年報『日本現代史』24号に「女性の戦争体験をめぐる『記憶』と『想像』」をかきました。

 12月中は、もうブログを書かないつもりでした。白内障の手術に踏み切り、年内は静かにしていたほうがいいと思ったからです。12月中に書く原稿が5つあって、2つは書きましたが残り3つは積み残し、20日過ぎたら書こうと思っていました。ところが、さる新聞社から11月24日の「新婦人協会100年記念のつどい」の記事を載せるについて米田の見解を聞きたいという依頼があったのを、後まわしにしていたら手術当日の朝催促され、もう瞳孔拡大用目薬の点眼準備を始めながら1時間で書き飛ばして眼科へ駈け込んだ次第です。手術は無事に終わり、今日で3日目を迎えました。「新聞テレビもOK」といわれ、「じゃあ、パソコンもいいか」と図に乗って3つ目の原稿を書き始めています。そこへ報告したいことが飛び込んできました。

 『日本現代史研究』誌から「戦争体験論の特集を組むから」と原稿を頼まれたのは、昨年の夏前だったと思います。その何年か前に東京大空襲・戦災資料センターの「東京大空襲を語るつどい」で講演をすることになり、「体験者ではないのに」とひるんだら早乙女勝元さんから「体験者は少数になりつつある。どう継承するかを考えてほしい」といわれて考えた末、「体験」と「想像」をテーマに話したことがあります.その早乙女さんが「米田に書かせてみたら」とおっしゃったというので、またまた悩んだあげく、編集委員の赤澤史朗さんに説得されて引き受けたと言うのが経過でした。ところが書き始めてみると「女性の戦争体験に特化する意味は何か」「戦争体験と加害責任を対立的あるいは二者択一的にではなく双方向的にとらえるとはどういうことか」といったテーマの設定そのものに整合性がつかめなくなり、途中で「降りる」と申し出てまたまた赤澤さんに叱られるという一幕もあってやっとの思いで書き上げたのが今年の春。夏までには出版されるはずでした。

 ところが雑誌は一向に発行される気配がありません。不完全燃焼で恥ずかしいという気持ちと、せっかく1年かかって書いたのだから日の目を見せてやりたい気持ちとがないまぜになってやきもきしていたのですが、それがなんと1941年の開戦の日の前夜である今日12月7日に届いたのです。どんな子でも生まれた子はかわいいといいますが、雑誌の表紙を観た時はそんな気分でした。毎年『平塚らいてうの会紀要』に一本ずつ2万字以上の“論文”を書いてきたのが今年はらいてう日記の復刻に時間と紙数を取られてその余地がなかったのです。
 内容は、簡単に言うと「直接戦場で人を殺すという体験を持たない女性の戦争体験は被害体験に傾き、日本の加害責任に触れない」という批判に対して、一つは女性の戦争体験が持つ「いのちを失う」ことへの限りない悲嘆こそ「二度と戦争をしない」という平和認識の基盤ではないかということと、もう一つはそれを自分自身の体験にとどめるのではなく「想像」することによって他国―日本が侵略し暴力で支配したアジアの人びとの体験を理解する過程を経て、「自分にかかわりがない」日本という国の戦争責任を「わがこと」として自覚し引き受けていく可能性を提示したいという点でした。多分に論理的な組み立てを伴う論であったためにうまくまとまらず、絶望したのですが、わたしはここで一回の庶民に過ぎなかったわたしの母が、「自分は戦争に反対しなかった戦争犯罪人だ」と言い切るに至る思いをどう受け止めっるべきか考えてみたかったのです。そこにはこれまでの女性史の分野で「女性も戦争加担した」という非難や「あの時代には仕方がなかった」という弁護論があったことを踏まえ、そのいずれでもなく「被害体験」と「戦争責任論」の双方向性を追求したいという思いがありました。

 この雑誌の特集「戦争体験論の射程」には「原爆の図」を描いた丸木位里‣俊夫妻について、「インテリ兵士」太田慶一を論じた論文、「五木寛之の言説」を分析した論文とわたしのと4本の論文が載っています。未読ですが、パラパラめくっただけでわたし以外の3本もまたそれぞれの「登場者」にとって「戦争責任」とは何かという問題を内包した論点を提起していると思いました。目がよくなったらちゃんと読みます。以上予想外の「飛び入りブログ」でした。

年報 日本現代史24号 2019年12月刊

年報『日本現代史』24号2019年12月刊

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みかづき子ども食堂から「さし入れ」がきてしまった

 しばらくブログとお別れするはずなのに、まだ書いています。12月4日はヨガにも行き、先生に「来週はお休みします」とことわって「でも絶対かえって来ますから」と言ったら、先生は笑って「そうそう、待ってるね」と激励してくださいました。それから郵便局へ行って、未払いの会費や今年最後のカンパもろもろを振り込み、夕飯をすませてからみかづき子ども食堂に「ちょっぴりカンパ」を持参、「今日はもう食べたからいいの」とことわって帰ろうとしたのに、「だって明日は手術でしょ。ご飯の支度できないでしょう」とたっぷり2人前ありそうな混ぜご飯と芋煮のタッパーをもたせてくれました。なんという気配り!女たちの連帯って、明日手術と聞くとすぐに「夕飯作れないでしょ」と思いつくところから始まるのですねえ。いえいえお父ちゃんがいるから何とかなります、と辞退したのですが「ダメダメ、これを持って帰って」と押し付けられるように持たされて、じつは明日のごはんはこれで決まり、とほっとしているワタシでありました。それにしてもちょっぴりカンパでは申し訳ない。「赤字なのよ」と打ち明けてもらったのに。いつかドーンと寄付できるといいなあ。宝くじを買おうかと一瞬思うところがナサケない。ともあれ、明日は無事に済みますことを。では、おやすみなさい。

子ども食堂12月チラシ

みかづき子ども食堂12月のチラシ

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「国境なき医師団」の中村哲医師、「銃撃されて死去」の衝撃

 明日は白内障の手術に行くので、何日かはブログも書かないようにしよう、今夜は早寝しなくては、と思っていたのですが、あの中村哲医師がアフガニスタンで銃撃されて亡くなったとは・・・。実は、今日あちこちに「貧者の一灯」をカンパするため郵便局に行き、国境なき医師団にもささやかな振り込みをしました。そのとき、いつもなら本当に最低限の寄付しかできないと思うのに、なぜかもう少し奮発しようとプラスアルファを加えたのは虫の知らせだったのでしょうか。午後帰宅してネットのニュースを観て愕然としました。
 わたしはずいぶん前ですが、中村哲さんに会ったことがあります。信州小布施の栗菓子で有名な桜井甘精堂の当主桜井佐七さんが、創業記念行事に中村さんの講演会を企画したからです。「社員から、<栗ようかんとは関係ない>と首を傾げられましてね、それじゃあ自分が個人でやるから、と言ったら、<社長一人にはやらせられない>とみんなでやることになった」と笑う桜井さんは、長野県下でも「憲法九条を守ろう」と大活躍する方です。だから信州のお土産には桜井甘精堂の栗鹿の子、と決めているのですが、その講演会を聞きに行ったら(会場は満杯でした)、桜井さんが中村さんに会わせてくれたのです。
 ごく普通のおだやかなお医者さまでした。記念写真など思いもつかず、温かい手を握っただけでしたが、それ以来折に触れて「国境なき医師団」からニュースが届くようになり、こちらも年金をはたいていくばくかの寄付をしてきたというわけ。その中村さんの悲報にただ頭を垂れるばかりです。わたしは、なぜ生きているのだろう…。

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永井愛さん渾身の「ぶっ飛び『青鞜』物語!」―二兎社公演『私たちは何も知らない』が始まりました

二兎社の『私たちは何も知らない』は、29日から12月22日まで池袋の東京芸術劇場シアターウエストで上演中です。今年の初め永井愛さんが直々にらいてうの会の学習会にみえ、ファンのわたしは舞い上がってしまったのですが、それからもやり取りがあって、プログラムに「『青鞜』の女性群像」なる文章を書くはめになり、ドキドキしているうちについに幕開けとなりました。そして無理を言ってなんと初日を観に行ったのです。というのは12月は白内障の手術をするので、それ自体は日帰りで心配ないはずですが、「予後がよくないと感染症になって失明する場合もある」とオドカサレ、もし万一見えなくなったら心残りと思って早く観ておこうと思った次第です。

いやいや、予想を超える「ぶっ飛び『青鞜』物語」でした。その細部を書いてしまうと「ネタバレ」になるおそれがあるので、なかみは「観てのお楽しみ」としておきますが、これはまぎれもなく永井愛さんが贈る「『青鞜』から現代の女たちへのメッセージ」です。
それは永井愛の名作といわれる『見よ、飛行機の高く飛べるを』が『青鞜』発刊と同時代の女子師範学校生徒を題材に、彼女たちが如何に時代に向かって飛び立とうとしたかをテーマに、現代の若い女性への強烈なメッセージを放ったことを思い出せば「あたりまえ」といわれそうですが、それにしても今回は実在の『青鞜』社員を登場させているのだから、少しは「歴史的事実」に即しているのかと思いきや、たしかに明確な事実に基づきながらその枠を超えた人物造形を試みているのが「ぶっ飛んでいる」と感じた理由です。それは登場人物に着せた衣装をみても明確。『青鞜』の時代の女性たちはみなキモノのはずなのに、ここでは白いブラウスに黒のスカートは言うに及ばず、真っ赤なドレスあり、ジャンパーとジーパンあり、ひざ丈のスーツありと全く時代無視。しかしそれが現代へのメッセージにつながっていると、わたしは感じましたね。
しかもその登場人物の選び方が異色。平塚らいてう、「紅吉」こと尾竹(富本)一技、伊藤野枝あたりまでは『青鞜』としては当然かもしれませんが、らいてうが生田長江に「女の雑誌」発行をすすめられてためらっているとき「やりましょうよ」と背中を押し、一貫して「事務局長」的雑務をこなして「無口な実務家」と思われてきた保持研(やすもちよし)や、夫岩野泡鳴が「浮気」して離婚を求めたのに対し当時の民法をタテに夫の「同居義務」を求める裁判を起こし、それが認められるとあらためて「協議離婚」という形で自分の意志を貫いた岩野清、そして補助団員(つまり応援団)の山田わかを取り上げて重要な役割を演じさせているのです。

なかでもケッサクなのは保持研。ド近眼だったといわれる通り大きな眼鏡をかけて登場する彼女が原稿を整理し、金勘定をしながら、よくしゃべり、笑う人物として生き生きと描かれます。後半は青鞜社の経営不振もあって精神的に不安定になって退社するのですが、らいてうが「この人がいなければ自分は『青鞜』発刊に踏み切れなかった」と語る人物です。舞台を観ながらわたしはこの人が主役ではないかと思ったくらいです。
もちろんそのほかの人物も個性的。「紅吉」は「天才少女」とうたわれた画家で長沼智恵子の有名な創刊号表紙の後、これまた有名な「太陽と壺」の表紙絵を描くのですが、らいてうに「恋」をし(これが本気の「同性愛」だったかについては異論あり)、らいてうが奥村博と「一目で恋に落ちる」と嫉妬に駆られてリストカットまでするのですが、その後富本憲吉と結婚して自らは絵を描かなくなくなり『青鞜』から退場した後、最後の場面に突然再登場するのです
伊藤野枝は『青鞜』最年少組の一人なのに(初々しい少女ぶりがよく出ています)、最後は『青鞜』の編集責任者になり、しかもらいてうに「自分の全責任でやる」と宣言するのに2番目の子を妊娠して故郷へ帰ってしまうのですが、そのわるびれない「さようなら」のせりふは、その後彼女が『青鞜』を捨てて大杉栄のもとに奔り、無政府主義者として活動、関東大震災で大杉とともに虐殺されるいきさつを知っているわたしたちにとってははなはだ暗示的です。野枝は1915年出産後帰京して1916年2月『青鞜』最後の号を出したあと、そのすべてを放棄するのです。らいてうがその結末に不本意な思いを持たなかったといえばウソですが、そのすべてを受け入れ、自己の新たな再生に向かって歩き出すことが終幕の舞台に唯一人立ち尽くすシーンで暗示されます。
では山田わかは?彼女の人物造形にもわたしは笑ってしまい、なぜこの芝居の登場人物に彼女が選ばれたのかを考えてしまいました。アメリカで娼婦に売られながらそこからの脱出を助けた山田嘉吉と結婚し、海外の女性運動などをつたえる役割をはたした彼女が、戦時中国民精神総動員運動や愛国婦人会に参加したいきさつが、これも暗示的に日の丸の小旗で表現されます。

こうしてみてくると、『青鞜』で交錯した6人の女性たちのそれぞれの運命が気になります。主人公のらいてうは野枝に『青鞜』を譲り渡した(わたしに言わせると野枝が“略奪”したのですが)あと、二児の母となり、母性保護論争を経て新婦人協会を設立、女性の政治活動を禁止した治安警察法の一部改正を実現、その後「協同自治社会」を夢みて居住地成城で消費組合運動を起こしますが、やがて日本の総力戦体制の中で動揺、かつての同志市川房枝が「涙を呑んで」国策協力に踏み出したときも迷いながら最後はそこからも逃れて茨城県に「早すぎる疎開」をして沈黙するのですが、その「戦争体験」の検証は今新資料を含めて発掘されつつあります。しかし、『青鞜』の時代にらいてうは自分の行く道を予見することはできなかった。いや、伊藤野枝が「さようなら」といったとき、数年後に虐殺される運命を知るはずはない。岩野清が新婦人協会に参加して論陣を張りながら1920年乳飲み子を遺して急逝することも、「紅吉」の富本一技が戦時中ひそかに共産党員を支援、治安維持法違反で検挙されることも予測されてはいなかっただろう。保持研が夫の愛人の子を育てて生き、1957年にひっそりと世を去るいきさつも―。つまりここに登場する人々は、だれも「何も知らなかった」。しかし彼女たちは「予定調和的な生き方」を拒否し、時代の空気を読まず(読めず、ではない)、「行きつくところまで行ってみよう」と走りぬけていったのです。その歩みからわたしたちが何を受け継ぐか、永井さんが問いかけるテーマは重い。しかし、だから登場人物に共感しながら一緒になって泣いたり笑ったりすることができるお芝居なのだと思いました。
最後に唯一登場する男性奥村博について一言。昔宮本研の名作とうたわれた「ブルーストッキングの女たち」にも奥村博が登場しますが、それはらいてうの後ろからついていくような風情の「頼りない男」みたいでした。二兎社の奥村は、らいてうに無理難題を吹きかけられても「あなたが希望するならどうぞ」とすっぱりきっぱり。つまりそれぞれが自分のしたいことをやりましょう、という精神がよく出ていたと思います。しかも彼は、智恵子や一技が去った後、『青鞜』の表紙絵を一番たくさん描いた画家としてらいてうを支援し続けた人なのです。さわやかすぎてちょっと実像と合わないような印象もありますが、これこそ「新しい女を愛した新しい男」といえるのではないか、と。

以上、いくらか駆け足で進む芝居なので、わたしが余計な解説を付け加えました。でも、こんな歴史的背景を知らなくてもだいじょうぶ。二兎社初参加も多い役者さんたちのはつらつとした舞台が楽しめます。チケットはまだ買えるらしいが、二兎社は売り切れることも多いから要注意。1月8日にはまつもと市民芸術館公演もありますよ。二兎社チラシ裏

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高橋三枝子さんを「あさひかわ新聞」が記事に―続報女性文化賞その3

女性文化賞の高橋三枝子さんの記事が、あちこちの新聞に載りました。今手元に届いているのは地元旭川で刊行されている週刊「あさひかわ新聞」11月26日付です。長年高橋さんと親交があり、9月にわたしが旭川を訪問した時も駆けつけて会ってくださった佐久間記者が一面トップで報じてくれました。お許しがあったので紙面を紹介しますが、小さすぎて読めないかも。でも高橋さんが北海道女性史研究会をたちあげ、重い録音機(オープンリール)を担いで「1000人の女性たちにインタビューした」エピソードなど、彼女の行動力も語られていて、感動的な記事でした。

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あさひかわ新聞より

このほか高橋さんの出身地富山県では北日本新聞が「実家は富山県三日市」と正確に書いて記事にしてくれ、沖縄タイムズは高橋さんの歌集『沖縄今も戦場(いくさば)』と合わせて女性文化賞受賞を報じました。入手できたらお知らせします。
「地域にはすばらしい女性がいる。それを掘り起こす女性文化賞もすばらしい」と評価してくれたのは、やはり釜石で千田ハルさんをずっと見つめ、支えてきた毎日新聞の鬼山記者ですが、そういう草の根の女性たちを「発見」する男性の存在も大きいなあと思いました。今から第24回はどうしよう、とドキドキしています。まずは、自分が生きていなければならぬ…。

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「ローマ教皇核廃絶の訴え」と「香港区議会選挙で民主派圧勝」のニュース

11月24日 「新婦人協会100年のつどい」は盛会のうちに終わり、さすがにくたびれて昨夜はモーローとして寝てしまいました。一夜明けて今朝のニュースは、来日中のサンフランシスコ教皇が、長崎で「核廃絶を訴えたこと」と、香港の選挙で7割を超える投票率とともに「民主派が議席の約8割を占めたこと」です。どちらも目指すものが実現するまでには長い道のりが必要と思いますが、明瞭な意思表示があったことを肝に銘じなければならない。安倍首相には、「核兵器禁止条約の承認批准を」、日本の若い世代には「選挙に行って政治を変えよう」と訴えたい。

それにしても「桜を見る会」でウソと言い逃れに終始する首相に、「信頼できない」という世論が増えているのに、「安倍内閣支持率」は下がっても40%以上もあるというフシギ。ローマ教皇とも会ったそうだが、教皇が明確に「核兵器は使うことはもちろん保有も悪」と提起したのに、安倍首相は「核保有国と非保有国とのあいだの懸け橋になって「核なき世界」を目指す」といいました。じゃあアメリカに「核をおやめなさい」といいますか?核兵器禁止条約に署名も批准も拒んでアメリカの「ポチ」を自任している安倍首相が「核なき世界」を目指してるって?それはあまりにも恥ずかしい態度ではないでしょうか。

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「通称」で送金に2時間がかり―「選択的夫婦別姓」認めず「通称でいい」とは何事ぞ―女性文化賞余聞その2

昨日、結婚60年を迎えたわたしですが、今日は「結婚したばっかりに」あやうく「キレル」ところでした。女性文化賞の高橋三枝子さんに「賞金」をさしあげるのに、今までは自分でのし袋に入れて持参したのですが、今回は遠いのと私の個人的事情もあり、もって行けない。やむなく「振り込みます」と連絡。きょうやっと振込手続きに行った銀行で「キレテ」しまいそうになったのです。米田という「通称」で送金するのがいかに大変か、あらためて思い知らされました。
わたしは60年間「旧姓」を「通称」として使い続けてきましたが、地方公務員だったのでサインすると「公文書偽造」とオドカサレ、文部省(当時)の科学研究費に応募して無事採用されたのに「旧姓使用は認めない」(今は緩和された)と書類の書き直しを命じられ、新しい大学に赴任して教授会に「通称呼称」を申し出たら「秩序が乱れる」(!)と反対され、ペーパー離婚しようかと思ったのですがこっちの落ち度がないのにアホラシイから踏みとどまり、せめてパスポートに「旧姓併記を」をとたたかって認めてもらったのはいいのですが、これがローマ字表記だけ、 「日本国民」としては認めてくれないという目にも遭い、やっと戸籍謄本をもって行けば住民票には旧姓を書いてくれることになったので、手続きに行こうと思いつつ、忙しくてその暇がないので一日のばしにしているのが現状です。

で、「賞金」送金はどうなったか?まずATMでは10万円以上送金出来ません。仕方ないので、わたしの口座のある銀行から現金を引き出し、高橋さんから知らせてもらった都市銀行の支店が吉祥寺にあったので、そこへ出向きました。ちゃんと「身元」を示す保険証を持ち、でもそれには「婚姓」しか載ってないので、このあいだ「YONEDA」と併記してもらったパスポートも持ち、さらに朝日新聞の「米田が女性文化賞に50万円出す」と書いた記事のコピーまでもっていったわけ。「顔写真のある証明書が必要」といわれるからね。運転免許証もマイナンバーカードも持っていないわたしの唯一の顔写真付きはこれしかない。
でも窓口でたちまちひっかかりました。「通常では受け付けない」というのです。パスポートを出したらしばらくにらんでいましたが、「では本店(つまり上のエライヒト?)の判断を仰ぎますからしばらく待ってください」とのこと。その間にフロア係のお姉さんが来て「特別送金申請」とかなんとかいう書類を書かされました。それが戸籍名や住所はもちろん、「職業は無職ですか?」と聞かれたのでシャクにさわってガラにもなく「著述業」と返事してしまいました。ところが次に「送金の出所」を書けというのです。「著述業なら原稿料があるはず」といわれるのではないか、実は今年わたしの「著述業収入」は3万円もないのです。書類を観たら「年金」という項目があったので「これこれ」とチェックをつけました。そうやって待つことさらにン十分、やっと「上からのおゆるし」が出て、めでたく「米田佐代子」から「高橋三枝子(実は高橋さんも戸籍名は違うのですが)」にあてた送金が完了するまでに2時間近くかかりました。それでもベテランらしい女性行員さんはてきぱきと進めてくれ、最後に「お待たせしてすみませんでしたね」と言ってくれたので、「こちらこそ面倒をおかけしました」とあいさつ、でもついでに「最高裁が選択的夫婦別姓を認めないで「通称をつかえばいい」という判決を出したからいけないんです。こんなに大変だということがわかってないんですよね」といってしまいました。この銀行はみずほ銀行吉祥寺支店です。ほかの銀行でも同じような対応だったと思うけれど。
12月に白内障の手術が無事に済んだら、本籍地まで行って戸籍謄本を取ってこよう。ボケちゃう前にやっておかなくては。とんだ「女性文化賞余聞」でした。高橋さんのところに無事届きますように。

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