一部を預ける」という構想を示している。現在、世界連邦のような構想の実現は極めて困難だし、フロイトが期待を寄せる文化の力もまた迂遠(うえん)に感じられる▼アインシュタインが発した問いから90年、戦争抑止の回答は見つからない。民族の反目、宗教の相違、資源の争奪、歴史の怨念。無数の要素が複雑に絡み合い、数え切れない戦争が次々に起こった。そして今また戦争の前夜だという▼北大西洋条約機構(NATO)加盟を模索するウクライナ。ソ連時代の領域を死守したいロシア。兄弟国と言われた国々が一触即発の状況だ。戦争に勝者はない。双方に壊滅的な打撃を与えるからだ。フロイトの書簡には「勝利しても英雄にはなれない」とある。(2022.2・16)

 らいてうが戦後世界連邦思想に共鳴し、1950年に野上弥生子らとともに単独講和反対の声明を発表したことは有名ですが、それが前年の1949年に日本の世界連邦建設同盟に入会して、その理想を実践しようと決心、どこからも指示されたのではなく、自分ひとりで考えた末の行動だったことが、昨年公開された1950年を中心とする手書きの日記から推察できることがわかりました。この日記はまもなくデジタル化されらいてうの会のホームページに公開されます。書き起こしも今年の夏までにらいてうの会の紀要に発表される予定です。その8項目にわたる要望事項のなかに「中国との講和を除外した講和に反対」という項目があります。それは、かつて中国に対する侵略戦争に反対できなかった自分を愧じる意志表示でした。

 河北新報のコラムは、現状を憂慮している点で共感するところがあります。確かにこれほど「自国第一主義」が横行するいま、「世界連邦は非現実的」というのも無理はない。けれどもらいてうが世界連邦に共鳴した理由は、そもそも個別国家の主権は認めるとしても『戦争をする権利』だけは個々の国家にはない、ということでした。「国家主権の制限」という考えです。国際政治学者の松井芳郎さんの講演を聞いたことがありますが、彼も「個別国家は固有の権利として自衛権をもつが、それを武力行使という形で行使することは制限する」というのが日本国憲法九条の精神だと説明していました。らいてうにとって世界連邦というのは、単なる理想ではなく、現実の戦争を起こさせないための平和秩序構築の根拠だったわけです。らいてうは1950年の初めまでは国連を世界連邦実現の第一段階として活用するという考え方に同調していたと思われ1950年の声明草稿には「軍事基地反対」条項に「国連の基地だけは認める」という書き込みがあり、抹消されています。ウクライナ問題を見てもわかるように、国連が安保理の大国拒否権などに」よって国際紛争を解決できない状況にあることは事実ですが、それでも国連を機能不全と決めつけるだけでは、事は収まらないと思う。眠い目をこすりながら見たのでテレビ番組の名前も覚えていないが、「どんな小さな声でも発信することによって国連を動かすこともできる」という発言を聞きました。河北新報さん、「戦争抑止の回答はみつからない」が、それでも「黙らない」を合言葉にがんばろうではないですか。

 以上、高齢となり、目も耳もおぼつかなくなっているわたしが、これだけ書くのに朝から電話やメールの応対に追われ、壊れたIHの修理業者と打ち合わせ、朝も夜も食事をつくって食し(一度作ると3日くらい同じものを食べる)、午後はZOOMのイベントに2時間半も参加し、ゆうがたは彼の携帯が通じるかどうか確認電話を送り、とぎれとぎれに書いてやっとブログに投稿します。終わりまで読んでくださる方に感謝。

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