<もうひとつの「#Mee Too」または「#With You」の問い>―茶園敏美『もうひとつの占領』を読みました。 

もう一人「人使いの荒い」ヒトというのは、じつはWANの前ミニコミ図書館長のMさん。じつはずっと以前に彼女がいた出版社から共著の単行本を出してもらったことがあり、その後20年も経ってからWANで再会したのですが、その恩義忘れ難く、彼女に言われると「イヤ」とは言えなくなるのです。昨年11月、WANのブックトークをした時も、宣伝のためコメンテーターになった小林エリカさんや川上未映子さん、福田和香子さんたちの書いたものを読みまくって紹介文など書いた(書かされた)記憶があるのですが、今回は、表題に掲げた茶園敏美さんの本の書評を書きなさいとのご通達。しかも著者から「献本する」というお知らせまで飛び込み、若い方から著書をいただくとは畏れ多い、とまだ本が届かないうちに「いいです」と返事してしまったしだいです。

但し5月中は例のピンチヒッターの原稿を書いているので、6月になったらね、とことわったのにその5月末から6月早々いろいろ追いまくられて手がつかず(姉の介護にも行ったし、静岡まで行っちゃったし)、ほんとのことを言うと書き始めたのは6月12日。それで13日深夜WANに送ったのにその夜のうちにもうWANのサイトにアップされてしまうというスタッフの方がたの離れ業に、普通なら推敲して出すべきところをしなかったはずかしさでしばらく読む気になれませんでした。でも「天下の公器」にアップされたのだからもう逃げ隠れできない。下記のサイトから検索して読んでください。

https://wan.or.jp/article/show/7939

そういうわけで「書評」とは言い難いですが、この小文に<もうひとつの「#Mee Too」または「#With You」の問い>とつけました。つまり茶園さんがこの本で、日本がアメリカに占領されていた時代、「パンパンと呼ばれた女性たち」がいて、彼女たちに対するまなざしが差別的な烙印(スティグマ)に満ちていたこと、にもかかわらず彼女たちはそこで「圧倒的な権力の非対称」のもとでみずからの主体性をかけて生き延びるために占領軍兵士と渡り合い、生き延びていった事実を、限られた資料(行政資料などは多くの場合それ自体が彼女たちを「街娼」扱いしている)を別の視点から読みなおすことで描き出したことを、未だに「セクハラ」を認めない日本の政治家たちと向き合っている現代の自分がどう受け止めるか、という意味です。そう思った部分だけここに再録します。後はWANで読んでください。

「わたしは1952年に講和条約が発効した時、高校生だった。講和後も米軍は撤退せず軍事基地はそのままである。「独立」とは名ばかりだと怒ったわたしたちは高校の文化祭に東京の基地問題をとりあげることにして米軍立川基地を探検に行った。有刺鉄線の向こうに銃を構えたMPがいて、「写真を撮ったら殺す(in the death―追記 under the deathだったかも)と英語で書いてある標識をこっそり撮影してきたことを覚えている。

  夕方になって立川駅まで帰る時、案内してくれた地元高校の男子生徒が「これから先は気をつけて」という。よくみると薄暗くなった軒先に間をおいて何人もの女性が立っていた。地味な服装だったが、説明されなくても意味は分かった。誓っていうがその時の彼女たちを侮蔑的に見た記憶はない。「アメリカが悪い」と思った。けれども「自分とは違う世界」の女性たちという思いで足早やに通り過ぎたことが、この本を読むときよみがえってきた。わたしは茶園さんが告発した「現場」にいたのだ、と」

幸い著者の茶園さんはこのタイトルを気に入ってくれ、WANのみなさんからも「実感があっていい」と言われたのでわたしの意は通じたと思うのですが、そこで一言。

この本の帯には上野千鶴子さんの「推薦の辞」が載っているのですが、「上野千鶴子」という文字が著者の何倍も大きいのです。「宣伝戦略」かと思いましたが、わたしは「はあ、この本が世に出るまでに上野さんがおおいに指導鞭撻したからだな」と思いましたね。読んだらわかるもの。そしたら茶園さん自身が告白してきました。「上野先生はほんとに先生です。社会学の方法論を叩き込んでくれ、私の書いたものを<100%ボツ>と言って、それから原稿ぜんぶに赤字を入れてくれました。私は50回も書き直したのですよ」と。

img545

茶園さんの本。下は帯。著者はどっち?などと言わないでね。付箋がいっぱいついているのは、わたしの悪戦苦闘のあかし。

なるほど、そのときわたしは、論客として知られる上野さんが、「教師」としてもすぐれた力量と熱意を持っていることを理解しました。日本の大学教育、特に研究者養成については、半世紀前の経験ではよく言えば自由だがそれはしばしばほったらかしになる恐れもあり、あるいは教師の言うとおりのテーマでないと認めてくれないことがままありました。今は大学院生に対し研究指導を名目にセクハラに及ぶ「トンデモ教授」もいるらしい。娘はアメリカで博士論文を書きましたが、そのときの指導教授は実に熱心で厳しく、彼女の書いたもの(もちろん英語で書いた)を日本語で言うと「てにをは」に至るまでチェックしてくださったそうです。わたしは帯の超デカ文字に、上野さんの「教育力」(失礼!今ごろ気がついて)を感じてしまった。もっともご本人は「そんなのあたりまえ」という顔をしておいでですが。

カテゴリー: Uncategorized | コメントをどうぞ

「夜更かし高齢者は認知症リスクが2倍」ってホント?

平塚らいてうの会は「人使いが荒い!」のですヨ。この2か月ほどの間、次々と降りかかる難問に、パソコン画面が見えなくなるくらい目をしょぼしょぼさせながらしがみついていました。

最初は今年度刊行予定の『らいてうの会紀要』11号の原稿に穴があきそうだというので急きょピンチヒッターの原稿書き。「らいてうの『戦後日記』と公開された湯川秀樹の『1945年日記』」をテーマに、1万字のはずが2万字も書いたのは「こちらの勝手」ですが、毎晩夜なべをして5月いっぱいかかりました。

ところがそれが終らないうちに「らいてうの会ニュースに載せる太陽光発電問題の原稿が字数オーバーなので削って」という連絡。「そんなの書いた人にやってもらってよ」と返信したら「書いた本人はギブアップ」なのだそうです。やむなくすでに編集済みの版下を送ってもらい、はみ出た分をページ内に納めて返送。そしたら次は同じく『紀要』の太陽光発電問題の学習会記事が「半ページ分余ったので、穴埋めを」ですって。もっともこれも太陽光発電問題なので、なぜあずまや高原の太陽光発電に反対している私たちが「地域風土に見合った自然エネルギー」というテーマの学習会を開いたかという説明が必要、と申し入れたのは自分だから「身から出たサビ」というものですが。それも指定字数で書いたのに「半ページを超えた」というのでまた書き直し。

それが済まないうちに7月に出す『らいてうの家通信』に「この夏らいてうの家でやるらいてう講座『らいてう日記と湯川日記』の原稿を」という注文が。これもわたしが講師で、それを準備するために上記の『紀要』原稿を書いたのだから宣伝しなくては意味がない。即書きました。

というわけで毎晩2時3時に寝る始末。そしたら新聞に「夜11時以降に寝る夜更かし型の高齢者は認知症のリスクが通常の倍」というオソロシイ記事が出て、ヘンに納得してしまった。

以下朝日新聞デジタル2018年6月14日付より。  夜更かしする75歳以上は認知症のリスクが高まるとする調査結果を、国立長寿医療研究センター(愛知県大府市)などの研究チームがまとめた。14日から京都市で始まる日本老年医学会で発表する。2011年度に、有志で参加した大府市の65歳以上のうち、認知症認知症になるリスクの高い脳卒中などの疾患のある人を除いた4268人の起床や就寝時刻などを調べた。このうち、約4年後までに認知症を発症した人は、75歳未満で73人(2・3%)、75歳以上で113人(10%)いた。認知症の発症リスクと就寝時刻の関係をみたところ、75歳未満では差がなかったが、75歳以上では、午後9~11時に寝る人に比べて、午後11時以降に寝る人は認知症の発症リスクが1・83倍高かった。  (引用終り)。

わたしみたいなのを「高プロ」とはいわないが、「働き方改革」で過労死必至と言われる今、とっくに現役をリタイヤしたわたしにとっても他人ごとではない?でも、雇われてるわけじゃなし、こんなに骨身を削って書きまくってもパソコンの紙代やインク代に至るまでぜんぶ持ち出しの「無償労働」だから「年収1000万円」には遠く及ばないからカンケイないよね、わたしが認知症になっても過労死しても「自己責任」。ひとを恨んではいけません、と言い聞かせつつ、それじゃ裁判もできないから浮かばれない、死んだらどこかに化けて出たい心境であります。

しかし、話はこれで終りませんでした。「らいてうの会」の悪夢が一段落した後、じつは数日間で本を1冊読み「書評」を書くという仕事を、わたしに言いつけた人がいるのです。続きは次回に。

カテゴリー: Uncategorized | コメントをどうぞ

「米朝首脳会談」のほんとうの「功労者」は、韓国文在寅大統領だ。 

「米朝首脳会談」から3日、「歴史的会談」という高評価から「無意味」という酷評まで論評かまびすしく、その多くは「どこが勝ったか」とか「日本にとってプラスかマイナスか」といった議論が多いような気がします。曰くトランプ大統領は自分が選挙で有利になること(ノーベル平和賞を狙ってる?)しか考えていない、金正恩委員長は「自分の体制安定しかねらっていない」とか、「中國やロシアはアメリカが米韓演習を中止すれば自国有利とみるだろう」等々。そして日本政府はアメリカに追随して「制裁強化」から一転「日朝会談」路線へと右往左往、トランプ氏が「拉致問題に言及した」というので大騒ぎするかと思えば「米韓演習中止は困る」という発言まで出てくる始末で、ゲーム観戦しているような論評も少なくありません。

わたしは、「どこが勝ったか」という論評こそ無意味で、「米朝会談」を反故にせずたとえ先がどうなるにせよ「北東アジアの非核化」に向けて国際世論を盛り上げ、北朝鮮の核放棄を実現させるべきだという意見にほぼ賛成ですが、その意味でも今回の米朝会談実現最大のちからになったのは韓国の文在寅大統領だと思っています。理由は、並み居る各国首脳のなかでおそらく彼だけが「取引(DEAL)」という駆け引きをしなかったと思うからです。

まったく、今回ほど「自国第一主義」の損得づくが正当化された政治ショーはなかった。トランプ大統領はあからさまに「戦争ゲームは金がかかる」と米韓演習中止を主張(それはそれでその通りだが)、「北の非核化には日韓が金を出せばいい」と「丸投げ」発言に及んだそうですが、それをまた「日本は北の思うがまま」と非難するのもあさましい。その点文在寅大統領は、一貫して同じ民族が戦争して殺し合い(その朝鮮戦争の原因が日本の植民地支配の責任ともつながっていることは指摘ずみ)、70年近く経ってもまだ最終決着していないという現実と向き合おうとしたのです。そこに「どっちがトクか」という「取引」はないと思う。政治経験が少なく、「非現実的」などと評されてきた彼の政治姿勢は、今韓国内で支持を受けているという選挙結果が出ています。

そう思ったら、13日に河野洋平元衆院議長(「河野談話」の主)が講演し、「私はこの問題で、非常な功労者は韓国の文在寅大統領だったんじゃないかと思います。あの人が米国と話をし、北の金正恩さんとも話をし、両方とも話ができる立場の人です。この人の熱意が相当に会談実現に大きな役割を果たしたんじゃないかと感じました」と発言していることを知りました。彼は朝鮮半島の南北分断には日本の植民地政策がかかわったこと、したがって拉致問題解決のためには「ただ返せ返せというだけではなく、日本の植民地政策への反省謝罪を(もちろん韓国にも)を明確にしなくてはならない」と述べたそうです。やっぱり「河野談話」の精神はは生きているんだ。河野太郎外相よ、「不肖の息子」にならないように筋を通してもらいたい。

もう一つ、ともかくこの「歴史的会談」が成果を上げるためには、北朝鮮をめぐる関係各国のうち米中ロの3国が強大な核保有国であることに触れないことがおかしい。トランプさん、「金のかかる戦争ゲームはソン」というならアメリカも核放棄への道を示すべきでしょう。日本も「被爆国」なのにアメリカにくっついて「核兵器禁止条約」に賛成しないというみっともないマネをしないでほしい。とりあえず一言。

カテゴリー: Uncategorized | コメントをどうぞ

 久郷ポンナレットさんにお会いしました。

今日13日は水曜日、ヨガに行きました。先週は突然久郷ポンナレットさんが法政大学で講演すると聞いて、ヨガを休んで出かけたのです。週一回だけなのに、その1回を休むと体が固くなり、足がつれたりするので、今週はがんばって行きました。なかなか先生の言うとおりに手足が動きません。でも「人と比べない。できることをする」と先生がおっしゃるので、「このポーズはできません」と正直に申告することに。それでも1時間体を動かすと少しラクになりました。

でも、ポンナレットさんのお話を聴いて、得るところが大いにありました。授業の一環ということだったからでもあったと思うのですが、お話は「ある日突然難民になって」というところから始まりました。カンボジアで「ポルポト政権」の恐怖政治に直面し、「知識階級」とみなされた両親は迫害されて亡くなり、幼い妹も含めて4人のきょうだいを失った彼女は、自身も強制労働させられて危うく命を落とす寸前の経験をするのですが、たまたま日本に留学中だったお姉さんを頼って日本に脱出、16歳で日本の小学校に編入、19歳で卒業後高校まで行き、縁あって日本人男性と結婚して日本国籍を取得したという想像を絶する体験と努力の持ち主です。日本語で3冊も本を書いたという力量に感嘆し、「追っかけ」してしまった次第です。

本は,子どもにも読めるようにやさしく書かれていますが、お話を聴いて彼女がただ「悲惨な体験」を語るだけではないということがよくわかりました。日本は難民受け入れにまたく冷淡な国です。その冷たさや難民に対する一般の人びとの無理解に向き合いながら、ポンナレットさんは、「世界から争いをなくし、平和を築くには互いに理解し合うほかない」と考え、「憎しみや差別を超えた相互理解を」と訴えるのです。そこに壮絶な体験をふまえたポンナレットさんの立ち位置があることにわたしは惹かれました。会場で配られた資料のなかに、ポンナレットさんが、夢に見た母親の「助けて!」という叫びにひかれて二度と思い出したくない「虐殺の地」故郷を訪ねたいきさつ、そしてかつて「ポルポト派」であった人々とともに慰霊の儀式をとり慰霊塔を建設するいきさつを報じた新聞記事があり。「憎しみを超えて―元ポルポト派と虐殺の村で慰霊」という題になっていたことももわたしの共感を誘いました(東京新聞 2009年6月22日付)。

大勢の学生が聴いていましたが最後の質問で一人の学生が「あなたは自分とその家族を迫害する側にいたポルポト派の人びととほんとうに和解することができますか」と発言しました。ポンナレットさんは正直に「それはとても難しい。被害者である自分にとっても、加害者の側にとっても。でも憎しみを乗り越えなければ本当の平和は来ないと思う」と答え、わたしはそれこそ現代の平和構築の最大の課題だと息を呑んで聞きました。このテーマについては以前短大の教師をしていた時、高校を卒業したばかりの女子学生たちと繰り返し語りあったことがあります(『女たちが戦争に向き合うとき』というブックレットに書きました)。

教室のポンナレットさん

法政大学でポンナレットさんと

わたしは、いつか彼女が建てた慰霊塔を訪ねたいと思いました。もう一人で海外に出かける体力があるかどうかわかりませんが。ポンナレットさんに話したら、喜んでくださり、「現地に兄がいますから、行くときは連絡しましょう」と言ってくださいました。「憎しみではなく和解を」ということの難しさとともに、それこそが現代の平和世界実現のキーワードだ、というポンナレットさんへの共感が、わたしを「行き着くところまで」行かせるのではないかと思いつつ―。

ヨガを休んで行った甲斐があったと思いながら、今日は休んだ分を取り返そうと悪戦苦闘、くたびれました。来週も行くゾ。カンボジアまで行きたいもん。昔「若者よ/からだをきたえておけ/美しい心が/逞しいからだに/からくも支えられる日がくる」という歌があったけれど、いまや「老人よ/足腰をきたえておけ/戦争なくし平和をつくるために/歩かねばならぬ日がまだまだある」というわけだからね。

カテゴリー: Uncategorized | コメントをどうぞ

山口智美さんの「改憲の動きと家族・国家」(2018 らいてう忌)を聴きました。

6月10日、あいにく梅雨入りと同時に台風がらみの悪天候で、東京地方も大雨の予報です。高齢者が多いらいてうの会にとって雨は禁物なのに。おまけに雨をものともしない元気な人は国会前の「九条改憲ノー」集会に行ったから、参加者はまことに心もとなく、やきもき。でも、上田からも駆けつけてきてくれ、京都からあの東海道新幹線(殺傷事件があったばかりの!)でやって来てくれた方もいて、聴きごたえのある山口さんのお話に耳を傾けました。

山口さんは、アメリカモンタナ州立大学の先生で、文化人類学者。とてもアメリカからお招きする旅費は出せないので、夏休みになって日本に来られるのを待って「薄謝」でお願いした次第です。事前学習でお書きになったものは読みましたが、その舌鋒鋭く情報豊富な文章に圧倒され、どんなにやり手のキャリアウーマンかと思っていたら(キャリアウーマンであることは間違いないけれど)、現われたのは風貌も話し方もとってもチャーミングな親しみやすい方でした。

DSC01587

講師の山口智美さん

DSC01588

会場風景

感嘆措くあたわず、と思ったのはその行動力。文化人類学というのはフィールドワーク必須で、ゴリラの住む熱帯林でも、極北の地に住む先住民族のところにも出かけていく学問だとは思うのですが、彼女も超右翼やヘイトグループなどに直談判で資料や情報をゲットしてくるというからすごい。お話はそうした事実に裏打ちされて説得力十分。改憲策動の原動力と言われる「日本会議」で改憲の柱を「9条、緊急事態条項、24条」としていることを突き止め、ただちに「24条変えさせないキャンペーン」を組織して運動を起こすところも、とても「象牙の塔の研究者」ではない。わたしもかねてから「9条を担保しているのは24条」と発言してきたつもりですが、じっさい活動を起こすには至らなかったなあ。反省して「24条変えさせないキャンペーン」に参加しよう。

img544

「24条変えさせないキャンペーン」のリーフ

しかもお話は、すでに24条の内容を空洞化させる動きが着々と進んでいることを厳しく暴露。2006年の教育基本法改正(改悪)は愛国心問題がクローズアップされましたが、じつはそのとき第10条で「家庭教育」の項目が新設され、これが今全国で進んでいる家族の絆強調の家庭教育にお墨付きを与えた」という指摘にはドキン。こうやってあとから気がついても遅いのだ。その内容も事細かに聞かせていただき、要するに保育も介護も家庭でということになってそれは女性に負わされる。自民党の改憲案で24条に「家族は互いに助け合わなくてはならない」と書き加え、さらに13条の「すべて国民は個人として尊重される」を「人として」と書き換えて「個としての人権」を「人一般」にすり替えてしまう動きと相まって女性(だけでなく男性も)の権利をなくす方向になるのではないか。それはかつての家制度の復活にとどまらず、過労死推進法とまで言われる「高プロ」働き方改革法案を含めて人間の生きる権利を奪う新自由主義的改革への途だ・・・。いやいや、全くそのとおり。だから24条が改憲の焦点になるのだということがよくわかりました。山口さん有難う。

そこで、ではこうした動きに対するわたしたちの対抗軸をどう作るべきか。「家族の絆」とか「家族は助け合おう」という言葉自体には賛成する人がたくさんいます。だってそれが断ち切られて老人の孤独死や子どもへの親の虐待などが続出しているのだから、こういう政策に「いいね」と思う人がいるのは不思議ではない。しかし、それが9条改憲につながり、ある日日本は戦争を始めて家族は崩壊するのだとすれば、それを「だから戦争反対しよう」とだけ言うのではなく、今の暮しのなかで本当の人間の絆を取り戻す方法を考えなくてはならない。わたしは、<今の日本の家族は「血縁主義、法律婚主義(事実婚を認めない)、異性婚主義(同性婚を認めない)、子を産まねばならぬ主義(3人以上産めという政治家もいる!)、そして男性上位主義」の枠におしこめられているからここから自由になり、大人が皆「他人の子ども」に気を使い、大事にする途を拓く>ことを提唱したいと思いました。らいてうは「戦時中の母親は我が子を抱きしめることしかできなかったが戦争は防げなかった。戦後の母親は自分の子だけでなく他人の子どものことも心配し、一緒に幸せになろうとしている、それが自分にとっての希望」と書きました。だからわたしも子ども食堂を応援しているわけ。

毎日出歩いて原稿は書けず、今日はもう紀要の20,000字の原稿の校正が出てきてしまった。毎日毎日追いまくられています。過労死するかも?と思いつつ、今日のことは早く書きたかったので。これから寝ます。お休みなさい。

真夜中の追伸。 さっき新潟の知事選で野党共闘の原発反対をめざす女性候補が敗れたという報道がありました。クヤシイ!またまた嬉しそうな安倍首相の顔を見たくない・・・。

追伸その2 6月10日は、16歳で「戦死」した兄の命日です。特攻隊になるため、九州に送られる前日、茨城県土浦の海軍基地でB29爆撃機に猛爆され、爆死しました。敗戦2か月前でした。「豆餅とおこわが食べたい」と言ってきて、それをかなえてやることもできなかったことを母は生涯悔い、「宝児を戦争に行かせてしまった」「私は戦争犯罪人」と書きつけました。なぜそんなことが起ったか?戦争は誰も望まないのに、いつのまにか国民をその気にさせることで進行するのです。今はその戦時下と同じではないか?

カテゴリー: Uncategorized | コメントをどうぞ

静岡へ『全国女性史研究交流のつどい』報告集を探しに 

6月7日、前日町田の法政大学まで行き、「飢えて」みかづき子ども食堂に駆けこんだ翌日、今度は静岡へひとっぱしりしてきました。

というのはWANのミニコミ図書館に、1977年から2015年まで40年近くにわたって開催されてきた「全国女性史研究交流のつどい」12回分の報告集を収蔵できないかという話が持ち上がり、そのために現物をそろえようと思ったら、なんと自分を含めてだれも「今すぐ揃えて提供できない」状況だということが分かったのが、きっかけです。この集まりは、名古屋の伊藤康子さんを中心に1977年に第1回が開催されて以来、2015年の「岩手」集会まで12回開かれてきたものです。開催地は全部違います。そもそもこの「つどい」は、どこかに組織があって主催するのではなく、地域の女性史研究会やグループが「今度はうちで」と手を挙げるとそこが開催地になって現地に実行委員会が生まれ、そこで内容や記念講演の講師などを決めて発信すると全国からこれも自主的に参加者が集まってくるという、文字どおり自主自立型運動です。「つどい」が終る時に「次はうちで」と名乗りが上がる時もあれば次回開催地も日時も決まらないまま散会、何年も空白の後に「このまま途切れるのは残念」と名乗りを上げるグループが出てきたりして続いてきた「世にも不思議な」運動なのです。かくいうわたしも1983年には「第3回」の実行委員長を務め、東京中心でしたが神奈川の江ノ島にある「県立婦人総合センター」で開催しました。

2015年の岩手(ここは、東日本大震災で津波の被害を受けた三陸地方を中心に、女性たちが津波とどう向き合ったか、そして地域に根を下ろした「岩手のおなご」たちの語りをたっぷり聴かせてもらいました)からもう3年経ちますが、次回開催の呼び掛けはまだ出てきていません。「これで終わりにしたくない」というグループが出てきてくれないかしら。

その12回分の記録『報告集』がそろわないのです。わたしも全部はもっておらず、でもあるはずだと思うのに、だいたい紙の本はもう山積みになっていて探し出せない。自分の本でさえみつからなくて図書館で借りたり古本屋で買ったりする始末です。地域女性史の重鎮にも聞いてみたけれど似たような状態です。そこへ静岡女性史の草分けでいらっしゃるKさんから、「第一回には行かなかったのでもっていないが、他の分はほぼそろっています」というご連絡が。ともかく見せていただこうと駆けつけた次第です。

DSC01585

このほかに「資料集」もあるのですが、まずは2回(旭川)、3回(東京・神奈川)、4回(松山)、5回(沖縄)、6回(山形)、9回(奈良)、10回(新潟)、11回(東京)。  ほかに1回(名古屋)、7回(神奈川)、8回(岐阜)、12回(岩手)があります。

 

2回から12回のうち、12回の岩手の分はすでにミニコミ図書館にアップされているので11回分。ただし7回の神奈川は単行本として出版されているので別扱い、8回の岐阜は報告書が出なかったのでナシですが、それ以外は全部ありました。ダンボールに入った一式といっしょに何となつかしい友人たちが何人か集まってくれ、旧交を温めることに。Kさんが「あらためて読んでみたけれど、それぞれの会でみんな熱気いっぱいだったことを思い出した」と言われ、わたしもほとんどケンカ腰で議論したり、戦争中女学生だった方が「戦時中の女性は戦争加担したと言われるが、あの時代にせいいっぱい生きようとすればそれしか道がなかった。それでも戦争犯罪者ですか」と号泣されたことなどを思い出して共感。あまりのうれしさに、日ごろ「ウツ」だとかなんとか言ってるくせに、ほとんど「ソウ」状態になり、あることないことではないが、「慰安婦問題」から、らいてうの家の太陽光発電問題、女性文化賞、書き上げたばかりの「らいてう日記」のことなどを喋りまくってみなさんを閉口させてしまいました。認知症になったら、被害妄想になる代わりにやたらしゃべって迷惑千万かもね。このブログが長ったらしいのはすでにその傾向顕著と自覚しております。

で、その資料を「重いから送る」と言われたのに、「いいえ自分で持ち帰ります」と持参のリュックに詰め込んで満足感と一緒に背負って帰りました。Kさん、静岡のみなさん,ありがとう!

ところで、「13回」の呼びかけは、まだだきていません。わたしの生きているうちに開催されるでしょうか?

カテゴリー: Uncategorized | コメントをどうぞ

みかづき子ども食堂の「あんかけ焼きそば」で満腹の巻 

6月6日、今日はヨガに行って健康的な生活をするはずだったのに、昨夜突然方針変更。法政大学(それも市谷ではなく町田相原キャンパス)で、何時か紹介した久郷ポンナレットさんが授業の一環として講演するという情報をキャッチしてヨガをあきらめ、梅雨入りした雨の中をはるばる聴きに行きました。その話は後で書くとして、ともかくお昼も食べずに相原キャンパスへ。めじろ台駅からのバスはスイスイ出ていましたが、降りてから教室まで行くのに坂道や階段を何べんも上り下りする羽目になり、へとへとになりました。学生食堂で何かお腹に入れようと思いましたが、メニューを見るとどれもボリュームたっぷりで,少食のわたしには歯が立たない。持参のペットボトルのお茶を飲んだだけで授業を聴くことになってしまいました。

さすがにお腹がすき、6時近く我が家にたどり着いたときはもうこれから夕飯を作る元気も失せ(つれあいドノは今朝から家出)、「まだ間に合う」と駆けこんだのが「みかづき子ども食堂」。じつは6月のお知らせをもらったとき「6日は、あんかけ焼きそばですよ。食べに来てね」といわれて「おいしそう」と思っていたのですが、こんなにおあつらえ向きに「欠食児童」になるとは思ってもみませんでした。いつものちょっぴりカンパとご飯代300円を握りしめ、とぼとぼ出かけると、入り口には雨合羽を着込んだおなじみのメンバーが。思わず「今日は食べさせて」と頭を下げてしまいました。

もちろんみんな大歓迎してくれ、席に着くと大盛りのあんかけ焼きそばと豆腐入りかき玉スープ、ズッキーニの漬物がでーんとやってきました。いつもなら「多いなあ」と思うのですが、今日ばかりは「有難う!」です。のこさず完食してさすがに「食べ過ぎ」になりました。あまりおいしかったのと「飢えて」いたので写真を撮るのを忘れてしまった!せめてもの申しわけに、玄関いっぱいの靴の写真を。「雨なのに大勢来てくれた」と喜ぶスタッフの方たちに感謝をこめて。

DSC01584

玄関いっぱいの大きい靴、小さい靴、長靴、スニーカー…

おまけに「手伝いに来てまーす」という高校生の娘さんたちがなぜか挨拶に来てくれ、「わー、もう孫だね。そのうちひ孫も現われるかしら」と感無量。とってもはきはきしたすてきな女性たちでした。思わず自分が高校生の頃(つまり70年近く昔)を思い出してしまった・・・。

次回は成蹊大学に出張で留学生たちも招き、メニューは「カツカレー」だそうです。うーん、もうとんかつなんて久しく口にしていない(オカネがないというより年取ったせい)けど、挑戦してみようかな。そんな気にさせてくれる子ども食堂でありました。

img542

6月のチラシ

カテゴリー: Uncategorized | コメントをどうぞ