ヨガでコケたら…大騒ぎの巻  

ヨガに通い始めて一年経ちました。毎週一回を皆勤したとは言えず、40回に満たなかったと思うけれど、それでも効果抜群だったという気がします。運動能力アップにはなりませんでしたが、駅の階段の上り下りを苦にしなくなりました。但し荷物がある時はダメですが。このごろ買いもので一番大変なのは、大根、キャベツ、白菜、ジャガイモ、夏ミカンなどを買って持ち帰る時。最近吉祥寺駅前の繁華街に出現した八百屋さんが安くて味もまあまあなのでまとめて買いに行くのですが、そこからバス停まで歩き、バスを降りてからもウチまで運ぶのに一苦労。でも、荷物のないときはすいすい歩くから、これはヨガのおかげにちがいない。

と思っていたら、今日はちょっとした事件が…。片膝を前に立てて両手を広げ、「飛ぶ鳥」のようなポーズをとるところまではできたのですが、そのまま片手を空高く上げながら上体を傾けたところでふらつき、派手にたたらを踏むような格好になりました。つまり「平衡感覚」を失ったわけ。あわや後ろにひっくり返りそうになったところをなんとか踏みとどまりましたが、さあそれからが大騒ぎ。真っ先に先生が飛んできて「だいじょうぶ?頭打たなかった?」と抱きかかえんばかり。そりゃそうだ、ご自分の授業中に事故が起ったらたいへんだものね。おまけに周りの人たちもわっと声をかけてくれるのです。

じつはこれには前段があって、そのひとつ前のポーズのとき、うつぶせの姿勢から顔をあげて胸を張り、どこまで顔があげられるかを教えていただくシーンがあったのですが、先生がやったのでは見事すぎてついて行けそうもない。そこで「あなた、ちょっとみなさんの前でやってみて」と指名されてしまいました。「ははあ、わたしにできれば皆さん誰でもできるというわけですね」と返事したらみんな爆笑。何とか最低のポーズで「合格」したのですが、けっこう緊張していたのではないかしら。それでコケたと思うのですが、世間様はそうは見てくれない。終わってからも皆さんに「だいじょうぶでしたか」と聞かれてしまいました。やれやれ。先生には「来週もがんばってきますから(出入り禁止にしないで)」とお願いしてきました。こうなると、らいてうの家に行くために休んでも「あの人、いよいよダウンかしら」などとウワサされるかもしれないなあ。

ついでに言いますと、わたしのヨガの先生は、「足の小指の下を刺激すると首の動きがよくなる」などと一見奇想天外な説明を理路整然と実際に試しながらしてくださるのと、ポーズを決めるとき「大きな声で笑いましょうねえ」とおっしゃるときのご自身の笑顔がすてきなので,敬愛措くあたわずというところです。先生、どうか見捨てないでくださいね。

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「地下鉄サリン事件」から22年―そのときわたしは―  

3月20日、「地下鉄サリン事件」から22年経ちました。同じ年1月17日の阪神淡路大震災の朝は、風邪をひいて勤めを休んでいて、自宅でテレビを見たことを覚えていますが、サリン事件のときはソウルにいました。勤め先の山梨県の短大から「一生に一度だけ」海外研修の時間と旅費をもらって、韓国を訪問していたときでした。ひとりで慣れないバスに乗って緊張していたのですが、なぜかバスの車内にラジオ放送が流れ、車内がいっせいにどよめいたことだけが記憶に残っています。もちろんわたしには何のことかわからず、下車後約束してあった通訳の女性に会ってはじめてことのしだいを知りました。

そのすぐ後から山梨県上九一色(かみくいしき)村にあったオウム真理教のサティアンに捜索が入り、教祖麻原彰晃が逮捕されたことを知りました。「ヤマナシケン」「カミクイシキ」という地名が飛び交い、学生たちはどうしているだろうかと思い、でもなんだかそこと縁のある人間だということを知られたくないような気分になったことも覚えています。

帰国後、授業の一環として当時オウム真理教から脱会しようとする元信者たちをかくまい、逃げ出す手助けをした上九一色村民のひとり竹内精一さんを招き、いつサリンやVXなどの猛毒で危害を加えられるかもしれない危険を冒して活動したいきさつを話していただいたことがあります。文字通り「いのちがけ」でした。竹内さんがなぜそういう活動に全力投球したかというと、彼自身が戦時中満蒙開拓青少年義勇軍として中国東北部(旧満州)に送り込まれ、戦後シベリア抑留を経て上九一色に開拓民として入植した経験を持っているからです。「戦争の事は何も知らない」という学生たちに、竹内さんは「あのとき、自分たちは日本が中国に侵略戦争をしているなどとは知らず、アジア解放のために戦っているのだと信じ込まされた。オウムを信じた人たちも洗脳されてしまったという点では戦時中の自分たちと同じ。その誤りに早く気がついてほしいし、気がついた人たちを助けるのは自分の仕事だ」と語りました。

上九一色村は甲府市と富士河口湖町に分割合併の道をたどり、地名そのものも完全に消滅しました。サティアンの跡地は公園になっているそうです。わたしは、古田足日さんたちと共同編集した『わたしたちのアジア・太平洋戦争』(童心社 全3巻)に竹内さんに執筆をお願いしました。森友学園のように「教育勅語」を幼稚園児に暗唱させて「洗脳」を計るような手合いが出てきている今、竹内さんの訴えをもう一度受け止めてほしいと思います。

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「一本のえんぴつ」の主から『あの日から…』(轆轤石文集)に切手のカンパ! 

 

旧知の友人が、ブログを見て『あの日から…』を読みたいと言ってきました。さっそく送ることに。添え書きに「あげてもいいけれど、そうすると多額のカンパをくださる方がおられるので、切手で500円分ぽっきりでいいから送って」と書きました。それなのに返って来た手紙には、これもコレクターが見れば手を出したくなること必至のネウチモノの切手がどっさり。わたしがとっておきたくなるようなきれいな切手でした(これでも戦後中学生のころ切手集めに熱中、なけなしの小遣いをはたいて「見返り美人」など今では幻の切手を収集、20数年後にそれを切手商に売って新婚旅行(じゃない、3年目の記念旅行)の費用にしたことがあります。でもこれは売らないよ)。有難う!

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速水御舟の美しい切手もある

その彼女というのは、新聞などで見た方もおられるかもしれませんが、伊豆高原「風に歌う宿」のキャッチコピーで知られる「一本のえんぴつ」を主宰する女主人おのだめりこさんです。教師を定年退職してから「宿屋の女将」になったというのだから異色。宿の名前は、「一本の鉛筆があれば/戦争はいやだと私は書く」のフレーズでその名を高からしめた美空ひばりのうた「一本の鉛筆」からとったのです。ですからロビーにはピアノが常設してあって、「ここで歌いたい」というグループも見えるとか。素泊まり料金は格安。かくいうわたしも一度行きたいのですが、なにしろ伊豆高原に作った自分の山小屋でさえここ10年間らいてうの家に通うので忙しく、足を踏み入れていないのです。グループで行くのがお勧めですが、空いていれば一人でもOK。切手のお礼に宣伝しちゃった。

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「一本のえんぴつ」案内リーフ。伊豆急富戸駅下車です。

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「森友問題」は日本の右翼勢力総結集の問題だ―毎日新聞の快挙と「稲田防衛相辞任」を迫る意味 

 

今や「森友問題」は、ただ政治家にコネがあって国有地を安く払い下げさせたという問題にとどまらなくなりました。安倍首相の信念である「戦前日本への回帰」に同調する右翼ナショナリストが「森友学園」に総結集していたことがわかってきたからです。その政治家たちがタダ同然で国有地をあっせんしたばかりか、稲田防衛大臣もべったりくっついていたことが、次第に明らかに。この構図を一目で見せてくれたのが、毎日新聞3月15日付の「森友学園製作パンフレット」。同紙は、そこの登場した人びとが手のひらを返すように「無断で使われた」とか「森友学園の教育方針に賛成したことはない」とか、見苦しいばかりの弁明に努めているらしい。パンフレットの写真と記事は、全部載せられないので、主要人物の「弁明」ぶりを、紹介します。 おかしいのは、このパンフに登場しなかった田母神俊雄氏が自身のツイッターで公然と支持し、今騒いでいるのは「反日的日本人の日本つぶし行動」と決めつけていることです。この人が都知事選で何を言ったか都民なら覚えているでしょう。

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毎日新聞2017年3月15日付より抜粋

この森友学園に弁護士としてかかわった稲田朋美防衛大臣が「知らない知らない」と言い張り、けっきょく森友の裁判に弁護士として出廷していた記録が出てくると「記憶にないけれど記録があるならそうでしょう」と認めたというのですから、これはもはや「三百代言」(辞書には資格のない弁護士をそしる意味のほかに、「言葉巧みに相手を言いくるめる」手合いを指すとありますが「言いくるめてさえいないものね)ですらない、ただのウソつきじゃないですか。その稲田を安倍首相が絶対に辞めさせないというのは、辞任を認めれば安倍の任命責任が問われるだけでなく、自分自身の政治信念もひっくり返るということを知っているからでしょう。しかし、「陸自日報」問題でも「戦闘ではなく武力衝突と言わないと憲法に引っかかる(この程度のことはお分かりになっていたらしい)」と平気で言うような「文民」では、文民統制の意味がない。稲田をやめさせ、安倍政権を退陣に追い込む道筋はどうやってつけていくことができるのか…。今夜国会前で集会があるのですが…。

追伸 3月16日夜。 言ったからには、と思い、夕飯をすませてから国会前に行きました。せめて「稲田防衛相をやめさせて安倍政権を退陣させよう」という意思表示をしたいと考えたからです。午後6時半からとあったので1時間くらいはやっているだろうと思ったのですが、7時半過ぎに着いたときはもう終わりでした。日蓮宗のお坊さんがうちわ太鼓を最後まで叩き続けていたのが印象的でした。三々五々帰りかける人の数はそれほど多くなかったような気がします。それでも意思表示だけはしたつもりでした。でもくたびれた…。

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みかづき子ども食堂にもワカメをプレゼント。

うちの近くに誕生した子ども食堂は、月1回から2回になり、毎月第1・第3水曜日に開店するそうです。その日に在宅しているときは、生協へ買いものに行く通り道なので、気持ちだけカンパをもって挨拶に行くのですが、カンパと言っても食事一回分くらいのごくわずかなので、名前を聞かれてもむにゃむにゃと帰ってきていました。ところが何回目かにどうしてもと聞かれ、「ヨネダ」と答えたら「ああ、米田さのブログ、読んでます。らいてうの家に行きたいと思っていたのよ」と言われて身元が割れてしまいました。でも読んでくださっているとはうれしい。

昨日は15日だったので、例の三陸ワカメを持っていきました。「子どもさんが好きかどうかわからないから、みなさんで」と大袋に入れて行ったのですが「ちょうどいろどりに青いものが欲しいね、と言っていたところなの」と喜んで受け取って下さり、由来を話すと「うちにも、フクシマから避難してきたご家族が見えているのですよ。寄って行ってください」と勧められました「でも、今日は家族がいるのでうちでご飯の支度をするのです」と辞退したら「ご主人も一緒にどうぞ」ですって。

いやいやその「ご主人」が、わたしの後にくっついてくるような人ではありませんのでね。昨日も予定を書き込むカレンダーを見ていたら、3月下旬に×にマル印が。うちではこのカレンダーに、帰りが遅い日は×印を、泊まる日は×にマル印をつけ、遅くなるけど夕飯は食べるというときは印をつけるのが長年の習慣です(この時は早く帰る方が夕飯をつくる)。子育て時代はこの印を見て「保育園に迎えに行くのは無印の人」と決めていました。ですから早く印をつけたほうが勝ちだったわけ。今はそういう心配もなくなり、二人同時にバツマル印がついた日は「新聞の取り置き」を連絡するだけでよくなりましたが。それで「ははあ、いつかいっていた札幌在住の教え子に会いに行くのだな」と分かった次第。

というわけなので、固辞して気持ちだけカンパを差し出したら、「じゃあ、ご自分でこのカンパ入れに入れてください」と玄関口においてあったガラス瓶を指すのです。なんだかうれしくなりました。「わたしが一人暮らしになったらここへ来ますね」と言ったら笑って「ウッソオ!」。そりゃそうだ。どっちが先に一人になるかは分かったものではないのにね。で、4月の予定チラシです。うちにいたらまた行こう。

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みかづき子ども食堂 4月の予定(電話は伏せてあります。知りたい方はコメントしてください)

 

 

 

 

 

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今年も大船渡から春ワカメ到来! 

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大船渡の採れたてワカメ(湯がく前です)

この写真、「ヘビのとぐろ」じゃありません。もとは2メートル近くあったと思われる大船渡の三陸ワカメです。昨年もいただきましたがその時は2月で早や採れワカメでした。今年は3月になり、ご覧のとおり大きく育った逸品です。デジカメに収まりきれないので、かくは「トグロ状態」で。茎のところなど親指くらいの太さですが、少し時間をかけて湯がけば、近頃は歯もダメになってきた年寄りでもシャキシャキの歯ごたえと柔らかさを楽しめるのです。送り主は言わずと知れた田中英二さん。市議会議員としてお忙しいのに、朝採れのワカメ収穫に汗を流してから市議会に行かれるのです。

おまけに頂いた量がハンパじゃない。届いてすぐ、とりあえず湯がいてらいてうの会の役員会に持参、フクシマのしょうゆと生姜と一緒に味わってもらい、夜は我が家で賞味。翌日半日がかりでぜんぶ湯通ししました。なにしろ我が家は火力の弱い電気コンロで、鍋も大なべと言ってもパスタ用くらいしかない。10回くらいに分けて湯がき、あちこちに配って歩きました。そのたびに、「東日本大震災の津波で、三陸の海はカキもワカメも全滅したのですよ。それから6年経ってこんなに見事に育ってきたのです」と注釈をつけながら、ね。近くの子ども食堂が開店するので、そこへも持って行きました。昨日お休みだった知り合いのお店には今日持って行こう。春は、もう三陸の海にもやってきたのです。

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『あの日から…そしてこれから 轆轤石仮設住宅の1800日』が新聞で紹介されました(改訂版)。

NHK盛岡放送局に続き、新聞がこの記事を載せてくれました。東京では大船渡の記事はネットで検索しないと出てきません。文集についてどんな紹介がされたか、現地からの知らせを待ちきれずにあちこち検索、岩手日報の記事をみつけました。「仮設生活の苦楽一冊に 支え合った5年記録」という見出しにジーン。以下ネット配信ですが紹介します。3月12日付配信です。img391

この後、現地から新聞のコピーが届きました。こっちの方が詳しい。

岩手日報2017年3月12日付

東海新報も記事を出してくれました。

東海新報2017年3月11日付

読売新聞は、猪川小の子どもの作文も引用、村上さんの感想もよく伝えてくれました。

読売新聞2017年3月14日付

そしてしんぶん赤旗は3月11日付の全国版で。こちらは東北以外のみなさんにも伝わったと思います。

しんぶん赤旗2017年3月11日付

「支援員」の役割にふれているところが「わが意を得た」思いです。そのSさんは仕事が忙しくてここには出席できなかったけれど、彼女の目配りがあって可能になった記録誌でした。

私がボランティアに行くとき、いつも立ち寄っては新聞を読ませていただく共産党の大船渡市委員会(田中さんがいるところです。『赤旗』だけでなく岩手日報、東海新報、河北新報、それに朝日新聞も読売新聞もみんなあって図書館みたい)では『青空』というミニコミ紙を出していて、これがけっこう地域ニュースを載せたり俳句や短歌も載っていて面白いのですが、そこでもなんとわたしの写真入りで紹介してくれました。ハズカシヤ。

『青空』2017年3月号(大きいので一部だけ)

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