「三鷹事件」再審請求と「らいてう日記」 

今年は年賀状を「シュウカツ」して出さなかったのですが、何人もの方からいただいてしまい、せめて寒中見舞いをと思って大寒の日を待っていたのですが、いよいよガタがきたプリンタがはがきの印刷を受け付けなくなり(薄い私製ハガキでないとダメ)、またまた頓挫。「立春が来てしまう」と焦っているのですが・・・。

理由は忙しかったから。19日の女性文化賞を祝う会の準備に忙しく、22日には「戦後らいてう日記」のデジタル公開説明会で一日費やし、共同通信さんが動画撮影してくれたので夕方4時過ぎまで応対、何べんもカメラの前に立つおまけまでつきました。動画を観た方からはメールもじゃんじゃんきました。じつはその日、かつてらいてうの会を支えてくれた会員さんが病いに倒れ、長く療養してこられたのですが、このほど特養ホームに入居が決まったっというお知らせを頂いて、暫くご無沙汰していたのでお見舞いに行こうと思っていたのです。もう遅くなったとためらいながら5時過ぎにタクシーを乗り継いで板橋区内のホームへ駆け込み、一目会いたかったと抱き合って再会を喜びました。麻痺があるので車椅子ですが自由の利く方の手でしっかり握手してくれ、「今度ゆっくり来るね」とそこを飛び出してバスに乗り、埼京線で新宿へ。思いのほか早く着いたので、これも迷っていた町田へ、小田急線の「快速急行」に飛び乗っていちもくさん。どうしてかというと、プノンペンでお世話になったポンナレットさんのお兄さんのトラさんが「今夜7時にアンコールトムにくる」と聞いたからです。これも一目お礼を、と思ったので。引きとめられましたが、ご挨拶だけして直ぐ引き返し、10時近くに自宅にたどり着いたときはさすがにヒローコンパイ。それでも「明日はヨガに行くゾ」と自分に言いきかせて、今日は行ってきました。これじゃ、原稿を書いている暇はない。26日には甲府で講演せねばならず、パワーポイントを持って行くと約束したのに、それが間に合わなくて・・・。

それでも、ここで書いておきたいことがあります。それは22日にデジタル公開したらいてう日記のなかの一つの記事のことです。「三鷹事件」を覚えていますか。1949年、日本はまだ占領下で、当時の国鉄は大量解雇を控えて労使の緊張が高まっていた時です。「下山国鉄総裁轢死事件」三鷹駅で無人電車が暴走し、死者が出た「三鷹事件」、そして東北本線松川駅近くでやはり電車が転覆して死者が出た「松川事件」という国鉄に絡む「三大ミステリー事件」が起こりました。「下山事件」は犯人不明のままです。「三鷹事件」でははじめ国鉄の労働組合員が逮捕されましたが、けっきょく「共同謀議した」証拠は何処にもなく、竹内景助さん一人の単独犯行とされて死刑判決、竹内さんは獄中から無実を訴え再審請求もしましたが受け入れられず、1967年「口惜しいよ」という一言を残して獄死しました。「松川事件」も国鉄労働者と近くの東芝の工場労働者が「犯人」とされて逮捕され死刑を言い渡されますが、そこから「松川運動」と言われる「無実の人間を殺させるな」という大運動がおこり、ついに全員無罪を実現したことは知っている方も多いと思います。どの「事件」も「真犯人」はあきらかにされないままです。そして唯一犯人とされた竹内さんの裁判も今聞くと全くつじつまの合わない判決なのですが、最高裁で確定したのが1955年、それから半世紀以上経った2011年、息子さんが「このままでは父が浮かばれない」と再審請求に踏み切りました。今年はその判断が東京高裁から出るはずです。1月18日(竹内さんの命日)に併せて開かれた集会で、法政大学名誉教授の五十嵐仁さん(じつはわたしの後輩)が70年前の事件が現在の社会情勢とどうつながるかを説きあかし、再審請求はゆがめられたこの裁判を「公正な裁判」に立ち返らせる「司法の名誉と信頼を回復する意味がある」と話されたのが印象的でした。彼が、日本国憲法第12条「自由及び権利は、国民の不断の努力によってによって、これを保持しなければならない」を引いて、再審成功の意義を普遍化したことも重要だと思いました。

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三鷹事件再審請求のつどいチラシ

ここでやっと本題。それとらいてう日記とどういう関係があるの?ということですが、それが大ありなのです。らいてう日記は1953年から1958年までの間に断続的に書かれていて、その1956年2月と3月のページに、以下のような記述があるのです。

○1956年2月28日/櫛田ふき氏宛三鷹事件の竹内景助氏の救援運動に婦人から立つように依頼。

同年3月12日/ひどく寒い。「朝日」へ三鷹事件の竹内景助氏救命運動について二枚投稿。

そしてこれを裏付ける資料として、らいてうが櫛田さんあてに書いた手紙も残っています(1956年2月28日付)。それを読むと「竹内景助氏に先ごろ最高裁が死刑の判決を下した事がどうしても私には納得いかぬ気がして胸を痛めています」とあり、婦人民主クラブや婦団連などの「婦人団体こそが死刑廃止運動とともに竹内氏救済運動、裁判のやり直し要求の運動をやってほしいと願はずにいられません」とあります。「死刑廃止を以前から主張している上代たのさんの婦人平和協にも訴えたい」「竹内氏のご家族―5人の小さな子供さんたちの事を思って」ともあります。

わたしは、朝日新聞にらいてうの投書が載っているかどうか、調べてもらいました。「三鷹事件」と「らいてう」をキーワードで検索したところ、見つからなかったそうで、投書したけれど載らなかったのか、あるいは「らいてう」ではなく「奥村明」で投稿したのではないかなど推測の域を出ませんが、同じ年の朝日新聞には「三鷹事件 文化人らが嘆願運動」という記事があり、亀井勝一郎、志賀直哉、広津和郎、徳川無声らとならんで植村環の名もあります(1956年12月18日付)。植村環はYWCAの会長で、この時らいてうや上代たの、湯川秀樹らとともに世界平和アピール7人委員会のメンバーでした。らいてうが上代たのや植村環と話し合った可能性もあると思います。ここでもらいてうは「小さな子どもたち」に思いを馳せ、「女性こそ立ちあがってほしい」と訴えているのです。

松川事件は「国民運動」とも言われる大きな運動が広がり、妻や母、姉たちをはじめ女性の活動も歴史に残っていますが、三鷹事件の救援活動で女性たちがどのようにかかわったか、わたしは不勉強であったことに気がつきました。集会の受け付けにいた三鷹事件を語り継ぐ会の方がわたしの質問に答えてくださり、資料が今どこに保存されているかも教えてくれました。事件から70年、再審開始になればらいてうも喜ぶでしょう。少し調べてみたいと思います。その前に目の前の仕事をかたづけなくてはならないが。わたしがもしもう少し生きたいと思うとすればすることがまだあるという思いだなあ。

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『らいてう戦後日記』デジタル公開のニュースが動画に。

緊急のお知らせです。NPO平塚らいてうの会は所蔵しているらいてうの肉筆資料の保存解読に努力中ですが、そのなかから資料としての価値が高く、戦後のらいてうの平和への思いを知るうえで貴重な資料と思われる「戦後日記」をデジタル化して会のホームページにアップしました。22日にその説明会をひらいたところ、いくつかの新聞社とともに共同通信ビジュアル報道局から取材があり、今夜動画で報道されました。ご覧になりたい方は

「47news.jp」と入力すると「よんななニュース」という表示が出ます。そこの「文化」という項目をクリックするとでてきます。

なお、デジタル化された日記の画像は、平塚らいてうの会のホームページにアップされています(http://raichou.c.ooco.jp/または「平塚らいてうの会トップページ」で検索)。これは、会が保存している肉筆資料が古いものはもう100年以上経っており、戦後のものも半世紀以上過ぎていて紙が劣化、恒久的保存の必要に迫られているので、まずこの日記から実行したものです。書き起こし作業は現在取組中で、今年中に活字化する予定です。らいてうの会としては、貴重な肉筆日記や書簡、原稿下書きやメモ類順次デジタル化して公開、らいてうとその時代についての研究に役立てたいと思っていますが、じつはその費用がなく、研究団体ではないので人手もじゅうぶんではありません。今回は初めての試みでしたが、継続できるかどうかは心もとない状態です。わたしは資料を読み解く仕事を自分の「最期の仕事」とおもってきたのですが、その見通しが立たないまま、毎日駆け回っている次第です。まずはみなさんに関心を持っていただきたいと切望しています。

 

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「女性文化賞」祝う会異聞―「痛い膝」が、走り回ったらご機嫌を直してくれました 

「女性文化賞」を祝う会は会場が満員状態となり、ご挨拶もあるので、けっきょく3時間近く、ほとんど立ちっぱなしで(お料理をいただく時は座りましたよ)あちこち歩き回ることに。じつは一昨日あたりから「膝小僧」(正確には膝の裏側に近い関節)が痛くなり、歩くと膝ががくんとよろめく状態だったので、「どこかで転ぶかな」と思いながら歩いていました。これは年を取れば避けがたく起こる現象で、医者にいっても痛み止めのお薬を出すくらいがせいぜい。後は「足を動かして運動すること」と言われます。「足が痛いのに運動なんて」と逆らうなかれ。一昨日はお風呂で足を温めてからマッサージしてやり、屈伸運動も少しだけやって、19日出かけた次第です。

当日は午後3時ごろまでに後片付けを含めてすべて終わり、夕方なんとか帰宅、夕飯はいただいてきたカンボジアカレーで済ませましたがその時気がついたのです。わたしは、食堂テーブルの椅子の上に坐る癖(よくおばあちゃんがそうしてるでしょ)があり、いやおうなしに「正座」するのですが、一昨日はそれが出来なかった。最初に思ったのは「これで和式トイレとはお別れ」ということでした。さすがに「明日は日曜だから月曜になったらお医者に行こう」と思ったのですが、テーブルの前でいつのまにか「正座」しているではありませんか。うーん、痛くなくなったんだ・・・。というわけで痛み止めも飲まないうちに膝の痛みはおさまりました。

「痛み」には個人差があり、「メンタルな要素」も大きいそうです。何が作用したかわかりませんが、やむにやまれず歩き回ったせいかしら。つれあいは冷ややかに、「そうやって一進一退しながら下り坂を下りるようにおとろえて行くのだ」とのたまい、わたしもそう思うけれど、とりあえず今回の教訓。

①「痛いから」と動かないのはマイナス。頑張って足を動かすべし。筋力が落ちたら歩けなくなる。

②お風呂にはできるだけ毎晩入って足をマッサージし、スクワットも少しでもする(どこかの記事に「1分でも、10回でもいいから毎日スクワットを」とあったっけ)こと。

③靴は痛いからとゆるい靴にしてはいけない。きちんと足幅に合う靴か、ひもできゅっと締める靴にすべし。

④人間はかならず「老化」して足腰痛くなるのだと観念すべし。但し「だからもうダメ」ではなく、「行き着くところまで行ってみよう」の精神で「実験」してみよう。

などといって、明日になったらまた痛くなるかもしれないから偉そうには言わないことにします。武蔵野市内に住む友人から「あなたの近くに整形外科の名医がいるから行ってごらん]という助言が届きました。ありがとう。今度痛くなったら駆け込むね。それにしても19日の会は、女性文化賞をあげたわたしのほうが励まされた会でした。メンタルな「痛み止め」ってこういうことだったのかもしれません。みなさん有難う…。

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第22回「女性文化賞」祝う会をアンコールトムで

お祝いする会であいさつするポンナレットさん

12月3日に発表した第22回女性文化賞の久郷ポンナレットさんをお祝いする会を、1月19日、町田のカンボジアレストラン「アンコール トム」で盛大に行いました。といってもこれは授賞式ではなく(そういうものはしないというのが高良さんからの引き継ぎです)、「せっかくだからご家族のほかに親しい方に集まっていただきましょうか」という話から、主催者が誰かもよくわからない「祝う会」になりました。ところが話が伝わると「出たい」という方が続出、マスコミの方にも「取材歓迎」とおしらせしたところ、「カンボジア料理を賞味したい」とばかり、会費をはらって来てくださる方も相次ぎました。

そのメンバーを紹介すると、ポンナレットさんが尊敬する「話し方教室」の先生(彼女はこういうところで勉強しているのです)や、40年近く前の小学校時代の保健室の先生(教室になじめないとき、「私が一日お母さんになってあげるから」と迎え入れてくれた―なお親身になってくれた担任の先生もぜひ行きたいと言っておられましたが今日はかなわなかった)、英語を勉強する仲間たち(2月にいっしょにカンボジアへ行くそうです)、そして同じカンボジア出身の方たち、彼女の本を出してくれた出版社の編集者だった方や、ポンナレットさんとその娘さんをテーマに子ども向けの本を書かれた著者と出版社の編集者、ポンナレットさんが亡き父母の供養のため、難民として国を出てから帰っていない故郷へ行きたいと悩んでいた時、「じゃあ行けば」と背中を押してくれた方、そしてわたしがポンナレットさんを知るきっかけになった青山学院女子短大の「女性・環境・平和」講座担当の先生、さらにわたしが「カンボジアへ行ってこよう」と決心する決め手になったインタビュー記事を書いた朝日新聞記者の方や、「女性文化賞受賞」の記事をいちばん先に書いてくださった同紙編集委員の方、前夜「おそくなってすみません」というファクスで取材を申しこんでくださった読売新聞記者、「ふぇみん」「新婦人しんぶん」といった女性の新聞の方たち…。そのうえなんとリトグラフ作家の竹内美穂子さんが自ら副賞として贈呈する作品を抱えて出席、最後にポンなレットさんのご夫君とカンボジア舞踊もされるおじょうさんまで「一家総出」で来てくださったのです。

「最大でも30人」といわれたレストランに当初の申し込みは何と38人、お店のスタッフの方も入れると40人を超えます。幸か不幸かご都合悪くなった方が何人か出て、どうにか席をつくることが出来ましたが、調理場はてんやわんや。それでも初めてカンボジア料理を賞味された方からは大好評で、「タイ料理とも違う」味を楽しみました。ランチメニューが全部出てきて「牛肉の串焼き(サティ)、カンボジアのさつま揚げ、スパイスチキン、名物「辛くないカレー」、それにゴマがたっぷりかかったサラダや野菜炒めなど、デザートもコーヒーも出るという豪華版でした。それを全部紹介できないので、関心のある方は小田急線町田駅東口から徒歩2分のアンコー ル トムへどうぞ。水曜定休、午前11時から3時までがランチタイム。ポンナレットさんは木曜日にお手伝いに行っています。ランチだけならコーヒーつきでも1000円ちょっとで済むメニューもある庶民的なお値段です。

一応経過報告と「賞金」贈呈はわたしがやり、副賞のリトグラフは作家の竹内美穂子さんが手渡されました。年末の個展のとき伺って選んだのです。静謐な青を基調に全体が鳥のモチーフ、奥のほうにブランコに乗っている女性が見えます。「Blue Bird」というタイトルに「希望」が込められているという気がして選びましたが、ポンナレットさんには「家宝にします」と喜んでいただきました。その写真を撮れなかったので、後日アップします。

肝心のみなさんのお話は、またあとで。わたしがどうして彼女をえらんだかという経過報告の文章だけ収録します。ポイントは「母語でない日本語を16歳の時小学校に編入して勉強、夜間中学や通信制高校でも勉強、そして自分の体験を日本語で3冊も書いたこと、ポルポト時代に父母と4人のきょうだいを失った「悲劇」を語るだけでなく、そこから「憎しみや対立は戦争を引き起こす。和解と赦しが平和の原点」と考え、かつてポルポト政権の言うままに自分たちを強制労働に追いやった村の人々との「和解」を目指したいという点です。わたしのささやかな「賞金」(といってもわたしには大金ですが)をそのために使いたい、「これでカンボジアに行ってこよう」と決心されたとというご挨拶をいただき、わたしはそんなふうに役に立てば「冥利に尽きる」と思いました。以下、引用。

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「久郷ポンナレットさんは、1964年カンボジアのプノンペンで生まれ、両親の愛を受けて育ちましたが、1975年ポルポト政権成立とともに迫害を受け、両親と4人のきょうだいを失いました。1980年日本留学中の姉を頼って日本に難民として入国、16歳の時日本の小学校に入学して19歳で卒業、その後働きながら夜間中学に通い、励ましてくれた日本人男性と1988年結婚後も通信制高校で学び続けて、日本語で自分の体験を語る『色のない空』を出版、2006年に故郷プノンペンに肉親だけでなく多くの犠牲者のための慰霊塔を建て、かつての村人とともに慰霊の儀式を挙行しました。その後も『虹色の空』(カンボジア語や英語仏語に訳された)『19歳の小学生』(娘の真輝さんと共著)を出版。母語でない日本語での自己表現に挑戦するとともに、「世界に、憎しみと対立ではなく和解と平和を」という立場から「平和・命・人権」の大切さを訴える活動をしておられます。そのお仕事に深い共感と敬意をもって女性文化賞を贈ります。

2018年12月3日                 米田佐代子

「女性文化賞」は1997年、詩人の高良留美子さんが、「文化の創造を通して志を発信している女性の文化創造者をはげまし、支え、またこれまでのお仕事に感謝すること」を目的として個人で創設した手づくりの賞です。2017年の第21回から米田佐代子が継承しました。」引用終り。

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最後にポンナレットさんのご夫君がご挨拶、「どうかポンナレットをこれからもよろしく」とおっしゃった時には「これこそ『夫の鑑』」と恐れ入りました。お二人がどうやって知り合い、結婚されたかは彼女の『虹色の空』(春秋社刊)を読めばわかります…。

この1年、引き受けてしまった「女性文化賞」をどう育てるか、寝ても覚めても忘れられなかった「事業」が素晴らしい人と人のめぐりあいで一区切りついて、ほっとしました。じつは3日ほど前から「膝小僧が痛い」という状態で歩くのが危なっかしくなり、「これはもう人生終り」かと思ったのですが。今日は3時間近くほとんど立ちっぱなしだったのに、帰宅してみたらいたみがうすれていました。「足が痛い」と訴えるとお医者様が「運動しなさい」という意味がよく分かった。今夜はもう寝て明日から「らいてう日記デジタル公開」に取り組まねばならならぬ。それにしてももう「今年はどうしよう」と女性文化賞の心配です。好んで仕事を増やしているのだから「自己責任」だね。

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ついに膝小僧に赤信号? 

1月17日。昨日走り回って夜中に帰宅したせいか、以前から時どき痛みはじめていた膝小僧にガタがきたらしい。歩いていると膝がガクンとすることがあるじゃないですか。今日もらいてうの会の役員会に出かけ、午後からでしたがその前に行って22日に『らいてう戦後日記』のデジタル公開についての「説明会」の資料の準備をしようと思っていたのに寝坊したせいでギリギリに駆けつけることになりました。そこで「異変」を感じたわけ。思い当たることは多々あり、昨日は姉の病院付添いでヨガも休み、1万歩以上歩いたと万歩計が証明。若いときなら平気だったけれど、今は6-8,000歩くらいまでだと思うのにちと歩き過ぎたかなあ。それに昨夜はビールのジョッキをひっかけ、よっぱらって帰宅したうえに、「サンくん」の3回目を観たのでお風呂に入らずに寝てしまったし。わたしは、原則として毎晩お風呂に入り、冬は体を温めてからヨガで教わった足のマッサージをし、膝の屈伸体操(スクワット)を可能な範囲でやるようにしています。それを昨日は怠ったからかしら。

このところ「介護付き老人ホーム」の案内を読んでいるのですが、かなり「高級」と思われる(つまり料金が高い)ところでも入浴は週2回程度のところが多い。これは老人の健康保持には問題ではないか。わたしは朝パンとコーヒーで食事をしたいし、お風呂も毎日入りたい。そんな「贅沢」はできないらしいと知って「老人ホームに行かないゾ」と思うけれど、こればっかりはこっちの健康しだい。いくら気を付けていても、「老い」はかならずやってきます。

ともかく今夜は仕事を中断、つれあいサマはサッカーを観ていましたがそれも付き合わずお風呂で足のマッサージをしました。じつは暮れにわが名医の先生に「このごろ膝が痛い」と訴えて「痛み止め」のお薬を処方してもらってあり、よっぽど飲もうかと思ったのですが、様子を見ることに。姉から、足が痛いからと痛み止めを飲むと便秘が起り、今度は下剤を飲んで体調不良になった話を聴いていたので。現代医学は進歩したけれど、基本的に「検査」して病気をさがし、症状に合った薬を出すという対症療法なんだと思ってるからね。その点わが名医の先生はあまり薬を出ないから尊敬しています。とかなんとか言ってるうちにもう午前1時。明日は早起きしようと思ってるのに…。

 

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「佐藤さんとサンくん」を3回観てしまった日のこと。

 

1月16日、今日はいそがしかった。朝のうちは1月19日の女性文化賞お祝いの会の準備で、壊れかけのパソコンをなだめながら出席者リストの確認などをし、昼前に家を出て姉と病院の待ち合わせ。予約時間間際にショートスティから電話があり「今目が覚めてこれから出かけるので遅れます」という連絡が。受付に断ってさらに待つこと30分。予約時間を過ぎていたので13時のはずは14時になりました。でも先週の検査結果「特に異状なし」とのことで、「歩けないのは、やはりからだを動かさないからですよ」と先生に言われた姉はみるみる元気を取り戻し、「じゃあ、歩けるようにがんばります」だって。そりゃよかった、とショートスティまで送って行きました。

そこですでに午後3時半を過ぎていたのですが、もう一か所行こうと思っていたところがあり、それは、らいてうの家を応援してきてくれたOさんが昨年老人ホームに入られ、暮れに行ったときご希望でチーズをお持ちしたら「これ、クラッカーに載せるとおいしいわね」とおっしゃるので「何でもアリ」の吉祥寺でイタリア製クラッカーを入手したのを、お正月過ぎてまだお訪ねてなかったので、もって行こうと思っていたところでした。

中野までタクシーで戻って、そこからバスが老人ホームの前まで行くと言うので乗りましたが、それが杉並区内の停留所まで50分もかかり、着いたときはもう5時をとっくに過ぎていて、お食事の時間でした。お話ししたかったのですが、次の会合もあるのでご挨拶だけで失礼。そこから荻窪まで引き返し、あらためて飯田橋まで行って今度は昨年広島で開いた「歴史認識と東アジアの平和」フォーラムの「総括」会議に行きました。

そこで出たみなさんの意見や、わたしがこのフォーラムと向き合って感じたことをどうしゃべったかは後で書きます。はじめ、わたしが提出した「ヒロシマの経験を語ることは、日本の戦争被害強調にとどまるのか」というテーマはみなさんに余りピンと来なかったようで、そのために長い時間を費やしてしまい、申しわけなかった。でもみんな付き合ってくれてわたしもいくらか納得し、おかげで終わってから「新年会をやろう」と誘われて「乾杯だけなら」とついて行き、けっきょくジョッキ1ぱい飲み干して最期まで出席、うちに帰り着いたのは午後11時半ごろでした。

ここからが本番。12時からの「佐藤さんとサンくん」の再再放送を観てしまったのです。さすがに半分うたた寝しながらでしたが、最後のサンさんの笑顔を観たいばかりに1時間テレビの前に座っていました。「サンくん」は、昨年12月に亡くなり、今はもういない。わたしは東日本大震災で家族を失った遺族の方が「あの人は亡くなったのではなくここからいなくなっただけだ」と語るのを聞いて共感したことがありますが、「サンくん」もそう思いたい。わたしがなぜ、「佐藤さんとサンくん」にこれほど思い入れをするのか、前回再放送を観て考えたことですが、まだ考えががまとまりません。これからゆっくり考えてみよう。というわけで17日の今朝は寝坊。急いで出かけなくてはならないので…。

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NHKのETV「佐藤さんとサンくん」の再々放送は16日深夜12時です   

この番組の3度目を観ようかと思ったけれど、あいにく16日は夜会合があって帰りがおそい。いくら遅くても12時までには帰ると思うけれど、くたびれてみる余力がないだろうなあ。「録画予約した」という連絡もいただきましたが、わたしはもうその操作も面倒になって録画機能は放ってあります。だいたい「あとで観よう」と思っても観る暇がないことの方が多いもん。でも、すごく惹かれる二人でした。笑顔のサンさんはもういないと思うとせつない。佐藤さんはどうしているだろうか、と思うとそれもせつない。

第22回女性文化賞」のお祝いの会は、参加したい人が続出して取材記者を含めて34人。アンコールトムは、25人からがんばっても30人が限度なのにどうしよう。ポンナレットさんは「私、立っています」というけれど、まさか主賓を立たせておくわけにいかない。ここは立って演説するのに慣れているわたしが立ち席だね。足を鍛えておこう。これが済まないと、滞っている仕事が片付かないので。焦っています。12時までに寝れば健康なのだが何時も夜中の2時過ぎないと仕事が片付かない。その原因のパソコンがWINDOWS7なので今年中に買い替えないと、サポートが停止しちゃう。おあつらえむきに10年近く使ってガタがきているからいいのですが、たまってるファイルの始末(保存)さえできないままなのに、どうしよう。ある日突然壊れるとわかっているのに・・・。自分もある日突然壊れてくれたら原稿書かなくてよくなるのに、と半分ヤケになりながらパソコンにしがみついています。今夜はもう寝るゾ。

 

 

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