孫のような世代の方から「高野山の予科練」について問い合わせ-ネットがつなぐ「新しい連帯」(その3)

今は、真夜中です。明日締め切りの書評原稿を、たった780字ですがずっと考えながら書けずに来ました。いくら「目が思うようにつかえません」と訴えてももう待ったなしです。「背水の陣」で、今夜は夕飯は作りましたが食べ終ってお茶を飲んだ後、後片付けは全部つれあいに任せて「宵寝」体制に。4時間寝てそれから徹夜しようと思ったのです。ところが悲しいかな3時間経ったら目が覚めてしまった。じつは、年末から何度も読みなおし、やっと書評の主題が決まったので一晩で書けると思ったのですが、保つだろうか。そう思いながら(その3)を書かないと気持ちが切り替えられないので、走り書きします。
2,3日前、数年前に書いた古いブログにコメントが入ってきました。それは16歳で「戦死」した兄のことをかいたもので、戦時中「予科練」という海軍の少年兵が大量に養成され、「自殺艇」と呼ばれるモーターボートで敵艦に体当たりする特攻隊に指名されて出撃直前、米機に爆撃されて死んだ話でした。そこに「陸軍と海軍の対抗合戦の結果、海軍が使い道もない未熟な少年たちを訓練する場所もないのに大量に抱え込み、宝塚の少女歌劇場から奈良県の天理教宿舎や高野山の宿坊など、海とも軍隊とも縁のない施設を接収して詰め込んだのだ」と書きました(2013年12月27日付「お兄ちゃんは靖国にはおらん」と2015年4月3日付「「高野山開創1200年」-70年前、そこは海軍基地だった」)。そんな古いブログを検索して問い合わせをしてきた方がいたのです。看護師と名乗り、「担当している高齢の患者さんが、涙をながして高野山の予科練の話をきかせてくれた。戦争をまったく知らず、高野山のことも何も知らなかったので、調べているうちにこのブログを知り、問い合わせた」というのです。わたしの母が我が子を戦で死なせた悲しみと、「戦争のことを何も知らなかった母親の自分があの子を死なせたのだ」という罪の意識を生涯負い続けて「戦争反対」と訴えた手記があると知って探したが、絶版で入手できなかった」ともありました。

わたしは、職業柄大勢の患者さんと出会うであろう彼女が、職業上の仕事にとどまらずその患者さんの思いに共感し、忙しいのにしらべてみたということに感動、匿名のコメントには原則として応答しない建前ですが、アドレスが記載されていたのでお返事を出しました。すぐ応答があって若い女性だということがわかり、彼女が老いた患者さんに寄り添って「何も知らない自分の手を握って話してくれた方にこたえたい」と思いつめてわたしのブログを見つけてくれたことに感謝したいと思いました。
母の手記は、「自分の罪を話したくない」としぶる母を説得してわたしがむりやり書かせたようなものです。なぜか原稿用紙ではなく広告の裏紙などに書き綴った文章をつなぎ合わせ、記憶の抜けているところは尋ね直して補い、兄の足跡をたどって彼が志願するまで生活した山梨県の旧竜王村、「出征」した中央線の竜王駅や入隊した奈良県天理市、特攻隊になるために送られた茨城県の土浦海軍航空隊跡、生きていれば沖縄戦の特攻隊に配属されるはずだった九州糸島半島の基地跡まで訪ね歩いて母の記憶を促しました。まだワープロもできなかったわたしが手書きで原稿用紙に清書、知り合いの編集者(この人も私に原稿を書かせるため子守りまでしてくれた方でした。子どもたちは「楠おじちゃん」と呼んで慕っていました)が出版にこぎつけてくれた『雲よ還れ』です。母が亡くなった後、遺歌集『この子らに戦いあるな』を出してくれたのも同じ出版社でした。
コメントの主は、その本を読みたいというのです。すでに母の手記も、母の没後わたしが書いた『ある予科練の青春と死』も今は絶版で、わたしの手元にも2,3冊しか残っていません。でもわたしはなけなしの「財産」からその方に読んでいただくために送ろうと思いました。おそらくご自身も戦争体験者であろうその患者さんと、その患者さんに心を寄せてくれた看護師の彼女のために。
今発送の準備中です。「sora」さん、待っていてね。こんなつながりができて母も喜んでいると思いますよ。ネット軽視すべからず。早く眼鏡を新調して自由に読み書きできるようになりたいが、今日眼科に行ったら「3月までは安定しないから待つように」といわれました。待ちますけれど、その間にこんなに眼を酷使していいのでしょうか・・・。これから「背水の陣」の書評を書きます。

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