「基礎経済科学研究所春季大会」で報告することに―インフルエンザ余聞  

2月18日は大阪へ行くはずでした。以前ブログで紹介したエルサレム在住のガリコ美恵子さんが「エルサレムへおいで」と言って下さったのですが、その前に日本に来られると聞き、エルサレムへ行くよりは早いと思って会いに行くことにしていたのですが、残念ながらインフルエンザのおかげでおじゃんに。「ここで行かないとエルサレムまで行かねばならなくなる」と心配したのに「神の声」を発して「おやめなさい」といってくれたSさんは「治ったら行けば?」とあっさり。それはともかく16日から熱は下がり始め、一瞬「18日に大阪までなら行けるかも」と思いましたが、なんせインフルエンザは「解熱後2日間は安静」にしないと人に「うつす」危険があるそうです。「神の声」に従うことにしました。

でも、おかげで食べ物がのどを通るようになり、昨夜17日はのこり御飯ですがちゃんと食べる元気が出たので、10日締め切りだった原稿を書きました。それがまことに不思議な(わたしにとっては)研究会の報告原稿なのです。3月17日に東京で開かれる基礎経済科学研究所春季大会で、らいてうについて報告せよ、という依頼でした。検索してみるとこの研究所は1968年に創設され、「勤労者とともに勤労者のための経済学を創造」すること、また「働きつつ学ぶ権利を担う経済科学の総合」をめざして、自主的な学術研究団体(学会)として活動」、「多数の社会人研究者、労働者研究者を輩出するとともに」「人間の成長と公平な社会の実現、地球環境が大切にされる公正な日本経済づくりのために尽力」しているという説明がありました。

趣旨はまことに賛成ですが、ここでらいてうをどう語るのだろう。おまけに経済学の研究会かと思ったら、<文化芸術分科会「芸術家として、市民として―芸術家と社会運動―」>という分科会なのだそうです。それでも、なぜここで「らいてう」か得心が行きません。何べんもやりとりした後、「それでも」という要請に半分は好奇心もあり、以下のテーマで報告することになってしまいました。「女性の文化としての平和」について―平塚らいてうの思想と行動の現代的意味を考える―」>というタイトルです。だいたいわたしはいつも「ハタケ違い」の分野から声をかけられることが多く、それだけ「本籍」の歴史学の分野ではあまり相手にされていないと自覚しているのですが、今回もそうでした。

ここでわたしが発言しようと思ったのは、『青鞜』が「女流文芸雑誌」として出発したとされる「自明の」通説に対し、少なくともらいてうは自分が文学で世に出ようという気は全くなかったという意味で異論を唱えようと思ったことです。では、創刊の辞「元始女性は太陽であった」がしばしば「女権宣言」と呼ばれるように「女性解放運動」の先駆けであったかというと、らいてうはそれも否定し、当時の自分にはそんな考えはなかったと言っています。では『青鞜』とは何であったのか。わたしは最近公開されたらいていの1961年(『青鞜』創刊50周年)のインタビューテープで、彼女が「あの時代に、女性が自己を表現しようとすれば文学や絵を通じてしか可能ではなかった」と言っていることから「芸術が女性の自己表現としての意味を直截にしめした」ことに意味があると考えてきましたので、そのことについて話そうと思ったのです。

それだけにとどめておけばもう少しこじんまりとまとまった報告が出来たかもしれませんが、わたしとしては、らいてうを『青鞜』の時代だけで切り取ることがどうしてもできないのです。らいてにとっての「自己表現」の土台には、「わたしはわたし」という強烈な自己認識があり、それは無名に終わった『青鞜』参加者のあいだでも繰り返される「個としての自己=女性」という認識なのですが、大逆事件後の「冬の時代」を経て「大正デモクラシー」の潮流が生まれてきたこの時代ジェンダーの視点からの「個としての女性」の主張は「社会改造」や「革命」のアピールのなかに埋もれてしまい、デモクラシーの主流になることはなかった、『青鞜』が「個」を訴えるらいてうから「社会」派の伊藤野枝に渡されたこと、そして1年2か月後に野枝によって放棄されたことはそういう意味のドラマであったことを云おうと思ったのです。

でも、それだけではまだ、らいてうを語ったことにならない。らいてうという人は、一貫した自己主張を持って生きた人ですが、ある意味で変幻極まりない人で、いささか芝居がかっています。ここで終わりにしたら、らいてうから「それでわたくしがわかったの?」と笑われそうな気がして、持ち時間30分なのにそれかららいてうが母となることによって「自愛」から[他愛]=母性にめざめ、そこからグローバルな平和世界構想にめざめる過程を、現代の『平和構築における女性参加』の主流化の流れにまで結びつけて論じたい、という原稿を昨夜夜中までかかって書きました。「熱に浮かされた」といいたいが、じつはもう平熱に下がっています。支離滅裂は承知ですが、あと4週間あるのでそれまでにつじつまを合わせたい。今日は、これから締め切りが迫っている『婦人通信』誌に「女性文化賞と千田ハルさん」のことを書きます。急がないと、3月10日「らいてう賞」受賞記念スピーチの準備ができないもの。これじゃ、おちおちインフルエンザにかかっておられないわけだ。

カテゴリー: Uncategorized | コメントをどうぞ

インフルエンザを甘く見ないで…。

インフルエンザを甘く見たらいけません。高熱はまる一日で下がり、14日夜には平熱に戻りましたが、15日は又上昇、おまけにタミフルのせいかどうかわかりませんが、ヘンな夢を見続けています。今日は昼間、「辺野古に行き着けない」という夢を見ました。浅い眠りですぐ目が覚め、とぎれとぎれなのに、ちゃんとつながっているからフシギ。最初は、辺野古で写真を撮ろうとしているのに、美しい砂浜は出てくるが工事現場が出てこない。「ここじゃない」というのに、出てこないという夢。つぎは、どうやら辺野古にたどり着いて「これから船で沖へ出ます」という夢。それが何やら大きな観光船みたいな船で(そんなものあるはずないのに)、そこへ行くのに高い崖を滑り下りなければならず、エイと飛び降りるというこれまた奇怪な夢です。これは10日に辺野古の話を聞き、「みなさん来てください」という呼びかけに反応したせいだと思う。「でもなかなか行けないよ」といわれているようで…。夢などめったに見たことがなく、見たと思ってもほとんど覚えていないのですが、昨日今日はいやにハッキリ覚えているのです。

友人がブログを読んで、「やっぱり神のお告げ」と言ってきました。以前から「体に気を付けて」と案じてくださっていた方です。はい、それでもう少し寝ています。でも、今日はいいこともありました。なくしたシルバーパスとスイカが出てきたのです。バスの営業所へ行きました。シルバーパスは再発行のほうを返却し(つまりまたなくしてももう1回は再発行してもらえるのと不正使用されずに済む)スイカの方は記名カードでチャージ額は再発行カードに引き継がれたので実害はなかったのですが旧カードを持ってJRに行けば手数料500円返してもらえます。有難く押し頂いて帰り、ついでに年金も引き出してきました。

そこへ、大阪の山田さんからメール。彼は辺野古に一か月も泊り込んだ経験者です。「ゲート前で案内を頼みなさい。遠慮は無用。見届けることに意味がある」と励ましてくれました。じゃあ、行くか!月末までにはインフルエンザも収まるでしょうから。でも18日に大阪は無理かもね。もう一日、様子を見てから考えます。

カテゴリー: Uncategorized | コメントをどうぞ

インフルエンザに直撃されました

9日から11日にかけて毎日出歩き、12日から締め切りの迫った原稿を書き始めたのですが、夜ふけに寒気がして体中がだるくなり、これはイカンと思って12時過ぎに寝ましたが時すでに遅く、いきなり39度4分の高熱を発しました。13日はただこんこんと眠るだけで、水だけは夢うつつの状態で飲みましたが、あとは一切受け付けず、それなのに1時間おきにトイレに行きたくなる始末で、それでも眠り続けたからよっぽど寝不足だったのでしょう。インフルエンザの予防注射はしてあるのですが、一応疑わなくちゃ。14日の朝に、熱が少し下がったので厳重にマスクをしていつもの診療所に行きました。すごく混んでいました。検査してもらったら「やっぱりインフルエンザ(B型)」だそうです。今年はこれが多いらしい。「予防注射をしても絶対かからないわけではないが軽症で済む可能性もある」と言われ、毎年早い時期に予防注射を受けていたのですが…。

薬局で薬をもらい、帰宅してからまた浅い眠りを繰り返してヘンな夢まで見ました。マンションのドアは蹴飛ばしたぐらいでは壊れないはずなのに、蹴破って入ってきた男がいるという夢です。ところがよく見ると、なんとそれはどうみても少年で、なぜか後ろにお揃いの赤い帽子をかぶった保育園児らしい子どもがぞろぞろ。「どこの保育園?」と聞いたら口をそろえて「ナントカ保育園!」と叫ぶではありませんか。そこで夢はプッツンと切れました。高熱のときは妄想が起ると言いますが、まさか死神が迎えに来たわけではないものね。それともタミフルという薬を5日分かならず飲むように、といわれて早速飲んだせいでしょうか。タミフルで妄想が起るのは子どもに多いと聞いていたのですが、さてはわたしのノウミソも子ども並みになったのかしら。

ともかく今週の予定はキャンセル。16日は以前佐川国税庁長官を罷免せよというよびかけに賛同して署名したことがあり、そこから「16日に財務相・国税庁包囲デモ」の呼び掛けがあったので行くつもりでしたがこれもお休みします。身の程を心得ねばならぬ。やはり無理をして出かけることが最大の原因だとおもいました。それなのに18日に大阪へ行こうかとか月末に沖縄へいこうかとか、これも「妄想」でしょうか。その前に原稿を書かねば。2日間開けなかったメールを開けたら、返事の要るものがいくつもありました、お許しあれ。

カテゴリー: Uncategorized | コメントをどうぞ

「名護市長選直後緊急集会」(2.10) に行きました。

2月10日、上記の集会に行きました。じつは翌日も出かけようと思い、前日の9日も夜出かけたので、3日連続で出るのは少しきつかったのですが(原稿が書けないので)、「緊急集会」に惹かれて行った次第。会場は満杯の盛況でした。

伊波さんは辺野古新基地反対と高江ヘリパッド建設反対の先頭に立ち、昨年「多田謡子反権力人権賞」を受賞した方です。パワーポイントで詳しく説明された反対運動の現状は、暴力的に排除される反対運動の人びとの写真を含め、いくらか予備知識のあるわたしにも衝撃的な事実でした。

質疑というかたちで答えられた市長選の結果について、伊波さんは「まだ全面的に総括していないので、自分個人の意見」と断ったうえで、「目の前で埋め立てが進んでいる。それは4%といわれるが、<まだ4%>とみる人と、<もう4%すすんだ>という宣伝に諦めを感じてしまう人の違いがあったのではないかと語られ、渡具知陣営が基地問題に一切触れず「経済振興」を唱えたことについても「経済・生活問題というが、稲嶺市政が市民の生活をよくするためにどれだけ努力し成果を上げたかという点をもっとはっきり知らせるべきだった」という思いがあるとも語られました。公明党が今回自民に同調したことも大きかったとも。「公明党は若者対策を徹底的にやった」そうです。その結果かどうかわかりませんが、10代と20代の投票は、渡具知候補に多く流れたという出口調査もあります。「しかし同時に、基地反対が市民の6割から7割近くあることも事実」と伊波さんは指摘、この人びとを稲嶺候補に引き寄せられなかったことが反省点だと言われました。「名護市民が基地を認めたのではない」というのは決して「負け惜しみ」ではないのです。

それは、わたしたちにとっても大きな課題です。伊波さんは「市長が代わったからと言って、いきなり工事急展開はできないはず。議会承認も必要だ。若者が保守化しているという声もあるが、学校教育はもちろん、家庭でも沖縄戦の体験者は少なくなっている。地域でも家庭でも語り継ぐ経験が薄れているのではないか」と語り、チビチリガマを「心霊スポット」と見立てて「肝試し」にガマを荒らした少年たちが今、「こんな大事なところだとは知らなかった」と反省して、像をこわされた彫刻家のもとに通っているという話をされたのが印象的でした。聞きながら、わたしは翌日の東京大空襲・戦災記念センターの集会にも行く気になってしまった。「次世代継承」の問いがあるのだもの・・・。そして「辺野古に来てください。人が集まれば工事はできない。関心が薄れれば強行される」と訴えた伊波さんにどうこたえるべきか、深刻に考えてしまったのです。

緊急集会のチラシ

カテゴリー: Uncategorized | コメントをどうぞ

「らいてうのように生きたい」という女子学生の投書に感動 

書きたいことは山ほどあるのに、着手できません。昨日も一昨日も出て歩き、「2.11」の今日、「建国記念の日反対集会」にも行きたいのですが、東京大空襲・戦災資料センターの会合に行きます。大門正克さんの「『語る歴史、聞く歴史を読む―オーラルヒストリーの現場から』を読む」に行くことにしました。この本は読んで感想もたくさんあるのと、主催が同センターの「次世代継承研究会」だというところに惹かれ、らいてうの会も「次世代継承」が問われている、と思ったからです。

出かける前に新聞をひろげて「おっ」と思いました。正確にはつれあいが先に新聞を読み、「ここ読めよ」と教えてくれたのです。それはオリンピックの記事ではなく、朝日新聞2月11日付の「声」欄です。「生き方学んだ平塚らいてう」という投書でした。20歳の女子学生です。「若い人が関心持ってくれたんだ」とうれしくなりました。「保育士をめざして勉強しているが、女性の生き方についての話も聞いている」とあり、らいてうが自分の思いにまっすぐに生きたことを知って、「自分もこういう生き方をしたい」とおもった、と書いておられます。「思うことを言うのは、当たり前のようで難しい」と思うときもあるが、「らいてうの生き方を思い出せば、一歩踏み出せるような気がする」とむすんでいるのです。

わたしは「おっ」と思いました。らいてうは「雲の上の人ではなく、迷ったり間違ったりしながらそれでも前を向いてまっすぐに生きた人」というのは、わたしのらいてう像だからです。よく読みとってくれた、とうれしくなり、もしかしたらこの女子学生は、去年わたしが一度だけ招かれて講義した女子大の学生さんではなかったか、と思いました。というのは、らいてうが幼い少女時代に、納得できないことがあると(反論できないので)プッと頬を膨らませてしまうので「フグ」とからかわれたことまで引き合いに出しているからです。こういう話は誰もあまりしません。わたしは「明(はる)」の「思うこと」をひっこめない精神は子供の時からだったというエピソードとしてよく紹介するのですが、それを覚えていてくれたのではないか・・・。

そうであってもなくても、「思うことをまっすぐに」と受けとめてくださったMさん、有難う!「次世代継承」がなかなかできないと悩むオバアサンのわたしも励まされました。今年もその女子大に一回だけ講義を頼まれています。わたしも向かい風に出会っても「思うこと」を言いつづけますからね。

 

カテゴリー: Uncategorized | コメントをどうぞ

「復興釜石新聞」に女性文化賞の記事 

釜石に「復興釜石新聞」という新聞があるのをご存じですか。東日本大震災までは1948年創刊の「岩手東海新聞」という日刊紙でした。「3.11」で社屋は大きな被害を受け、記者も犠牲になったそうです。やむなく休刊となり全員解雇になりましたが、「どうしても」という元社員たちが3か月後の2011年6月11日から「復興釜石新聞」として週2回4ページ立てで刊行を始めたのです。ウイキペディアによれば、2014年9月までは助成金によって全戸に無料配布していたが、10月からは有料化、2015年7月には市の第三セクターが運営するWEBサイト「縁とらんす」へのニュース提供をはじめ、釜石市の広報活動にも紙面を提供している」とありました。ネットで見た記事には「復興に向けた行政情報や地域に密着した話題など、地域で暮らすための貴重な情報源として、広く市民に親しまれています」とあり、わたしが『花貌』閲覧のため訪問した釜石市郷土資料館の方は「釜石新聞に出してもらうと、みんな読む」と言っていました。

そこで、1月27日のこともお知らせしたところ、早速取材に来てくださり、1月30日付で記事を載せてくれました。そのとき、わたしが撮影できなかった千田さんに記念品を贈呈するシーンの写真を「後で送っていただけませんか」と頼んだら、すぐに素敵な写真を送って下さったのです。これをブログにアップしたいと思いましたが、新聞社の写真を勝手に使っていいか心配です。またメールを出してお伺いを立て「出所は明記しますから」と申し出たのですが、「どうぞお使いください」というお返事が届きました。新聞の紙面もそえてあり、わたしにとっても記念になる写真でした。じつは朝日新聞の釜石支局長さんからも写真が届き、全員の記念写真もあるのですが、それはちょっと遠慮しておきます。見せたいけれど公開ブログにみなさんの顔が出るのは…と遠慮した次第。

千田ハルさん女性文化賞受賞

復興釜石新聞2018年年1月30日付。写真左の男性は釜石で千田さんと共に活動され、被災して今は宮古で暮らす前川さん。司会を担当されました。

本文の記事もよくまとめてあって、わたしがどうして千田さんをえらんだかといういきさつにも詳しく触れ、雑誌『花貌』の写真まで入れてくださったのには感激。地域でがんばるメディアにエールを送りたくなりました。

カテゴリー: Uncategorized | コメントをどうぞ

 「平和と生活」は一つのもの―2018名護市長選の結果から

名護市長選の結果に、ショックを受けました。あれだけ米軍機が我が物顔で飛び回って事故を起こしているのに…と思いましたが、この結果は名護市民が「基地賛成」になったということではありません。権力というものが、如何にカネと脅しで基地問題を押さえつけようとしているかをまざまざと感じました。「基地疲れ」などと書いた新聞がありましたが、「疲れさせた」のは誰だよ、と怒りがわきます。期日前投数が跳ね上がったのは、組織の力で投票場へ連れて行ったからではないか、という観測がひろがっています。原発の時もそうでしたが、オカネをばらまいてうんと言わせ、それに逆らえば「兵糧攻め」にする政治とは何なのか。稲嶺さんに入れなかった人も基地には反対、と報道されています。

しかし、「負けは負け」です。わたしは、ここで先日紹介した大塚茂樹さんの『心さわぐ憲法9条』を思い出しました。彼は憲法9条が危機にあることを踏まえて、「もし国民投票という事態になったとき、護憲派は多数を獲得できるか」という問いを発しています。そのためには、改憲を主張する人たちにもさまざまな意見があることを認め、「自分とは違う」と押しやってしまってはいけないのではないか、「護憲派」も決して「一枚岩」ではなく、一人ひとりが「個人としての意見」を持っているはずだ、それぞれが自分の意見を持って「他者との対話」をしなくてはならないのではないか。大塚さんは、そういう意味のことを問いかけていたと思います。辺野古の問題はもちろん名護市民だけの問題でもなければ沖縄県民だけの問題でもない。わたしたちも及ばずながら「基地反対」の声を上げることで「戦争反対」の意思を示してきたと思う。しかしそれがほんとうに名護市民のみなさんの思いにつながっていただろうか。

先日ブログにアップした千田ハルさんの短歌に「柿八年の平和が欲しい生活の安定が欲し柿の種掌に」というのがありました。「平和と生活の安定」は対立ではなく、一致しなくてはいけない。3日の川田忠明さんの「女性がつくる平和社会」という講演会は、わかりやすいと大好評でした。私は川田さんの「女性が平和構築に参加を」というご意見に共感し、思わず「2010年のNPT再検討会議(ニューヨーク)への要請行動に参加した時、現地の女性集会で各国の女性たちが集まって、平和とは<ホームレスに家があること><子どもに学校や病院があること>と訴え、<平和は人権>と発言した」ことを紹介、平和が言葉だけでない生活保障を実現することという意味で、女性たちは「平和」を再定義したのだと発言してしまいました。今度の選挙を「振興か基地反対か」で名護市民は揺れたという報道もありましたが、そんな二者択一はないと思う。基地をなくすことで地域が繁栄していく道を阻んでいるのは、ほかならぬ日本政府そのものではないか、そう思うとほんとうに腹が立ちました。

地べたに足をつけて、多くの人びとと手を携えていく道をどうやってつくり出すのか、これからますます厳しくなるであろう辺野古の基地反対運動をどう支えていくか、何ができるか、考えて行かねばならないと自分に言い聞かせた一日でした。

カテゴリー: Uncategorized | コメントをどうぞ