年賀状も書かず、「世界は『女の顔』をしているか」を書きました。 

2021年最初のブログを、1月がもう終わろうという27日に書いています。いまさら「あけましておめでとう」とも言えず、124年ぶりの節分となる2月2日は目の前です。年賀状を「卒業」した代わりに「寒中見舞い」を出した年もあったのですが、それもパスしました。「生きてるの?」と聞かれそうでしたが、23日のWANミニコミ図書オンラインブックトークで5分間だけ「趣旨説明」を報告したので、視聴された方には「生存確認」していただきました。雲隠れしていたわけではなく、この一か月間はブックトークの準備と、書けない原稿をため込んで悪戦苦闘していたのです。言い訳のために何をしていたか報告します。

 第一の難関は雑誌『経済』3月号の「女性労働問題」特集に頼まれた原稿でした。「労働問題なら専門家に書いてもらって」と断ったのですが、編集部からは「あなたが今思っていることを書いてください」という返事。そんなことをしたら特集の意味がなくなっちゃうじゃんと思いながら、じつは2021年に平塚らいてう没後50年を記念する企画を考えていたのと、百家争鳴の「コロナの時代」をめぐる議論に一言物申したい気分だったので、つい引き受けてしまったのが「マチガイのもと」でした。

 1月10日が最後の締め切り日と言われ、年末の大掃除もせず、おせちも作らず書く予定でしたが、そこへ降ってわいたのが姉の「介護問題」。10月初めからほとんど病院暮らしだったのが暮れの26日に退院、しかしもう一人では暮らせない状態だというので病院からお世話になっている「小規模多機能自立支援施設」のショートステイにに直行、そのまま年を越しました。しかしそこはショートステイで、ずっといられるわけではありません、施設のケアマネさんと相談して姉の「終の棲家」を捜すことになりました。その段取りに時間を取られ、1月になってからコロナで見学も体験入居も難しい特別養護老人ホームにやっと出かけて行ったのもわたしです。3が日のお雑煮だけはわたしがつくったので、その間は完全に主婦業。結局1週間では書けなくて編集部に12000字の原稿を送ったのは15日の深夜でした。編集者はものも言わずに?印刷に回し、5日後には校正が出て「22日までに返して」。そりゃそうだ。本当はもう1冊参考文献をあげたかったけれど、アマゾンに注文した本が届かないので諦め、しどろもどろのまま2月初めには店頭に並ぶことになりました。「雑誌にアナをあけなかった」だけが取り柄だね。

 ところが、もう一つの原稿と言うのはわたしが代表を務めたこともある総合女性史学会創立40周年記念論集の原稿です。これは昨年10月締め切りだったのを放置、文豪並みに「12月まで待って」「あと半月待って」と繰り返し,業を煮やした担当者から「5年前の会誌にあなたが書いた原稿を転載する」と言われて「5年間に世の中は大激動してるのに、それは勘弁して」と懇願して「1月15日まで」と約束したのを「裏切った」わけです。おまけに23日のブックトークを控えてその日までは手が付きません。「ほかの原稿はもう校正に入っています」と叱られながら、けっきょく2晩徹夜して4000字のはずが7300字も書き、それではページオーバーというので1000字分削って「はみ出し分は構成で削るから」と27日の朝送りました。

 そして第三の問題は本業?の「らいてう没後50年記念企画」で、今年はらいてうの家を4月にオープンさせたいと思い、記念の展示パネル作成案を作る仕事でした。これは個人の仕事ではなく会の中に担当の委員会ができているのですがそこでの議論がなかなかまとまりません。1月になってからは役員会も集まるのを自粛していますが、これだけは対面でないと相談できないので少人数に絞って集まりましたが、そこでもわたしの意見はすっきり受け入れられず、もう一度議論することになりました。

 そして最後に,1月23日のブックトーク。ミニコミ図書館が初めて取り組んだオンラインによる「全国女性史研究交流のつどい」全12回報告集を読むというイベントは、300人を超える申し込みがあり、東京と名古屋、松山、それにスタッフがそれぞれの自宅から、報告者の一人はブラジルから12時間時差のなかを参加してくれ、気が遠くなるような準備(わたしはちんぷんかんぷん)を経て成功裡に終わりました。聞いた方の感想は「面白かった」と言うのが多く、ほっとしたのですが、実行委員の一人としていうと予想外の展開もあり、ハラハラドキドキしながら聴いていたというのが実感です。どこがおもしろくてどこがハラハラしたのかは後で書きます。

 というわけで、一段落した後めまいと吐き気に襲われて寝込むという一幕もあり、夜中に耳鳴り(幻聴?)が起こって寝られなくなる「事件」もありました。いずれも一日寝たら治り,電話してきた娘は「ストレスだよ」と一言、つれあいには「トシを考えろ」と言われてしまった。永年連れ添ったパートナーはよく見ていますねえ。で、何がストレスかというと、わたしにはもうオリジナルに自分の考えを(資料に基づいて)じっくり展開する能力がなくなったのではないかという絶望感というかあきらめの観念です。「時間がなかった」ことは確かだが、それだけじゃないと思う。何年か前にわたしより先輩の歴史家が歴史学の雑誌に原稿掲載を申し込んできたが、内容的にいささか首尾一貫していないので若い編集担当者が困惑したという話を聞きました。断っておきますが、わたしは自分の原稿を売り込んだことはありません。いつも断わるのに「書かねばならぬ」羽目に陥るのです。しかしどちらにしても「老醜」をさらすのは同じだ。じゃあもう書くのをやめるか?その葛藤がわたしのストレスなので

 ちなみに、最近書いた原稿のタイトルだけ、列記しておきます。ブックトークでわたしが話したことについては次に書きます。

 『経済』3月号(2021)   ジェンダー視点で問う人権・平和・平等―女性がつくる「新しい世界」へ

 総合女性史学会40周年記念論集(2021) 「女の顔をした世界」のために―「地域」から「世界」をつくりかえる女性史を

 平塚らいてうの会ニュース 2021年1月号  女たちは「空を翔ぶ鳥のように」-らいてう没後50年を迎えて

 『平塚らいてうの会紀要』13号(2020)  「コロナの時代」と人間の生きる力―2021年平塚らいてう没後50年を前に考える

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「コロナ狂乱」の2020年が終わります―「新しき明日の来る」日を信じることができるだろうか? 

 今日、東京のコロナ感染者は1300人を越えました。午前中に生協へミカンを買いに行っただけで、予約の年越しそばはつれあいが受け取りに行き、わたしは蟄居して紅白なますとお雑煮の用意をしました。普段は朝のコーヒーと野菜サラダは彼がつくり、わたしは8時ごろ起きだして「食べる人」になるのですが、明日から3が日はわたしが早起きしてお雑煮をつくるのです。わが家の雑煮は、鶏肉となるとのほかに大根・人参・里いも、ゴボウ・小松菜、そしてなぜか焼き豆腐まで入るという摩訶不思議な仕立てで、その準備だけでけっこうたいへん。3日目はぶり雑煮にします。どうやらその淵源は、彼の父方の故郷九州にあるのではないかと推理していますが、真相は不明。結局大みそかまで原稿はまとまりませんでした。正月からほんとに仕事ができるでしょうか。夜は紅白歌合戦はもちろん見ず、裏番組のBSでドキュメント秀作のアンコール放送をしていましたが、これはほとんど見ているのでパス。せめて食卓の上を占領していた郵便物の山を平行移動してわたしの部屋に移し、足の踏み場もないところがさらに狭くなって終わり。

 最後に気が重かったけれど暮れに退院した姉をショートステイであずかってくれた施設にお礼の電話をかけました。病院だけでなく高齢者施設も面会禁止ですから、携帯をなくしたらしい姉に連絡はできません。電話に出た職員の方にお礼を言い、3が日以降どううしたらいいかをその時に相談することになりました。といっても電話に出た職員の方は「一人でご自宅に、というのは、無理じゃないかと思います」とおっしゃるのです。ここは「自立支援」の施設ですが、もう「自立」の見込みが立たないのかしら。最後まで「おひとりさま」で生きる道はないのでしょうか。聴きたいことは山ほどあれど、本人の気持ちを聴くこともできないのだから仕方がない。ともかく基礎疾患に加えて心臓にも故障が発見された姉を一人でおいてはおけないという事でしょうか。もし熱でも出せば施設にいることはできなくなります。しかし本人は「老人ホームにはいかない」というのです。じゃあどうするのさ、といいたくても相手は現れないのだから意見することもできない。堂々巡りをしながらとにかく年明けに相談を、という話で終わりました。願わくは、わたしが原稿書き終ってからにしてほしいが、そういうわけにいかないだろうなあ・・・・。

 そこへ大みそかに東京はコロナ感染者1300人超の報道です。コロナの時代とは何か。日本では職や住まいを失った人々や退学を余儀なくされる学生が増え、シングルマザーたちが子どもに食べさせてやれなくなり、それなのに年末には株価がが高騰、まさしく「経済」が人間の顔を失っています。そして菅首相による日本学術会議会員の任命拒否から「桜」問題で安倍元首相不起訴、軍事費最高の予算案にいたるまで「戦前と同じ」という声が噴出しているのに、政治は変わるのかという絶望感があります。

わたしは109年まえ、石川啄木がうたった「新しき明日の来(きた)るを信ずといふ自分の言葉に嘘はなけれど―」という1首を思い出しました。「大逆事件」により幸徳秋水、管野スガらが死刑にされた1911年の作です。「日本はダメだ」と涙を流した啄木が、それでも「社会」ということばひとつがタブー化される冬の時代にあって、「直接政治や社会について語れなくても、文学の名を冠することで若い世代が思うことを世に問う雑誌を出そう。いつかそれが新しい時代をつくる一歩になるだろう」と雑誌を出そうとしますが病に倒れ、翌1912年4月、帰らぬ人となります。『樹木と果実』と名付けられたその雑誌は幻に終わりました。

 しかし、その同じ年、平塚らいてうが中心になって発刊された『青鞜』は「女の手による文芸雑誌」と評判になりましたが,らいてう自身はこれを「文芸雑誌」とは思っていませんでした。「女が押さえつけられて、ほんとうのものを出せないでいるとき、思ったことを押しだして行けばいつか本物の自分がでてくる」と信じ、四面楚歌の中で「頼るものはただ自分だけ」と思い定めて一人たたかい、自ら手放した『青鞜』が伊藤野枝によって放棄され終焉するのを見とどけることになるのですが、それは啄木が果たせなかった「新しき明日」への道でもあったのです。その後のらいてうの恋愛と法律に拠らない結婚、出産、母性保護論争から女性の手による「社会改造」を求める活動に至る歩みは、そういう流れの中に位置づけられます。17歳の中条百合子が「貧しき人々の群」で、農村の貧しさに押しつぶされる人々を直視し、自分の無力に打ちひしがれながら「私はきつと今に何か捕へる。どんな小さいものでもお互ひに喜ぶことの出来るものを見つける。どうぞそれまで待つておくれ。達者で働いておくれ! 私の悲しい親友よ!」と書いたのは1916年のことでした。女たちが自力で歩きだす時代がやってきたのです。 

 そのらいてうにしても日本が総力戦体制に女性を動員したとき、その陥穽に明確にノーと言えませんでした。しかし、戦後のらいてうがその責任を自覚して「全ての戦争をなくす」平和世界を求めて奮闘したことも知られなくてはならないと思う。そして来るべき2021年は核兵器禁止条約が発効する年です。「核大国が参加しないから効力はない」という人がいますが、あの佐藤優さんが朝日新聞で「冷笑主義はダメ」と言い、日本はアメリカの核の傘の下にいてもオブザーバー参加して核なき世界実現をプッシュすべきだと書いているのを読んで、少し納得しました。2020年最後の日はもう終わりです。「新しき明日」のために、来年も生きていかねばならぬ。絶望しながらでも。

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中山智香子『経済学の堕落を撃つ』の感想―<「経済(学)は女の顔をしているか> 

 もう12月30日です。お正月の食材だけは何とか生協と近くの魚屋さんに予約した分をリュックを背負って取りに行き、明日の「年越しそば」は予約しないと買えないか、行列することになるので危険と判断して急遽「おいしいけど高いなあ」とおもっていた近所のお蕎麦屋さんに予約を申しこみ、滑り込みセーフでOK。これもコロナのせいだ。もうにぎやかな吉祥寺の街には出ていかない。そして今夜はいただいたカキをフライにして「そうじ要員」にやってきた娘に振る舞った後、8時ごろになったら寝てしまい、またもや夜中に目が覚めました。しまった、30日中にお雑煮の用意と唯一手づくりする紅白なますをつくろうと思っていたのに。いつもは夜中に台所で作業するのですが、娘が「うるさい」というのでできない。明日一日かかって最低限の準備をしよう。

 というわけで1月10日締め切りの雑誌原稿はまだ見通しが立ちません。このままでは書けないのではないかと悪夢を見る思いです。必死になって図書館から借りたり買いこんだりした本を読みあさり、構想だけはできたつもりなのですが、文章化は遅々として進みません。。何しろ東京はコロナ感染爆発状態で「医療崩壊」はすでに始まっているといわれるのに国は無策(というかオリンピックやりたいからGOTOだの海外からの入国容認だの)、小池都知事も「会食避けて」「街なかに出ないで」などと言うばかりで、抜本策が出てこない。「出て歩けばコロナにあたる」「高齢者は重症化したらハタ迷惑」といわれて近所の買物にしか出ていかず、3月に映画を観たきりお芝居も映画も禁欲しているのに。それでも白内障手術から1年経って視力は一向に改善されないのをがまんして読書に励みました。

 その1冊が中山智香子『経済学の堕落を撃つ―「自由」VS」正義」の経済思想史』(2020年11月講談社現代新書)です。知人のブログで紹介されていたので興味がわき、帯に<「人間の顔」をした経済学へ>とあったのに惹かれて買いました。新書版ですが中身は濃く、「経済学」は大学の教養課程でも単位を取らず、『資本論』も読みおおせていない無知蒙昧人間ながら、「(経済学は)なぜ人間の幸福に役に立たなくなったのか?」という問いに共感して読んでみました。

 なによりも、姉の入院に付き合い、「巣ごもり」になってから確実に増えた「家事」に追われ、道端でころび、今は正月の準備に追われている身としては、本書冒頭の「経済とは、人間が限りあるいのちを全うできるように、生きていくこと、食べていくことを支える活動であり、仕組みである」という視点から、近代以降の経済学が論争し追究してきたはずのこのテーマが、今日の経済活動の中でいかに無視され排除されてきたか、一人ひとりの人間が生き、食べて行くことができないという現実に、経済学が沈黙しているとはどういうわけか、という提起は心に沁みました。思いだしたのは、この夏中山さんがコロナ危機の現状について「人間の身体は疲れもするし、老いもする。その身体を無いかのように(24時間支配し)グローバリゼーションに「貢献」させてきた」新自由主義経済を批判し、「コロナ危機はこういう「グローバル化が無理であることを人間に突き付けた」と言っておられたことです(しんぶん赤旗2020年8月16日付)。菅首相は「経済を回さなければ」と言ってGOTOトラベルなどを強行し、いまや「東京から地方に出ていった人間がコロナの感染を拡大している」とさえ言われているのに、それが「経済」だろうか。旅館やお店の苦境は別の方法で支援すべきだと思うのに。

 わたしはノーベル賞作家スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの『戦争は女の顔をしていない』を思い出しました(いつかこのブログでも取り上げた)。中山さんの指摘する「人間の顔をした経済(学)」とは、とりもなおさず「経済(学)は女の顔をしているか?」という問いでもあると思ったのです。本書でも触れられていますがかつてイヴァン・イリイチが主婦の家事労働などの「不払い労働」を「シャドウワーク」と名付けたことは有名ですが、この本で彼が中山さんのとりあげたカール・ポランニーに影響を受けたことを知りました。ノルウエーの平和学者ヨハン・ガルトゥングも「通常、経済思想の領域では扱われない」としながら、実は彼の言う「平和」とは、経済開発や発展が「構造的暴力」(社会的不正義)であり、「自由主義的な国際社会の秩序において『平和』と位置付けられているものが実は構造的暴力をその裡に孕んでいるという欺瞞」を問い、「実質的な平和」のあり方を模索しているという指摘も、ガルトゥング氏来日の時「追っかけ」をしたものとしては納得がいき、なるほど「人間の顔をした経済(学)」とはこういう視点だったかと思い当たりました。

 どうやら、わたしが書きたいことにヒントが得られたような気がします。わたしはずっと「平和は女の顔をしているか?」を歴史的にもコロナの現代においても問い直したかったのだということが分かりました。今まで書きかけた分をお払い箱にして書きなおすゾ。中山先生、ありがとうございました。でも間に合わなかったらどうしよう…。

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「選択的夫婦別姓」またも後退の閣議決定ー2020年の終わりに 

 あっという間に今年も終わります。コロナは今や絶望的状況に。現職国会議員がPCR検査に向かう途中で急逝、アフリカ経由の変異種コロナウイルス感染者が日本にも、といったニュースに「パニックになるな」と言い聞かせながら、年末の買物も早い時間帯にお雑煮の野菜と鶏肉だけ買って済ませ、姉の入院費を銀行から下ろすために行列し、重い三浦大根は近くの農協の販売所で買い、あとは30日に予約してある生協のおせちを引取りに行けばおしまい、ということにしました。遠出しなくなって馴染みになった魚屋さんで、ぶり雑煮のためちょっぴり贅沢なぶりの予約もしました。

 そこへ発送したばかりの『らいてうの会ニュース』2021年1月1日号に誤植があるという連絡が。それが歴史的な人名なので申し開きが立ちません。以前は校正をファクスで送ってもらったり、出張校正の時には行ったこともありますが、最近はわたしの「高齢化」を忖度してくれたのか来なくなり、自分の原稿は確認しますが全体まで目を通しませんでした。しかしここで「自分は知らなかった」だの「担当者がやった」などと言い訳したら安倍元首相と同じになってしまう。「会長」であるわたしのところに指摘が届いたのですから、わたしの責任です。とりあえずホームページに「訂正とお詫び」を載せ、次のニュースにも明記することにしましたが、なんともはずかしいできごとでした。その対応に追われて今日も原稿はパス。あと2週間で書けるだろうか。部屋の掃除も積み上げてある本や書類の整理も後回しにしたいが、正月だけ泊まりに来る娘の寝るところもない状態です。

 姉は退院後馴染みのショートステイで3が日を過ごすことになり、ほっとしていますが、それからどうなるかは見当がつきません。そこに長くは滞在できない以上、帰宅して一人暮らしに戻るか、介護付きの老人ホームを捜すかはケアマネさんが見守って判断してくれるそうな。とりあえず入院費の支払いや日用品のの手配などに奔走し、後は考えないことに。

 今となっては1月23日の「女性史のつどい報告集を読む」ブックトークに、ご高齢の登壇者を東京に呼ばず、東京、名古屋、松山、そして京都を結ぶオンライン方式にしたことは「正解」でした。それでもスタッフは数人一か所に集合の予定でしたが、今それもやめるべきではないかと検討中。これも技術的には手も足も出ないわたしは「お願いします」で年を越します。

それにしても、無念の思いやみがたいのは「選択的夫婦別姓」の動きがまたもや遠のいたことです。時事通信12月25日付発信に拠れば、「政府は25日の閣議で、2021年度からの5年間で達成すべき目標などを示した第5次男女共同参画基本計画を決定した。焦点だった選択的夫婦別姓の導入は表現ぶりが後退し、「夫婦の氏に関する具体的な制度の在り方に関し、さらなる検討を進める」と記すのにとどまった」とあります。「選択的別姓は結婚する夫婦が同姓か別姓かを選べる制度。原案には「政府も必要な対応を進める」と導入に前向きと取れる記述があったが、自民党の保守系議員が猛反発。新計画は検討に当たり「夫婦同氏制度の歴史を踏まえ、家族の一体感や子どもへの影響も考慮」するとした。第4次計画に入っていた「選択的夫婦別氏」の文言自体も削除された」というのです。

 何が「夫婦同氏制度の歴史」なものですか。源頼朝の妻は有名な北条政子、室町幕府の将軍足利義政の妻は日野富子、彼女の父は日野姓ですが母は北小路姓です。そもそも一般庶民に姓などと言うものはなく、「名字帯刀を許される」のはエリートだった。明治政府が戸籍をつくってすべての国民の姓名を登録させ、「家制度」を実施したから「夫婦同氏」が強制されるようになったのでしょうが。その戸籍に嫡出の子のみ「長男・長女」と記載させ、徴兵制が始まったときにはこれに基づいて徴兵令状が出されたのです。法律婚をせずに生まれた子を母の戸籍に入れると「私生」とされて法律上差別されたのは、平塚らいてうが経験した通り。その戸籍が戦後75年経っても脈々と生きていて、「選択的別姓」を妨げているのです。わたしだって戦後結婚するまで「本籍地」は住んだこともない奈良県にあってそれは父親の出身地でした。戸籍謄本が必要になると郵便で申し込まなければならず、不便この上なしだったことを覚えています。16歳で戦死した兄の戦没記念碑が戦死の地茨城県土浦に建っていますが、兄の名はその時暮らしていた山梨県ではなく奈良県の部に刻まれています。ことほどさように「本籍地」が「人民支配」の根拠だったのが戦後も生きているという気がします。

 わたしは戦後結婚するとき、「家制度」廃止を宣言した憲法24条にもとづいて「法律婚」を選んだのに「夫婦同氏」を強制され、やむなく「通称呼称」で60年以上暮らしてきましたが、これがまた不便極まりなく、混乱を引き起こすだけだということはいやというほど実感、「生きている間に選択的夫婦別姓を」と言い続けてきたのです。人生の終わりに近づいてまたもやその道が遠のいたことに失望と怒りがわいています。かくなるうえはコロナなどに取りつかれず、生き延びて別姓実現をはたさねばならぬと思い、裁判している方たちをひそかに応援していますが、はたしてその希望はかなえられるだろうか?

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広島に贈ったリトグラフ『Blue bird Ⅱ』  

 もう今年もあと4日。まだ書けてない原稿の悪夢にうなされながら、昨日は姉の退院に付き合い、入院費を支払い、ショートステイに送り届けて一日終わりました。今日こそ原稿を書かねばと思いつつ、じつは1年ちょっとしか使っていないパソコンが「メールボックスがいっぱいで送受信できません」と表示され、そりゃそうだ、頂いたメールの貴重なデータなどをあとで保存しようとそのままにしてあったのがたまりにたまっているのだもの。データ容量を増やす方法はないかと探してもわからず、けっきょく1年分のメールからえらんで削除する羽目に。これで半日かかってしまった。夜は夜でNHKのドキュメントを50分番組2本も観たので、これでおしまい。明日は野菜類の買い出しに行かねばならぬ。

 でも、いいこともありました。12月20日、女性文化賞をさし上げた広島の方たちが「リモートでも米田の顔を見てよかった」という声があったと知らせてくれました。はい、生きています。昔「けっつまずいてもころんでも/すぐまた起きる」という歌を覚えたことがあって何の歌だろうと思ったらなんと中国革命軍の歌だって。きっと、うたごえ運動というものがあったときに覚えたんだね。いまのわたしは革命どころか足を引きずりながらやっと歩くだけだけれど、それでも「すぐまた起きる」のです。

 それはともかく、そのとき広島では制限した参加者に贈った絵を入れた大きめのカードを配ったのだそうです。それを送ってくださったので、作家に了解を得て紹介します。竹内美穂子さんの『Blue bird Ⅱ』という作品の写真です。この絵は新作だと思いますが以前から「青い鳥シリーズ」があってわたしの好きな作品でした。今度の作は青い鳥のの背中で花に囲まれて遊ぶ女の子とブランコに乗っている男の子がいて、未来への希望を表現しているように思え、幻想的な木がまた広島で原爆投下後草も木も生えないと言われたのに芽を出して生き延びた木を連想させるので、ぜひと思った次第です。見てください。片面は賞状もさし上げない約束ですが、小さな写真立てにこの文章を入れて送ったものです。今日はこれだけ。

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今日は1万1千歩歩きました! 

「道の真ん中でころんだ」などと書けば、心配してくださる方が出るのも当然です。「過労です。お姉さんのことも心配ですが、自分の身もたいせつに」「あなたにはまだすることがあるはず」「骨折しなくてよかったね」等々のお見舞いをいただきました。ありがとう!思うに、夜中に起きだして原稿を書くなどという「年寄りにあるまじき」不摂生を重ねたせいに違いありません。昨夜はお風呂に入ってぐっすり眠り、元気を取り戻しました。

 そうはいっても退院する姉を放ってはおけません。病院へは彼女がお世話になっている施設から迎えの車を出してもらえることになり、「来なくていい」と言われましたが入院費の支払いはわたしが行かなければできません。病室はおろかロビーにも入れない現状では、入り口で看護師さんに請求書をもってきてもらい、手続きをするほかないのです。姉はそのままそこのショートステイに直行、年末年始はそこで過ごしてもらうことになりました。それから後のことは様子を見てから、とケアマネさんのお話です。わたしはすぐ「着るものはあるかしら」と心配になりました。寝間着はこのあいだ洗濯物として下げ渡されたのがあるからそれをもって行けばいい。洗面道具やタオルは病院で使っていたものをもちかえればOK。上にはおるカーディガンはクリーニングに出し、取りに行ったらまだできていないと言われてもう一度行く羽目に。マスクも箱入りを買ってわたさなくては、と気になり、けっきょく今日は自分の毎月一回の診察を受けに診療所へ行き、年賀状は‟卒業”しましたがお世話になった方にはご挨拶をと郵便局へ行き、薬局も行き、今夜は娘が「クリスマスだから」とピザを持参するので夕飯の用意は要らないが、明日は何時に帰れるかわからないと近所の魚屋さんに行って明日のおかずを仕入れ、気が付いたら携帯の万歩計はなんと11,700歩。ははあ、これだけ歩けるならまだ捨てたものじゃない、と自分を納得させ、今年になって初めて缶ビール1本をつれあいと分けて飲みました。

 というわけで、「ぶっ倒れる」かと思ったけれど無事‟復活”したみたいです。でも缶ビール半本で酔っ払ってしまい、もう原稿は書けない。今夜も早寝して、明日の姉の退院に備えよう。みなさま、ご心配おかけしました。

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道の真ん中でころびました。

 2020年もあとわずか。「師」でもなくなって久しいのに、まだ走っています。今日は本を借りに行った図書館の前の横断歩道で、途中で赤信号になりそうになったので慌てて走ろうとしたら、みごところびました。信号待ちの車のひとがみんなみていて恥ずかしかったなあ。でも、青信号になっても発進する車はなかったから、みんなわたしが無事にわたるまで待っていてくれたのだと思う。幸いすぐ起き上がり、逃げるようにバス停に急ぎましたが、後でみたら膝小僧をすりむいていました。裏起毛の厚地のズボンだったので痛くはなかったのですが、ズボンのひざにも小さな穴が。夕方になってかすかに足に痛みを感じ始めました。去年のように「骨折」はしていないと思うのですが。

 いや、予兆はあったのです。12月になってから姉が緊急入院したら、コロナのせいで「完全面会禁止」、数年前に携帯は持たせたはずですが掛けるのも受けるのも何回やってもできず(2年後には使えなくなるというガラケーですよ)、今回はどこかへ放り出したまま入院してしまったので完全に「あっちのひと」になってしまったのです。洗濯ものなどの受け渡しはできますが,病院の外に置かれた受付デスクに預けるだけで、ロビーにも入れません。コロナ感染急増では仕方ない。

 やむなくテレフォンカードをさし入れて看護師さんに電話し「これで公衆電話からかけさせてください」と懇願、コロナで超多忙なはずなのに姉を車いすに乗せてラウンジまで連れて行ってくれるというのでただありがたく、それでも自分の用だけしゃべって電話を切ってしまう姉に、また看護師さんに電話して「もう一度かけさせて」とさけび、やっとつながっても「寝巻はもう一枚いるの?」と聞いてもとりあわず、「あんた、私の代わりにかかり付けの先生に退院して自宅に帰ると伝えておくれ」と言って切ってしまいました。この話にはおまけがあり、退院するという意味はわたしにとってはある衝撃だったのですが、それには姉個人の思いがあるのでここには書けない。それもわたしの動揺の原因の一つだったかもしれません。そんなこんなでわたしは週に3回も病院へ行ったのです。その前後に足がふらつき、よろめく時がありました。転んだらおしまい、と言い聞かせながら歩いていたのですが、不覚でありました。

 その夜10時過ぎにうたた寝してしまい、目が覚めたらもう24日の午前0時半。しまった、今日はNHKEテレの「コザ暴動から50年」のドキュメント(再放送)を見るはずだった、と飛び起きましたが後半しか見ることができませんでした。それでも1970年12月20日に米軍統治下にあった沖縄コザで起こった米軍基地に抗議する「暴動」で4人だけ放火や器物損壊で起訴された「被告」やその弁護士たちを含む当時の体験者の証言の部分を聴くことができました。こういう時のためにNHKプラスというのを登録してあるはずなのですが、ログインの仕方を忘れてしまった…。明日トライしてみよう。

 しかし、後半の映像を見ているうちにとんでもないことを思い出しました。それはこの「コザ事件」に「騒乱罪(昔は騒擾罪と言った)」を適用せよという圧力がかかる中を沖縄の裁判所では適用しなかったという部分についてです。コザのこの事件よりさらに20年近く前の1952年5月1日、東京の皇居前広場で「血のメーデー事件」と呼ばれる事件がありました。講和条約が発効し、日本の本土はアメリカの占領から「独立」を達成したのが3日前、しかし日米安保条約によってアメリカは占領軍から駐留軍に名を変えて存続、沖縄は返還されず米軍統治下に置かれたままになったのですが、この日これまでメーデー会場として使用が認められていた皇居前広場が使用禁止になり、怒ったメーデー参加者が「人民広場」と呼ばれた皇居前広場に進入、警視庁機動隊と衝突して「暴動化」したといわれる事件です。Wikipediaによれば「1232名が逮捕され、うち261名が騒擾罪の適用を受け起訴された。(中略)1970年1月28日東京地裁による一審判決は、騒擾罪の一部成立を言い渡したが、1972年11月21日東京高裁荒川正三郎裁判長)による控訴審判決では、騒擾罪の適用を破棄、16名に暴力行為等の有罪判決を受けたほかは無罪を言い渡し、検察側が上告を断念して確定した」とあります。騒擾罪に代わって「破壊活動防止法」が制定され、「戦前の治安維持法と同じではないか」と批判されたのはこの時でした。なぜ思いだしたかということは、今夜はもう書けない。道の真ん中でころんだいたみを抱えて今夜は寝ます。

 一言だけ、今朝知人にあてて書いた手紙に、わたしは「わたしも年をとって時には生きることへの絶望的な気分も生まれるこの頃ですが、やはり人間の叡智への信頼を持ち続けていこうと思います」と書いたことを記録しておきます。その後ころんだのですが、「ころんでも、ころんでも」この精神を持ちこたえられるだろうか?

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「第24回女性文化賞受賞記念」のセレモニー、広島で開催。  

 第24回女性文化賞を広島の被爆体験の記録『木の葉のように焼かれて』編集委員会にさし上げたところ、大変喜んでいただき、12月20日に新旧編集委員の方々を中心に「受賞記念のつどいを開いてくださいました。と言っても、おりからコロナが猛威を振るい、東京はもちろん広島でも感染拡大が始まっているので、集まったのはごく少人数、行ってご挨拶するはずだったわたしも行くことがかなわず、リモート参加と相成りました。自宅で、と思ったのですがアクシデントがあると心配。東京の新婦人本部で会長の米山さんが、日曜なのに出てきて広島と東京をむすんでの「交信」をセット、ご自身も挨拶することになったというので、わたしも電車には乗りますが都心の街なかに出るわけではないので、便乗?させていただきました。

 当日は定刻きっかりにはじまり、参加者全員マスク着用、それでも最初から編集委員をされてきた方や、一度は広島を出て他県で暮らしたが、また戻ってきたときに仲間に入れてもらったというかたなど、熱のこもった思い出話もあって短い時間でしたが、半世紀を超える歴史を心に刻んだつどいになりました。わたしは『木の葉~』が「もう出せない」と思ったときもありながら、読者や高校生たち若い世代の『知らなかった。もっと知りたい」という声に励まされて続けてきたことに感動したこと、創刊号から「朝鮮人被爆者」の方々の発言を載せ、その後も在韓の被爆者団体と交流してきた方がたの報告などを載せてきたこと、「日本の戦争体験は被害のことばかり訴えて日本の加害責任を語らない」という批判もあるなかで「広島は軍都と言われ、日清戦争以来ここからアジアに戦争するための兵士を送り出してきた。その事実を語らなければならない」という発言も載せ、さらに長崎の体験もふくめ各地の空襲体験、戦場の兵士の体験など広く「戦争体験」を取り上げてきたこと、それらをつうじて戦争体験はまだ語りつくされたのではない、「被爆者の話はみんな同じ」ではなく、一人ひとりがいつどこで、どんな状況で,「ピカ」にであったか、家族や住んでいたところ、子どもだったか女学生中学生だったか、母親だったか、その一人ひとりの体験を「人間として生きたあかし」として残すことの意味を考えさせられたことなどについて話し、編集委員の方たちが自身も様々な生活の中からこの仕事に取り組む中で自分の生き方を発見していったところに「女性の文化」発信の意義があると考えて「亡くなった方も含めて全ての編集委員に差し上げたいと思った」ことを申し添えました。

 あっというまに1時間経ち、「コロナが終息したら行くからね」と手を振ってお別れしましたが、本当に生きてまた広島へ行けるだろうか?来年女性文化賞をだせるだろうか?とわが身をふり返る時間でもありました。でも良い思い出です。来年も探すゾ…。

右は広島で集まった方がた。左はリモート参加の米山さんとわたし。オールマスクでした。リトグラフは『青い鳥』と題する作品で、わたしが大好きな絵です。少し大きいので個人のおうちでは迷惑かと遠慮していたのですが、今回は大勢のかたにさし上げるのだから、と「ふんぱつ」しました。よく見ると青い鳥の羽の中で遊ぶ女の子がいて、上のほうにはブランコに乗る男の子がいます。広島で「木の葉のように焼かれた」子どもたちかもしれない…。竹内美穂子さん有難う。

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『国際的視野からみる 近代日本の女性史』(慶応大学出版会)という大著が刊行され、10数年前の論文が日の目を見て感無量の巻。

 12月ももう後半。師走のあわただしさを縫って、大きな女性史の本が出版されました。「慶応大法学研究会叢書別冊17」として刊行されたものです。わたしも執筆者の一人なので、あまり褒めると「いい気なものだ」と言われるかもしれませんが、でも言いたい。これはタイトルの通り、日本の研究者が日本の女性史を書いたのではなく、もちろん日本人も加わっていますが、それよりも著名な海外の研究者が多数近代日本の女性史について論じていることです。その多彩さと内容の豊富さはおそらく日本語になったものとしては突出しているのではないか。440ページを超える分厚い本を(お値段も高いです)買って読んでとは気軽に言いにくいが、せめて地元の図書館などにリクエストして備えてもらうように働きかけてほしい。大学図書館には必須だと思う。もっとも最近の公立図書館は予算もなく、学術専門書ではなく手軽で読みやすい本(そのほうが貸出率が高くなる)に手が出るようですが、かねがね、それでいいのかと思っていいたので、ここで声を大にして言っておきたい。

 この本の成り立ちもまた、ちょっと普通には「ありえない」いきさつがあります。これは2003年にイギリスのエディンバラ大学を会場に行われた国際シンポジウムの報告をまとめた学術書『Japanese Women Emerging from Subservience,1868-1945』(英語版)を一部を除き翻訳したものですが、その主催者はどこの大学でも学会でもありませんでした。イギリスに留学して学位を取得した富田裕子さんという一人の日本人研究者が、独力で発案、もちろん多くの協力者がいたのですが、日本人の女性史研究者としてはほとんど一人で報告者の交渉をし、プログラムの作成、日程の確定から宿舎の確保まで「獅子奮迅のいきおい」でやってのけたというおどろくべき国際的な学術集会だったのです。その彼女を支持し、支え、自らも報告者として登壇するなど万全の支援をしてくださったのが富田さんの指導教官であり、本書の共同編者として名を連ねているゴードン・ダニエルズ先生でした。この本の編者はお二人の連名ですが、教え子である富田ささんの名前がトップに出てきます。学術書や論文発表の時トップオーサーはたいていステイタスの高いほうになるというのが学会の常識で、中にはほとんど弟子が書いたものに「権威」のため指導的地位にある教授がトップオーサーになる例は或る意味で当たり前なのですが、ダニエルズ先生はそうではなく、「これはヒロコがやった仕事だ」とエールを送ってくださったのです。この師にしてこの弟子ありというか、ともかくお二人の力があったからこそ「イギリス初の日本女性をテーマにした国際シンポジウム」は開催され、イギリスでは名のある学術出版社からすぐに出版されるという「幸運」に巡り合えたのです。

 この本を日本でも翻訳出版したいという声はなかなか実りませんでした。日本の女性史の本が外国ではいち早く出版されたのに、日本ではすすまなかったのは、ダニエルズ先生のような有力な研究者の応援がなかったことや、海外の有力な研究者が日本女性の歴史につて執筆していることの意義が理解されなかったこともあったかもしれませんが、模索の末に慶応大学出版会が引き受けてくれました。紙の本の不況時代に大きな英断であったと感謝しています。このシンポジウムで福沢諭吉について報告されたのが国際的に福沢研究で知られているカーメン・ブラッカーさんだったこともよいご縁であったかと思います。慶応大学に在職する研究者の方がたの協力もあり、時間はかかりましたが最後はこのシンポに理解のある編集者の手で原著とはまた違った構成によって大変わかりやすい組み立ての本になりました。

メインタイトルの『国際的視野からみる近代日本の女性史』に加えて「-政治経済・労働・セクシュアリティ―」というサブタイトルが付けられ、第一部「パイオニアたち」で福沢諭吉、平塚らいてう、石本(加藤)静枝、市川房枝がとりあげられ、第二部で「新しい女たち」では『青鞜』と新婦人協会が、第三部「政治経済と女性」では日本の女性史がとりあげることの少なかった経済史の分野からの論考、およびこれも日本ではあまり知られていなかった第一次世界大戦時に日本赤十字社がイギリスに看護婦を派遣した事実をイギリスの資料を含めて分析、単なる博愛主義ではなかったことを論じた論考がいずれも外国人研究者によって提出されています。第四部「産む性としての女性」は、きわめてホットなテーマを一方では「臣民の身体―帝国日本のフェミニズム」という視点から、他方では戦前の日本女性が妊娠出産を国家によって規制管理されるのではなく、自己の生活設計にもとづいて自己管理する可能性を持っていたと指摘する立場から、「産む性」としての女性の立ち位置を検討する二つの論考が収録されています。

最後の第五部「新しい役割」では、鹿鳴館舞踏会というこれまで「西洋化促進」のために女性が洋装してダンスに引き出されたという否定的な評価が与えられてきた事実に対し、引き出された女性たちがどのような役割を担ったかを問い直す論考と、対照的に民衆的立場に立ったといわれる「民藝」運動の中で、女性が「つくる」側としても「使う」側としても重要な役割を持っていたことを論証した論考が提出されています。

約440頁 定価7200円+税

 全巻の適切な説明には足りませんが、こうした多彩な研究が日本だけではなく、むしろ海外で熱心に論じられていることに注目しなくてはならないと思います。執筆者全12人のうち日本人は5人、これを多いと思うか少ないと思うかは見方によって違うと思いますが、海外からの参加者の多くは大学に所属する研究者かであるのに対し、日本の発表者は、ここに収録されていない報告者を含めて在野または非常勤の割合が高いことが印象的でした。これはわたしが代表を務めたこともある総合女性史学会の会員が、特に日本近現代女性史の分野ではこうした「非正規」に属するメンバーが多いこととも符合し、日本の学問環境の中でいかに女性研究者・女性史研究者がアカデミックな研究の場を保障されていないかをああらわにするものでもあるように思われました。そのことを含めてこれからの女性史の課題もここから見えてくるような気がします。

 じつは、総合女性史研究会は今年創立40周年を迎え、その「あゆみ」をたどる記念出版をするそうです。元代表だったわたしにも原稿依頼がありましたがこの目の回るような忙しさにとても書けないと放棄していました。堪忍袋の緒が切れた現代表に直接電話で催促されたとき、この本が届いたのです。進退窮まって「エッセイでよければ書く」と言ってしまいました。仮のタイトルは『「総合的俯瞰的」女性史について』にしようかな、と思いますが、あざとすぎるかな。もちろん「学術会議会員任命拒否」をめぐって菅首相が言った言葉への反論のつもりですが。これでまた年末年始に徹夜などして体がダメになることはわかっているのですが。

 それに加えて明日は入院中の姉のことで病院から呼び出しがかかっています。もう姉の介護どころか自分の身の始末さえできなくなりつつあるのに、病院は当然のように「妹さんですね」と言います。「はい、86才ですが」というとさすがにびっくりしたらしく「もっと若いご家族はいませんか。むすめさんとか」と言われ「姉はひとり暮らしで娘はいませんが」と返事したら「いや、あなたの娘さんですよ」ですって。「娘はいますが彼女も一人で非正規で必死に働いています。親のわたしの面倒も見られないし見てもらおうとは思っていません。そんなことは無理です」と叫んでお断りしましたが、そのことを友人に話したら「福祉や介護の世界では、とことん<身内>を見つけて世話をさせようとするのよ」と言っていました。

 これじゃ戦前の「家制度」と同じだ。骨がらみの「血縁主義」と「女が育児も介護も」がくっついてくるのだ、と思ったらほとんどキョーフ。つれあいは「お前さんがせっせと面倒見るから介護要員だとみられるのさ」と言いますが、じゃあ放っておけとでもいうの?明日病院でどんなことが出てくるかしれませんが、原稿書けないで徹夜している86歳のオバアサンなんて想像できないのね、きっと。姉を見捨てず、しかしこの「血縁主義」の「自助」主義とたたかうにはどうしたらいいか、眠れなくなりました。

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「みかづき子ども食堂」はがんばっています!―「フードドライブ」30回目をむかえました。  

 みかづき子ども食堂が、コロナのせいで、個人のお宅を開放していただいてやってきたのができなくなって半年余り、「食料類の寄付を募って、必要な家庭にとりに来てもらう(来られないおうちには届ける)」という「フードドライブ」を始めたと聞いて場所を探し、例の「10万円」が届いたときそこから「カンパ」をもって行きましたが、その後そこも閉まってしまい、「どこでどうしているのやら」と気がかりでした。ところが久し振りに「お知らせ」がポストに入っていて「ずっと続けています」とあるのです。電話をして聞いたら、なんとわが家から遠くない市営住宅の集会室を借りて集まった品物の「小分け」作業などをしています、ということでした。「会いたい」と言ったら「水曜の午前中ならみんないます」とのこと。仕事もみんな放り出して出かけました。

 久しぶりに皆さんに会い、小分け作業もちょっぴり手伝いました。今回はクリスマスが近いので子ども向けのお菓子がいっぱい届いていました。たいした仕事ではありませんでしたが、みなさんが冷たい床にダンボールを敷いて座らせてくれ、なんだか「やった」気分に。帰りがけに、今まで毎月行くたびにちょっぴりカンパをしていたのでその半年分くらいをまとめて少しゴーカな?カンパを置いてきました。

 ただそれだけですが、少しが和みました。このごろ腹の立つことばかりで、ブログに書くのもわれながらいやになるくらいですが、今日はほっこりしたかな、と。「子どもたちがおなかいっぱい食べられない」国をわたしたちは愛することができない。みかづき子ども食堂のみなさん、がんばってね。11月の女性大会で弁護士の林陽子さんが「これからの女性運動は女性と名の付く運動だけでなく、たとえば子ども食堂のような活動とも連携して行くことを期待する」と語られたことを思い出しています。女性の運動はもちろん男性とも連帯し、「総合的俯瞰的」な運動こそ女性の運動だというお話にいたく共感したわたしからのメッセージです。

クリスマスを前に子どもたちへのプレゼントがいっぱい

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