「かくも長き不在」を経て―いいえ、たかがアメリカに1週間行ってきただけですが― 

たぶん<ラストアメリカ>ツアーの始まり

5月18日にアメリカはワシントンDCの近くまで出かけ、フツーなら「孫の大学卒業式なので」というくらいの年なのに、娘の卒業式に行ってきました。「親バカ」と思われるでしょうが、大義名分は昔「娘の高校卒業式に行ってやらなかった」埋め合わせでした。じつはこのトシでアメリカ東海岸までエコノミーで10数時間も行くのはもう無理と思い、「ラストアメリカ」ツアーをしてみようと思ったのが本音です。それにアメリカの卒業式には学生も先生も重々しいガウンに帽子といういでたちで現われるというから見物の価値はある…。でもホントの本音は娘を懇切丁寧に指導してくださった何人もの先生方に一言お礼を申し述べたかったのも事実です。記念に九谷色絵のコーヒーカップでも用意しようかと相談したら、「そういう日本趣味を押し付けないで。先生は、日本のクッキーが甘すぎなくて大好きだから、大きな箱を担いで行くから」と一蹴されてしまい、せめてと吉祥寺のお店でやっていた「日本の職人展」というイベントで見かけた藍染のハンカチーフと小風呂敷を買い求めてバッグにしのばせました。

荷物は全部娘が持ち、飛行機代は銘々ではらう代わりにホテル代とレンタカー代、それと食事代はわたしがもつことにして、手配も全部やってもらい、楽ちんでした。おまけにわたしが20年以上乗ってきた航空会社のマイルがつかえるというのでフライトはエコノミーよりちょっぴり座席の間が広い「プレミアムシート」にしてもらえ、通路側の席にしたので、大変快適でした。昔、飛行機が空いていてサービスでビジネスシートに座ったことがありますが、ちょっと身動きすると乗務員が飛んできて「なにか御用は?」と聞くのでかえって緊張してしまったことがあり、われらにはこの程度のゼイタクがちょうどいいのかも。

で、ともかく無事に行って帰ってきたのです。行きの経由地デトロイトで入国審査を受けましたが、娘は学生ビザでちゃんと指紋も写真も撮られていたのに、わたしの番になったら「免除」と言われました。きょとんとしていたら係官が娘に「この人はいい人だから」と笑ったそうな。娘に言わせると「観光だけだからだよ」というのですが、確かこの制度が出来て間もなくニューヨークに行ったときは、まちがっても「NPT(核不拡散条約)による核廃絶の誠実な実行を求めるための国連要請に来た」などと言わなかったのに指紋も写真も撮られたよな…。ともかく機内でエコノミー症候群にならなかったことと、指紋をとられなくて済んだのでまことに幸先の良いスタートでありました。

<「卒業式」はプライバシー情報なのでカット

さて、ここから先、娘の卒業式のしだいを書きたいところですが、彼女から「自分のプライバシーだから書かないで」と申し渡されているので割愛します。名物のガウンなるものも超ド派手。学部生やマスターコースの卒業生はそれでも普通の黒いガウンですが、ドクター取得者のそれは朱色に近いまっ赤な色合いで、帽子もただの角帽ではなくふわりとかぶると角ばったベレー帽のように広がる優雅なスタイルです。このガウンを記念に買う人もいるそうですが、目の玉が飛び出るほど高いので、娘はレンタル(帽子だけは持ち帰り可)。おまけに卒業式当日は各コースの卒業生から一人ずつ3分間スピーチをする「栄誉」を与えられるのだそうで、赤いガウンの彼女が一人だけ壇上にいるのだから目立つことこの上なしで、いささかドキドキ。でもなかなかいいなあと思ったのは、学部単位の卒業式ですからこじんまりしているのですが、学部生を含めて全員が一人ひとり名前を呼ばれて壇に上がり、指導した先生が入れ代わり立ち代わり出てきて彼ら彼女らをハグ、壇の下で待ち構えているカメラマンならぬカメラウーマンが記念撮影をするのです。とってもアットホーム。「申し込めば買える」と聞いて「買えば?」と言ったのですが本人は気がないようでした。

昼近くに式は終わり、家族ともどもパーティにどうぞと言われてついて行くと、ホームグラウンドの自分たちの学部の建物の一角で、簡素なパンケーキとフルーツと飲み物が用意してありました。恩師の先生は付ききりでわたしの面倒を見てくれ、次々に先生たちがやってきて挨拶をしてくださるのです。通訳の娘によると「来てくれてありがとう」と言ってるよ、ですって。こういう時は娘もうれしそうに「母です」とか紹介しているみたい。普段は「出てこないで」とか言うくせに。友人も何人か駆けつけてくれ、彼女にとってももう簡単には来られないだろうこの地での別れを惜しみました。以上報告終り。

卒業式場のホール入口

右端に「卒業生代表」が並んでいる

式の後のパーティ風景。学生の作品が展示してある作業室みたいなところ

探検の巻<その1 図書館でわたしの論文が載った雑誌に出会いました。>

でも、まあこれだけじゃ愛想がなさすぎるから、あとはわたしが見聞きしたことを付け足します。その1、卒業式の3日くらい前にガウンを借りに行ったとき。しばらく時間があるからその辺を散歩していて、と言われ、目の前にあった図書館に行って「日本語の歴史の文献を見たい」と言ってみました。だまって開架式の書棚に行けばよかったのに、受付へ行ったものだから、向こうは困惑したように(多分予約もないので)受け付けられないという返事です。そりゃそうでしょうと外へ出たら、なんとその初老の男性が後を追いかけてきてしきりに手まねきします。どうやら特別に案内してあげようというらしい。思いつきだったのに、とこちらが恐縮しながら取って返すと、若い女性が出てきて「私が案内します」と言うではありませんか。「私は日本語を勉強しました。日本にも行ったことがあります」ですって。そして連れて行ってくれたのは書庫でした。重いハンドルをいくつも回して「JAPANESE HISTORY」というところを開けたら現われたのは『歴史評論』という雑誌の(たぶん)創刊号からの合本がずらり。思わず「ここにわたしの論文が載っています」と叫んでしまいました。そうです。出発前に必死になって書いた原稿の一つが「わたしの『歴史評論』時代」というエッセイで、わたしの卒業論文がこの雑誌の1959年5月号に載ったことがきっかけで長く編集委員を務めた思い出を書いたばかりでした。遠い異国の地でその雑誌に巡り合うなんて!ほかにも『史学雑誌』や『史林』などというなつかしい名前の雑誌もあったと思います。わたしはすっかり満足し、ただただやたらに「Thank you」を連発して図書館を出ました。

大学のシンボルは「カメ」です。あっちもこっちも「カメだらけ」

こんなカメも

これは殆どカッパの世界?

図書館にはこんな「ぬいぐるみのカメ」も

これはまじめにカメと対話する研究者らしい

 

<プランゲ文庫のこと>

じつはこの大学は、日本の現代史研究者ならよく知っている「プランゲ文庫」を保有することで知られています。それは第二次世界大戦後の1945年秋から1949年まで、アメリカ占領軍が検閲のために収集したぼう大な出版物(雑誌・新聞・ポスターや写真などを含む)の資料群です。そこには地方のミニコミ誌にあたるようなものも網羅されていました。最近ではこの資料を駆使して敗戦直後の日本の民衆がどのような状態から立ち上がり、自らの手で「デモクラシー」をつかんで行ったかを読み解いた吉見義明氏の『焼け跡からのデモクラシー』(上下 岩波書店)があります。わたしも平塚らいてうをしらべていて、彼女の戦後の人脈のなかにソビエトロシアの図書の翻訳出版で知られたナウカ社創業者の大竹博吉夫人せいさんとの接点を知り、その関係でプランゲ文庫の雑誌のコピーを申し込んだことがあります。今回いくらなんでも「プランゲ文庫をみたい」とはおくびにも出すわけにいかず、入り口の表示の写真を撮るだけで満足しましたが、「メリーランド大学ってどんな大学?」と聞かれたら「プランゲ文庫がある大学です」と答えることにしています。これは娘とは関係ないからね。

「プランゲ文庫」のある図書館

<その2―ギリシャ料理のお店に行きました>

これは娘にも関係があります。彼女はアメリカ東部の都市で調査活動をし、大勢の移民たちにインタビューをしたそうですが、ギリシャからの移民でギリシャ料理店を営んでいる方に大変お世話になったそうです。卒業の報告に行きたいというので、ホテルから1時間ほど離れたボルチモアまでレンタカーを走らせました(運転はもちろん娘)。連絡も取らずに行ったのですが、「おじさん」は昼下がりのレストランにちゃんといて、訪問を心から喜び卒業を祝ってくれました。そこでおいしいギリシャ風サラダとタコ料理、名物のラム料理をいただき、飲まない娘に代わってギリシャのワインだよと振る舞って下さった甘く口当たりのいいワインを飲みほして帰ろうとしたら「お代はいらないよ」ですって。うーん。みなさん、メリーランド州の最大都市ボルチモアという港町に行ったら『イカロス』というギリシャ料理のお店をひいきにしてあげてね。とってもおいしいんだもの。

お店の看板

お店の入口で

<その3―アメリカの大学の先生はすてきな人ばかり>

短い滞在中、娘に引き回されて恩師の先生を訪問しました。最初に彼女がここに留学した時、最初はちゃんと授業もとったのですが指導教官とは別に履修の仕方や研究テーマの設定などをきめ細かく助言してくれた先生が、ホテルからほど近いところにお住まいというので行ったのです。先生も喜んでくれ、もう退職されて卒業式には出ないというので、娘が「まっかっか」のガウンを持参して着て見せたところ、先生もご自分のガウンを着用して記念写真に納まってくださいました。娘は最後の2年間はアパートを引き払い、日本に帰って来て論文を書いたのですが、それでも追加の調査もあり、先生と面談の必要もあって何回か大学に戻った時には「ずっと泊まって行きなさい」と言って下さった方です。ほんとうに助けられたと娘は感謝していました。でも、そのうちに話がわたしのほうに向かい「あなたは今何をしているの」と聞かれてしどろもどろ。「元始、女性は太陽であった」って英語で何といえばよかったっけ。まあ、なんとかもごもごと(日本語で)しゃべり、娘がいいかげんに通訳して、でも思いがけない交流でありました。足が少しお悪くなったというけれど、先生お元気で。

<その4―パーティまで開いてくださった先生たち>

卒業式の2日前、恩師の先生がご自宅で「娘のために」パーティを開いてくださいました。素敵なアーティストであるパートナーの奥様(絵の展覧会が今ボルチモアで開かれているのですが、毎日ではないため滞在中に行けないのが残念。居間に飾ってあった画をパチリ)とその娘さん、そして最初に娘を指導してくださった老教授(リタイヤされたので卒業式には見えない)や日本人の先生、「学友」だったインド人の青年や日本から留学間もない若い友人など多彩な方がたが集まってくださったのです。そんなところにわたしも出て行くの?とたじろぎましたが、行かねばお礼を申すことができぬ。いつもはうるさそうにする娘が「髪は洗ったか」とか日本から持って来た唯一のアクセサリー(これはらいてうのお孫さんがつくった銀製のチョーカー)を「ちゃんとつけたか」とか。お訪ねしてみればまことに暖かい雰囲気で、大きな手づくりのチョコレートケーキやチーズケーキまで出てくる豪華さ。娘はここでも例のガウンを着用に及んでみんなに祝福されていました。つくづく思ったのですが、いくら数少ないドクターコースだったからとはいえ、このように面倒を見てくださり、パーティまで開いてくださるというのは、日本ではちょっと考えられない。論文執筆中もメールで何回もやりとりし、助言してくださったそうです。わたしは短大で一般教養担当でしたから学生の卒論指導に当たることはありませんでしたが、それでも何人かはこっそりテーマの相談に来たり、下書きを読んでと頼まれたりしたことはあります。つれあいは4年制大学でしたからもう少し突っ込んだ指導もしていたと思います。それでもこの先生方の周到な指導には及ばない、と二人して痛感しました。「一言お礼を」申したかったのは自分の教師体験からみても「ちがうなあ」と思ったからです。

居間に飾られた作品

三段重ねのチョコレートケーキ!

チーズケーキや娘持参の「クッキー」も

和やかな雰囲気で

<その5―ボルチモア美術館を観に>

ほんとうは、時間があったらフィラデルフィアに足を延ばし、バーンズコレクションを見ようというのが唯一の観光計画でした。しかし、近いと言っても車で2-3時間はかかるところです。卒業式を無事に終わらせなくてはついてきた意味がない。フィラデルフィア行きは止めにし、卒業式前日の日曜日はもう一度ボルチモアへ戻ってご当地のボルチモア美術館を観に行きました。マチスのコレクションで知られ、何と通常展示は無料です。小さいけれど、思いがけない絵に出会いました。ゴッホの大きな革靴の底を描いた絵、デュフィ―といえば明るい光に満ちた音楽会場の絵などが思い浮かびますがここにあったのは暗緑色にいろどられた森の絵でした。ミロもピカソも、一目見て誰とわかるというのとは一味違った作品が並んでいたような気がします。この作品収集が女性実業家の手によるという解説があったように思うのですが、帰国後ネットで調べても余り説明がなかったのはザンネン。でも「小さな宝石のような」という賛辞の書込みもあり、十分満足しました。

<その6―「メリーランド クラブ」に挑戦>

卒業式が終わり、一日おいて帰国です。娘がもう来られるかどうかわからないこの地で最後に望んだのは、「メリーランド クラブ」―つまりカニを食べたいということでした。さすがにそれほど安いものではなく、何回も食べたことはないそうです。ふーん、いいでしょうとまたまたボルチモア市内まで車を走らせました。目当てのお店はちょっとしゃれた通りにあります。「メリーランド クラブ」の何が名物かといえば普通のカニをゆでたか蒸したかしただけなのですが、それを丸ごとテーブルの上でトンカチで叩き割って中身をほじくり出すという「野蛮な」作法で食するのが名物らしい。カニも「大中小」とあって「1ダースならいくら」などとあります。何ぼ何でも1ダースは無理ゆえ、「中」を4匹ほど注文し、「クラブケーキ」というこれはカニの身だけでつくったハンバーグみたいなヤツと定番のトウモロコシも頼んで、いざ挑戦。紙のエプロンもしっかり首に巻いて、それでも叩き方が足りないと甲羅が割れてくれない。すると店のお兄さんが寄ってきて苦もなく割ってくれるのです。味付けには溶かしバターがついてきますが、それよりこれもメリーランドスパイスとかいう名前がついた赤い香辛料がまんべんなく振り掛けてあり、七味唐辛子そっくりの色合いですが、それほど辛くなくて美味しかったなあ。これでもうお腹いっぱいになりました。これが今回のツアーで唯一の豪華なお食事でした。それ以外と言えば、着いた日は夜遅かったから近所のコンビニでサーモンロールか何かですませ、朝はホテルに備え付けのコーヒーを入れてやっぱり近所で調達したクロワッサンか何かで済ませればしごく簡単。スーパーでイチゴを3ドルくらいで買ってきたら、酸っぱいけれど大粒のが山盛りで、毎朝3粒くらいずつ食べたものね。ギリシャ料理は「おごって」もらっちゃったし、先生のお宅のパーティではご馳走になってしまったし、それ以外の日でも「この辺では美味しい」という上海料理のお店で小龍包と焼きそば、野菜炒めなど頂いても一人2000円にもならない。ベトナムフォーのお店にも行きましたが二人とも「小」でOK。というわけで食費が全然安上がりだったのは計算外でした。

これがトンカチ

いざ挑戦!

「クラブケーキ」というのです。

まあ結果的には病気にもならず、時差ボケばかりは何ともしがたく夜は1時間おきに目が覚めて、そのたびにヘンな夢を見るというおまけがつきましたが、そのまま日本に帰ってきたから日本では時差ボケにならずに翌日上田のらいてうの家に飛んでいった次第でした。今回の結論。荷物を持たずに済み、機内の座席がビジネスなどと言わず「プレミアム(コンフォート)シート」であれば、まだ飛行機に乗る旅行ができるかも。こういうのを「しょうこりもない」というのでしょうか…。わたしのパスポートは2019年に切れます。もう更新しないつもりなのですが…。これで長ーい「つけたし」は終わり。ああくたびれた。読む方も大変でしたね。すみません。

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時間切れで、アメリカへ出発します。

出かける前に片づける仕事が終わらず、時間切れでアメリカ出発が迫ってきました。またまたブログはストップしますが、あしからず。わたしは海外ではメールも携帯電話も使わない(使えない)ので、それが救いなのですが、今回は6月上旬と8月初めに話をする準備(レジュメ作成)をしなければならないのでそれが気がかり。そして帰国の翌26日にらいてうの家に行き、27日に開館時間より早く訪問したいというグループを受け入れます。せっかく来たいといのに「10時半開館まで待って」とは言えない。気が遠くなりそうです。おまけに友人から「認知症になって妄想がはじまった」高齢者の話を聞き、「明日は我が身」と思うとそれだけでも生きる希望がなくなっちゃう。人に「頑張って」などと言えるものですか。「3.11」のとき津波が来ると言われても避難しなかった高齢者(助かったのですが)が、「だいじょうぶ」と思っていたのではなく、「もう生きていても仕方がない」と言う気分だったという証言があったそうです。安倍政権の「改憲発言」と言い、「共謀罪」といい、そして沖縄返還45年の5月15日にも辺野古の工事はやまず、「長生きしすぎた」という思いがつきまといます。

でも、だからノーマ・フィールドさんが語ったように、「絶望」の地点から自分の言葉を発して抵抗しなければならぬ。若き日のらいてうが「発狂」するほどの自分とのたたかいのなかから「自分の主人は自分である」ことを発見して行ったように。

とまれ、6月には紀要の校正がきます。もう直さないつもりだけど、なにしろ70ページ余りの冊子にわたしは5回登場するのです。昨年のシンポジウムの記録2本の発言分と、昨年の記念事業の「まとめ」と、「太陽光発電問題と反対運動の経過」と「『平塚らいてう資料の概要』―日本女子大学平塚らいてう賞受賞に寄せて」と。おまけに8月までにブックレット「新らいてう伝」を書かねばならぬ。そして6月末に長野県阿智村の「満蒙開拓平和記念館」を訪問、現地で「聞き書き」に取り組んでいる方や飯田女性史研究会の方に会ってきます。

甲状せんはどうなっちゃうのだろう。痛みは少し減りました。6月には自分の病院へも行かねばならず、5月にらいてうの会が忙しくて付き添ってやれなかった姉の病院通いにもつきあいます。大船渡も行きたいが、とても時間が取れそうもない。以上「行き着く処まで行ってみよう」の行動予定でした。無事にアメリカに入国できて、生きて帰ってきたらまた報告しますね。

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10日間もブランクになったワケ 

連休明け以来やまんば日記がストップしてしまったので友人たちから「どうしたの?」と心配されました。ありがたきシアワセであります。

お察しの通り、超多忙でした。連休明けの9日には「ふぇみん」という新聞から「女性文化賞のことで取材を」と申し込まれて会ったのですが、取材記者も写真を撮りに来たカメラウーマンもすてきな人で、「4時まで」のはずが5時近くになり、おまけにそのカメラウーマンの写真展の案内や本のことも教えてもらって興味津々と相成りました。翌10日はらいてうの会の役員会で、その後三越劇場へかけこんで三度目の公演となった源川瑠々子さんの一人芝居「三毛子」を観に行き、翌11日はうちで一休みと思ったのに、はたと思い出したのは9月に南京で開かれる「歴史認識と東アジアの平和」フォーラム実行委員会があることです。2003年以来日中韓三国回り持ちで開いてきたフォーラムもそろそろ「御用納め」と思ったのですが、今年は南京と聞いて心を動かされ、そのうちに「ラストツアーとか言ってるから開会あいさつ要員に」などと言われてなにやらいかねばならぬ雰囲気になりました。

くたびれて夜遅く帰ったのに、翌12日にはらいてうの家の薬草園開きに早朝発日帰りで駆けつけました。毎年ヤマザクラが咲くころに行われる「開山式」と銘打った儀式で、所管の長野県庁からも人が見え、じっさいの管理をする長野県薬剤師会や上田保健所、ボランティアで薬草園を守ってきた生薬組合の方がたなどが出席、四阿山にお酒をささげて安全祈願をするのです。らいてうの会は小さな瓶ですが上田市で創業300年を越える老舗岡崎酒造にお願いしてつくっているらいてうさんのお酒「無限生成」を献上するのが恒例で、今年はお酒と一緒に「太陽光発電設置反対」のニュースも持って出向いた次第。午後は早めに上田駅に送ってもらい、夕方4時過ぎに東京駅着。まっすぐ帰ればいいのに、明日まで浜松町でかのカメラウーマンの写真展があることを思い出し、「5時半閉館に間に合う」とばかり足を延ばしてしまいました。浜松町は近いけれどそこからの行き方がわからず迷い、5時近くなってやっとたどり着き、でも観に行った甲斐がありました。「三毛子」と写真展「人権という希望」のことは後で紹介しますからね。

やっぱ、無理したんだ。2日前頃から甲状腺が腫れ始め、13日朝には今までとは別のところがつばを飲み込んでも痛い。この前検査した時「腫瘍が二つある」と言われた通りです。やむなく13日の朝は専門病院に行く前にいつものお医者様へ。先生は大事を取ってエコーで調べてくれましたが「だいぶ大きいですね。28ミリくらいある」ですって。「痛いんですけど」と訴えましたが「まあ良性だから心配しないで」とのこと。おそるおそる「実は18日から1週間くらいアメリカに行くのですが(これをダメと言われると切符もホテルもアウト)」と聞くといともあっさり「だいじょうぶですよ」。ほっとしたというか、がっかりしたというか、もっと重症だったら大威張りで「らいてうの会長をやめさせて」というところなのに・・・。

なぜアメリカにいくかって?娘がアメリカの大学で学位を取り、しかし職は決まっていないので、もう学生ビザでアメリカに暮らすことはできない。じゃあ「ラストアメリカ」だと卒業式に行く気になったワケ。じつは30年も昔、彼女の高校の卒業式に出ませんでした。忙しかったのですが「高校を出ればいっちょまえ。保護者出席でもあるまい」と行かなかったのです。ところが2年後弟の高校卒業式にはPTAの役員をしていたのでやむなく出席。娘にイヤミを言われ「次にあなたが盛大な卒業式をするときは出てあげる」と約束したのです。勿論それはもう時効。ホントは入国の時指紋や写真をとられるアメリカには行きたくないが、アメリカの街は嫌いじゃない。でも行く前にESTAというビザではないが手数料を取る登録もしなくてはならないし、保険もかけておかないと向こうで病気になったら大変。トランプ大統領がオバマケアを廃止したからね,と言ったら「外国人は関係ないの」と笑われました。そして14日の日曜日には地域女性史研究会で「沖縄の女性は立ち上がるというテーマで報告された宮城晴美さんのお話を聞きにまたでかけ、15日は税金の納付などにかけ回った次第であります。

そのあいだに13日の夜にはETV特集「暮らしと憲法 第2回外国人の権利は」を見たし、原稿もふたつ書きました。その一つは例のガリコ美恵子さんの本の紹介です。出版に尽力された正治怜子さんから「なかなか書評に取り上げてくれない」と聞き、せめて懇意の『婦人通信』に売り込んで見たら「あなたが書くなら」と。喜んで書きましたが小さな雑誌ゆえ、なんと「全部で180字くらい」とはあんまりな。長い文章はいくらでも書けるが(このブログも然り)、短くて核心を表現するのは大変と思い知らされながら、書きました。おまけに『紀要』10号の入稿がやっと進み、担当者はベテランなれど今は闘病中なのに編集をやってくれているので心配しながらまだ来ない原稿を追っかけたり校閲したり。姉のことも気になりますが、いまは我が身を心配しなくてはならぬ。雪見の季節ではありませんが「いざゆかん夏日に転ぶところまで」の心境ですね。以上言いわけでした。なんだか体中が痛い。

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 5月5日は「すももももももモモのうち」を観ました。

5月5日は「子どもの日」。だからというわけではないけれど、阪口美由紀さんに誘われて劇団「楽塾」の「すもももももモモのうち」を観に行きました。連チャンで夜の芝居見物はいささかきつく、食事が不規則になったせいか少々体調不良になりましたが、無事終了。「骨折」騒ぎの阪口さんも、心配で足元ばかり見ていたのですが、元気いっぱい歌ったり踊ったり。「還暦記念に」と「1万人のゴールドシアター」に応募されたとは思えない軽やかさに脱帽しました。

このお芝居は、かのミヒャエル・エンデ『モモ』から着想したオリジナルミュージカル、灰色の男たちに時間を盗まれ、やたらにせかせかと駆け回るようになってしまった街の人びとに不思議な女の子のモモがいのちの危険をおかして話しかけ、ついに盗まれた時間を取り戻す、というおなじみの物語がベースです。40年以上も昔の子育て時代、わたしは子どもたちを「早く早く」と急きたてながら保育園と職場を駆け足で往復する日々のなかで、『モモ』を読みました。年を取った今、すこしはのんびりできるようになったかと思いきや時間はあっという間に過ぎて行き、なんだか「時間泥棒」されているような気分はいっこうに抜けません。現代の「灰色の男たち」は誰だ?

と怒るのは後にして、阪口さんは「モモ」と「灰色の男」の「真逆の2役」をこなす熱演でした。でもやっぱりよかったのは、ラストシーンでモモのシンボルであるモシャモシャの髪がはみ出した帽子と継ぎはぎだらけのコートを着て現われ、「ワタシがモモです」と宣言するシーン。8人もの「モモ」が登場するのです。これぞ「子どもの日」にふさわしいイベントでした。思い起こせばかのゴールドシアターの「ロミオとジュリエット」の時もわたしたちは「14歳のジュリエット」になったのですが、ここでの「モモ」は正真正銘子どもそのものの純な魂を表現しているのです。そのひとり阪口さんがなんと輝いてみえたこと!

帰りにアンケートを求められたので「帽子とコートでモモになるときがステキ」と書きました。だって次々に現われるモモたちが、帽子とコートをまとった瞬間にあどけなくカワユク美しい子どもに変身するのですからね。出口で阪口さんと握手。そういえば受付のとき,「プレゼントはこちらへ」とあったので持参した小さな花かごを託したのですが、無事届いたかしら。わたしの勝手な思い込みで、彼女にはピンクや紫よりも「おひさま色」のオレンジがいいと思ったのですが…。岡部哲郎さんの「Junp」するネコの絵はがきを添えて。さすがにくたびれて帰り、お風呂もパスして寝てしまいました。今は6日に夜明け。阪口さん、今日も元気でね。以下、プログラムの言葉から引用。「ないモノだらけはあるもモノだらけ」がいいですねえ。

♪ある日突然やってきた モシャモシャ頭の裸足の子

お金なんか持ってない きっとお風呂もはいってない

勉強だってしたことない 玩具も全然持ってない ないモノだらけの奇妙な子

ないモノだらけはあるモノだらけ モモという名のかわった子 モモという名の不思議な子

 

 

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2017年5月、今年も松井朝子パントマイムを観ました。

今年も、井の頭公園近くのスタジオで、「東日本大震災支援チャリティ」の松井朝子パントマイム公演が開かれました。2月にお母様の絵本作家まついのりこさんが亡くなられ、「ことしはできるかしら」と案じていたのですが、「まついのりこ追悼」を合わせて、5月4.5日と2日間もやることになったそうです。「これは満員」と予感して、4日は午後6時半開演なのに5時過ぎには駆けつけて「4番」という番号札をもらい、待つ間にまついさんの本『あの日の空の青を』と絵入りのクリアファイルを買い、5時半開場と同時に一番先に乗り込んで奥のいす席を確保、「まだ時間がありますから外へ出てもいいですよ」という案内も辞退して、本を読んで開演を待ちました。

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プログラム。カットはまついのりこさん

今年のプログラムは、まついさん追悼の意味もあってお姉さん(つまり、まついさんの娘さん)の「壁画作家」松井エイコさんも登場してお母様の思い出話や紙芝居もあり、楽しい雰囲気でした。わたしは毎年見ているけれど一番好きな『壁』もやってくださったので満足。これって「見えないものが見える」パントマイムの真髄みたいな気がしているのです。ドアがあるはずの壁がいつの間にか出られなくなり、天井も壁もどんどん狭くなって押しつぶされそうになる・・・。なんだか現代社会を象徴しているような気がします。まついさんの本のなかで繰り返し語られているのは、お父様(つまり松井朝子さんのおじいちゃん)が戦時中経済学者だったのですが、学生に「REVOLUTION」を教えたという疑いで逮捕され、敗戦後まで1年7か月も獄中におかれ、釈放後健康を害して早く亡くなってしまわれたことを思い出すと、このパントマイムが松井朝子さんにとっても深い意味があるんではないかと思われました。

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まついのりこ著『あの日の空の青さを』 絵は松井エイコさん。色が淡いせいか、スキャンがモノクロと認識してしまった…。

というわけで今年は何時にもまして「平和」のメッセージが強く語られた公演でした。「共謀罪」が実現したら何百何千ののりこさんのお父さまが生まれるだろう。その前に戦争で命を落とすことをうたがうことができない若者が育てられてしまうかもしれない。前日安倍首相が「九条に自衛隊条項を入れて、2020年に憲法改悪施行」と叫んだことを思うと、「言葉を語らない」マイムが雄弁に訴えている「平和」を改めて心に刻みました。

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施行70年の憲法記念日に-「三権分立」が危うい 17.5.3

憲法記念日の今日、安倍首相は「2020年に改正(改悪)憲法施行」と断言したそうです。「オリンピックに合わせる」とはなにごとか。あと3年しかないじゃん。せめてわたしの目の黒いうちは憲法を変えさせないでおきたいと思ったのに、これじゃまだ生きているかもしれない。それにしても選挙の時はだんまりを決め込んでおいて多数をとったけれど、その国会では野党の抵抗もあって、なかなか「改憲」の論議は進まない。それで今度は国会ではなく日本会議主導の集会でメッセージを発するのは言語道断。一国の首相が国会に圧力をかけるのですか。いつか言い間違えたように自分が立法府の長だと思い込んでいるのではないかしら。まさしく「立憲政治」の危機です。

その安倍首相を「平和を守ると言っているのだから戦争の危険はない」と言った裁判官がいます。4月28日の「安倍首相靖国参拝違憲裁判」で東京地裁が出した1審判決です。これはすでに報告しましたが、見た範囲での新聞報道を貼り付けます。判決で「安倍は平和主義」と言った部分を報道しなかったのが産経と朝日だったというのは、苦々しいというか「さもありなん」というか(読売と赤旗は未見)。裁判所がこれじゃ、「三権分立」もあやしい。

ここでうっかり「安倍に石を投げたい」などと書いたらたとえ読む人が少ないブログでも広汎に呼びかけたことになり、「共謀罪」で捕まっちゃうかしら。いえいえ、あくまでも言葉を力にたたかわなくてはなりませんが。以下各紙の切り抜きを。

2017年4月19日付朝日新聞

同じく毎日新聞

同じく産経新聞

同じく東京新聞

同じく信濃毎日新聞

 

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らいてうの家は、4月29日オープンしました! 

オープン準備は慌ただしく、24日に展示資料の補充を決断して、29日の朝わたしが運ぶことになり、らいてうが戦時中「疎開」していた茨城県戸田井で日めくりの卓上型カレンダー日記にメモを書き込んであるナマ資料を持って行きました。「昭和18年(皇紀2603年)とありますが、じつは同じ年の卓上日記が2冊あり、書き込まれた記述がほんとうにその年の記録か判断しかねるという「難物」です。ただ、わたしは持参したほうが臨場感があり、また「昭和18年(1943)」ごろにはまだ生活にゆとりがあって、餅つきをして東京からやってきたお客に振る舞ったり、野菜を植えたり、川の土手で月見をしたといったメモであるところから、こちらはある程度1943年ごろの生活を反映しているのではないかと思っています。途中に「イタリア降伏」という記述もあり、これは間違いなく1943年9月ですからね。翌年になると、もうヤミでも食糧が買えなくなり、男の奥村博史でさえ「ご飯は1膳だけ」という耐乏生活になって行きますから。

解説には、「茨城県戸田井に疎開したらいてうが日々の生活を書きとめたメモふう日記。この地で山羊を飼ったことは自伝に出てくるが、ここには<山羊の乳が出ることを発見。/子供が出来てゐたのだった。/生れるのは多分7月であらう>(5月25日)とある。このほかにも<この夜/はじめて、木の葉づくをきく。天神山の椎の木にゐるものらしい>(5月10日)、<月明、/川風涼し/堤に縁台を出し/甘酒のあついのを/のむ>(7月16日)など自然と向き合う様子が書かれている」と書きました。今年の展示のテーマは「自然とともに生きたらいてう」です。地元の東信ジャーナルでは、「らいてうは人生の岐路に立つたびに自然に還ることで生きていく道を見つけてきた」というわたしの発言を紹介してくれました。戦時下にあって迷い、動揺したらいてうが、このまま東京にいたくない、と決心して戸田井へ「緊急避難」したというのがわたしの見解です。ついでに言うと此の展示は太陽光発電問題に対し、らいてうにとって「自然」の意味は何であったかを考えてほしいという思いを込めています。事業計画者たちは見に来てもらいたい。

さて、29日当日は晴れて、オープン日和になりました。今年のイベントは男性コーラス「我謝(がじゃ)」のみなさんのご出演です、最初に、いきなりらいてうの「元始、女性は太陽であった」(作曲は小林南さん)を歌って、わたしたちの度肝を抜きました。いつもは上田らいてうの会の杉山さんが「自己流よ」といいながら(頼まれなくても)歌ってくれるのですが(これも結構好評)、こちらは「楽譜通り」だそうで「なるほど」と感銘。これまで女性コーラスや混声合唱はお招きしたことがありますが、「純」男性コーラス(ピアノ伴奏は女性)は初めて。10人のメンバーで何十人もの大合唱みたいに聞かせてくださった腕前には、ただ拍手。曲目もロシア民謡から「五木の子守唄」、軽快な「三匹の蜂」からアンコールでは「ごんべがたねまきゃからすがほじくる」をユーモアたっぷりに歌い上げて会場を沸かせました。

我謝のみなさん

プログラム

会場はぎっしり

その後、これも恒例「コラボ食堂」のお弁当と、やはり毎年来てくださる石州流のお茶席(以上は有料ですゾ)。どこにいたのかと思われそうですが、ベランダにもロフトにもいっぱい入って出演者を入れると80人以上集まりました。お天気も何とか持ちこたえ、夕方遅く帰る私たちは山道で雨にあいましたが、まあまあ無事に終わりました。これから11月まで走らねばならぬ。真田丸ではないが、まなじりを決して「いざ出陣」です。皆さん来てくださいね。

名物コラボ弁当

宮島満里子先生総指揮
石州流のお茶席

昨年のイベントが無事に終ったことに思いを込め「無事」の掛け軸のしつらえ

 

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