2017福島ツアーの記 その4 相馬市の「井戸端長屋」 

 

「福島ツアーの記」が未完のままになりました。もう忘れてしまいそうですが、」2日目の20日にみたことを2つだけ書きます。その一つが相馬市で見学した災害復興住宅のなかの「井戸端長屋」住宅です。

20日朝、松川浦の宿を出発、相馬市の元職員で、定年退職後同市の「千客万来館」で仕事をしていらっしゃる菅野昌孝さんの案内で市内を見学しました。ここは、かつて相馬藩の保養地として知られた景勝の地だったそうです。津波で使えなくなった漁港の建物が残されていましたが、なまこ壁が特徴的でした。あいかわらず強風の中、海を臨む慰霊碑におまいりし、「伝承鎮魂祈念館」を訪ねました。入り口の「458体の地蔵」群、津波のリアルな映像、被害当時の写真、そしておびただしい「持ち主不明のお写真」の展示…。「鎮魂祈念」の思いが深く伝わってきました。

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宿に飾られたつるしびな。大きな魚まで。

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漁港のなまこ壁の建物。今は使われていない

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慰霊碑

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伝承鎮魂祈念館

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祈りの地蔵群458体

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持ち主は今どこに…

時間が少ししかないので菅野さんは迷った様子でしたが、「最後にみていただきたいところがあります」と案内してくださったのが、「災害復興住宅」の様子でした。バスで「車窓見学」しただけですが、大船渡で同じ公営住宅を見てきたわたしは、ここの住宅が小さいけれど「一戸建て」になっていることに驚いてしまいました。大船渡では都会の団地と同じような鉄筋コンクリートの集合住宅が主流だったからです。「鍵ひとつで出入りできるから安心だけど、ドアを閉めてしまうと隣の人とも話が出来ないものね」と言う方や、「ドアが重くて、風の強い日には開けられないの」と言う声も聞きました。それでもそこで住民同士の交流の場を、と努力している方がたにも出会いました。でも、ここの公営住宅は外に向かって開いています。平屋と2階建てがありました。

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相馬市の災害公営住宅

さらに目を引いたのは「ここは長屋になっています」という大きな建物です。「ここは戸建てではなく集合住宅です。それぞれの住宅にキッチンや浴室の設備はありますが、洗濯機を置くスペースはなく、共同の洗濯機置き場があってそこで洗濯するようになっています」とのこと。「昔は井戸端で洗濯物をしながら<井戸端会議>をしたものです。共同の洗濯場で、住民のみなさんがおしゃべりしたり交流できれば、という思いからです」というこの建物には、主に震災で一人になってしまった方や高齢の方が入居しておられるとのこと。そのうえ大きな「共同浴場」と広々とした食堂があって、市の委託を受けたNPOがお昼のお弁当を届けてくれるのをみんなが一緒に頂くスペースもあるそうです。「だからここは<井戸端長屋>というのです」と菅野さん。「こういう住宅にしたのは、ここではひとりの孤独死も出さないという思いからです。いつも誰かと顔を合わせることができれば、知らぬ間に…という悲劇は減らせる」「もしまた災害が起こったときにはここが避難所になります。共同浴場があれば安心」という説明でした。

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「長屋」住宅

もっと質問したいと思いましたが時間がなく、菅野さんは慌ただしくバスを降りて行かれました。わたしは企画した旅行社の方に菅野さんの連絡先を教えてもらい、帰宅後電話してしまいました。市の職員を退職後「千客万来館」という観光案内施設で働いておられるのです。「こういう公営住宅をどうやって企画されたのでしょうか。他の自治体にもあるのでしょうか。国や県の構想の中にあったのでしょうか」と聞くと「いや、多分相馬市独自の発想だと思う」とのお返事でした。公営住宅には戸建てだけでなく団地型の住宅もあるそうです。勤務時間中なのに長話をし、「今度は相馬野馬追いを見に来てください」とお誘いまでいただきました。でもこれって毎年7月末にあり、震災の年も「東日本大震災により亡くなられた方の鎮魂を願い相双地域復興のシンボルとして、また地域の支えとなる祭礼として「東日本大震災復興 相馬三社野馬追」と称して開催された伝統行事です。多分今からでは宿もとれないというウワサ。でも一度観たいと思っていました。「じゃあ来年」と言われるので「生きていたら行きたい」と答えてしまった・・・。

何故わたしが「災害公営住宅」に関心を持ったかを説明する代わりに轆轤石仮設住宅の文集『あの日から…そしてこれから』をおくったところ、相馬市の災害記録や復興のあゆみをまとめたりっぱな刊行物をいただいてしまいました。「井戸端長屋」のことも詳しい。これから読みます。菅野さん有難う。

 

 

 

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辺野古工事強行と今村更迭報道

23-24日と上田の「らいてうの家」オープン準備に行ってきました。4月29日にオープンします。当日は男性コーラスやお茶のおもてなしなどがあり、だれでも参加できます。上田の千本桜は終わっていましたが、登るにしたがって満開の老木にたくさん出会いました。山の上ではふきのとうがまっさかり。わたしは外歩きする余裕もありませんでしたが、みんな袋いっぱいお土産に。春が来たのです。

帰宅して一夜明けたら、うるま市長選挙で負けた報道と辺野古工事強行のニュースに「いささかかっくん。一昨年訪問して山城さんや島袋さんにも会ってきた辺野古。あの美しい海が回復不能になるのでしょうか。太陽光発電問題で、「人間の生き方と自然を壊すメガソーラー」を考えているわたしとしては、基地問題と同時にジュゴンが暮し、サンゴが育つ「美ら海」の破壊も大問題です。埋め立てるために莫大な土砂を本土から運び込むとさまざまな植物が持ち込まれて生態系を壊すというので、「うちの土は運ばせない」と各地で反対運動が起っているというニュースも知りました。辺野古に基地をつくらせないためにどうするか…。

せめてもの「ハラいせ」になったのは、今村復興相が相次ぐ暴言で辞職したことです。事実上の更迭だって。わたしのブログで最初の暴言の時に「辞任要求署名」に応じたことを報告した記事が検索されて読まれているみたい。でも、じゃあ彼を大臣に任命し、あの「避難者は自己責任」発言の時もかばい続けた首相の任命責任はどうなるのよ。それにしてもこの人、よっぽど「言葉」の意味を考えられない人なのね。「そういうつもりはなかった」と言えば済むつもりなのかしら。「綸言汗のごとし」というのは「天子の言」の重みについての格言だから、安倍首相や今村大臣のような「小人」に使っては申し訳ないけれど、少なくとも政治に責任を持つなら、簡単に「取り消し」たり「謝罪」すれば済むものではないことを肝に銘じるべきでしょう。怒っています。

おかげで福島ツアーの報告が中断しています。あと2つ報告したいことがあるので、続きはこれから。

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2017福島ツアーの記 その3 なぜ「絶望」ではなく『希望の牧場』なのか?  

前回浪江訪問の時行けなかったので、行きたいと思っていました。『たぁくらたぁ』で「牛飼い」の吉沢さんが放射能に汚染された牛たちの「殺処分」を拒否して、住むなという指示にも同意しないで、原発から14キロの地点に住み、もう売ることもできなくなった牛たちを飼いつづけている手記を読んだから。吉沢さんは、その牛たちを連れて東京までデモに行ったこともあります。

たどり着いた入口でまず目を奪われたのは、「汚染した土」を詰め込んだフレコンバッグの山と、そこに書き込まれた怒りのメッセージでした。「決死救命 原発無念」別のところには「原発14㎞地点」「浪江町無念」とも。足元には「無念の死」を遂げた牛たちの頭の骨(頭蓋骨!)が。そこで吉沢さんの話を聞きました。

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希望の牧場入口で

福島第一原発から14km 地点の「無念」

牛たちは…

その言葉を再現するのは困難です。絵本を買いました。『希望の牧場』という絵本です。「売れない牛を生かしつづける。意味がないかな。バカみたいかな」とここに出てくる「牛飼い」は考え続けます。そして「オレ、牛飼いだからな」というのです。「弱った牛が死ぬたびに、ここには絶望しかないような気もする」と思い、「オレたちに意味はあるのか」と考える…。

吉沢さん

絵本『希望の牧場』

その日は猛烈な強風が吹き荒れ、立っていることもできないくらいでした。でも広々とした牧場に放たれた牛たちは一向に動じない。エサの干し草をひたすら食べ続けています。「この牧草は汚染されているんだよ。もうエサには使えない。それをタダでもらってきて食わせてる。運賃はかかるけどね」とこともなげに言う吉沢さん。そのエサ代も世話をする人手もカンパとボランティアで賄っているのです。いつまで続けられるだろうか。わたしは「ここで子牛は生まれるのですか」と聞いてしまいました。それは聞くべきではなかったかもしれない。吉沢さんは一瞬沈黙し、静かに首を振りました。その意味を説明してもらおうとは思いませんでした。牛が大きくなって肉牛として世に出て行き、子牛が繁殖して次の世代を担う、ということがここではもうできないのです。それはじつは「絶望」の世界ではないのか。絵本の「牛飼い」は、「希望なんてあるのかな」と問い、「一生考えぬいてやる」と言います。

モリモリ餌を食う牛たち

この広い大地で

わたしは、またしても魯迅の言葉を思い出しました。あの「絶望のむなしさは希望と同じだ」という一言です。わたしはほんとうに絶望を知ったものこそ希望を自分のものにできるのだというメッセージとして受け止めています。その希望とは何か。吉沢さんは、お別れするときわたしたちに「なんでこんなことしてるかって、いのちのためだよ」といいました。牛はやがて死に絶えるかもしれない。人間もいつまで生きているかわからない。けれども死んでいくいのちに希望をつなぐことによって、希望はうわべの言葉ではない魂のメッセージになるだろう、そう思える言葉でした。吉沢さん、有難う。

吉沢さん、ありがとう

 

牧場を出て、バスは請戸漁港を通って相馬の松川浦をめざしました。その途中で見たのは―。請戸小学校の津波が来た時間で止まったままの時計、墓石が倒れ散乱したままの共同墓地(新島さんの話ではすでに墓地は高台に移転し、そこに御霊をお迎えする儀式も済ませてあるのですが、共同墓地ということで役所が一挙に片づけるわけにはとてもいかないのだということでした)、そして浪江町民犠牲者の慰霊碑(両脇の黒い球は、太陽と月をかたどったのだそうです)…。海を臨む周りの土地が原野化していることもわかります。

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津波の来た時間で止まった時計。請戸小学校は今は無人。

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海に近い共同墓地は今も

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浪江町民慰霊碑 「何もなくなってしまった」土地の上に立つ

そして目を奪われたのは、延々と続く「汚染土」の仮置き場です。汚染した表土をはぎ取ってフレコンバッグという黒い袋(どうみてもビニル製のごみ袋)に詰め、保管してあるのです。その量が半端ではありません。なかには袋自体が変色し始めたものもあり、さらに覆いをかけてあります。いったいこれで放射能は閉じ込められているのでしょうか?新島さんはさらに「はがした表土の代わりに山を削って土を運んで入れているのですよ。でも山の土は痩せているからすぐに農作物は育たない。養生するのに時間がかかりますね。いつになったら土地が元通りになるか、わからない」と言いました。

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これが「汚染土」を詰めた袋の山

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看板がありました。「保管場所」

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覆いをかけてあるけど…

吉沢さんの牛たちが生きて餌を食っている牧場を「希望」という名で呼ぶことができても、この光景には希望がない。「死」の光景そのものだという気がしました。

最後にNPO野馬土の拠点にも立ち寄り、くたびれて松川浦の旅館にたどり着いたのが夕方6時過ぎ。3人一部屋の相部屋で一緒になった方たちとのおしゃべりは楽しかったのですが、それでもはやばやと寝てしまいました。

 

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2017福島ツアーの記その2 富岡から大熊、双葉、浪江へ―「避難指示解除」というけれど 

4月19日早朝国立でバスに乗りました。東京から埼玉県を抜けて茨城、そしていわきへ。「福島支援」だから、まずはここでお金を使おうと「ワンダーファーム」の森のキッチンでトマトづくしの食べ放題ランチをいただきました。全種類はとても食べられませんでしたが、生のトマトはもちろん、トマトドレッシングのトマトサラダ、トマトコロッケにトマトソース、トマトのマリネと白和え、トマトオムレツ等々、手絞りのトマトジュースとヨーグルトのトマトジャムがけもおいしかったなあ。ジャムを買いたかったけれど,これからが本番なのでガマン。

森のキッチン

食後バスは北上して広野、楢葉を通って富岡町へ。帰還困難地区内にあった夜の森の桜が7シーズンぶりにライトアップしたというニュースを見たばかりでしたが、さすがに葉桜になっていました。それでも途中から現地を案内してくださる新島さんが乗車、「この辺は住宅街の中に桜並木があって季節ごとに咲いたのですよ」という名残りの桜のトンネルを潜り抜けて大熊、双葉経由浪江に向かいました。新島さんは地元で「生業(なりわい)を返せ 地域を返せ」の原発裁判をやっておられ、これから行くNPO野馬土からの依頼で見えたのです。

名残りの桜

彼は車中で水も飲まずに、ずっとしゃべりっぱなし。車窓から見る風景は、わたしが2014年7月に来たときとほとんど変わりません。「避難指示解除というけれど、ご覧のとおり人はほとんど帰っていないのですよ。そもそも道路一つ隔ててこっち側は避難解除、こちら側は帰れない区域という線引きができるのでしょうか」と聞くとなるほどと思います。放射能が行政区画のなかにきちんとおさまっているわけないでしょ?「それにお店も開いていなければ、生活もできない。今ひらいているのは、工事用の品物を扱っているお店と、ここで働く原発や整備工事で働く人たちのためのコンビニくらいですから」とのこと。アンケートをとったら、半分以上の住民が「帰りたくても帰れない」という調査の載った資料も見せてもらいました。

確かに春の日が高くなっている昼下がりの街に行きかうのは工事関係の車ばかり。人の姿はほとんど見えず、地震の被害もそのまま、破れた障子や窓、かろうじて雨漏り除けをした屋根などの家々が並びます。「帰還困難地区」では一見なんともなく見える住宅の前に柵がしてあって、「自分の家でも入れない」のだそうです。避難指示解除準備地区になっても、わが家に行くのにまず検査を受けて防護服を着なくてはならない。終わればそれを脱いで捨て、検査してもし線量が高くなっていたらそれを洗い流してからでないと帰れないのです。そういう地域に子どもたちと一緒に「帰還」できるだろうか。今年初め自分が甲状せん腫瘍と言われて以来、たとえがんだとしても自分はいずれあの世行きだからいいけれど、子どもたちの甲状腺異常が増えているのに、「心配しなくてもいい」という政府には親の気持ちがわかるわけがないと固く信じるようになりました。

「立ち入り禁止」

荒れ果てた住宅

雨よけしたままの屋根

自宅の前に柵が

無人の商店街

車中で聞いたお話しで忘れ難かったのは「大熊も双葉も、原発でうるおったまちだったのですよ。大熊は4基、双葉には2基あったのですが、双葉町ではもう2基作ってほしいと東電に要請したくらいでした。それが実現する前に事故が起こったのです」という話でした。町の入口に「原子力明るい未来のエネルギー」という大きな標語がとりつけられていて、当時小学生だった作者が「負の遺産として保存を」と訴えたのに、外されてしまっていました。でも東電がつくった宣伝用の建物はそのまま残っていましたが。原発のために東電がどれほどオカネをばらまいたか。「原子力の平和利用」という名のもとに「安全神話」を信じこまされたカラクリは本間龍『原発プロパガンダ』(岩波新書)にくわしい。

東電がつくった建物だそうです

戦争中「アジア解放の聖戦」という宣伝を信じた日本人は、戦後もまただまされたわけだ。そして今わたしたちは三度目に「テロを防ぐため」という理由で共謀罪を新設しようとする動きにだまされているのではないか?などとあらぬ思いにかられつつ、今回の主目的の一つだった浪江の『希望の牧場』へ向かいました。

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2017福島ツアーの記―その1 4月19-20日1泊2日の旅  

 

忙しくて、まる2日間の日程をとるのは困難でしたが、予定をすっ飛ばして行ってきました。多摩地域のミニコミ紙の主催で、新聞を見て申し込んだのです。もちろん全然知らない人ばかり。でも日程を見ると超過密で「スタディツアー」そのものです。福島で放射能に汚染された牛の殺処分を拒んだ[牛飼い]の吉沢さんが、今も牛たちを飼いつづけている『希望の牧場』を訪問するとあったのが決め手でした。

行ったのは、この3月31日から「避難指示解除地区」になった浪江町(全部じゃない)を中心とした地域を回り、大熊町・双葉町は車窓見学、希望の牧場からNPO法人野馬土を訪ね、松川浦に一泊して翌日相馬市の被災状況の学習と「伝承鎮魂祈念館」訪問、さらに相馬市災害公営住宅地を見学し、最後に南相馬市の「ソーラーアグリパーク」見学をしました。行く先々で現地の方が案内にきてくださり、希望の牧場では主の吉沢さんのお話を直接伺いました。

その全部を記録する暇がとてもありません。写真もバスで通過というところが多く、あっという間に通り過ぎてしまうのでとても撮れませんでした。それでも、少しでも記録しておきます。考えることはいっぱいあったもの。

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岡山県美咲町の町議選で藤井智江さんが当選! 

4月は地方選挙がいくつもあります。わたしが気にしていたのは、岡山県美咲町の町議選。4月16日投開票でした。東京にいると、ほとんど報道されません。ネットを探しても16日当日ではなかなか結果が出てこないのでやきもき。なぜ関心があるかというと、わたしの友人藤井智江さんが立候補していたからです。付き合いはもう二十数年も前、まだ合併前の柵原町職員だった彼女が「男女共同参画の講演会を」と依頼してきたのが始まりでした。岡山と言っても県中央部の「山側じゃけん、新幹線より飛行機のほうが近い」と言われたのですが、ケチして新幹線で行きました。数日前に電話がかかってきて「予算がないので高齢者向け講座と合同でやることになりましたから、よろしく」とのこと。当日はおじいちゃんおばあちゃんで満員となりました。わたしは「なんで『おーいお茶』というのは男性なんでしょうね」というところから話をはじめ、まあ笑ってもらって無事「ご期待」におこたえ申しあげたのですが、それからの彼女の気配りが半端じゃなかったのです。

何しろ毎年のように岡山の桃が届くのです。1994年7月、わたしの母が90歳で亡くなる間際に届いたのもみずみずしくみごとな白桃でした。今でも忘れられません。その後は桃大好き人間の娘がその頃になるとアメリカの留学先から帰国して(まさか桃目当てじゃないけど)、母の供養の代わりに頂いています。はるばるらいてうの家も訪問してくれました。「お酒、飲みます」というから、らいてうの家のラベルを貼ったお酒『無限生成』(上田で創業300余年、女性杜氏のいる酒蔵岡崎酒造製)を送ったこともあります。でも彼女の面倒見の良さは、それどころじゃない。ヘルパー資格を持ち、「住民に親切にしすぎて」福祉担当から「山の上の温泉の受付」に飛ばされた挙句、戻ってきたときは「税務担当」だったそうです。夜中になると長い電話がかかってくるので、「いいじゃん、国保とか介護保険のことを知らない人が大勢いるから、みなさんに権利があるということを教えてあげて、ジャンジャン申請してもらえば」などとヤジ馬的入れ智恵をしたこともあります。

めでたく定年になったのが4年前。その日、わたしは大きなチューリップの花束をプレゼントしてお祝いしました。ところがその前から彼女の悩みは「町議選に出て」というラブコールだったらしい。「退職したら、近所のお年寄りやらひとりぐらしのひとやらのお世話をしてあげたい」という夢もあった彼女には、「とても無理」と悩んでいたのです。わたしは例によって「あなたが自分でやりたいと思えるなら手をあげれば。でも他にしたいことがあるなら、町政を変えるためと言われても断れば」と無責任な意見を述べただけでしたが、ついにどたんばで決心、でも時すでに遅く結果はザンネンながら落選でした(一人はみ出しの7票差)。

そこで、負けず嫌いの彼女に火がついたのです。「どうせやるなら次はかならず」と町議会を傍聴しては町民に知らせ、地道に集まりを持って「草の根」の活動に。わたしは「選挙の時応援に行くよ」と言ったのですが、いよいよ近づいたときには「ヨソモノのバアサン」が行っても足手まといになると思い直して、カンパを送るだけにしたのです。開票の夜、電話がかかってきました。定数14人(2人減)のところ「9位」で当選とのこと。立候補者は16人で新人は彼女ともうひとりの2人だけ。現職を追い抜いての当選でした。思わず「よかったねえ」と叫んでしまった。彼女に投票してくれたのは591人(前回は417票)。共産党の彼女ともう一人公明党以外は全員無所属というなかで、ふえた174票の重みよ!女性議員が2人になったことも意義ありです。藤井さん、「65歳の挑戦」がんばってね。わたしがらいてうの家につかまったときも65歳で、それから17年経って未だやっているのだから、三期か四期はだいじょうぶ(自分はもう保たないくせに、他人にはそういう?)。

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サクラは散り、『紀要』の原稿も書いたけれどまだ追いかけてくる…。

 

4月16日。我が家近くのサクラも、さすがに葉桜になりました。この10年間、いつもこの季節には『らいてうの会紀要』の原稿に追われておちおち花見もできませんでした。年1回刊行で今年は10号、毎号書いてきたことになります。4月15日締め切りに間に合わなくて連休明けになる常習犯でした。推敲のヒマもなく時には3万字も書くのですから、「書いても誰も読まない」と悪評ふんぷん。それでも未公表のらいてうの生資料を少しでも紹介したいと、せっせと書き込むのですから長くなるわけだ。しかも『紀要』発行を通じて「新しいらいてう像」の発掘を試みたことが評価されて第12回平塚らいてう賞受賞の光栄に預かったのですから、後へは引けない。

それにしても長ったらしいと反省して「ことしは短くする」と宣言したのですが、編集会議をやっているうちになんとなく「あれもこれも」わたしが書くことになり、気がついたら「昨年の記念事業の総括」「『らいてう資料』の概要―平塚らいてう賞受賞に寄せて」「あずまや高原太陽光発電問題について」と3つも書くことになり、合わせると結局2万字に。そのあいまにらいてうの会ニュースの原稿を書き、大船渡仮設住宅の文集づくりもやったのだから毎日10時間ぐらいパソコンにしがみついていたなあ。シンポの記録にも目を通さなくてはならなかったし。

おかげで夜はもう「鳥目」状態で、書く気力がなくなりました。スケートの浅田真央さんは「気持ちも体力も気力も出し切って」悔いなく引退されるそうですが、こちらは彼女の3倍以上も年取っているのにまだ不完全燃焼で、気力喪失してしまうのだから情けない。で、今年はせめて締め切りを守ろうと、ここ数日は半徹夜を繰り返しながら、ともかく書きました。編集ベテランのIさんが、ひとつ送るたびに「わかりやすいです」と励ましてくださるので、何とか支えられた次第です。

ところが一難去ってまた一難。この6月に社会臨床学会というところから、大会記念講演の要請を受けていましたが、その「講演趣旨」を4月20日までに書くように求められていたのです。だってまだ論旨がまとまっていないのです。そもそもおよそわたしともらいてうとも縁遠い学会がなぜ「平塚らいてう」に関心を持ってくださったのか?企画された委員の方にお会いして3時間くらい話し合い、戦争と暴力、差別、貧困に満ちた現代をどう乗り越えていくか、現代フェミニズムの問題からあの「やまゆり園」事件にまで話が及んで、少し決心がつきました。それは昨年の記念事業で取り組んだテーマにつながります。「だれも知らない」らいてうの実像を追って「異説らいてう論」をやろう、と。19-20日は、なんと福島第一原発ちかくまで見学ツアーに行くことにしたので、その前に書かなくては。400字では意を尽くしませんが、それも書きました。これから組み立てを考えます。

そして最大の難問は、昨年ついに手がつかなかった「新らいてう小伝」の小冊子(ブックレット)の作成です。らいてうの会が独自に作るのですが、なぜか本文は全部わたしが書くのだそうで。「個人の仕事ではないのだから委員が手分けをして書こう」と提案したのですが「お前が書かなければ出さない」とキョーハクされ、事実昨年はイベントや太陽光発電問題で走り回って書けなかったのです。でも、今年は第13回らいてう賞が決まった時点で前年度の受賞者が「研究発表」をするのが慣例です。それまでにどうしても書かねばならぬ。「打ち出の小づち」じゃあるまいし、「書け」と言ったら何でも書けると思っているのだろうか、と発狂したくなりますが…。ほんとうに自分で書きたい本は封印したままです。これで死んだらウラミが残るだろうなあ。

そこへまたいくつか原稿依頼がきました。それぞれのっぴきならないつきあいのあるところからです。大見得切った「女性文化賞」も取り組まねば、と今日は図書館へ他館の資料貸出依頼に行きました。このごろ一般の市民図書館では、高価な学術書は入っていないのです。ややこしい手続きをしてから「いつになるかわかりません」といわれ、そりゃ安請け合いしたら怒られるからそういうのでしょうけれど、がっかりさせるようなこと言わないでね、と八つ当たりしながら「お願いします」と頭を下げてきました。

人間、「忙しいのはいいこと」でしょうか?

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