「子どもが修羅になるとき」―「捨てる資料」のなかから「10万字の手書き原稿」を発見してしまった   

 3月も、満開の桜と主ともに「去って」行きます。前半は、ずっと公開されなかったらいてう資料の保全公開を法政大学大原社研に委ねる準備と搬入手続きに追われ、後半はじぶん自身の手書きのメモや新聞雑誌などに書いてきた文章、おびただしい来信書簡など大量の紙資料を処分する作業に追われました。らいてう資料のほうは、紙切れ1枚のメモも捨てないで残してあったために、いま公的に発表された著作集や自伝でしか理解されてこなかったらいてう像とその時代を新しい視点からとらえなおす貴重な資料となっていますが、不肖わたしごとき一介の研究者の「思想と行動」について後世の研究者が論じてくれることなどあるわけがない。せめた書いたもののリストだけでも残したいが、200字300字の短文を含めるとはてしがなく、大部分は単行本にもならなかったので、消え失せるほかはない。それでも何冊かは本になっているのだからあきらめようと、出典になっている雑誌や新聞は片っ端から捨てるほうに。市役所のゴミ担当課に電話して毎週紙ごみを出す日に「少し多めに出します」と断わりながら、ベランダには山積みの紙の束が。

 そして29日にはとりあえず倉庫に入れる箱を送り出し、電動ベッドを入れた部屋からトイレや洗面所にいけるように片っ端から手すりを付ける作業も終わりました。最後に残ったホコリだらけの箱をもう開けずにまるごと捨てようと思ったのですが、「虫の知らせ」であけてみてびっくり仰天、書きかけたままだった田中正造論文の資料の原典がぜんぶ入っていたのです。そしてもう一つの箱からはなにやら分厚い原稿用紙の束が。あけてみたら、200字詰めの原稿用紙にまぎれもなくわたしの筆跡で、それも鉛筆書きで書いた原稿でした。ページが打ってあり、最後のページ番号は477。およそ500枚分です。ということは約10万字じゃないですか。しかもところどころにちぎれかけた付箋が貼ってあり、「ここはなぜひとりぼっちになった」のか?など添削した後まで残っているのです。

 記憶は全くありません。認知症というのは現在のことはすぐ忘れるが、過去のことは覚えているものだと聞いたことがありますが、これでは認知症以前だ。原稿はいくつかに分けてクリップで止めてあり、全部で9章?分、全体のタイトルはありませんが、各章ごとのタイトルはついています。「1 さくらの花嫁さん」「4 もうひとりのおれ」「6 風のむこうの世界で」「8 死ねと教えたちちははの」「9 さよなら阿修羅くん」などと書き込んであります。とても全部読む余裕がないので、ぱらぱらとめくってみて、やっとかすかな記憶がよみがえってきました。というより、「こういうことを書きたいと思ったことがあったっけ」という程度なのですが。そして付箋を貼ってくれたのは、今は亡き編集者の楠さんに違いない、という気がしてきました。どうやら、これは論文ではもちろんなく、子ども向けの「童話」でもないが「少年少女小説」みたいなものの下書きだったらしい。タイトルから察するに、保育園時代から周囲になじめない男の子が、「ひとりぼっち」で現実と向き合い、いつの間にか時空を超えて戦争中中学3年で少年兵を志願して戦死した「吉兄ちゃん」のもとへと旅に出て、彼が特攻隊出撃のため九州へ送られる直前、茨城県土浦の海軍航空隊基地で米軍機に爆撃され「戦死」したときに居合わせてその死を見届けるという筋だてらしい。その「吉兄ちゃん」はわたしの兄です。そして「一人ぼっち」の男の子にわたしの子育て体験が反映しているらしいこともわかってきました。

 そうするとこれは1980年代のはじめ、今は亡き母が「自分が死んだらあの子のことを覚えているものはだれもいなくなってしまう」ともらしたのをきっかけに、彼女が「あの子」と呼ぶ2番目の息子(わたしの兄)の記憶を書くように勧めた時期と重なっている。現実の世界で友だちに受け入れられず、時になぐり合いのけんかをする男の子が奈良興福寺の阿修羅像を見て「おれも阿修羅だ」と思うくだりはわたしの思い入れで、それは宮沢賢治の『春と修羅』にでてくる「おれはひとりの修羅なのだ」という言葉に惹かれたからだということも思い出しました。そして戦死した少年兵が「なぜ少年兵を志願したの?」と聞かれて「戦争中は、それしか道がなかったのさ。死ぬために生きるしか」とこたえるシーンもわたしの創作です。

 どうしよう。とりあえず捨てるのはやめて、わたしの机の下に寝かせました。たぶん二度と日の目を見ることのない10万字の鉛筆書きの原稿を。これから退院間近かの彼に面会に行きます。昨日もケアマネさんがやってきて、「無理しないで」と念をおしてくださいました。しかし、「在宅」を選択した以上、わたしに負担がかかることはわかっています。それでもまもなく「米寿」になるわたしが「修羅」になるほかないような気がしています。「修羅」か「やまんば」か、ともかく行き着くところまで行ってみよう。折からウクライナでは、混沌の中で「停戦交渉」が進行中。その間にも「死ぬために生きてきた」子どもたちが殺されている。40年前の色褪せたこの原稿を、「紙くずにする」決断に迫られています。

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