カッコいいスニーカーを履きたい 

骨折一カ月を過ぎ、整形外科に行きました。「名医」の評判高い医院ゆえ超満員で1時間半待ち、やっとレントゲンを撮ってもらって診察へ。足首の「ひび」の入ったところはもやもやとしてふさがりつつありますが、まだ完全にくっついていません。「だいぶ良くなっていますが、まだもう少し」という説明に納得。「骨折には日にち薬」と教えてくれた友人がいましたが、もう痛み止めの薬も要らなくなり、あとはひたすら回復を待つのみ。でも、「サポーターを外して、足首の曲げ伸ばしをしっかりやってください」とのことでした。これをやっておかないと足首が思うように動かなくなって歩けなくなる?からです。「リハビリに来てもいいですよ」と言われましたが、あまりの「混雑」におそれをなし、「少し自分でやってみます」と言ったら先生も「ようすを見て心配だったらくればいい」と言って下さいました。ついでに「6月下旬に岩手県方面まで行きたいのですが」と聞いたら「それまでにはだいじょうぶ」とおゆるしが。杖持参でリュック背負っていきますから、と言い訳するまでもありませんでした。

でももうしばらくはサポーターをしておいた方が安全。「サポーターしたまま履ける靴も買おうと思うのですが」とお伺いを立てたら、「介護用ではなくて普通のスニーカーでよろしい」とのことでした。しめた、一度カッコいいスポーティなスニーカーを履いてみたかった。サポーターしなくてよくなったら厚手のソックスで調節すればいい、と帰る道々歩いている人の足元ばかり見て歩き、ブランド名を覚えました。以前「踵骨棘」になった時買った上等な革製のスニーカーは、足幅を計測してもらって買ったのでふだんの履き心地はいいのですが、今は足が腫れていて入らない。「腫れが引くのは最後です」とのことゆえ、当分は「アヒル」みたいに大きな靴で「闊歩」しよう。これで「骨折騒ぎ」の記はオワリになりますことを。

岩手県というのは、一昨年女性文化賞の縁でお会いした千田さんに会いに行きたいのです。ついでに全線開通した三陸鉄道を始発の盛駅(大船渡)から終点の久慈駅まで乗ってみたい(これは先生にはナイショ)。そしたら大船渡にも行けるもの、とひそかに思っているのですが、それまでに原稿が書けるかどうか・・・。今年の女性文化賞も探索を始めなくてはならないし。ここ数日、「永原和子さん追悼文」「平塚らいてう『戦後日記』」書き起こしの紀要収録によせる解説」、懸案の「全国女性史研究交流のつどい」のWANミニコミ図書館収蔵の手続き、「骨折」直前にすったもんだしながら書いた「女性の戦争体験論」の校正(書き直しを含む)、そして5月26日の新婦人協会100年連続らいてう講座「100年前の女の元気」のレジュメつくりと目が回るような仕事にに追われ、ほとんど徹夜を繰り返しています。本業の『らいてうブックレット』が全然書けない。スニーカーなどにうつつを抜かしている暇はないのですが・・・。

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「杖をついて歩く」の巻―「骨折初経験」の記(つづき) 

足首の骨折(ひびが入ったていどですが)から1か月たちました。「これで最初の最後」にしたい(こんど転んだら「寝たきり」になる?)ので、生まれて初めての経験を観察しつづけています。「個人的なこと」ですが「だれでもどこでもやること」だと思いつつ。

まず、ギブスは先週外してもらい、サポーターになりました。夜はしないで寝てもOKです。これも最初はしめつけ方の加減がわからず、きつく締めすぎてかえって痛くなりましたが、数回練習してちょうど良い締め方を会得しました。ギブスのときは靴が履けず、捨てるはずだったおんぼろスリッポンシューズを踏み潰してつっかけていたので歩くのが困難でしたが、なんとか履けるようになり足元が安定、階段の下りはまだ片足ずつですが上りはぎこちないですが普通にのぼれるようになりました。それでも駅などではエスカレーターかエレベーターをさがすようにしています。

それで分かったのですが、駅の乗り降りは大変だということです。駅のエスカレーターは階段の一方にしかついていないところが多く、吉祥寺駅で上りエスカレーターを使うと東京駅で新幹線の自由席に近い改札口から離れた乗車口の改札に着いてしまいます。どっちにしてもホームをかなり歩かなくてはならない。エレベーターに至ってはなぜか自由席車両から離れたところにあるのがふつうです。ケッサクなのはわたしがいつもらいてうの会事務所に行くために新宿駅で地下鉄都営大江戸線新宿西口駅に乗り換えるときです。行きは中央線ホームから西口改札に出るエスカレーターがありますがそこを出ると階段があります。そこを下りると地下鉄の改札まではエスカレーターがあり、春日駅でもエレベーターとエスカレーターでバス停まで出られますが、問題は帰りです。新宿西口駅までは歩かなくて済みますが、そこを出てJRの西口改札へ行く通路には階段しかない吐露があります。おまけにそこから改札を入ると中央線のホームへ上がるのに階段しかないのです。10年位ここを利用していて階段を上っていたのですが、今回駅員さんに聴きました。「西口改札から入ると中央線のホームに上るエスカレーターはないのですか」。すると「イエス」という返事です。「回り道をしても階段を歩かずに行く方法はありませんか」と聞いたら「どうしてもそうしたかったら5番線まで行ってそこからエスカレーターで南口に上り、そこから11・12番線へエスカレーターで下りられます」ですって。西口改札は16番線が目の前なのですよ。そこから奥に引っ込んだ5番線まで歩いてまた引返すのですか?とうんざり。昨日は階段を使って事務所まで往復したらくたびれ果て、夜うたた寝してしまった…。

それでも昨日は高齢者センターから借りた杖をついていたから階段を上り下りすることが出来ました。こうなるとカートはかえって荷物になるのです。持ち物はリュックにして背負い、杖を持って歩いていると、まあみなさんが親切にしてくださること。シルバーシートでなくても席をゆずって下さる方に次つぎ出会い、階段もはじっこの手すりをつかんでしずしずと降りるのを、だれも追い越す人はいません。まあ、杖を持っていなくても「やまんば」であることは一目瞭然ですからね。帰りのバス停でも、たどり着く前にバスが来てしまい、あと1メートルのところでむなしく発車してしまったのですが、なんとその直後に停まって乗せてくれたのです。停留所以外のところで客を乗せるのはご法度のはずですが、きっと「停留所の範囲」と判断してくれたのですね。

ところが今日も出かけたのですが、なんと杖を忘れて出たのです。玄関から3階分階段を下りたところで気がつきましたが、また階段を上がる気がせず、「もう大丈夫だろう」と持たないまま出たのですが、これは判断ミスでした。おまけに中央線快速が遅れ、いくらかいそいだせいもあったかもしれませんが、「独立独歩」で数千歩も歩いたらくたびれました。ほんとは帰りにひもで調節できるスニーカーを買おうと思って靴屋に寄ったのですが、歩き過ぎたせいかお目当ての軽そうなスニーカーにサポーターを巻いた足が入らず、店員さんに相談したら、「これはおしゃれ用ですから細身です。もっとゆったりしたもののほうがいい」とにべもなく却下、この日買えば「55歳以上は10%引き」とあったので買いたかったのですが気がなえてあきらめました。当分今のオンボロ靴で我慢しよう。帰る途中で携帯に電話が入り、注文した杖が届いたとのこと。やはり杖を忘れまいぞ、と言い聞かせて本日は一件落着しました。これで6月までに治るだろうか…。

 

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訂正

訂正 最初に公開したこの記事中、婦人国際平和自由連盟の略称を書き間違えました。「WILPF」が正しい。いつも間違えるのはLを「liberty(自由)」と錯覚してWIPLFと書いてしまうのですが、このLは「League(リーグ)」で、「自由」はFreedomらしい。

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 WILPFの談話―NPT準備委員会の「勧告不採択」の評価をめぐって 

今日は「母の日」。つれあいは今伊豆の山小屋で論文を書いています。パソコンが不具合で機嫌が悪かったのが、直ったので勇んで出かけた次第。わたしはひとり暮らしです。少し歩けるようになったけれど一歩も外出せず、しょぼしょぼ目を酷使して原稿を書こうと思いましたが、意に反して進捗せず、「骨折」前に書いた雑誌原稿の校正が出てきてしまったので、そっちにも気を取られ、おまけに娘が出先から急ぎの用があったのに「何べん電話しても出ない」と抗議メールがくる始末でした。固定電話のベルは最大限に大きくしてあるからいくら「老人性難聴」でも聴こえないはずはないのだが、昨日の眼科と言い、電話の音と言い、もはや「行き着くところまで」来てしまったのではないかと心穏やかならぬ一日でありました。それでも上田市の太陽光発電問題条例骨子案への意見は出さねばならぬ。書きはじめたらA4でびっしり2枚、2000字も書き、これじゃ役所で読んでくれないのではないかとまた落ち込みました。

それなのに気になることを書きます。来年2020年は5年に一度開かれるNPT(核不拡散条約)再検討会議の年で、その準備委員会がニューヨークの国連本部で開かれていましたが、来年の会議の指針となる「勧告」を合意することが出来ないまま5月10日に閉会したというニュースです。まとまらなかった主な理由は米ロ英仏中の核保有国が、「核兵器禁止条約について多くの国が支持、NPTを補完するもの」と認め、「核兵器の完全廃絶の明確な約束の再確認」を求めるとした「勧告案」に反発、特にトランプ大統領のアメリカが反対して紛糾、「全会一致」を原則とする「勧告」採択が出来なかったということでした。朝日新聞の解説では、このままでは来年の再検討会議でも「最終合意文書」の全会一致採択が見通せず、2015年に続いて不採択になればNPT体制は弱体化につながりかねない」(同紙2019年5月12日付)と書いています。えー、がっかり、と思ったのはわたしだけではないだろうと思いました。

しかし、別の報道で婦人国際平和自由連盟(WILPF)の軍縮プロジェクト「リーチング・クリティカル・ウィル」代表レイ・アチソンさんの談話を読んで、少し元気が出ました。彼女は、最終日に出された議長(マレーシアのサイード国連大使)の勧告案は準備委員会の討論の内容を反映して当初案より補強され(「過去の合意の完全な履行を核保有国に求める」ことを明記)、「来年に向けたよい一歩」になったと語っているのです(しんぶん赤旗 2019年5月12日付)。

わたしは9年前の2010年、NPT再検討会議に向け国連に核廃絶を求める要請活動に参加してニューヨークまで行ったことがあります。その時のアメリカはオバマ大統領で、彼がノーベル平和賞を受賞した直後でした。それでもアメリカは自国の核廃絶を約束することはできず、わたしたち平塚らいてうの会は,オバマ大統領に宛ててすべての核兵器をなくす行動を、と訴える手紙を送ったのですが、それでもこの年のNPT再検討会議では全会一致の合意文書採択に成功したのです。その時の記録はわがらいてうの会編集の『「らいてう」ニューヨークへ行く!』という小冊子にして残したので、あらためて読んでみました。

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小冊子の表紙(横断幕を持っているひとりがわたし)2010

じつは1970年にNPTが発効したとき、わたしなどこれは核保有国が「自分たちは核を持って当然だが、他国はもつな」という主張に過ぎないのではないかと疑っていました。しかし、NPTには「全面的かつ完全な軍備縮小に関する誠実な交渉を行う(第6条)」という条文があり、「軍縮」と訳されている「nuclear disarmament」という言葉には「廃止(廃絶)」という意味もあると教わってから考え方がかわりました。NPT発効から半世紀近く経ち、核兵器禁止条約が国連で採択された今、NPTは核保有国の「特権」擁護ではなく「核廃絶」をめざす国際社会の取り組み推進のよりどころとしての役割を問われているのだということが重要ではないかと思います。何よりも、核廃絶に向けた国際的取組みが大きく前進したことによってNPTの意味も変わってきたのだと思えるようになりました。その推進力になったのは何か。一つは、今回の準備委員会の議長がマレーシア出身であったこと、現在までの核兵器禁止条約の批准国と署名国の圧倒的多数がメキシコ、キューバ、ベトナム、コスタリカ、ニュージーランド、フィリピン、インドネシア、マレーシア、バングラディシュ、チリ、ペルー、アルジェリア等々であることがしめすように、世界の平和への動きはもはや核保有大国の思惑では動かせなくなっているという事実。

そしてもう一つは、「女性の力」こそ平和構築の要であることがますますはっきりしてきたことだと思います。ルイ・アチソンさんが属するWILPFは、100年前の第一次世界大戦のとき生まれた国際的な女性の平和団体です。初代会長は1931年ノーベル平和賞を受賞したジェーン・アダムズ。日本にも来たことがあります。今年、日本では新婦人協会発足100年の節目の年ですが、新婦人協会を立ち上げたらいてうが、「母性主義」をとなえたエレン・ケイとともにジェーン・アダムズに共鳴し「女性の文化としての平和」に目を開いたと語っていることは思い出されてよいと思う。WILPFは戦後も活動し、核兵器禁止条約の国連採択にあたっても有力な推進団体の一つでした。らいてうの平和思想を語るうえで重要な意味があると思っています。アチソンさんは「来年に向けて市民として核兵器の非人道的な影響の問題やジェンダーの視点も提起していきたい」と語っています。2010年にNPT要請団に参加したのは、そういう縁を感じたからですが、来年東京オリンピックは見なくてもいいから(どうせ入場券を入手できない)、ニューヨークへもう一度「NPTに基づく核兵器廃絶の誠実な交渉を」と訴えに行きたくなってしまった。本人はもう「骨折」までしているというのに、これは殆ど妄想だよなあ。おまけにパスポートは今年中に切れるのに、このトシで更新するつもりかしら。でも、アチソンさんが「核の傘のもとにあるいくつかの国が勧告案を認めながら、保有国を支持するためだけにそれを放棄した」と批判、これって日本が入ってるんだよね?とはずかしく、せめてわたしたちの意思表示をすべきではないかと思った次第です。

 

訂正 最初に公開したこの記事中、婦人国際平和自由連盟の略称を書き間違えました。「WILPF」が正しい。いつも間違えるのはLを「liberty(自由)」と錯覚してWIPLFと書いてしまうのですが、このLは「League(リーグ)」で、「自由」はFreedomらしい。

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「骨折日記」つづき―地域包括支援センターで杖を貸してくれました。

「在宅介護支援」をうたう地域包括支援センターに「介護認定」申請の相談をしたのですが、骨折のギブスがとれたら気が楽になり、足首サポーターを巻いてそろりそろりと歩いています。10日朝は新聞古紙回収とゴミ出しで3階からの階段を2度往復しました。これはいつもつれあいの仕事なのですが、今は伊豆の山小屋に家出中。昨夜電話してきて「どうしてる?」というからいちおう心配しているのだと思います。

それからかかりつけのお医者さまに「何時でも診断書は書きますが、あなたの状態では認定されないかもしれないよ」と笑われたことを思い出して上記センターに電話をし、ギブスが取れて歩けるようになったので、もう少し自力でがんばってみますと伝えたうえで「でも杖をもつように言われたのですが相談したい」と自宅に一番近いバス停から3つ目のバス停1分というのを確かめ出かけました。高齢者センターのなかにあるのですが、職員の方は超親切。「ここでは見本を置いてあるだけですが、持ち具合のいいのをえらんで近くに専門店がありますからどうぞ」といろいろ出してきてくれました。まずは簡便な折り畳みがいいというとそれもだしてくれ、杖の長さはこれくらいでどうかとか、「実際に歩いてみてください」と確かめてくれました。たたむのもそれほど力が要らないこともわかり、おまけに「1週間くらいなら貸し出しもしますから」と、簡単な借用書にサインして借りることに。ねんのために介護保険証も持って行ったのですが、そういうものは一切不要でした。

ついでにセンターのすぐ裏にある専門店へ寄り、「これと同じスタイルで」と見せてもらいましたが、なんだかずいぶん華やかな絵柄で気恥かしい。カタログでもう少し地味なのを取り寄せてくれるというので、それまでは「借り杖」です。「高齢者センター」という大きなシールがはってあり、「借りものなら忘れないだろう」と満足。お値段も以前姉にデパートで買って行ったよりはるかに安く、これも満足。

そこまではよかったのですが、元気になったからにはすぐ行きたいところがいっぱいあって今日はまず眼科へ。ここはシルバーパスではなく100円の市民バスが近いのでそれでご無沙汰の言い訳をしながら、4か月ぶりに診てもらいました。検査の結果視力はがた落ちで、先生も「もうこりゃ白内障の手術をしたほうがいいねえ」とおっしゃいます。それは自覚していてパソコンももう夜は鳥目じゃないかと思うくらい見づらくなってきているのです。「原稿が書けたら」というのが言いわけだったのですがそれはまだ書けません。先生も「どっちみち今から申し込んでも2.3か月先だし、暑いときは避けたいしねえ」というので「では涼しくなるころまでには何とか書き終えますので、秋口に」とおねがいしてそれまでは点眼薬を切らさないようにと約束して「釈放」されました。

そして時間がまだ少しあると思い、やはり2か月あまりご無沙汰していた老人ホームにいらっしゃるらいてうの家大好き」のOさんのところへ吉祥寺からバスで行けるので思いきって出かけました。電話しても出ないのでお留守かと思いましたが行ってみたらご在宅で、骨折のいきさつを報告しがてらご無沙汰のお詫びを申しました。もって行ったお土産は、「パリ土産」というのも恥ずかしいのですが、あのノートルダム寺院の絢爛たる絵はがきとピカソの絵はがき。モネの睡蓮をあしらったボールペンと日本の切手数枚。それにいつかクラッカーがいいと言われたのでクラッカーとじつはパリのスーパーで買ったカラフルな紙ナプキンでした。あとそれに先日上田で買ってきたみすず飴も。そしてもう一つ真田の古い会員さんで体調を崩され今は役員をおりた方が「Oさんに」と自宅で採れたぎんなんをことづけてくださったのを持参しました。と言ってもわが家の電子レンジでチンし、100均ショップで入手した「銀杏割り」を持って行ったのですが、やはり冷めてしまうと殻がうまく剥けなくてお味見程度になりました。でもその方は、Oさんが銀杏好きと言われたことを覚えていてご夫君ときれいに洗ってとっておいてくださったのです。その思いを伝えたくて持ってきたのですが…。

これで気になっていたことをすませたので、ほっとして帰宅したのですが、やはり少し出歩き過ぎました。寝る前にサポーターを外したら足がこむら返りをおこして反乱。これはイカンと足を上げたり下げたりなだめすかして事なきを得ましたが、これくらいでばてるとは情けない。でもこれが現実というものですね。おまけに老人ホームを出るとき、見事に杖を忘れそうなになり、あわてて取りに戻る始末でした。絶対なくすからね。まあ忘れるほど頼りにしなくてもよくなればそれはそれいいことですが。静御前ではないが「昔を今になすよしもがな」。

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くるぶし「骨折」のギブスを1カ月足らずで外すことができました。

「立派な骨折」でギブス生活を経験しましたが、1カ月足らずで外すことが出来ました。今は「足首サポーター」というものを装着してそろりそろりと歩いています。やはりあっというまに筋力が落ち、自分の足で歩こうとすると、よろめきそうな不安を感じてしまいます。こんど転んだら「ねたきり」になると思い、せっせと足指体操(足でグーチョキパー)とか痛くない程度に足首の曲げ伸ばし運動を心がけ、普段の3倍くらい時間をかけて歩く稽古もしてきたのですが、みるみる足が細くなるのがわかりました。

思い切って市の「地域包括支援センター」に電話をかけ、介護認定してくれないか聞いてみました。そこの職員は大変親切で、状況を話したら「では一度お宅にうかがいましょう」と言ってくれたのですが、その後いつも通っている「総合内科医」の先生に相談したら、「だってあなたは、しょっちゅう出歩いているのでしょ?ヘルパーさんだっていつ行ったらいいかわからないじゃないですか」と笑われてしまいました。そこへ今日のギブス解除で、「介護認定」の希望は遠のいたかしら。武蔵野の介護保険料は高いのです。別に「モトを取ろう」などとさもしいことは考えていませんが、この1か月はほんとうに助けが欲しかったのに、といささかうらめしい気分でした。

先生方がおすすめくださったのは、やはり杖をもつことでした。わたしが杖を持つことに抵抗があるのは見えっぱりだからではなく、なにしろ出るときはおおきな肩掛けバッグのほかに書類や本を入れた手提げカバンをもち、雨の日は傘もさすので杖を持つ手がないというのが理由です。先生は「リュックだね」とおっしゃるのですが・・・。もう一つの理由は「すぐなくす」です。杖に名札をつけ、折り畳みにすれば手元におけるとみなさんはおっしゃるのですが、どうなるでしょうか。明日は買に行こうと思っています

今回の「事件」で思いあたることがあります。そりゃあ転んだのは「年のせい」にはちがいないのですが、一つは慢性的な睡眠不足です。なにしろ2時3時に寝るのですからね。この3週間ほどは午後2時間も昼寝をし、おまけに夕飯後8時ごろにはまた寝てしまい。真夜中に目が覚めてパソコンにしがみつき、けっきょく3時過ぎに寝るという細切れ睡眠で、でもよく寝るよ、と思いましたね。きちんと寝ていれば注意力散漫にもならなかったのではないか。そしてもう一つは視力の低下です。眼科の先生はいつでも白内障の手術をしてあげるというのですが、わたしのほうで「今書いている原稿が終わってから」と固辞し、おまけに「骨折騒ぎ」で2か月以上行っていません。ギブスが取れたらまず眼科に行こう。でも原稿書けてないんだよね。それに緊急課題で上田市が太陽光発電問題で条例割く手案の骨子を発表、パブリックコメントを募集しているのでそれにも意見をださねばならぬ。5月26日の総会の後「100年前の女の元気」パートⅡの準備もしなくてはならないし、「天皇には憲法で保障されている人権がないから奴隷と同じだ」と言った憲法学者がいたそうですが、こんな状態でも会長を辞めさせてくれないらいてうの会も奴隷制じゃん、とジョーダンをいいたくなる1日でありました。

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「田端時代」の平塚らいてう―新婦人協会発祥の地を記念する 

田端文士村でお世話になったからではありませんが、らいてうにとって(そして奥村博史にとっても)1918年ごろから22年に係る時期の「田端時代」は、短いが重要な時期です。二児の母となったらいてうは「義絶状態」だった実家と和解し、なんと田端にアトリエつきの一戸建ての家を買ってもらうのです。そこが新婦人協会発祥の地になりました。そこでらいてうが構想した新婦人協会の「夢」とは何だったか。

最初の発見は二松学舎大学が入手したらいてうの1919年(と思われる)書簡です。それかららいてうが個人名で発表した新婦人協会趣意書(山岡家文書)、そして戦後らいてうが新婦人協会発足当時の記憶を語ったインタビューテープ(らいてうの会所蔵)などの資料が発掘されるに従ってかなり実像がわかってきました。らいてうは壮大な理想社会を夢見て運動し、3-4年のあいだに親からもらった家を手放してしまうほど「持ち出して」挫折します。その壮絶さをもっと知って欲しい。以下もう10年以上書いたものに新資料の事実も付け加えて長い長い紹介論文を書きました。読む気があったらどうぞ読んでください。本人がくたびれていますが―。以下引用。

「田端時代」の平塚らいてう

                                       米田佐代子 2004.4.9原案 2019.5.5修正

平塚らいてうは1914年1月、家を出て奥村博と同居生活をはじめ、自伝によれば平塚家とは「義絶状態にあった」という。しかし、1915年12月に長女誕生、つづいて1917年9月の長男誕生のころから「両親との溝が少しずつ埋められ」、1918年に入ってから田端の高台にあるアトリエ付きの2階建ての家を買い与えられることになった。らいてうは、ここから曙町の実家に二人の子をつれて訪れるようになり、奥村もはじめてらいてうの父定二郎と会っている。

その翌年に、らいてうは田端の地所内に2軒の貸家を建てることを思いつき、神奈川県二ノ宮在住の梅田きよ宛に「借金申込み」の書簡を送った。その書簡は古書店から売りに出され、らいてうが在学したことのある二松学舎大学が入手した。同大学かららいてうの会宛てに解読と内容の吟味を依頼され、その後そのコピーが小林登美枝氏保管の資料の中にあることが判明した。全文の書き起こしは『平塚らいてうの会紀要』6号(2013)に収録してある。書簡には年次が入っていないが、文面(子どもの年齢が数えで表記されている)から1919(大正8)年8月、らいてうが市川房枝の案内で名古屋市周辺の繊維工場を見学した直後のものと考えられる。

「梅田きよ」はらいてうと同年生まれで実業家の梅田潔と結婚後夫の理解を得て文化人を後援、らいてうとも親しかったが、この借金は実行されなかったものと思われる。「自伝」によれば、青鞜社以来の親友荒木郁が自宅を担保に「農工銀行」から借金をすると言う方法を伝授、手続き一切をしてやってらいてうの希望どおりの貸家を建ててくれた、とあるからである。完成したのはおそらく1920年の夏から秋の間ではなかったかと思われる。というのは、1919年に市川房枝らとともに新婦人協会の活動を始めたらいてうが、当初自宅を事務所に提供、そのために家族の私生活に支障が出てきてしまったのを憂慮して「大正9年11月から」この貸家のうちの一軒を協会の事務所にあてたとあり、ここに一時期は市川房枝や山内みなが住んでいたこと、さらに運動中に体をこわしたらいてうが「建てて一年とたたない貸家を一軒売って」療養費に当てたというのが、1921年の夏頃だからである。

らいてうが1918年を中心に与謝野晶子、山川菊栄らと「母性保護論争」をおこなったことは知られているが、「自伝」によればらいてうは二人の子を産んだ後、「なにかしなければならない気持ち」が芽生えていたとある。そのような意気込みに満ちて、1919年夏名古屋に赴き、市川房枝の案内で愛知県下の繊維工場を視察した。そこでみた年少女子労働者の悲惨な労働状況が、彼女の「母性保護」要求に影響を与えたことは自伝にも述べられている通りである。

しかし、この書簡はらいてうのもうひとつの重要な側面を浮き彫りにしていると言うことができる。それは、貸家を建てたいという彼女の希望の一面はたしかに家賃収入を得て生活費や子どもの教育費のおぎないにしたいという点にあり、このことはすでに「自伝」でも語られているが、もう一つの面があったということである。それは、手紙の最後のページに書きこまれた部分である。「貸家」と直接むすびつくいい方ではないが、「私はこの頃筆のみによってゐる自分の仕事が飽き足りなくなってきた」と書き、「自分で働いて生活してゐる沢山の独身の職業婦人や労働婦人のために又は遠方から東京へ出て来てひとりで忙しく勉強してゐる女の学生のために、ほんとうに気持ちのいゝ自由な休息所でもあり修養所でもある寄宿舎のやうなものを立て」たいという希望をのべている。

この文章の重要性は、らいてうが「独身の職業婦人や労働婦人」を応援したいという希望を述べている点である。前年の母性保護論争で、らいてうは女性の天職は育児にあると言う意味の発言をして与謝野晶子に批判されている。そのため、らいてうは女性が働くことに否定的であったと見られがちであるが、ここではむしろ働く女性のために「気持ちのいい休息所を」という考えを述べていることは注目されるだろう。注目したいのは、ここで女性の寄宿舎を」と言っている点である。新婦人協会は、「花柳病男子結婚制限法」の提起をしたことで知られるが、当時の女性問題のもう一つの問題は働く女性に対する性暴力の問題であった。『青鞜』の「貞操論争」は当事者の生田花世が地方から上京して必死になって職を求め、雇い主から「貞操」を奪われるという「セクハラ」告発に端を発している。ひとり暮らしで働く女性はカネを出さなくてもいい「タダですむ」相手とみなされていたという告発もある。紡績や製糸工場で働く工女たちは、「児童」と呼ぶ年齢なのにしばしば周旋人に凌辱され、同じ工場の男工によって(時にはそれは引き留め策とみなされた)暴力を振るわれた。新婦人協会がILOの提起を受けて「小児労働禁止」をとりあげているのは注目にあたいする。

らいてうの構想はじつはこの手紙を書いた後の1919年11月はじめごろ、市川房枝を訪ねたらいてうが打ち明けた新婦人協会の構想にそのまま反映する。市川はこのときらいてうが「婦人会館の青写真」を持ってきたので驚いたと書いているが、その構想は新婦人協会規約第三条に「婦人会館の建設」として書きこまれているのである。これまでらいてう「自伝」では、このへんのいきさつについて触れていないので、このときらいてうがこうした構想を持っていたということは、前記市川の文章や、らいてうがアメリカのジェーン・アダムズによるセツルメント「ハルハウス」の影響を受けたという山田わかの証言などでしか確かめられなかったが、この書簡の存在により、らいてうが「婦人会館」の構想を持っていたことが明白になった。

おそらく1920年の夏頃には完成していたのではないかと見られる「貸家」は、その年の11月からは新婦人協会の事務所に提供され、市川房枝や山内みなが住み込んだことは、前述したとおりである。。ちなみに新婦人協会機関誌『女性同盟』(2号)に掲載されている間取りの説明は、この書簡の「見取り図」とほぼ合致しているところから、「田端の貸家」はほぼこの図面どおりに建てられたものと思われる。そこで市川が「図書室位設けられる」と書いているところから、この「貸家」がらいてうの「夢」の一部分を担う役割を果たしたといってもいいのではないだろうか。

なお、らいてうがジェーン・アダムズに影響を受けたという点は、「婦人会館」構想だけではなかったことも重要である。アダムズは、第一次世界大戦中熱心に平和活動をすすめた女性の一人で、1915年設立の婦人国際平和自由連盟(WILPF)の会長として来日したこともあり、1931年にはノーベル平和賞を受賞ししている。戦後らいてうは、新婦人協会設立の動機の一つとしてジェーン・アダムズの「ハルハウス」を読んだことに触れ、「母性の権利、子どもの権利…それとちょうどまあやっぱり平和ということもずいぶん頭にあった…女性の文化ってものにむすびついて平和の思想というものがね」と語っている(『平塚らいてうの会紀要』6号(2013)に「新婦人協会時代について―平塚らいてうインタビューテープについて」として全文収録)。らいてうが母性主義の影響を受けたことがはっきりしているエレン・ケイもこの時期に『戦争・平和及び将来』を書いて「女は戦争で滅ぼすために子を産むのではない」と反戦を説いた。こうした国際的な平和思潮が、らいてうに[産む性]としての女性の平和要求を「女性の文化」という認識に導く要因になったと思われる。こうのような意味で1918年から22年ごろまでの「田端時代」は、 らいてうにとっても新婦人協会にとっても重要な時期であったと言えるのではないだろうか。

しかし、らいてうの構想は実現しなかった。運動をめぐる市川とらいてうの意見の違い、らいてうの発病等の事情によって新婦人協会は1922年治安警察法第5条の一部修正を実現した後解散する。それに先だってらいてうはすでに1921年夏以降家族とともに療養のために「田園生活」に入っていた。その費用のために「建てて一年とたたない」貸家を一軒売った。「田端の貸家」は、このような運命によってらいてうの手を離れていったのであった。残りの一軒と母屋も、自伝によれば運動で生まれた借財等のために「みんな人の手に渡ってしまいました」とある。1923年春に帰京した一家は千駄ヶ谷に借家をみつけて住んだという。そこで関東大震災に出会っている。その後らいてうはクロポトキンの「相互扶助論」に共鳴し、新居住地の成城で消費組合運動に熱中していくが、その素地を作ったのも「田端時代」であった。新婦人協会発祥の地であるとともにらいてうの平和主義が「女性の文化」として形成される揺籃の地でもあったことを記念したい。

なお、 らいてうのパートナー奥村博史の「田端時代」も重要である。別に述べたい。

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