岩手県大船渡「ちょっぴりボランティア」記(3)

みんなで健康体操

みんなで健康体操

新婦人のみなさんとお茶会

新婦人のみなさんとお茶会

住田町の木造仮設住宅

住田町の木造仮設住宅

組み立て式で再利用できます

組み立て式で再利用できます

轆轤石の仮設住宅群

轆轤石の仮設住宅群

7月23日、「仮設の暮らしがいい」とは
「大船渡は暑いですよ」と聞かされてTシャツばかり持ってきたのに、ここでは長袖とユニクロのパーカが役に立ちました。今日も雨もよいです。
山田夫妻は「仮設住宅がお粗末なことはわかったでしょ」と言い、「今日は仮設の中を見せていただけるかもしれないから」と昨日の猪川の住宅へ。一軒のおうちを訪ね、荷物でいっぱいの狭い住宅を拝見させていただきました。ここの住人である菊池さんは津波で家を流され、家財道具からアルバムまでみななくしてしまったのですが、丸2年経った今年の3月、流れ着いた写真をきれいに洗って修復し、持ち主を探すというボランティア活動家たちの手で、奇跡的にアルバムがみつかったのだそうです。しかもボランティアの方がたは、バラバラになった写真を「これとこれは同じ人」ということまで見つけてアルバムを修復してくださったそうで、「奇跡のアルバム」と評判になりました。アルバムはしまってあって見せていただけませんでしたが「大事なおばあちゃんの写真も見つかってほんとうによかった」と涙ぐんでおられました。こういうボランティアの活動もあるのだと感動しました。

仮設は狭いだけでなく、プレハブですから夏暑く冬寒い、結露に悩まされるところも多いと聞きました。それでも工夫して車いす用のスロープを付けたおうちや、入り口に風防をつけたおうちなどもありました。風防と言えば、らいてうの家も風防をつける余裕がなく、雪国では困るよ、と注意された記憶があります。「家」は冬季休館ですからまだ許せるが、ここでは大変だろうな、と思いました。
仮設を出るとき、お年を召した方が一人ベンチに座っているのに会いました。「昨日見えなかったけど、どうなさったの?」と山田さんが声をかけると「ちょっと調子が悪くてね。今病院へ行く車を待ってるの」とお返事が。わたしがあいさつをすると、「ヨソモノ」とわかったからか「ここにいると知り合いたくさんできてね、とってもいいですよ」と目を細めて教えてくれました。前の日の地元新聞で「仮設の暮らしがいいという人がいて意外かもしれないが、独りぼっちにならずに済む安心感があるから」という記事を読んだばかりでした。

山田さんが心配しているのは、「仮設はまとまって暮らしているし、談話室に支援員さんもいるから、まだいいのです。借り上げアパートとか、個人で住まいを探した人たちには行政の手も届かないし、ほんとうに孤独になってしまう方もいる」ということだそうです。じつは山田さんは前夜富山鉱泉の女湯で地元の入浴客とおしゃべりしているうちにそういう環境の方だとわかり、さっそく連絡先を教えてもらったそうで、「救援のアミの目からこぼれる人のところへもボランティアで役に立つことがあれば行きたい」と言っていました。

木造仮設住宅があった!
そこを出て山田さんが連れて行ってくれたのは、「じゃあちゃんと住めるという復興住宅はどんなものか見てみましょう」ということで市内の明神下にできた鉄筋4階建てのマンションスタイルの復興住宅。南側に山が迫り、日あたりはどう見てもあまり良くありません、土地がないので結局こういうところにしか建てられないのでしょうか。それでもエレベーターがついているのは救いです。わたしの東京のマンションは4階建てですがエレベーターがなく、3階の住まいまで階段の上り下りがだんだんきつくなってきていますので身にしみました。

次に山田さんは「この辺で一か所だけ木造の仮設住宅があるのですよ。それを見せたい」と住田町の仮設住宅へ。内陸部のため町民の被害は少なかったそうですが海沿いの住民のために提供したのだそうで、外から見ただけでしたが、無機質なプレハブと違い、地元の気仙杉をつかったという木造でしかも組み立て式、「繰り返し使える」という特徴があるのです。調べてみると「東日本大震災において、隣接する陸前高田市及び大船渡市の被災者に対し、地元建産材(気仙杉)を活用しかつ地元工務店(気仙大工)による戸建ての木造応急仮設住宅を建設」とあります。もともと林業で暮らす町にふさわしい木材の活用を、という町の方針が生きた実践でした。木の香りがすると評判になったそうです。

 わたしはらいてうの家を思い出しました。あそこも長野県産、地元真田町産のカラマツを主体に、地元建設会社に依頼して建てた木造住宅です。8年目になる今も訪問者から木の香りがすると喜ばれ、予算ははねあがったけれど安い外国産材を使わなくてよかったとつくづく思ったものです。ところが住田町の木造住宅は、図面を見ると4畳半2間とダイニングキッチンつき(風呂・トイレ付)3間四方(9坪)ですがプレハブより安いとか。一石二鳥も三鳥もあるじゃないですか。不要になったら払い下げるそうで、「らいてうの庭に一軒もらったら?」と山田さん。ただしここから上田までの運賃を考えるとねえ…。図面もみたい人は下記へ。
 www4.fctv.ne.jp/~hope/2011minamata/10sumita.pdf

はじめて体験を話す方もいた
じつはここに書きませんでしたが、もっといろいろな方に会ったのです。そしてわたしはだんだんわかってきました。地元の方はわたしのような風来坊が飛び込んできても驚かず、ただすっと通り過ぎてしまうだけでもいいが、少しでも地域に関心を持ってくれる人には「よく来たね」と迎えてくれるということです。そして、山田夫妻はそういうボランティア初心者に地域を見せ、学んでもらい、地域に関心を持ってもらうコーディネーターの役割を果たしているということです。そのことの意味については最後に書きたいと思います。ともあれ、今日は目的の「お茶っこ」の会場に急がなくてはなりません。

今日の会場はシーパルというところで、地元新婦人の方たちが集まりました。支部の委員会をやった後に、委員以外の人もやってきてまずは健康体操で体をほぐし、それからお茶会です。ここでもわたしの出番はなく、体操の時ステップを踏み間違えてウロウロするのがせいぜいでしたが、それでも花火や西瓜の色絵がついた松崎のかわらせんべいは喜んでもらえました。もちろん本番用のお菓子は「かもめの玉子」で有名なさいとう製菓の和菓子ですが。なかには「去年の母親大会でらいてうの分科会に出ましたよ」と声をかけてくださる方や「米田さんが来ると聞いて、来たのよ」という方もいて、気持ちがすっとみんなの中に入り込めるような気がしました。
おいしいお茶とお菓子でホッとなったところで役員さんが、「せっかく遠くから来た方がいるのだからみなさん一言いかが」と声をかけてくださいました。初めは順番に「あなた山へ逃げたんでしょ」などと促され、そのうちに手を挙る方も出てきて、せきを切ったように話が始まりました。
「うちはカキの養殖をやっていたけれど筏が全部流されて、船もなくなって。船がまだ来ないの。もうトシだからやめたいという気持ちと、このままやめたくない、続けたいという気持ちと両方あるのよ」という方。
「山の畑のところに、いざとなったら逃げられるように6畳2間くらいの小屋を作っておいたのね。でも3月11日には夫のおばあちゃんと高校生の息子は先に逃げてもらったけれど、自分は間に合わなくて地域の避難所に駆け込むのが精いっぱいだった。一晩どうしたか心配だったねえ。やっと翌日行ってみたらもう親戚みんな避難していていっぱいだったけど、家族が無事でほっとした」という方。
「3月11日まで大船渡保育所の保母だったの。今日で終わりという日にあの地震でしょ。赤ちゃんもいたから大急ぎで一か所に集めたけれど、家の中にいたら危ないというので、みんな一人をおんぶして一人を抱いて、という具合で上のほうにやっと逃げました」という元保育士さん、
「わたしは看護師ですが3日目に避難所へボランテァイに行きました。薬を切らした人が一番多くて、どうすることもできない。日赤からきてくれたけど、みなさんを診察しただけで終わりだったわね。地元の先生方はリュックに薬や何かいっぱい詰めて持ってきてくれました。処方箋をいっぱい書いてもらって、まとめて市内の被災してない薬局へ行って薬をもらってきたのです。薬のほかにもナプキンが欲しいと頼まれましたね」…。

時間がなくなり、終わりにせざるを得ませんでしたが、初対面なのにこんなにたくさんの話を聞かせていただいてうれしくなりました。あとで役員の方が言うには「ずっと班会で体験を話し合ったりしてきましたが、私たちも初めて聞く話がありました。みなさん、まだまだ話してないことがあるのですね。いい機会になりました」とのこと。そうです、被災から2年半たってもまだ話せない、話したくない体験がいっぱいあり、でも聞いてほしい思いもいっぱいあるのだ、と実感しました。「知らない人の前で話せない」という気持ちもあるけれど、一方で「よそから来た人にはしがらみがないから、話せる」という面もあるのかもしれません。
わたしは以前から初対面の方の話を聞くのにテープやカメラを使わない主義、というより使えない気持ちが強いのです。それでは復元できない、資料としての価値がない、と言われますが、話す方を聞き取りの「対象」としてみたくないという思いがあるのです。ではこんどの震災と津波の記憶を、どうやって残したらいいか?ずっと、たくさんの人が語り続ける以外にないように思います。それにはこうやって「よそからきた」ものが「聞かせてください」と声をかけることもあっていいのかもしれない。「今日は話しきれなかったから、また来てね」と言われてしまいました…。
その夜、山田さんは地元の「お魚市場」で手に入れたというしこしこしたお刺身?を食べさせてくれました。「なんだと思いますか。マンボウの小腸の部分です」と笑っていました。

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