9月9-10日、南京で開催された「第16回歴史認識と東アジアの平和」フォーラムに参加しました。

9月8日に羽田空港を出て12日成田空港着。4泊5日の南京への旅でした。このフォーラムの第一回が開催されたのが2002年、会場は南京でした。それから15年経って「南京大虐殺80年」の節目の年に再び南京で開催されたのです。日中韓三国の歴史研究者や教師たち、そして日本の教科書検定で「南京大虐殺」や「慰安婦問題」など日本の侵略戦争の事実を隠そうとする動きに抗議して「歴史の真実を教科書に」と運動する一般市民を交えた民間人の手づくりの集会でした。

わたしは、第二回フォーラムが日本で開催されるとき、当時代表を務めていた総合女性史研究会(現在は総合女性史学会)に実行委員会参加を提案し、実行委員として参加しました。その後わたしが代表の任期を終えた後引き受ける人が見つからず、会が実行委員会から降りることになった後も個人で参加してきたのです。16回のうち多分12回?くらいは参加していると思います。毎年日中韓三国回り持ちで開催するので、近いとはいえ何回も海外渡航したわけです。80歳になったころから「もう引退」と口走ってきたのですが、安倍政権のもとで日本がまたもや戦争への道を歩き出したことに沈黙することが出来ず、アジア諸国への戦争責任の清算がなされていない現実を問うために参加しなければならぬという気持ちで続けてきました。

今年はさすがにヒローコンパイし、例の「踵骨棘」のせいもあって行けばみんなに迷惑をかけるのではないかと思ったのですが、南京開催と聞いて心が動きました。一度は現地を踏まねばならぬと思っていたからです。するとそれを見透かしたように実行委員会が「ラストツアーなら、最後の仕事で開会挨拶を」というのです。後へ引けなくなり、現役看護師の友人Fさんを「介護人!」に頼んで、荷物は最小限、履物は例のクッションの利いた靴、そして書類はリュックで背負うといういでたちで出発しました。行きは直行便がないので上海まで行き、地下鉄を乗り継いで中国の新幹線で南京まで、一日がかりでした。新幹線がなぜか「鈍行列車」になってホテルに着いたのが夜の9時過ぎ、食堂は終わっていてルームサービスしてくれた夜食が届いたのは日本時間の午前零時でした(時差は1時間)。

翌9-10日の2日間、ホテルの中の会議場で三国からそれぞれ開会挨拶、基調報告、そして5つのセッションにも日中韓それぞれの報告が出てコメントも3カ国からというハードスケジュール。食事もすべてホテルで出してくれたので一歩も外へ出ませんでした。2日目の昼過ぎに閉会式を終え、その足でフィールドワークに。

お目当ての南京大虐殺記念館はあいにく改装中で展示は観られず、そのかわり当時ジョン・ラーベの日記で知られるアメリカ・ヨーロッパ人たちの難民救援活動を中心にした特別展示(フランスで展示されたものだそうです)を観ることが出来ました。もちろん当時の写真や新聞記事などもあり、幼い子どもの犠牲者も示されていて、「戦闘の一部にすぎない」とばかり「南京虐殺はウソ」という言い分のウソがあきらかにされていたことは言うまでもありません。それと南京の旧慰安所の建物が保存されていて詳細な展示があり、見ごたえがありました。生存者の証言もVTRで流されていましたが、ゆっくり観る暇がなくざんねんでした。

翌11日は、直行便が12日しかないので一日フリー。いくらか観光も交えて、南京城の城壁を登ったり、15世紀の明代に東南アジアからインド・アフリカまで海外へ「宝を積んで」航海したことで知られる鄭和を記念した「宝船公園」を歩いたり。月曜日で博物館などの施設が休みだったせいでもありますが、それはそれなりに見ごたえがありました。唯一開いていたジョン・ラーベ記念館には行くことが出来ました。「東老門」という古い街並みをそっくり茶館やお土産屋さんにした「歴史風致地区」みたいなところでお土産もバッチリ。ちょうど9月なのでみんな月餅をしこたまお土産に。わたしも買いましたがその重いのなんの、日本の中村屋の月餅の4倍はあるくらい。これもリュックでしょい込むことになりました。

というわけで12日は早朝5時半にホテルを出て、8時の成田直行便。少し遅れたので昼過ぎに成田に着いて夕刻には無事自宅に到着しました。以上が日程です。肝心のフォーラムですがこれは行ってよかった。たいへん充実した内容でした。その報告は後で整理して出しますが、とりあえず開会式のとき、日本代表団として行ったわたしの「開会挨拶」を公開します。何しろ、今から原稿を二つ、20日に青山学院女子短大の講義のレジュメ、とすることがいっぱいあるので、報告はそちらを済ませてからになりますので。

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以下「あいさつ文」引用です。

第16回歴史認識と東アジアの平和フォーラム開会挨拶(日本代表団) 2017年9月9日

米田佐代子(NPO法人平塚らいてうの会会長)

南京大虐殺(南京事件)80周年にあたる今年、第16回「歴史認識と東アジアの平和」フォーラムは、2002年に第1回を開催した南京で開催されることになりました。これまで日中韓三国の歴史研究者・歴史教育者・市民活動家が協同して「東アジアの平和構築」をめざしてきた歩みを振り返るとき、まことに感慨深いものがあり、一言ご挨拶申し上げます。

15年間にわたるこのフォーラムの特徴は、何よりもそれぞれの参加者が立場の違いを越えて対話し、相互理解の上に立って東アジアにおける平和構築のため、共通の歴史認識を生み出す努力をしてきたところにあります。それは、このフォーラムのなかから三国共通の歴史教材がつくり出され、三国の間でひろめられていること、またフォーラムと並行して青少年キャンプの活動が続けられてきたことなどからも明らかです。

今、東アジアの平和をめぐる情勢は、楽観を許さない状況です。残念ながら日本の安倍政権は、戦争する国づくりをめざして「戦争法」や「共謀罪法」などを連発し、沖縄辺野古の新基地建設を強行、憲法九条改悪を急ぐと宣言、被爆国でありながら国連で採択された核兵器禁止条約にも反対するなど、平和を願う国民世論に背を向けてきました。しかし今やその政治姿勢に批判が高まり、支持率は低下しています。わたしたちはこのフォーラムで、東アジアにおける平和構築の可能性をさらに追求しなければならないと思います。

そのについて、二つだけ申し上げます。一つはこのフォーラムでの各国からの報告が、それぞれの「国」や「民族」という立場から出発して、「個人としての戦争体験をふまえ、国境を超えた平和を」という方向をつくり出してきたということです。中国の南京虐殺の報告では生存者のオーラルヒスとリーをふまえて「戦争そのものが人間にあたえる悲劇をなくすべき」という発言がありました。韓国の光州事件の報告でも、殺されたものへの追悼と同時に、逮捕され拷問されてその体と心の傷が未だに癒えない人びとへの救援活動が語られました。日本でも「慰安婦問題」をめぐって生徒たちが「<性奴隷>とされた少女たちが自分たちと同じ年齢だったことを知って深く考えた」という教育実践報告がありました。

もう一つは、それらの報告を通じて、異なる意見や立場に立つものの「協同」の重要さが論じられたことです。沖縄からは「異なる立場の人びとの意見に耳を傾け、意見の相違の源流が何かをじっくり探求し、歩み寄る余地を模索することが大事」という発言がありました。「東アジアに真の平和共同体を構築するためには民衆の協同が必要」というのがこのフォーラムの特徴だったと思います。

この経験から、わたしは平和をめざす歴史認識について、二つのキーワードを提出したいと思います。それは、「想像」と「応答」です。「想像(imagination)」には二つの側面があります。一つは自分たちの知らない国や地域で起こったことを想像できる力、もう一つは、直接の戦争体験者が少数になりつつある今、戦争の時代に生まれていなかった世代が過去の歴史を想像する力を持つということです。日本が朝鮮を植民地化し、中国を侵略し、アジア諸国に被害を与えた事実を、わたしたち日本に生まれたものは忘れてはならない。その事実を語り伝え、二度と繰り返さない約束をすることが平和構築の原点であることを語らなければならないと思います。そしてまた戦後72年を経てもなお癒されることのない戦争の被害を受けた民衆一人ひとりに思いを馳せることが必要だと思います。「想像力とは現実(事実)を知ったうえで他者とのかかわりを探求する力」なのです。

そこからもう一つのキーワードである「応答」の意味が生まれます。「responsibility(責任)」という言葉には、「response」=「応答」する責任の意味があります。わたしたちは、戦争によって耐えがたい苦痛を味わわねばならなかった無数の戦争被害者たちが発した声に、あるいは声を発することもできなかった死者たちの「声なき声」に「応答」しなくてはならない。それは「人間が人間であること」のあかしでもあり、このフォーラムがめざしてきた方向でもあったと思います。

「東アジアの平和」をめぐる情勢は厳しいものがありますが、こうした方向が必ず実を結ぶ日を信じて第16回フォーラムを成功させようではありませんか。最後に、フォーラムを導いてくださった歩平さんの姿をもう見ることができないことを深く悲しむとともに、歩平さんのこころざしを受け継いで相互理解と平和のため努力することをお約束して日本からのご挨拶に替えたいと思います。有難うございました。

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5つのセッションのテーマだけ紹介しておきますね。なかなかユニークでしょう?北朝鮮のミサイル発射、米韓軍事演習、トランプ大統領の強硬発言などで大揺れに揺れる東アジア地域で,ほんとうに平和構築は可能なのか?緊張した雰囲気の中で、「人類は共同体としての運命を持っている」という議論をしたのです。それは後で。

第16回歴史認識と東アジアの平和フォーラム 各セッションテーマ一覧

第一セッション 「変幻する世界秩序の中で東アジアの置かれた環境と展望」

第二セッション 「戦争をめぐる歴史記憶と多次元の反省」

第三セッション 「東アジアにおける歴史和解と平和の新しい考え方を探求する」

第四セッション 「東アジアの歴史教育の現状と新しい課題」

第五セッション 「東アジア諸国における歴史博物館の社会的機能と人間への思いやり」

 

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「釜石 その2」も書かないうちに、明日(じゃない、今日です)は南京。

釜石で起こった「劇的事件」を書くはずでしたが余裕なく、明日(ではなく、もう今日です!)ははるばる海を越えて南京へ。直行便がないので上海から列車だそうな。スーツケースは機内持ち込みできる大きさ(でもあずけるよ)で、あとはリュックをひとつといつも持ち歩くバッグを。

リュックはさんざん探し、「ポケットがいくつもあるヤツ」とか「大は小を兼ねる」とかまよったあげく、吉祥寺で見かけた「4割引き」のポップに惹かれて、一番シンプルなポケット一個だけというのを買っちゃった。かなりおしゃれで、外見は地味な紺色ですが内側の生地が鮮やかなオレンジ色。でも容量も小さいし、ペットボトルも傘も入れられない。なんでこんなのにしたかというと、第一に安かったからですが、もう一つ、B4サイズの書類がすっぽり入り、まっすぐ立っているのです。ボストンバッグだとすぐ横に倒れて荷物の下につぶれてしまうのですが、ここではすっと立って入っているからすぐ取り出せる。で、これはもっぱら書類入れ専科。釜石でいっぱいコピーを取った時に威力を発揮しました。

南京は暑いそうだからTシャツとユニクロのパーカで行くつもりでしたが、いやいや一応代表挨拶5分というのがあるゾと思い直し、アンサンブルブラウスとよそ行きのパンツをいれました。それでも夏の旅行は楽ちん。靴はもちろん例の「躍り上がるほどクッションの利いた」靴で行きますが、これも「5分」のためにビニールの白っぽい靴をしのばせました。後は洗面具だけ。

というわけで、今日は早寝しようと思っていたのに、12時近くなってから「らいてうの会のニュース原稿の手直しを」というメールが飛び込んできました、太陽光発電問題が風雲急を告げる事態になったのです「12日に帰国してからにして」と言ったけれど、さて12日以降にそんな元気があるかどうかわからない。やむなく書き直しはじめ、ご覧のとおり今は夜中の3時です。いつも出かける前夜に「無事行けるだろうか」と思うほど無理難題がふりかかります。でもね、一緒に行く仲間に現役の看護師さんがいて彼女とこのフォーラムに何回か一緒に行き、今や私の「介護人」です。安心して行こう。では、「釜石 その2」も「風雲急を告げる太陽光発電」も帰ってからね。3時間でも寝なくちゃ。おやすみなさい。

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今年は釜石で「わが最良の誕生日」を迎えました―『花貌』探索記その1

 

2日深夜、無事釜石に到着。「駅直結」がウリのホテル(わたしとしては高かったけれど)に駆けこみ、夜11時からのETV特集「青春は戦争の消耗品ではない―映像作家 大林宣彦の遺言」を少し遅れたけれど何とかほぼ見届けることが出来ました。そして翌朝は、わが83歳の誕生日。ホテルの朝食は高いので前夜買っておいたパンと備え付けのインスタントコーヒーで朝食を済ませ、8時半の釜石線に乗って隣の小佐野駅へ。ここから釜石市立図書館までは徒歩5分です。

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釜石線の駅にはエスペラントで愛称がつけられています。小佐野は「ヴェルダヴェント(緑の 風)」

何をしに行ったかというと、ここ釜石で戦後すぐの1947年に発刊され、2004年までつづいた『花貌(かぼう)』という同人雑誌を見に行ったのです。なぜそれを探したのか?は後で説明しますが、じつは最初盛岡の県立図書館にあることを知り盛岡へ行こうと思ったのですが、検索しているうちに地元釜石市郷土資料館にあることがわかってどうせ見るなら地元で、と思ったのが始まりでした。郷土資料館の方は親切で、全部で73号まで出たその雑誌が全部そろっていないこと、図書館にも保存されているから両方みたほうがいいと教えてくれ、図書館は月曜日休館だから先に行ったほうがいいということになってまずは図書館に行った次第です。入り口で9時になるのを待ち、開館と同時に入れてもらいました。

図書館には事前に申し込んであったので保存されている雑誌を全部出しておいてくれ、コピーも郷土資料館にない分の各号の表紙と目次と奥付をコピーしてもらいました。残念ながらここには創刊号から30号までの初期のものがないのです。いや、郷土資料館にもないことはわかっていました。それでも両方突き合わせると、30号以降はかなりそろうのです。中身を詳しく読んでいるひまはありませんでしたが、いくつかの文章をコピーしてもらいました。

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釜石図書館の所蔵『花貌』

わたしのお目当ては、1947年の発刊以来ずっと編集に参加してきた千田ハルさんの文章を読むことでした。2年前の「全国女性史研究交流のつどいin岩手」のとき、ご自身の戦争体験を語られたのを聞きました。それは釜石が敗戦直前に二度も経験した「艦砲射撃」の経験談でした。その時千田さんはすでに90歳を過ぎておられたのですが、なんと「卒寿記念」にご自身の体験を絵本にして自費出版されたというので瞠目、戦時中釜石製鉄にタイピストとして勤め、戦後そこの労働組合運動に参加したという経験にも惹かれました。そのことはこのブログでも紹介しましたが(2015年10月26.27日付)今年の夏、突然その古いブログに訪問者が増えたと思ったら、千田さんがNHKのラジオ深夜便に登場されたからでした。「お元気だったんだ」とほっとすると同時に、『花貌』という雑誌の存在も知りました。50年間も雑誌を出し続けてきたそのエネルギーの源泉は何処にあったのだろう。調べてみると「詩人集団」によるとありますがその多くの部分は釜石の「艦砲射撃」の記憶をつづったものらしい。実物を見たいものだと思いつめて、突然旅に出た次第です。

小佐野と釜石はたった一駅ですが、本数が少ないので昼の列車に乗らないと郷土資料館に行けない。雑誌がそろっていないことをわざわざ教えてくれた係長さんにもお礼を言っていそいで釜石に引き返し、郷土資料館へ。ここは明日にするつもりでしたが、連絡の労を取ってくれた職員の方が「4日はわたし休むので、できれば3日に来て」とおっしゃるので、飛んで行ったわけ。行ってみてその理由がわかりました。じつはここで8月31日まで「目で見る、そして考える 釜石の戦争」という展示をやっていて、タッチの差でみられないのを残念に思っていたのですが、待っていてくださった川畑さんが『花貌』も全部出してあるからと案内してくれた部屋に、なんと31日までのはずの展示がそのまま残されていたのです。「せっかくだから、片づけるのを2,3日延ばしておいたのですよ」ですって。思わず「これ、わたしへの誕生日プレゼントだ!」と叫んでしまいました。コンパクトですが貴重な写真や軍事郵便、戦時中の生活用品などが展示され、その中に何とわたしも見覚えのある鋳物の「コッペパン焼き器」というのがありました。戦中というより戦後食糧難の時代に、母が畑で麦を育て小麦粉に挽いて、それをこれと同じパン焼き器で焼いてくれたのです。そしてメインはやはり「艦砲射撃」。これは常設展にも取り入れられ、その傷跡は72年後の今も釜石市民の間に疼いていることがよくわかりました。その部屋を貸してあげるから、ゆっくりごらんなさい、というわけです。

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「釜石と戦争」展会場

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展示風景

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艦砲射撃の図(油彩画)「東日本大震災で落下破損したものを修復」という解説付き

これがなつかしのパン焼き器。でもイースト菌もなかったから固かったけどね。

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常設展会場の掲示。72年前の艦砲射撃による行方不明者を今も探し続けている。

ところがゆっくりできない事情がありました。これも「じつは」と言わなくてはなりません。釜石へ来たもう一つの理由は、この3月[3.11]から6年目の節目に、それまで「お茶っこボランティア」に通っていた同じ三陸沿岸の大船渡の仮設住宅が撤収されるのを惜しんだ入居者のみなさんの「思い出文集」を作り、そのお手伝いをしたのですが、そのとき献身的に協力してくださった「ろくろ石地域公民館」館長だった村上誠儒さんに「どうして仮設住宅が公民館になったのですか?」と聞きたくて、釜石から大船渡の盛駅まではあの三陸鉄道で一直線だから出かけようと思っていたのです。ところが村上さんが「僕が車で行ったほうが早いから」と釜石へ来てくださることになり、「おそくなってもお昼を食べないで待っていてください」とおっしゃるのです。そして本当に2時過ぎに現われ、「これからお昼を」と私を引っ張り出すのです。駅前に大きな魚市場があて、その2階がよだれの出そうな海鮮料理のお店になっていることは知っていましたが、ランチタイムは午後3時までです。急いで行ってみたのに「食材売り切れにつき閉店」とあります。ところが村上さんは暖簾をかき分けて「あるものでいいからお願い」と交渉、OKしてもらって待つことしばし、出てきたのはほんとに明日の分に隠してあったのではないかと思うほど豪華なお刺身の大皿でした。呆然としていると「さあ、今日が誕生日でしょ」と促され、我に返りました。そしていじましいことに他にもいっぱいついていたのに、さらに丼みたいなお茶碗に盛られたご飯もあったのに、つまり全部「完食」してしまったのです。昨夜も今朝も粗食だったことなんて吹っ飛んじゃった。さらに村上さんが「生花ではもたないから」と取り出したのは、色あざやかな造花のバラの花束。でもよくみると「シャボンフラワー」とあり、「これ、石けんでできているのです」とか。ほのかにせっけんの香りがしました。これが「わが最良の誕生日」でなくてなんとしよう。何と幸先の良い83歳よ!

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これで一人前なのです。

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刺身大皿と煮物、酢の者、温泉玉子、大もりごはん等々

 

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「シャボンフラワー」といいます。「洗濯」「洗顔」には向かないとあるがボディソープには使えるのかな。

本物そっくりでしょ。でも香りは石けんそのものですが。

 

 

勿論村上さんのお話もばっちり聞きました。その話がまた別に。でも今回のことからだって、村上さんがご自身も被災者なのに津波ですべてをなくした人々に寄り添い、時には支援物資をわれさきに取り合うような光景も目にしながら、「公民館活動をすることで人と人のつながりを回復したい」と館長を引き受けたお人柄がわかるような気がするではありませんか。

わたしは「もっとボランティアをしたい」と船舶通信士の仕事を定年前に辞め、60歳過ぎてから社会福祉士の資格を取って老人ホームのボランティアをしていた弟を思い出しました。彼は73歳で亡くなってしまったのですが、後輩の方が兄のように慕ってくれ、「先輩は、人は人がいなければ生きていけない。だから人の役に立つことをしようと言っていた」と伝えてくれました。村上さんもそういう生き方をえらばれたのだと思います。「仮設住宅を公民館にして」という原稿を書くことになっているので、後で報告します。

忙しい村上さんを送り出し、郷土資料館に帰ってみると、今度は川畑さんが雑誌全73冊分の所在を一覧表にしておいてくれました。スミマセン。そこから千田さんの書いたものを探しだし、でもそれだけではもったいないので、大急ぎで主に女性の作品に目を通し、でもやぱり気になって男性のエッセイも走り読み。川畑さんは、なぜか「明日も出勤しますから続きは明日どうぞ」ですって。まさかわたしのために?そんなことはないと思いつつ、釜石まで来てよかったとしみじみ思いました。

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郷土資料館の『花貌』。上左「31号」上中は一部を合冊し「釜石艦砲射撃記録集」としたもの。上右は釜石平和委員会刊行の「私の8月15日』(千田さんが協力して連続刊行中)

コピーは明日に、ということで閉館ぎりぎりまでページをめくり続け、日暮れ近くなってホテルに戻るなりベッドにひっくりかえって寝てしまいました。だって夕飯を食べる必要がなかったのです。ところが夜ふけに目が覚めたらとんでもないことを思いつきました。その続きは明日に―。

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これから岩手県釜石に行きます。 

昨日、甲府の環境アセス学会主催の「太陽光発電の普及と環境アセスメント」という公開シンポジウムに参加してきました。後で書きますが、一言だけ言うと「環境アセス学会のスタンス―特に市民運動ではない営利事業の場合ですが―は、太陽光発電推進のため、住民から出ているトラブルには業者にも配慮させるが、基本的には折り合いをつけて、つまり住民にも我慢してもらって設置を推進するという方向になるのではないか」と思ってしまった。これが当たっているかどうかはもっとよく勉強します。わたしは会場質問で「アセスの主題が反射光の角度とか排水設備とか植栽などにかたよっていて(それは大事ですが)その土地に対する住民や関係者の愛着や歴史的文化的経過などへの関心が弱いのではないか」と質問したら「それは十分配慮している」と退けられてしまった。でも終ってから会員の方から、「日本のアセスの考え方はアメリカなどに比べて狭いのですよ」と助言していただき、ほっとしました。これはまたあとで。

 

8月にしたことを一言だけ。

★小池東京都知事に「関東大震災朝鮮人虐殺犠牲者追悼メッセージ」を出すべきだと電話しました。「公園ナントカ課」が窓口と化で「暖簾に腕押し」でしたが「都民からの声があることを家なら自治時に伝えて」とせめてもの意思表示をしました。

★「佐川国税庁長官の罷免を求める署名」は、下記のとおり報告がありました。8月21日に財務相に提出したという報告です。署名は目標の1万人を越えたそうです。ご協力ありがとうございました。

http://sinkan.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-9d05-1.html

もうタイムアウトです。台風がそれたのはいいですが気温は高低定まらず、半袖と長袖を両方もって行く羽目に。きがえと、今日その前にやる学習会で売る本と、向こうでお世話になる方へのお土産とハンドバッグと4個も荷物を抱えて池袋まで行き、終わってから大宮経由の新幹線に飛び乗って、釜石着は午後11時の予定です。生きてたどり着けるだろうか?

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関東大震災で虐殺された朝鮮人への追悼文を断った小池東京都知事―「衣の下に鎧が見える」のは許せない。 

都議選で自民党を敗退させる結果をもたらしたというので、「人気絶大」を誇る小池東京都知事が、市民団体などが主催する1923年9月1日の関東大震災で虐殺された朝鮮人犠牲者追悼式典に、昨年は送っていた慰霊の追悼文を、今年は「差し控える」と明言したことから、式典の実行委員会は25日、抗議声明を出しました。以下「しんぶん赤旗」8月26日付報道より引用。

<声明は、追悼の辞取りやめについて、都側が「同日の東京都慰霊堂の大法要で、すべての被災者の霊を弔っている」と説明したことについて、「何の責めもないのに、人の手にかかり虐殺された被害者の心に寄り添うという姿勢に全く欠けている」と指摘しました。

実行委員会は、3月の都議会本会議で自民党都議が、同式典への追悼の辞を取りやめるべきとの趣旨の質問を行ったことなどが、小池知事の追悼の辞取りやめにつながったと述べ、「歴史修正主義、排外主義の潮流に身を置くことを示しているように思われる」と懸念。「関東大震災時に引き起こされた在日朝鮮人に対する虐殺の事実から目を背けるものとしか見えない」と強く抗議の意を表明し、再考を求めました>(引用終り)。

関東大震災で、「朝鮮人が暴動を起こそうとしている」とか[井戸に毒を入れた]と言ったデマが意図的に流され、各地で自警団と称する住民が朝鮮人を虐殺したことは歴史の事実です。もちろんそういった攻撃から朝鮮人を匿い助けた日本人もいますが、なかには日本人でも「朝鮮人ではないか」と疑われてあわや犠牲にされそうになったケースまでありました。有名な俳優・演出家の千田是也(せんだ・これや)は、震災の翌日千駄ヶ谷で朝鮮人と間違えられ、一歩間違えれば殺されそうな目にあったというので、芸名をつけるとき「千駄ヶ谷のコリア」をもじったというのは、よく知られているエピソードです。4年前の1919年、朝鮮では日本からの独立を求める民族的な抵抗「3.1運動」が起こったことも、朝鮮人を「危険な存在」とみなす動きにつながったと言えます。

その事実を否定する政治的言説が最近の「ヘイトデマ」の横行のなかで小池都知事の姿勢の背景にあります。都議会だけでなく、政府は繰り返し「虐殺に政府は関与せず」と答弁、産経新聞が大々的に取り上げています。「慰安婦問題」を否定し、「南京大虐殺はなかった」とする一連の右翼勢力の「歴史修正主義」と軌を一にしているのです。そしてコワイのは、このブログでも7月4日付で指摘したとおり小池知事自身が、じつはこうした右派勢力の「ヘイトデマ」推進者たちと同じ立場に立っているということです。築地市場問題でもぼろが出てきていますが、今回の「事件」こそ「衣の下に鎧」が見えると言うべきでしょう。

先ごろの麻生副総理の「ヒトラーの動機は正しい」発言もそうですが、歴史の事実に向き合わず、差別され被害を受けた人びとのことを「想像」できな(しない)政治家を信用するわけにいかない。ネット上で見つけた<個人でも団体などからも、追悼式で小池知事が関東大震災で虐殺された朝鮮人・中国人への追悼を表明し、決して繰り返してはならないとの意思を示すよう、要請をお願いします>という呼びかけにあった関係部局への電話を紹介します。あと1日しかないけれど。
都への電話:代表 03-5321-1111 担当部署/公園緑地部管理課:03-5320-5365
担当部署のFax番号 03-5388-1532  建設局「都民の声」;03-5320-5212

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「青木瑛 書展in銀座~漢字と近代詩文書に魅せられて~」を観ました。

猛暑が戻り、毎日出かけるのはもう無理と思いつつ、今日しか空いていないので、東銀座の「書展」を見に行きました。お会いしたこともなく(じつは性別も存じ上げず)、わたしのブログにコメントをくださったのがご縁でした。

会場案内に「銀座駅から8分、東銀座駅から3分」とあったので近い方がいいと思って銀座線から都営浅草線で乗り継いだらその距離がやたらに長く、銀座から歩いたほうがよかったと後悔しましたが、ともかく無事にたどり着きました。入り口で「青木瑛(<よう>と読むこともここで知りました)さんはおられますか?」と聞いたら「僕ですが」と屈託ない笑顔の方が。はじめて男性だとわかりました。向こうもわたしが名乗るまでは何処のおばあちゃん?という感じだったものね。大いに歓迎され、思わず話し込んでしまった。小さな画廊でしたがすっきりと展示された書十数点が、じつにすてきでした。

このかたがメールをくださったのは、わたしがらいてうの家の館長と知ってでした。「家」の和室に1枚のらいてうの書がみごとに額装されて飾ってあるのですが、それを贈ってくださったのは今は亡き塚本澄子さんという方で、1970年北大の女子学生だった時、らいてうに「自分たちで雑誌を出したいので原稿をかいてもらえないか」と手紙を送ったのだそうです。そのときらいてうはすでに病を得て入退院を繰り返す身でした。見ず知らずの女子学生にねがいに、らいてうは痛み止めを打ちながら「無限創生」と染筆してこたえ、塚本さんはそれを大事に保存していました。らいてうの家がオープンして間もなく、塚本さんはそれを額装して寄贈してくださったのです。亡くなられたのはそれから間もなくでした。そして青木さんは塚本さんの教え子で、「在学時に塚本先生に研究室に呼ばれ、らいてうの書の経緯を知りました。「額表装して寄贈したいのよ」と言う事で用品店を紹介し当時の社長自ら表装して頂きました。…最初で最後の恩師孝行が出来ただけでも私にとっては幸せなのかもしれません」ということでした。

そんなご縁がある方の書展です。あいにく期間中にわたしは甲府から釜石と予定がいっぱいで初日の今日しか時間がありません。そこで炎暑をものともせず出かけたわけ。行った甲斐がありました。書のことは素人ですが、わたしが気に入ったのは「全部読める」ということです。一つ一つ書体もちがい、解説によれば墨もそれぞれ由緒あるものが使われているそうで、雰囲気は個性的なのですが共通しているのは、観る(読む)ものに呼びかけるようなわかりやすさと優しさがあるというように思われたことです。選ばれた文章も「いつか君に会いたい」(松任谷由実)とか、「誰かのために生きてみる」(玉城ちはる)とか、「手紙を書いてよ、君は僕の友達さ」(中村 中)とか、人のぬくもりを感じさせます。そうかと思うと俳人長谷川櫂さんが東日本大震災を見据えて詠んだ短歌集『震災歌集』からとったという「現地にて 陣頭指揮とる 一人(いちにん)の 政治家をらぬ  日本の不幸」もありました。そしてわがらいてうの「無限創生」も、みごとな青木流に表現されていたのです。俳句もありました「夏祭り 君の横顔 げたの音」(井上望)。「今度らいてうの俳句を書にしていただけませんか」と口走ってしまいました。

楽しい気分になり、「無限創生」の書の前で記念撮影。青木さん、ありがとう。何時からいてうの家に来てくださいね。わたしのブログを読んでくださっているので、太陽光発電問題も心配してくださり、署名用紙を預けてきました。くたびれたけれど心地よい疲れでした。

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らいてうの「無限創生」を真ん中に右が青木瑛さん

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「無限創生」。らいてうは「無限生成」とも書いています。

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俳句の書。もっと撮りたかったけれど、遠慮してしまった…。

 

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「ジュゴン裁判」と「らいてうの家太陽光発電」問題の接点―「歴史的文化的環境」という視点から  

前回報告した沖縄辺野古の「ジュゴン裁判」でアメリカの連邦高裁が日本からのジュゴンを守るため辺野古の基地建設差し止めを主張する原告の訴えを(一部)認め、地裁に差し戻した件ですが、その根拠にしたのがアメリカの「国家歴史保存法」(NHPA)だったと書きました。辺野古の基地新設を推進するアメリカの国防総省に「ジュゴンを保護する責任がある」ということになれば、日本政府はどうするのでしょうか。それにしてもこの裁判を可能にした「国家歴史保存法」とは?と調べて行くうちに「これはらいてうの家の太陽光発電問題にも応用できるのではないか」という気がしてきました。これを「妄想」というなかれ。昨夜寝ないで関係文献を探し、見つけて読んだ最近の動向について紹介します。もっともネットにアップされた論文は何十ページにも及び、中にはドクター論文が全部載っているのもあって、とても画面では読めず、いんさつするにも限度があります。涙を呑んでポイントだけね。それでも長いけど、お願いだから読んでください。

とりあえず参考にしたのは、★小幡宣和「アメリカにおける歴史的環境保全の法的研究(1)~(3)」(『北大法学論集』65-5、同6、66-3)と、★地域景観ユニット国立研究開発法人土木研究所寒地土木研究所)「地域固有の歴史文化や自然観を尊重した地域デザインに関する研究」です。どちらもアメリカのNHPAをとりあげています。

★小幡論文はアメリカの「国家歴史保存法」がどのような経緯を経て策定されたかを詳しく論じています。特に「いわゆるセクション106条項を盛り込むかについて、歴史的環境保全運動家と内務省の機関である国立公園局(NPS)の間で駆け引きが繰り広げられた」とあります。その106条とは「開発等の事業の際、関連機関はそれらの歴史的資源に影響がないか分析しなければならないことを定めている。さらに、106 条では既に登録されたものだけではなく、未登録でも同等の価値が認められるものも対象としてアセスすることを求めている(強調は引用者)」というのです。ジュゴン裁判でも原告は、貴重な海洋生物であると共に「日本の文化財保護法によって天然記念物に指定されているばかりでなく、古謡や祭りなど沖縄の文化とも深く結びついた貴重な海獣」であるとその歴史的文化的意義を主張していますが、「国家歴史保存法」以降アメリカではさらにふみこんで「『一般福祉』要件が時代と共に拡大していった」ともあります。「美観規制は一般福祉要件の拡大の例としてあげられる。裁判所は当初、美観規制は、ポリス・パワーの行使を正当化するものではないとしたが、美観目的の規制は、観光客を増加させ、経済を活性化させるので、一般福祉を増進する効果を持ち、規制は正当なポリス・パワーの行使に当たるという解釈がとられるようになった。…(中略)特にこのような条例では、経済的利益のほかに、住民やそこを訪れる観光客に対する教育効果を有するという判断がされていることは注目すべき点である。さらに、最高裁のぺンセントラル判決により、歴史的環境保全が大きく前進した」とも。

★地域景観ユニットの報告書も多岐にわたっていますが、「国家歴史資源保存法(NHPA)」106条に触れ、「国家歴史資源保存法(National Historic PreservationAct / NHPA)は、1996 年に制定され、連邦登録された歴史的資源を実際に調査、修復、保全を行う規定を設けた法律であり、端的には日本の文化財保護法に該当する。

その中の106 条では、開発等の事業の際、関連機関はそれらの歴史的資源に影響がないか分析しなければならないことを定めている。さらに、106 条では既に登録されたものだけではなく、未登録でも同等の価値が認められるものも対象としてアセスすることを求めている。影響予測、評価のための6つのステップは以下の通り。

ミティゲーション5原則

①地区内の既知の文化資源を明らかにする

②地区内の潜在の文化資源を明らかにする

③既知、潜在の文化資源が地区、地域、国家との関係でどのような重要性があるのか定義する

④事業による既知、潜在の文化資源への影響を示す

⑤複数の代替案の中から行動の選択を行い、ミティゲーション(Mitigation)の方法を決定する

⑥工事中における新たな資源発見に対処する手続きを準備する」と説明しています。

「Mitigation」というのは『ニッポニカ』によれば「環境に対して人間の活動がもたらす悪影響に対処するための一連の手法を意味している。回避、最小化、修復、低減および代償という5段階を、その段階順に検討することが望ましいとされている」もので、環境アセスの原則だそうです。報告書は検討すべき対象として、「保護・保全・活用の対象としている地域資源は、自然、景観、文化、歴史、レクリエーション、考古学的資源の6 資源であり、ほぼ地域資源を網羅していると言える」と説明しています。これらをひっくるめて「景観資源」と呼んでいます。

一晩かかって、ここまで読んできて力尽きました。思うにアメリカでは、先住民族の歴史や文化を無視した開発が行われ、それにたいし自分たちの住む地を「聖地」として抵抗してきた人々の歴史があり、かつ企業寄りの開発ではなく「個人の生活の権利を守ろう」という考え方が一定のたてまえとなってきた歴史があると思う。トランプ大統領の「白人至上主義擁護」発言に何万人ものデモが組織され。大企業や軍の幹部まで批判するというのは、その反映でもあると思います。顧みて日本はどうか。「自主環境アセス」でさえ、「景観悪化」といえば「目隠しの木を植えて見えないようにする」という「対策」が返ってくるような気がします。『らいてうの家』は古寺や名所旧跡があるわけでもなく、たかだか10年余りのあいだ、木を植え草を刈り、それもカモシカや野ネズミに食べられたりしながら、コンサートや学習会も開催、「自然の景観に溶け込んでいる」として上田市の「都市景観賞」もいただいた施設です。それは太陽光発電予定地(家から2メートルしか離れていない)を見通す雑木林の光景までもふくめての「景観」であり、目隠ししてパネルが見えなければいいというものではありません。

カモシカたちに食べられないようにカバーをかけた苗木。それでも食われる。2008年

これが上田市都市景観賞のレリーフ『らいてうの家の門前にあり)

太陽光発電予定地。かつてはここで寝転んで空を見上げたのに、今は放置されて草ぼうぼう

やっぱり、9月1日に環境アセスメント学会が開催する公開シンポジウムに」行ってみようと思います。会場は甲府市、昔私が働いていた「母校」です。じつは翌2日に戸山高校の卒業生に皆さんがやる「わくわく勉強会」に招かれ、昨日、やっとレジュメと資料を(6ページも!)提出したのですがそこが5時に終わると懇親会にも出ずに東北新幹線に飛び乗り、夜11時ごろ釜石へ着く列車で釜石へ行きます。何をしに行くかって?それはまたあとで。その間に誕生日が来て83歳になるというのに、この無茶な行動をカミサマはお許しくださるでしょうか?

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